第一章・第二十三話 ペットっていいな
王都の門が見えたとき、嬉しさより先に、変な現実感が押し寄せた。
石壁。旗。見張り台。
神域の暗さとは違う、ちゃんと人が暮らしている気配。
門番たちがこちらを見つけ、外で待機していた人たちが慌てて駆け出してくる。
リトリーが小さく手を振ってみせた。
「ただいまー……って言うには、ボロボロすぎるね」
「喋らなくていい」
そう返してから、言い方がきつかったかも、と思って口をつぐんだ。
リトリーは「うん」とだけ言って、目を細める。
レオフィーナが治療班に短く状況を伝える。
言葉は少ないのに、周囲が一斉に動き出すのが分かる。
「お前ら」
レオフィーナがこちらを振り返る。
「今日はもう帰って寝ろ。……あたしは報告に行く」
「レオフィーナさんもちゃんと寝ないとだよ」
リトリーが言った。
レオフィーナは一瞬だけ黙って、それから肩をすくめる。
「報告しねぇと寝れねぇんだよ。……こういうのはさ」
それだけ言って、背を向けた。
歩き出した背中が、いつもより少し小さく見えた。
△▼△▼△▼△
解散は、あっけなかった。
アルティナとカムイはギルドの詰所へ向かうと言って、歩いていった。
アルティナの尻尾が途中で一度だけぴんと立って、すぐへたる。疲れているのに、頭の中はまだ止まっていないらしい。
リトリーは私の隣を歩く。
歩くたび、まだ痛いはずの肩を気にして、わざと明るく息を吐く。
「宿のご飯……食べられるかな」
「寝てから」
「えー……」
それだけで、泣きそうになるのを誤魔化せた。
生きている。こういうどうでもいい会話が、ちゃんと出来る。
角を曲がった先――白に近い銀髪が、王都の喧噪をすり抜けていくのが見えた。
ルネアだ。
歩き方だけがやけに軽い。
“帰る”というより、まるで“去る”みたいな。
私は反射で呼び止めた。
「ルネア」
声が思ったより大きく出て、近くの人が振り向いた。
ルネアは振り返って、にこ、と笑う。
「なあに。君たちの宿は、あっちだよ?」
「……分かってる」
言いながら、どう続ければいいか分からなかった。
ずっと引っかかっていたことが、今なら口から出そうだった。
「その……ずっと気になってた。あなたとルギアどういう関係なの。家族?」
ルネアは瞬きして、それから笑みを少しだけ広げる。
「そだよ〜。私たちは血で、深ーく繋がってるの」
軽いのに、言葉が重い。
“深く”のところだけ、妙に耳に残った。
「……ルギアが、お兄さん?」
そう聞くと、ルネアは目を丸くした。
次の瞬間、腹を抱えるみたいに笑う。
「ええ!? そう見えるの? ルギくんめ、大人ぶりやがったな〜」
笑いながら、指で自分の胸を指す。
「私がお姉ちゃんだからね」
嘘を言っているようには見えなかった。
でも、全部を言っている感じもしない。――いつもの、あの人たちの距離感。
「……そう」
それしか返せない私に、ルネアは首を傾げた。
「シルアちゃん、真面目だね。疲れてるのに」
「……疲れてる」
本当だ。身体が鉛みたいに重い。
けれど、聞かなきゃいけない気がした。
「ルギアも、あなたも……私について何か知ってるの?」
ルネアは一瞬だけ黙った。
笑顔はそのままなのに、目の奥だけが別の色になる。
「知らないよ。……知ってたとしても知りたくなかった」
ルネアは声を落とす。
”知りたくなかった”って何を?
「それって……」
「それよりさ、もうこの国にいない方がいいよ」
ルネアが言葉を遮る。
「……あんな力を見せたんだ。フィーナちゃんもさすがに報告するだろうし、そのうち国に囲われちゃうよ」
私は喉が詰まった。
“囲う”という言葉が、さっきまでの影霊の手と重なる。
「私、みんなを救おうと――」
「知ってる」
ルネアが、さらっと遮った。
「シルアちゃんは、いつだって誰かのために行動する。……でも国は、そんなことは気にしない」
言い切らない。断定しない。
なのに、妙に真実味がある。
リトリーが少し離れた位置で、何も言わずにこちらを見ている。
聞こえないふりをしてくれているのが分かって、余計に胸が痛んだ。
ルネアは手をひらひら振る。
「ルネアちゃんからのちょっとした忠告。……気まぐれの、おまけ」
「……なんで」
私がそう言うと、ルネアは笑った。
「面白いから、って言ったら怒る?」
「……怒る」
「じゃあ、言わなーい」
ルネアは一歩下がって、背中を向ける。
歩き出す前に、ちらっと振り返った。
「生きてね、シルアちゃん。どんな困難が立ちはだかっても」
その言葉だけ置いて、ルネアは人混みに紛れた。
淡い白銀が、最後まで浮いて見えた。
△▼△▼△▼△
その夜は、何も考えられなかった。
宿の部屋に戻って、靴を脱いだところで膝が崩れた。
リトリーが「寝よ」と言って、毛布を引っ張ってきてくれる。
「それよりもご飯にする?」
「明日。絶対、明日」
「あはは、そうだよね」
目を閉じた瞬間、音が遠くなる。
影霊の気配も、剣の金属音も、もう届かない。
“ぐっすり”という言葉が似合うほど、深く落ちた。
△▼△▼△▼△
目が覚めたとき、外がやけに騒がしかった。
窓を開けると、旗が揺れている。
色とりどりの布が通りに渡されて、太鼓みたいな音が腹に響く。
「……なに」
リトリーが寝ぼけた声で起き上がる。
髪が跳ねているのに、それを直す元気はないらしい。
廊下に出ると、宿の主人が腕を組んで笑っていた。
「祭りだよ。神域の不安が晴れたってね」
「晴れた……?」
私が呟くと、主人は肩をすくめる。
「神域の影が消えたってさ。結界が落ち着いた。外から見ても分かるって。ほら、街の空気が軽いだろ」
軽い、という言葉は正しい。
でも、私の手のひらはまだ冷たい。
リトリーが背伸びして、目をきらきらさせた。
「屋台! 屋台だよ、シルア!」
「……元気だね」
「元気じゃないよ。元気なふり。だから食べないと」
その理屈が、リトリーらしい。
しばらくして、アルティナとカムイも合流した。
アルティナは顔色が戻っていて、尻尾も元気に揺れている。――揺れすぎている。
「ほらほら、行こう! 昨日は地獄だったし、今日くらい甘やかされよう!」
「……ほどほどにな」
カムイが短く言う。
でも、その視線はどこか遠い。屋台より、もっと先を見ているみたいだった。
四人で、人の波に乗る。
焼けた肉の匂い。香草の匂い。甘い果実の蜜。
笑い声が近くて、剣の光が祭りの飾りみたいに見える。
リトリーが串焼きを両手に持って、口いっぱいに頬張った。
「ん〜! 生きてる味!」
アルティナがそれを見て笑い、尻尾がぱたぱたと大きく揺れる。
「分かる! 食べてると“戻ってきた”って感じする!」
私は小さく頷いた。
美味しい。――生きている。
カムイだけが、少し遅れて歩いている。
何度か耳元を気にする仕草をして、すぐやめる。何かを触っているような、触っていないような。
「カムイ?」
アルティナが横から覗き込む。
「なに考えてるの」
「……別に」
短い返事。
その短さが、逆に“別に”じゃないことを言っていた。
祭りの通りを曲がったところで、金色がこちらへ向かってくるのが見えた。
レオフィーナだ。
今日はちゃんと髪を結い直していて、表情もいつもの“姉御”って感じに戻っている――でも目の奥はまだ眠っていない。
「お、いたいた」
レオフィーナが手を振る。
「シルア。ちょい来い」
私の名前だけ、真っ直ぐ呼ぶ。
胸が、きゅっと縮んだ。
「……何かあった?」
「悪い話じゃない。たぶん」
“たぶん”が怖い。
リトリーが口を拭きながら、私の肩に手を置いた。
「一人で行くの?」
レオフィーナが苦笑する。
「全員来な。むしろ来い」
そのまま、私たちは人の波を外れて歩かされた。
祭りの音が遠くなる。
太鼓のリズムが、次第に心臓の音だけになっていく。
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神域の入口は、昨日より静かだった。
結界の光が、薄く均一に張っている。
“揺れていない”のが分かる。風のない水面みたいに、ただそこにある。
門の前で、獣人の兵が道を開けた。
その奥――白がいた。
真っ白な神狼。
昨日、土の上に倒れていた姿とは違う。首を上げて、こちらを見ている。
近づくほど、息が詰まる。
あの白を、私は“焼いて”しまった気がして。
アルティナが、声を漏らした。
「……獣王様」
カムイも目を細める。狼の耳が、ぴくりと動いた。
神狼は、ゆっくり尻尾を振る。
それから――口を開いた。
「来たか」
人の言葉だった。
一瞬、誰も声を出せなかった。
驚きが遅れて胸に落ちる。
「しゃ、喋った……」
リトリーが半歩下がって、でもすぐ目を輝かせる。
「え、え、獣王様って喋れるんだっけ!?」
レオフィーナが小さく咳払いをした。
「いいから話を聞け」
神狼――獣王ガゼルが、鼻先を少しだけ下げた。
威圧じゃない。礼みたいな動き。
「シルア。そして他の皆も」
名前を呼ばれると、背筋が伸びる。
私の名前を、ちゃんと“獣王”が呼んだ。
ガゼルは視線を私に合わせる。
白い目が、静かすぎて怖い。
私はルネアの言葉を思い出して、ほんの少しだけ身構えた。
“国に囲われる”。
その鎖が、ここから伸びてくる気がして。
でもガゼルは、低い声で言った。
「礼を言う。影霊に支配された我が身を、お前が引き戻した」
“引き戻した”。
その言葉が、私の胸を刺す。
私は視線を落とした。
「その……私、森を……」
言いかけて、言葉が折れた。
半分、捧げた。もう戻らない。
ガゼルは、すぐに続きを問わなかった。
ただ、短く息を吐く音がした。獣の呼吸音。
「確かに森は傷ついた。だが、死んではいない」
その一言が、救いみたいで、逆に苦しい。
レオフィーナが一歩前に出る。
「獣王様。こいつら――特にシルアに、国が何か言うかもしれねぇ。……あたしは止めるけど」
ガゼルは首を振った。
「我にお前を縛る意思はない」
言い切りが、妙に強い。
「我が恩を、鎖に変えることはせぬ。――この国にも、そうさせぬ」
私は顔を上げた。
“国にも”と言った。ガゼルは、国の上にいる存在として、それを言った。
リトリーが、空気を読まないふりで一歩近づく。
「ねえ獣王様、触ってもいい?」
レオフィーナが「おい」と言いかけたけれど、ガゼルは尻尾をぱたん、と地面に落として見せた。
許可、みたいな動き。
リトリーが遠慮なく近づいて、白い毛に両手を埋める。
「わ……ふわふわ……!」
アルティナも耐えきれず近づいて、指先でそっと撫でる。
尻尾が嬉しそうに揺れて、耳もぴこぴこ動いている。
「すご……あったかい……生きてる……」
ガゼルは少しだけ目を細めた。
笑っているようにも見える。
私は遅れて近づいた。
怖いのに、触れたい。確かめたい。
手を伸ばすと、白い毛が指に絡む。
温かい。確かに、温かい。
その温かさが、昨日の冷たい光の感触を少しだけ薄めた。
「……ありがとう」
小さく言うと、ガゼルが鼻先を私の手に寄せた。
「礼は、こちらだ」
その言葉に、胸の奥がほどける。
少しだけ、息がしやすくなった。
△▼△▼△▼△
カムイは少し離れて立っていた。
皆が戯れているのを見ているのに、視線が落ち着かない。
シルアとリトリーと一緒に獣王様を撫でていた私は気づいて、振り向く。
「カムイ? どうしたの。来ないの?」
カムイは一瞬迷って、それからアルティナを手招きした。
「……ティーナ。少し」
手招き。たったそれだけなのに、尻尾が勝手に跳ねた。
耳もぴんと立ってしまう。自分でも分かる。分かるから、余計に恥ずかしい。
神域に入る前の夜――あの時のことを思い出してしまった。
あれの続きが、今ここで来るの?
期待と、警戒が、同じ場所でぶつかって熱くなる。
変な顔してないかな。尻尾、揺れすぎてないかな。
……でも、止められない。
「え、な、なに……?」
情けない声が出た。自分で自分の声にびっくりする。
カムイは、言葉を探すみたいに口を閉じて、それから開いて――
「……近いうちに、あの二人はこの国を離れると思う」
……え。
思ってた方向と、全然違う。
胸の奥が、ぱちん、と拍子抜けした音がした。
でも次の瞬間、その拍子抜けの奥に、別の感情が湧いてくる。
シルアとリトリーが、旅立つ。ここじゃない場所へ行く。
「……目立った。お前は見てないかもしれないが。……獣王様はああ言っていたが、ここに居れば、少なくとも自由はないだろうな」
言い方はぶっきらぼうなのに、内容は優しい。
優しさが、いつも遅れて出てくる。
私は喉を鳴らす。
「それで……?」
カムイは一瞬だけ視線を逸らした。
狼の耳が、ぴく、と動く。
「俺たちも……一緒に行かないか」
……え。
そういう話?
「……嫌か」
「嫌じゃない!」
言葉がすぐに出る。
胸の中で、期待してたものがふっと消えて、代わりに別の温かいものが広がる。
拍子抜け。なのに、嫌じゃない。むしろ、嬉しい。
「……びっくりしたけど。うん、いいと思う」
声が、少しだけ震えた。
だってそれは、“一緒に”って言葉だ。仲間としてでも、旅としてでも。
カムイが、私をその中に入れてくれてる。
「……私、行ってみたい」
言った瞬間、尻尾が勝手に大きく揺れた。止められない。
カムイは短く頷いて、ほんの少しだけ肩の力を抜いた気がした。
「……なら、相談するか」
「うん。相談しよ」
その言葉が終わる前に、私はカムイの手を掴んでいた。
考えるより先に、身体が動いた。彼の手は硬い。温かい。離したくない。
「今! 今言おう!」
「……おい、走るな」
叱る声なのに、引き剥がそうとはしない。
私が引っ張った分だけ、彼もついてくる。手は、ちゃんと握ったまま。
△▼△▼△▼△
「まさかカムイから一緒に行きたいって言ってくるとはねー」
リトリーはガゼルのお腹を触りながら言う。
「早速どこに行くか決めないとね」
私は返事の代わりに、ガゼルの白い毛をもう一度だけ撫でた。
温かい。ちゃんと生きている。
遠くで太鼓が鳴る。
それは、昨日の金属音とは違う。
新しい音。
追いかけなきゃいけない音。
次はどんな出会いが待っているのか、まだ分からない。
でも――分からないまま歩ける足が、今ここにある。
それだけで、少しだけ前を向けた。




