第一章・第二十一話 影狼
首が、石段の上で止まっていた。
金色の髪が、風もないのにふわりとほどける。
目が半分だけ開いていて――そこに、いつもの光がない。
「……うそ」
誰の声だったか分からない。
声が出たせいで、遅れて喉がひりついた。
私は息を吸えないまま、喉だけがかすかに鳴る。
血の匂いが、遅れて届く。
鉄の匂いとも、肉の匂いとも違う。
もっと冷たい匂い。
そして――
祠の奥。
暗闇のさらに奥から、凄まじく冷たい“悪寒”が、ゆっくり押し寄せてきた。
肌に触れる前に、骨に触れてくるかのような冷たさ。
影霊の冷気とはまるで別物だ。
影霊は、まだ「ここ」にいる。
けれどこれは、「ここ」そのものを凍らせ、別の場所へ塗り替える気配だった。
カムイが目を細める。
アルティナの尻尾が、石みたいに固まる。
「……逃げろ」
槍隊の誰かが、掠れた声で言った。
命令みたいな言葉なのに、そこにあるのは祈りだけだった。
逃げろ、と。
でも――足が動かない。
私の視線は、首に縫い止められている。
レオフィーナが、さっきまでそこにいたこと。
それが、いきなり消えたこと。
理解が、形にならない。
「シルア!」
リトリーが私の腕を強く引いた。
強引なくらいなのに、その手は震えていた。
「考えるのはあと……! 動いて!」
その言葉が、私の身体を無理やり引き剥がす。
私は首を見ないようにして、でも視界に入り続けるまま、後ろへ下がった。
騎士団が散る。
誰かが転びかけて、誰かが引き起こす。
祠の扉から、影がまだ流れ込んでいる。
流れ込んで――中で、何かが“満ちて”いく。
△▼△▼△▼△
石段を降りた瞬間、空気がわずかに動いた。
動いた、というより押し返された。
祠から吐き出される冷気が、背中を叩く。
息を吸うたび、肺の内側が痛い。
振り返ってはいけないのに、振り返ってしまう。
扉の暗闇。
そこから、白いはずの“神狼”が――
黒い塊として、ゆっくり出てきた。
真っ黒。
夜より濃い黒。
毛並みがあるのに、輪郭は影みたいに揺れている。
目だけが、薄い光を宿していた。
白でもない。金でもない。
濁った光。
祠の影が、あの身体に絡みついている。
絡みついている、というより――あの黒が、影を呼んでいる。
「……ガゼル、様……?」
アルティナが息だけで言った。
声が、祠の前で削られるみたいに細くなる。
あの狼は答えない。
答えないまま、こちらを見る。
見られただけで、身体の熱が落ちる。
殺される。
そう思う前に、もう「殺されている」気がした。
足が動かない。
槍隊の誰かが剣を構えた。
構えた瞬間、その手が震える。止まらない。
その震えを見て、私は自分の指先を見た。
私も震えている。
怖い。
怖いのに、「逃げる」という選択肢が、頭の中から削り落とされていた。
逃げたら背中を裂かれる。
逃げないなら正面から裂かれる。
違いなんてない。
違いがないのに――
「……うん」
ルネアが、小さく頷いた。
笑顔だった。
さっきまでの薄い笑いじゃない。
誰かに見せるための笑いでもない。
自分の中の何かに言い聞かせるみたいな笑い。
「それじゃあ、私が行くね」
軽い声。
けれどさっきと違って足音は重い。
ルネアが一歩前へ出る。
淡い白銀が揺れた。
剣を抜く音は、本来なら鳴るはずなのに、ここでは鳴らない。
抜いた感触だけが、私の耳の奥に届く。
影狼ガゼルが動いた。
瞬きより早い。
黒が消えて、次の瞬間にはルネアの前にいる。
爪が振り下ろされる――はずなのに、軌道が見えない。
「……っ」
ルネアの剣が、そこに“在る”。
在るだけで、ぶつかった衝撃音が遅れて来た。
金属じゃない。
壊れないものと壊れないものがぶつかるみたいな、硬い音。
剣と爪が、押し返し合っている。
互角――そう見えた。
実際、ルネアは笑ったまま、半歩も退かない。
「うそ、ほんとに……」
リトリーが呟く。
呟いた声が、いつもより少し高い。
私は目を逸らせない。
ルネアの動きは軽い。
軽いけれど、地面が削れている。
足が石を蹴り、影を蹴り、空気を裂く。
影狼の爪は、そのすべてをなぞってくる。
互角。
そう思った瞬間――
影狼の黒が、もうひとつ増えた。
影が“裏側”から立ち上がる。
ルネアの背後。
彼女自身の影の中から、黒い爪が伸びる。
「……え」
ルネアが振り向こうとした。
振り向ききる前に、重い一撃が背中を叩いた。
叩いた、と言うより潰した。
空気がそこでへしゃげる。
「――っ!」
ルネアの身体が地面から浮く。
浮いて――飛ぶ。
人が投げられる速度じゃない。
黒い点になって、木々を薙ぎ倒しながら森の彼方へ消えていった。
「ルネア!」
誰かが叫ぶ。
叫び声が、森に吸われる。
返事はない。
張り合えるものが――消えた。
△▼△▼△▼△
残された空気が、急に薄くなった。
誰かの喉が鳴る。
狐人の術者が一歩下がりかけて、下がれない。
背中に、もう逃げ道がない。
影狼ガゼルが首を少し傾げる。
犬が匂いを嗅ぐみたいな仕草。
でも、その仕草が「次」を選んでいるように見えて、胃がねじれた。
「……ティーナ」
カムイが、アルティナの名前を呼ぶ。
アルティナは震える息を吐き、涙目になる。
「分かってる。……分かってるけど、これ、倒すとか、そういう話じゃ……」
言葉が途切れる。
説明が追いつかない恐怖。
リトリーが剣を握り直す。
指が白い。
「シルア、下がらないで。……下がったら死んじゃう」
下がらないと死ぬ。
どっちにしたって死にそうなのに、彼女はそう言い切る。
その言い切り方が、怖かった。
影狼が動く。
今度は真っ直ぐ。
槍隊の前列が盾を上げる。
盾が上がったまま――盾の“上”が消えた。
爪が通った。
盾ごと、腕ごと持っていかれる。
血が散る。音がしない。
倒れる音だけが、遅れて来る。
「……っ」
アルティナが圧を落とす。
空気が一瞬だけ潰れて、影狼の身体が沈む。
沈んだ――はずなのに、沈んだのは”影”だけだった。
黒が、外皮を捨てるみたいに軽くなる。
次の瞬間、影狼は別の位置にいる。
騎士団の背後。
そこにいた人は、声を出す前に喉が裂けた。
倒れる。
影が足元を引いている。
影霊の細い手が、どこからともなく伸びる。
周りの影が影狼に集まる。
集まって――影狼の足元で、形を増やしていく。
「やだ、やだ……!」
誰かが泣き声を漏らした。
泣き声はすぐ途切れた。
途切れたあとに、肉の裂ける音が来る。
私は風を起こした。
起こそうとした。
でも、風が立つ前に影が手首を掴む。
冷たい。
骨が軋む。
「シルア!」
リトリーが私の前に出た。
剣で影を斬る。
斬れたはずなのに、影はほどけない。
ほどけないまま、また絡む。
リトリーの肩を、黒い爪がかすめる。
血が滲む。
リトリーは歯を食いしばり、笑おうとした。
「ほらね……下がると、こう――」
言い終わらない。
次の爪が、彼女の腹を掠めた。
呻き声が漏れる。
私の呼吸が浅くなる。
アルティナが飛び込む。
尻尾が怒りの形に跳ねる。
「……私の仲間に、触るな!」
圧が落ちる。
今度は影狼の胴を狙った。
圧が当たる。
黒が一瞬だけ潰れる。
影狼は龍ほど大きくはない。
潰れてきっと、核が見える――はずだった。
でも、見えない。
見えるのは、ただの黒。
黒の中の黒。
「……ない?」
アルティナが呟いた瞬間、影狼の頭が彼女へ向く。
目が合う。
合っただけで、アルティナの動きが止まる。
目で追えても、身体が「追いつけない」。
影狼の爪が、アルティナの胸元へ。
カムイが前に出る。
身体を割り込ませる。
「止まれ」
短い言葉。
言葉が空気を掴む。
影狼の動きが、ほんの一瞬鈍る。
その一瞬で、爪がカムイの肩を裂いた。
血が出る。
カムイは声を出さない。
歯を噛み、もう一度言う。
「……沈め」
影狼の足元の影が、少しだけ重くなる。
重くなったぶん、影狼がアルティナから逸れる。
逸れた――はずなのに、影狼は尻尾で叩いた。
黒い尾が、鞭みたいにしなる。
「がっ……」
アルティナが横へ飛ぶ。
石に当たる音がした。
「ティーナ!」
カムイが叫ぶ。
叫び声が割れる。
アルティナは返事をしない。
身体が動かない。
尻尾が、だらりと落ちた。
リトリーがそれを見て、顔色が変わる。
「いや……そんなの、やだ……!」
彼女が一歩踏み出した瞬間、影霊の手が足首を掴む。
リトリーが転ぶ。
転んだ場所へ、影狼が爪を落とす。
私は思考より先に風を叩き込んだ。
影を払う風。
けれど、風は薄い。
咄嗟で対価を選べなかった。魔力が削れて内側が痛む。
それでも、爪の軌道がほんの一瞬逸れる。
逸れた爪はリトリーの肩を深く裂いた。
リトリーが声を上げる。
声が途中で途切れ、膝が落ちた。
「リトリー!」
私は彼女へ手を伸ばした。
伸ばした瞬間、背中が寒くなる。
影狼が、こちらを見ている。
見られただけで、殺意が形になる。
全滅する。
本気でそう思った。
△▼△▼△▼△
「……待て」
声がした。
低いのに、妙に通る声。
祠の方から。
私たちは振り返る。
振り返った瞬間、視界がひっくり返る。
祠の扉から、金色が出てきた。
首は――繋がっている。
血はある。
肩も裂けている。
でも、歩いている。
レオフィーナが、そこにいる。
「……遅くなった」
軽い言い方じゃない。
息が混ざっている。
怒りが、息の奥で燃えている。
影狼ガゼルが彼女を見る。
それだけで空気が張り詰めた。
レオフィーナが剣を構えた。
刃が、薄い光を宿す。
そして――彼女の片目。
いつもと違う光。
瞳にある紋様みたいなものが、一瞬、揺れた。
「……金獅子……?」
誰かが、息で呼ぶ。
レオフィーナは答えない。
答える暇がない。
影狼の影から、巨大な手が伸びた。
影霊の手とは違う。
太い。
人の腕を何十本も束ねたみたいな太さ。
指の数が合っていない。
手が地面を掴む。
石が軋む。
その手が、レオフィーナへ叩きつけられる。
レオフィーナが踏み込む。
剣が、光になる。
手首が斬られる。
斬られたはずなのに、手は消えない。
消えないまま形が崩れ、また繋がる。
影狼が前へ。
レオフィーナも前へ。
金と黒の二つがぶつかる。
ぶつかった瞬間、世界の音が戻った気がした。
金属が鳴る。
爪が走る。
石が割れる。
生きている音。
生きている音の中に、死が混ざる。
レオフィーナが優勢に見える。
斬撃が、影狼の黒を何度も裂く。
裂いた黒が霧みたいに散る。
散って戻る前に、さらに斬る。
一歩も引かない。
引かないどころか、押している。
明らかに今までより強い。
――まだ希望はある。そう思った。
影狼の爪が振り下ろされる。
レオフィーナは剣で受ける。
受けた瞬間――
嫌な音がした。
折れる音。
刃が、途中で砕ける。
レオフィーナの身体から、ふっと力が抜けるのが見えた。
一瞬だけ。
本当に一瞬だけ。
「……そんな」
私の声は薄かった。
影狼の爪が、その隙間に入る。
レオフィーナの喉元へ。
――届く、と思った瞬間。
折れた剣が、元に戻った。
砕けた刃が、逆回しにほどけるみたいに繋がる。
金属が生き返る音。
レオフィーナの身体も、同じように戻る。
抜けた力が、戻る。
目の光が鋭くなる。
「……受けるのはまずいな」
低く言う。
言い終えるより早く、また斬り合いが始まった。
三度目。
同じことを繰り返しているのに、同じじゃない。
レオフィーナが呼びかける。
「ガゼル様……!」
呼びかけながら斬る。
斬りながら言う。
「目を覚まして。……影霊なんかに呑まれないで!」
影狼は反応しない。
黒い目が、薄く瞬くだけ。
その瞬きが拒絶みたいに見えて、背中が冷えた。
影の手が増える。
レオフィーナを包囲し、指が絡む。
絡んで、引き裂く。
レオフィーナは引き裂かれながらも、戻る。
戻るたび、呼吸が少しずつ荒くなる。
戻るのは傷だけで、疲労は戻らない。
私は倒れたリトリーの肩を支えた。
血が掌に広がる。
温かいはずなのに、ここではすぐ冷える。
リトリーの目が、半分だけ開く。
「……シルア……」
声が細い。
笑おうとして、笑えない。
「大丈夫。……大丈夫だから」
大丈夫じゃないのに言う。
言うしかない。
アルティナも、まだ動かない。
カムイが彼女を抱えたまま立っている。
肩の血が、地面に落ちている。
カムイの目が影狼を捉えた。
いつもの寡黙な目じゃない。
怒りに染まった目。
「……沈め」
言う。
影狼の足が、わずかに沈む。
「止まれ」
言う。
影狼の首が、ほんの少し遅れる。
「鈍れ、眠れ、吹き飛べ、弾けろ、死ね」
言う。
爪の軌道が、わずかに甘くなる。
連続。
短い言葉が続く。
強い言葉は効かない。
でも止めない。
止めたら、ティーナが死ぬ。
止めたら、リトリーが死ぬ。
止めたら、私が死ぬ。
そんなふうに、目が言っていた。
影狼の動きが鈍った瞬間、レオフィーナの斬撃が雨になる。
黒が裂ける。
裂けて、裂けて、裂けて。
影の手が次々と切り落とされる。
切り落とされ、地面に落ちる前に霧になる。
影狼が吼える。
吼え声が腹に響く。
腹の奥がひっくり返りそうになる。
その吼え声の中で、レオフィーナが一瞬、目を見開いた。
斬れるところは全て斬った。
なのに――。
「……核が、ない」
呟き。
呟いた瞬間、斬撃のリズムが崩れた。
ほんの僅か。
でも、この場では致命的だった。
影狼の黒が、滑るように彼女の懐へ入る。
爪じゃない。
黒い塊が、刃みたいに伸びる。
レオフィーナの頭部を――消し飛ばした。
血が散る。
金色が散る。
私は息が止まった。
止まった瞬間――
レオフィーナの頭が一瞬で再生する。
頭が元の位置にある。
目が、瞬く。
瞬いた次の瞬間、彼女はもう斬っている。
戻ることに慣れている動き。
慣れていることが、怖い。
怖いのに、今はそれが救いだ。
救いでしかない。
レオフィーナは影狼を睨む。
「……あんた、ほんとにガゼル様なの?」
問いかけは届かない。
届かないまま、刃と爪がぶつかる。
ぶつかって、折れて、戻って。
裂けて、戻って。
死んで、戻って。
繰り返し。
私はリトリーを抱き上げた。
軽い。
血が減っている重さ。
リトリーの髪が、私の腕に落ちる。
呼吸が浅い。
「……ごめん……」
リトリーが言った。
何が、なのか分からない。
分からないのに、胸が痛い。
「……謝らないで」
私の声も細い。
アルティナはカムイの腕の中で、ぐったりしている。
カムイは言葉を吐き続ける。
吐き続けるたび、顔色が少しずつ白くなる。
でも止めない。
レオフィーナは斬り続ける。
影狼は戻り続ける。
核がない。
なら、終わらない。
終わらないのに、私たちの方だけが削れていく。
このままじゃ、千日手だ。
千日手の先にあるのは、私たちの“先”がなくなること。
私はリトリーを抱えながら、塵となった剣の感触を思い出した。
あのときの空っぽ。
今、ここで、同じ空っぽが増えていく未来が見えた。
見えたまま、どうにもできない。
私は歯を噛んだ。
噛んで、目を逸らせないまま、レオフィーナと影狼のぶつかり合いを見続けるしかなかった。




