第一章・第十九話 剣という名の命
森の奥へ進むたび、音が減っていった。
枝を踏む音はするのに、跳ね返ってこない。
声を出しても、薄い布を一枚挟んだみたいに届きが鈍い。
結界の外で感じた「世界の輪郭」が、少しずつ溶けていく。
私の肺に入る空気だけが、やけに冷たい。
「……深いね」
リトリーがいつもの調子で言う。けれど、語尾が軽くない。
落ちてくる袋も、裂く手つきも、乱れがない。
アルティナの尻尾も、普段みたいに大きく揺れない。
不機嫌の形が、戦い用に折り畳まれている。
カムイは相変わらず前を見ている。
目線が、影の“湧き”を探しているのが分かる。足元、幹の裏、根の裂け目。影が溜まる場所。
レオフィーナは剣を下げないまま、息だけを整えている。
「余裕かい?」
ルネアが尋ねる。
レオフィーナは振り向かない。
「あたしはね。……でも、あんたほど気楽じゃあない」
言い方は軽い。
でも、あの目の奥にあるのは、軽さとは別物だった。
△▼△▼△▼△
進む。
影龍を落としながら、進む。
降ってくる影は最初より減った。代わりに、出方が変わった。
上からじゃない。
「影」そのものが、地面から立ち上がる。
根が絡む場所、倒木の下、水たまりの黒。
そこから影霊がぬるりと手を伸ばし、影龍の脚へまとわりつく。影龍の影に、別の影が繋がっていく。
「影が占める面積が増えてきてるな」
「このままだといつ結界を越えられる個体が生まれてもおかしくないね〜」
そう言ったレオフィーナとルネアの前からまた影龍が起き上がる。
「また……増える」
私が吐いた言葉は、霧の中で小さく消えた。
槍隊が前を切り、盾が面を張る。
術者の光が枝葉の影を薄くする。
射手の光の矢が通り道を作る。
私たちは、その隙間で仕事をする。
影を吹き飛ばす。
言葉と光の粉で鈍らせる。
核を押し潰す。
「……今、右の根元」
「うん、見えた」
アルティナの圧が落ちる。
ひびが走る音がして、核が覗く。短剣が刺さり、砕ける。
影がほどけるみたいに散って消える。
倒れる影龍の横を、踏まないように越える。
踏んだら、まだ残っている影が足首に絡むかもしれない。
そんなことばかり考えていると、時間の感覚が変になる。
どれくらい歩いたのか分からない。
ただ、森の匂いがさらに別物になっていく。
湿った土が、古い鉄みたいな匂いに混ざりはじめる。
香草の青さが、どこか苦い。
「この森……息してるみたい」
リトリーが小声で言った。
私は答えられなかった。
息をしているのは私たちの方で、森はただ、黙っている。
黙っているからこそ、怖い。
△▼△▼△▼△
それは、風の向きが変わった瞬間だった。
さっきまで前から吹いていた冷えが、横から刺さる。
一斉に、木々の影が伸びる。
「……来るぞ」
カムイが低く言った。
返事をする前に、四方から羽音がした。
上。
横。
背後。
そして足元。
影龍が、同時に降る。
今までみたいな「雨」じゃない。
狙って落ちてくる。
隊形の“弱い場所”へ、刺すかのように。
盾の面が音を立てる。
槍が弾かれる。
術者の光が、追いつかない。
「っ……!」
誰かの叫びが短く切れた。
影の爪が肩を掠めたのが見えた。血が飛ぶ。
方向だけじゃない。入口の時よりも物量まで多い。
それでも――最初は、拮抗していた。
レオフィーナが中心を保ち、翼が支え、後衛が回す。
人の数と役割で、影龍の数を押し返している。
「こっち、核が見えた!」
「粉、回して!」
リトリーが走りながら指を鳴らす。
空から落ちてきた白い袋を裂いて、粉が舞う。影が縮む。核が見える。
「潰すよ!」
アルティナの声が跳ねる。圧が落ちる。割れる。
その繰り返し。
カムイの声が、短く響く。
「止まれ」
影龍の首が一拍遅れ、槍が入る。
「動くな」
伸びてくる影の腕が固まり、剣が切る。
私は風で影をめくる。
めくれて覗く核の光だけが、やけに現実的だ。
――そうやって持ちこたえていた、はずだった。
△▼△▼△▼△
空が、いきなり落ちた。
そう感じた。
木々の隙間が、黒い塊で塞がれる。
羽音が重い。さっきまでの影龍と違う。
「……でけぇ」
誰かが息で言った。
出てきたのは、影龍。
でも“影龍”という言葉に収まらない。
元の龍の輪郭が濃い。
鱗の名残があり、角があり、牙が白く見える。
影だけでできたものじゃなく、影に“沈められた”龍が、まだそこにいるみたいだった。
目が、レオフィーナを捉えた。
狙いが分かりすぎて、背中が冷たくなる。
「来るぞ――!」
叫んだのは誰だったか。
レオフィーナが一歩踏み出す。
その一歩が、隊形の中心をさらに前へ押し出す。
「こいつはあたしが相手する」
大きな影龍に簡単に向かっていく、それが逆に怖い。
影龍が吼えた。
森全体が震えて、枝葉の影が一斉に揺れる。
レオフィーナの剣が走る。
影の関節を刻む。広い片翼を細切れにする。戻れないように。
でも影龍は、戻ろうとすらしなかった。
噛みつく。
速い。
牙が、レオフィーナの肩と脇腹をまとめて咥えた。
「――!」
血が飛ぶ。
レオフィーナの身体が捻れる。肉が千切れる音がする。
影龍が翼を打つ。
地面が沈むみたいな風圧。
木々がしなる。人がよろける。
「レオ――!」
誰かが手を伸ばす。
レオフィーナが、口の端だけで笑った。
笑ったというより、歯を見せた。
「あたしは、大丈夫――」
その声が、途中で遠くなる。
影龍が跳んだ。片翼は不完全。
それでもレオフィーナを咥えたまま、森の奥へ。
木々の間を縫うんじゃない。木々を折って、消えていく。
残った風だけが、私たちの顔を叩いた。
中心が――抜けた。
△▼△▼△▼△
一拍。
その一拍が、致命傷だった。
隊形の“中心がある”前提で組まれていた手順が、そこで途切れる。
誰が悪いわけじゃない。
ただ、中心がいない。
「……下がる? いや、入口まで――」
誰かが迷う声を出した。
迷いは龍の餌みたいに広がる。
足が揃わない。槍の角度がずれる。盾の面が少しだけ開く。
そこへ、影龍が突っ込む。
突っ込んでくる数が増えるのが分かった。
さっきまで抑えられていた影が、一斉に「空いた場所」へ流れ込む。
「っ、押される!」
アルティナが踏ん張る。圧を落とす。
でも核が露出していない影龍には、決め手にならない。
カムイが喉を鳴らすみたいに息を吸う。
「……遅れろ、止まれ、動くな」
翼の一体が鈍る。
そこへ槍が入る。
入るけど、槍が折れた。
折れる音が、やけに大きい。
「槍が――!」
槍隊の一人が、目を見開いたまま後ろへ転ぶ。
影霊の細い手が足首に絡み、転び方が不自然に捻じ曲がる。
リトリーが駆けた。
剣を抜き足首に絡んだ影を斬る。
でも次の瞬間、その影の上から影龍の爪が降る。
「っ……!」
咄嗟に剣で受け止める。
リトリーの顔が歪む。
それでも、声の温度だけは落としきれない。
「……や、やだな、これ。全然やさしくない」
その言葉が、喉の奥に刺さる。
私も前へ出た。出ないと――穴が開く。
風で影をめくる。
核を探す。
でも影が厚い。影霊が重なって、光が見えない。
「シルア!」
アルティナが呼ぶ。
声が焦っている。
私の足元が、冷たくなった。
影霊の腕が伸びてきていた。
地面の影が、立ち上がる。
私の影と絡み、足首を引く。
「……っ」
息が詰まる。
身体が前に倒れる。
倒れたところへ、影龍の影が落ちる。
上を見ると、牙が見えた。
影龍の顎が落ちてくる。
剣を振り上げようとして、間に合わないのが分かった。
私の剣は“形だけ”。重くない。速く振っても、足りない。
――死ぬ、と思った。
その瞬間、横から火花みたいな光が走った。
影龍の顎が、逸れる。
金属が擦れる音。
そして、誰かの身体が私の上に覆いかぶさった。
「……立てるか」
男の声。騎士団の人だ。
ガゼル王直属騎士団の紋が、肩で揺れていた。
「……っ、うん」
私が返事をしたときには、もう彼は前に出ていた。
剣を振る。
正確で、無駄がない。
影の関節を刻むのではなく、私が風でめくれる“隙”を作ってくれる。
「核を――」
「見えるようにする。お前は、吹き飛ばせ」
命令じゃない。確認みたいな言い方だった。
私は風を走らせる。
影が薄くなる。核が覗く。
アルティナの圧が落ちる。
核がひび割れる。
その一拍の連携で、影龍が崩れた。
でも、崩れた影の向こうから、また来る。
「……名前は」
私が思わず聞く。
騎士は一瞬だけ横目を寄こした。
「ヴァルだ」
短い。
それ以上言わず、剣を構える。
△▼△▼△▼△
ヴァルの剣は、よく鳴った。
甲高い音じゃない。
低く、澄んだ音。
木々の影が揺れる中で、その音だけがまっすぐ通る。
影龍が突っ込む。
翼の一撃が盾の面を揺らし、槍を弾く。
隊形が、さらに歪む。
「金獅子がいない……!」
誰かが叫ぶ。
叫びは、もう隠せない。
ヴァルが前へ出た。
もう私を庇う位置じゃない。
“穴”を埋める位置。
剣を振り抜く。
影の腕が切れる。
影龍の脚が止まる。
核が覗く。
「今だ!」
その声に、私は風を叩き込む。
影がめくれる。
アルティナの圧が落ちる。核が割れる。
一体、落ちる。
でも次が来る。
影龍の爪が、ヴァルの頭上から落ちた。
彼は剣で受けた。
受けた瞬間――剣が、鳴き声みたいな音を立てた。
嫌な音。
金属が悲鳴を上げる音は、さっき聞いた槍の折れる音とは違う。
もっと、近い。
もっと、生々しい。
剣の刃に、白い線が走る。
ひびだ。
「……!」
私の喉から声が漏れる。
ヴァルは眉一つ動かさない。
動かさないまま、もう一度受ける。
影龍の爪が、剣に叩きつけられる。
今度は――はっきり折れた。
折れてしまった。
刃の半分が飛ぶ。
飛んだ刃が木に刺さって震える。
剣が折れた、その瞬間――ヴァルの身体から力が抜ける。
影龍の牙が、肩に食い込む。
血が飛ぶ。
ヴァルは声を出さない。
出せない、のかもしれない。
彼の手から、折れた剣が落ちた。
落ちる音が、やけに軽い。
ヴァルが膝をつく。
膝をついたまま、私を見る。
焦点が合っていない。
そして、その目の光が、すっと薄くなった。
「……ヴァル!」
私が呼んだ声は、届いたのか分からない。
影龍が彼の身体を引きずろうとする。
影霊の腕が絡み、影が彼を森の影へ溶かそうとする。
私は反射で風を叩いた。
影がめくれる。影霊の腕が散る。
でも、もう遅い。
ヴァルは動かない。
足元に落ちた折れた剣が――ただの鉄に見えた。
さっきまで、あれは“彼”だったのに。
胸が、ひゅっと縮む。
剣が折れたから死んだのか。
死んだから剣が折れた、じゃない。
分からない。
ただ、繋がっている。
剣と命が、同じ線で結ばれている。
ルギアに最初に言われたことが、
いま、私の目の前で、形になった。
私は剣を握り直す。
握り直しても、私の剣は戻らない。
軽いままだ。嘘みたいなままだ。
そのことが、急に恥ずかしくなった。
△▼△▼△▼△
崩れは、連鎖する。
中心がいない。
穴が空く。
穴に影が流れ込む。
誰かが落ちる。
落ちた場所がまた穴になる。
「下がれ――とにかく下がるんだ!」
誰かが叫んだ。
でも下がる、という動きは、前へ進む手順よりずっと難しい。
背中を向けるから。
足元の影が増えるから。
入口が遠い。
「ティーナ!」
カムイがアルティナを呼んだ。
呼ぶ声が少し掠れている。
アルティナが頷く。
頷いて――いつもみたいに揶揄わない。
その代わり、圧を落とす回数が増える。
もうトドメだけじゃない、援護のためだけにわざわざ影を潰している。
無理をしているのが分かる。
でも無理をしないと、誰かが死ぬ。
リトリーが走りながら、空から落とす。
粉だけじゃない。布。糸。簡易杭。少しでも使えるものを取り出していく。
でも、取り出したものを拾う手が追いつかない。
誰かが倒れて、拾う手が消える。
「……やだなぁ、ほんと」
リトリーが笑おうとして、笑えない。
私も、喉が固くなる。
ヴァルの顔が、まだ残っている。
剣が折れた音が、耳の奥で鳴っている。
「シルア……」
アルティナが一瞬だけ横を見る。
その言い方が優しいのが、逆に痛い。
私は首を振った。
「大丈夫……動ける」
動ける、という言葉は本当だった。
でも心は、どこか置き去りになっている。
△▼△▼△▼△
そのとき、少しだけ軽い声がした。
戦場で聞くには、軽すぎる。
でも、ふざけている響きではなかった。
「……可哀想に」
ルネアの声だった。
彼女は中心から少し外れた場所にいた。
いつの間にそこへ移動したのか分からない。
気配が薄いのに、もうそこにいる。
ルネアが屈む。
落ちている剣を拾う。
それは誰かの剣だ。
持ち主は――確か剣に炎を纏っていた。
ルネアは一瞬だけ、その人の方を見る。
それから、短く息を吐いた。
「ごめんね。……少し借りるよ」
拾った剣を、軽く振ってみる。確かめる程度に。
「……うん。いい剣だ」
何がいいのか、詳しくは言わない。
言わないまま、影龍へ向かう。
彼女の剣筋は、いつも見えない。
だけど今回は、さらに速かった。――速いのに、乱れていない。
そして刃から青白い焔が溢れる。それは影に包まれた森を一瞬白に染め上げ一閃。
影龍が裂ける。核が露出する。
核はすでに溶けていた。
次の瞬間、その剣を投げ捨てはしない。
足元に滑らせて置き、次の武器を拾う。
別の槍を拾う。
槍で影を固定する。
固定したまま、槍を折るみたいに捻って、影を引き裂く。
「……たまには剣以外もいいかもね」
誰に言っているのか分からない。
独り言みたいに、淡い声だった。
影龍が吼える。
ルネアは笑わない。
ただ、目だけが冷たくなる。
「怒らないで。今は――フィーナちゃんが帰ってくるまで保たないと」
そう言って、また武器を拾い、使い、影龍を屠っていく。
一体。
二体。
三体。
核が露出する前に、砕けている。
影がめくれる前に、消えている。
影龍が群れで来ても、ルネアの周りだけ影が薄い。
薄いというより、影が「迷っている」みたいに散る。
「ルネア……」
ルネアは振り返らない。
振り返らないまま、また剣を拾う。
拾う手つきが丁寧で、乱暴じゃない。
その丁寧さが、胸に刺さった。
△▼△▼△▼△
ルネアが“穴”を塞ぐ。
それだけで、前線が少し息をする。
私たちも動けるようになる。
カムイの声が、また通る。
「寄るな」
影龍が一拍遅れ、アルティナの圧が刺さる。
リトリーの粉が舞う。
私の風が影をめくる。
でも、それでも足りない。
中心の代わりにはならない。
影龍の数が減らない。
減っているはずなのに、森の暗さが変わらない。
「レオフィーナ……!」
誰かが、祈るみたいに名前を呼ぶ。
返事はない。
代わりに、遠くで木が折れる音がした。
――折れる音が、近づいてくる。
羽音が、違う方向から来る。
上だ。
私は反射で見上げた。
木々の上を裂くように、金色が落ちてきた。
レオフィーナ。
血が残っている。
でも目は死んでいない。
彼女は地面に着く前に剣を振った。
振った剣が、大影龍の翼を刻む。
翼が落ちる。
影が霧になる。
大影龍が吼えた。
でも吼え方が、さっきより浅い。
牙の間から血が飛ぶ。レオフィーナの血じゃない。
「――ただいま」
レオフィーナが笑った。
笑って、息を吐く。
「……遅くなった。ごめんね」
その言葉が、戦場の空気を戻した。
中心が、戻った。
次の瞬間、レオフィーナの身体がぶれる。
目立つ傷が消えていた。破れた衣服も綺麗に戻っている。
「で、あいつどこ?」
レオフィーナが軽く言う。
軽く言いながら、目は獣みたいに鋭い。
大影龍が、木々の間で翼を震わせていた。
落ちた翼を影が繋ごうとする。
繋ごうとした影を、ルネアが拾った槍で刺して止める。
「ここだよ、金獅子さん」
ルネアが、短く言った。
茶化す音は薄い。状況を揃える声。
レオフィーナが舌打ちをする。
「……あんたからはその呼び方はされたくないって」
「えへへ、ごめんねフィーナちゃん」
言い合いをしているのに、二人の距離が自然に噛み合う。
レオフィーナが前へ出る。
ルネアが半歩横にずれる。
二人の間に、影が入れない。
「シルア、風。あいつの下全体の影を剥がしてくれない?」
レオフィーナの声が飛ぶ。
私は頷く。
頷いて、息を吸う。
風を叩く。
影がめくれる。
核が見える――尻尾の付け根。
「見えた……!」
「オッケー」
レオフィーナが笑って、大影龍の頭と腕を斬り飛ばして動きを抑える。
「ほら、今!」
ルネアが拾った剣を、真っ直ぐ振った。
見えない刃が走る。影が裂ける。核がむき出しになる。
アルティナの圧が落ちた。
核が割れる。
割れる音が森に響いて――大影龍の輪郭が崩れた。
影が霧になって散る。
散る直前、影霊の“冷たさ”だけが残って、すっと消えた。
△▼△▼△▼△
そこからは、早かった。
中心が戻ったことで、手順が揃い直す。
揃い直した手順は、さっきより硬い。怒りと恐怖が、混じっている。
レオフィーナが刻む。
ルネアが裂く。
槍が固定する。
言葉が遅らせる。
粉が縮める。
風が剥がす。
圧が割る。
影龍が、群れで来ても“捌ける数”になる。
それでも、戦場は静かにならない。
倒れる人は、倒れる。
傷を負った人は、立ち上がれない。
私の視界の端で、誰かが膝をついた。
剣を落とした。
落とした剣が、鈍い色になった。
その瞬間、胸が痛くなる。
ヴァルの折れた剣が、また脳裏を叩く。
「……っ」
呼吸が乱れる。
リトリーが、私の背中を一度だけ叩いた。
叩き方が雑で、優しい。
「あとで泣いていい。今は、前だけ見よ」
私は頷いた。
泣く、という言葉が、喉に引っかかったまま。
でも、今は剣を握る。
△▼△▼△▼△
戦いが終わったのは、森が少しだけ明るくなった気がした頃だった。
明るくなった、というより、
覆っていた影が消えただけ。
羽音が止む。
吼え声が遠ざかる。
残ったのは、人の息と、血の匂いと、折れた木の匂い。
誰もすぐには喋れない。
レオフィーナが剣先を下げずに周囲を見る。
数える目をしている。
数えたくないものを数える目。
「……欠けたな」
欠けた、という言い方が、少し怖い。
私の足元に、折れた剣が落ちている。
ヴァルの剣じゃない。別の誰かの剣。
でも同じ色に見える。
どれも、持ち主のいない鉄だ。
ルネアがその剣を拾い上げて、刃を拭うみたいに指で撫でた。
血は拭いきれない。指先が赤くなる。
彼女はそれを見て、目を伏せた。
「……返す相手、減ったね」
冗談みたいな形にして、冗談にならない声で言う。
アルティナが歯を食いしばる。
リトリーが、唇を噛む。
カムイの耳が伏せる。
私の胸の奥が、ずっと冷たい。
「戻ろう」
誰かが言った。
言った声が震えている。
その声に、レオフィーナが目を向けた。
「……戻って、何をするの?」
冷たい言い方ではない。
ただ、現実の言い方。
「神域にはもっと大きな龍がいた。それが影龍化しているかもしれない。もし今戻って、それが結界を越えるようになったら?」
沈黙が落ちる。
誰も反論できない。
反論できないのが、いちばん辛い。
「犠牲を無駄にする気はない」
レオフィーナはそう言って、前を向いた。
「だから行かないと。奥へ。ここで終わらせる」
“終わらせる”が、何を指すのかは言わない。
言わないけれど、全員が分かっている顔をした。
私も、足を見た。
足元に血がついている。
誰の血か分からない。分からないのが、怖い。
剣を握る手が冷たい。
私の剣は、軽いままだ。嘘みたいなままだ。
でも、ヴァルの剣が折れた音は、まだ耳の奥に残っている。
剣と命が結びついている世界で、
その結び目がほどける瞬間を見てしまった。
「……残酷だ」
声に出すと、壊れそうだったから、心の中で言った。
そして私は、レオフィーナの背中について歩き出す。
奥へ。
この森の奥に何があっても、
きっと、優しくはない。
△▼△▼△▼△
森は、答えない。
ただ、影だけが濃くなる。
それでも私たちは、剣を手放さずに進んだ。




