第一部・第一章 空の剣
――冷たい土の匂いがした。
頬に貼りついた泥を指で拭うと、指先がかすかに震えた。寒さのせいか、それとも目覚めたばかりで身体が状況に追いついていないせいか。
「……ここ、どこ」
声が自分のものだと、遅れて理解する。
周囲は森だった。鬱蒼とした木々が空を隠し、光は薄い。昼なのか夕方なのかも曖昧で、鳥の声だけがやけに遠い。木漏れ日の斑が地面に落ちて、そこだけ不自然に明るい。
立ち上がろうとして膝が笑った。転びそうになって、咄嗟に幹へ手をつく。
ざらり、と掌に樹皮の感触が残る。生きている木の体温が、冷えた指にじんわり移った。
……生きてる。
そんな当たり前を、わざわざ確認しないといけないほど、頭の中が空っぽだった。
息を吐く。白くはならない。季節はそこまで冷えていないのかもしれない。それでも胸の奥だけが妙に冷たかった。自分の中にあるはずの何かが、根こそぎ抜け落ちているような――そんな欠損感。
「……名前」
何か掴めるものが欲しくて、言葉を探る。すると驚くほど自然に、ひとつだけ口から出た。
「シルア」
それだけは迷わなかった。
自分の名前。たぶん。確信はないのに、否定する材料もない。
「シルア……」
もう一度、確かめるように呼ぶ。響きが胸に落ちる。ようやく足元に一本、杭が打たれた気がした。
だがそれ以外は何もない。
どこで生まれて、何をして、誰と笑って、何に怒って、何を怖がって――全部が真っ白だった。
泥で灰色に曇った髪束が頬に貼りついている。指で払うと、薄銀の色が一瞬だけ戻って、すぐにまた土の匂いに沈んだ。視界の端に映る自分の瞳は深い群青で、見慣れないはずなのに妙にくっきりしていた。
森の中で目覚めた理由すらわからない。倒れていたのか、眠っていたのか、落とされたのか。
とにかく、ここから出ないと。
木々の隙間を見つけて歩き出す。足は重い。喉が乾く。身体のあちこちが擦りむけているのがわかるのに、痛みは妙に遅れてくる。破れた外套の端が足に絡み、動くたびに冷たい空気が肌に入り込んだ。
しばらく歩くと、小さな道が現れた。獣道よりは整っている。人が通った跡――それだけで、安心に近いものが胸に灯った。
道沿いに進む。
そのときだった。
背後で、枝が折れる乾いた音がした。
反射的に振り向く。木々の影から男が二人、ぬっと出てくる。どちらも粗末な革鎧、腰には剣。剣――という言葉が胸のどこかをざわつかせた。
「おい、嬢ちゃん」
前に出た方がにやつく。目つきが軽い。軽いのに、背中が冷える。もう一人は黙っているが、手が剣の柄から離れない。
逃げた方がいい。
頭ではそう思うのに足が動かない。怖い――だけじゃない。彼らの腰の剣に視線が吸い寄せられる。あの“それ”に、本能が警鐘を鳴らしている。
男が一歩近づく。
「旅の金、持ってる?」
「……ない」
咄嗟に答えてしまう。正直すぎたかもしれない。
男は肩をすくめて笑った。
「じゃあ、剣は? ……ん? ないのか?」
彼の視線が私の腰を探る。腰だけじゃない。背中、腕――どこにも“それ”がないとわかった瞬間、男の表情が変わった。笑いが消える。
「……は?」
低い声。さっきまでの軽さが一瞬で引いた。
「おい、こいつ……剣がないぞ」
黙っていた方が眉をひそめる。
剣がない。それが、そんなにおかしいことなの?
わからない。でも、わからないことが今は怖い。
「ない、って……どういうことだよ」
「隠してるのか? どこだ」
柄を握っている方の男が一歩踏み込む。距離が一気に詰まって、呼吸が止まる。
――まずい。
まだ何もわからないまま、こんなことになるなんて。
でもどうすれば。逃げる? 背中を見せた瞬間に斬られるかもしれない。
どうすれば――。
ぐちゃぐちゃに絡まる思考の中で、何かが胸の奥で熱を帯びた。
「……やだ」
口に出たのは拒絶だった。
生きたい、というより死にたくない。そんな当たり前すぎる願い。
次の瞬間、空気がほんのわずかに歪んだ。
自分の内側から、何かが“減った”感覚がある。体力が削れたような、喉が渇いたような――魔力という言葉があるなら、それが減ったような。
そして目の前の男の足元の落ち葉が、ふわりと舞い上がった。
風が吹いたわけではない。
男の足が一瞬だけ地面から浮いた。ほんの指一本分。
「……っ!?」
男が驚いてバランスを崩し、よろける。
その隙に私は身を翻し、道の反対側へ走った。
走りながら思う。
今のは、何?
私は何をした?
怖い。でも止まっていられない。背後から罵声が飛ぶ。
「追え! やっぱり隠してたんだ……!」
足が絡まりそうになる。木の根に躓きかけた、そのとき――
前方の木陰から、ひょいっと誰かが出てきた。
男だ。
しかも呑気そうに手を振っている。
「おーい。君たち、やめときなって」
軽い声。状況を理解しているのかしていないのか、わからないほど軽い。
追ってきた男たちが足を止めた。
「誰だてめえ」
「通りすがり。……って言うと怪しい? でもまあ、通りすがり」
男は肩をすくめる。白に近い銀髪が森の薄い光を拾って、輪郭だけ妙にきれいに浮いた。黒い外套は地味なのに、生地だけは妙に上等だ。
「で、嬢ちゃん」
男は私を見る。息を切らしている私の顔を見て、それから腰元を見て――首をかしげた。
「……あれ、剣ない?」
驚くというより、困ったみたいな言い方だった。
私は息を整えられないまま頷く。
「うん」
「……え、今までどうしてきたの?」
呆れたような、でも本気で心配しているような声。追ってきた男たちへの警戒は切らしていない。
私は答えるしかなかった。
「えーと……その、“今まで”が思い出せなくて」
「え」
男の眉が上がる。
「……記憶ないの?」
「名前だけ。シルア、って」
男は一拍だけ黙る。
追ってきた男が苛立って叫ぶ。
「おい、お前、何俺らの仕事を邪魔してくれてんだ!」
「はいはい、お仕事お疲れさ〜ん」
男は軽い調子で手をひらひらさせた。
「でもさ。ここで騒ぐと、衛兵が来る。来たら君らの“お仕事”も面倒になるでしょ?」
「……っ」
男たちが怯む。衛兵という単語に反応した。つまり彼らは、表に出せない連中。
男はそれを見て笑う。
「あっはっは〜! そんなにすぐに怯んじゃって、お仕事務まるの〜?」
「てめえ……」
「やる?」
男が軽く首を傾げる。その瞬間、空気が変わった。
何がどう変わったのか、言葉にできない。ただ、肌が粟立つ。目の前の男が、さっきの二人より“危ない”と本能が告げる。
男たちは舌打ちして後退した。
「……覚えてろよ」
捨て台詞を残し、森の奥へ消えていく。
足音が完全に遠ざかった頃、私はようやく息を吐いた。
男は私に向き直る。
さっきまでの緊張を冗談みたいに解いてしまうように、笑う。
「ふう。追いかけっこって疲れるよね。……君、足速いじゃん」
「……助けてくれたの?」
「まあね。あの二人、感じ悪かったし。こんな可愛い子が困ってたらねぇ」
「…何それ」
呆れている私に、男は顔を覗き込むようにして言った。
「剣がないって、命綱なしで崖登りしてるのと同じ。……っていうか、普通は登れない」
「……命綱」
男は肩をすくめて、軽く笑う。
「そう。剣は命も同然。壊れたりなんかしたら、それは首が刎ねられたみたいなもん」
「……壊れたら」
背筋が冷えた。
「じゃあ、剣を奪われたら……」
「奪われるのも怖いけど、基本はね、剣って離れても戻ってくるんだ」
男は自分の腰の剣を抜く。薄い刃が木漏れ日に光った。
「ほら」
彼はためらいなく剣を道の端へ投げた。刃が地面に刺さる。危ない。
と思った瞬間、剣はふっと霞んだみたいに消えて、次の瞬間には男の手に戻っていた。
「……え」
「帰ってくるんだ。持ち主のところへ。だから剣を落としても、別に問題はない」
私は自分の腰を見た。そこには何もない。
男は私の視線を追って、苦笑する。
「……まずいよねえ。君、ほんとに“ない”んだもん」
「……」
言い返せなかった。ないものはない。
男はぽん、と手を叩いた。
「よし。じゃあ、はいこれ」
彼は、どこから出したのかわからない剣を差し出した。
見た目は普通の剣だ。変わったところも見当たらない、至って普通の剣。
「これ……」
「形だけだよ。君が剣なしってバレた瞬間、色々面倒だからね〜」
「どうして?」
「本当に何も知らないんだね。人は誰しも、生まれたと同時に世界から剣が与えられるのさ」
男は手を広げて語り出す。
「剣と生まれ、剣と共に人生に幕を閉じる。これが世の理」
「剣と共に…」
「そう。人が死ねば剣は砕け、剣が砕ければ人が死ぬ」
「だから、剣を持っていない君は“剣を持ってるフリ”が必要なのさ」
私は剣を握り直す。これを持っているだけで、私は“普通”に見えるのか。
男は私の表情を見て、少し声を柔らかくした。
「それで、とりあえずは一安心さ」
「……あなたは、誰?」
「俺? ル――」
一瞬だけ言いよどんで、次に何でもない顔で続けた。
「ルギア。よろしく、シルア」
「……ルギア」
名前を繰り返す。口に乗りやすいのに、どこか遠い感じがする。記憶がないせいか、それとも――。
「よろしくって。私、何もできないんだけど」
言うと、ルギアはニッと笑った。
「できてたじゃん。さっき、落ち葉舞わせたやつ」
「……わからない。やりたくて、やったわけじゃなくて」
「へえ」
その「へえ」は、興味というより確認に近かった。ルギアは私をじっと見て、でもすぐにいつもの軽さに戻す。
「まあいいや。わからないなら、これからわかればいい。とりあえず、町に行こ」
「町……」
「うん。ここは森の外れ。道をまっすぐ行けば、小さな宿場町があるんだ。まずは腹ごしらえしよう」
言い方が雑なのに、妙に安心する。
私は剣を腰に差すフリをした。鞘はない。どうすればいいかわからず、手で持ったままになる。
ルギアが笑って、手を差し出した。
「貸してごらん。紐でぶら下げとこう。剣を持ってる風にね」
「……手際よすぎ」
「だって、君みたいなのが転がってたら、面倒見たくなるじゃん」
「転がってるって言わないで」
「じゃあ、拾われてる?」
「そういう問題じゃない!」
思わず声を荒げてしまう。ルギアはニマニマしてる。
「ツンツンしてて可愛いね。元気出た」
「出るな!」
「あっはっは〜!」
そう笑って、彼は剣を器用に紐で腰に固定してくれる。見た目だけなら、確かに“剣を持ってる人”に見える。
歩き出すと、ルギアが何気なく言った。
「それと、ひとつだけ忠告」
「なに」
「剣が命っていうのは常識。だから、誰かの剣を軽々しく触っちゃいけないし、冗談でも抜いちゃいけない。――そんなことしたら、たぶん殴られる」
「……殴られるで済むの?」
「済まないこともある。剣は、ね。人の“存在”そのものだから」
その言葉が妙に重く落ちる。
存在。
剣が、存在。
じゃあ私は――剣がない私は、何なんだ。
問いが浮かびかけたところで、遠くから別の足音が聞こえた。今度は軽い。人の気配。
道の先に、小さな荷車が見える。旅人だろうか。荷を積み、剣を腰にぶら下げている。
旅人たちがこちらに気づいて、ちらりと私を見る。
私は無意識に、腰の剣に手を添えた。
旅人たちはそのまま何事もなく通り過ぎていった。
その瞬間、胸の奥で何かがひやりとした。
――もし、これがなかったら。
恐ろしい考えが次々と浮かぶ。
ルギアが私の表情を横目で見て、冗談めかして高い声で言う。
「こわ〜い! ドキドキした〜」
イラつく。なんなんだこの人は。
「……あなた、何者なの」
「ただの通りすがりだって。さっき言ったじゃん」
そう言いながら、ルギアは口笛を吹く。外れた音が森に響いて、妙に陽気だった。
歩いているうちに、森の向こうが少しずつ明るくなっていく。木々が途切れ、遠くに低い石壁が見えた。町の外壁だ。
その上、空に――
一瞬だけ、何かが見えた気がした。
薄い線。ガラスに走った傷みたいな、細い亀裂。
次の瞬間には、雲の影と区別がつかなくなって消える。
私の見間違いだろうか。
それとも――。
「今の、見えた?」
思わず聞くと、ルギアは「ん?」と間の抜けた声を出した。
「なにが?」
「空……なんか、線が」
「線?」
彼は空を見上げ、しばらく目を細める。次に、いつもの調子で笑った。
「あー、雲の影じゃない? 空ってたまに割れそうに見えるよね」
「……割れそう」
言葉が引っかかる。空が割れる。そんなこと、ありえるのか。
「割れたら面白いね〜」
ルギアは冗談っぽく言う。
私は冗談として受け取れなかった。
町の門が近づく。門番が二人、剣を腰に差し、旅人を見張っている。
ルギアが小声で言った。
「いい? とりあえず、ここは俺に任せて。何も喋らなくていいから」
ルギアの言う通り、ここは彼に任せよう。
門番がこちらを見て、声をかける。
「止まれ。どこの者だ」
ルギアが一歩前に出て、いつもの冗談口調で言った。
「旅人でーす。こっちは拾った――じゃない、連れ。お友達ー」
門番はじっと私を見た。剣が命なら、剣の持ち方ひとつで“その人”がわかるのかもしれない。私は何も知らないから、見抜かれそうで怖い。
ルギアが横から軽く割り込む。
「この子、ちょっと無口なんだ。シャイなの。ツンツンシャイ。通して?」
門番はしばらく考えてから、渋々顎をしゃくった。
「通れ。町で騒ぎは起こすなよ」
「了解。俺、平和主義だから」
ルギアが大げさに胸に手を当てて礼をする。
門をくぐった瞬間、町の匂いが押し寄せた。焼いたパン、家畜、鉄、香草、汗。人の生活の匂い。
それだけで、少し泣きそうになった。
私が生きている世界は、ちゃんと“人が生きている場所”なんだ。
「ほら、まずは宿に行こう。水飲んで、飯食って、一度ぐっすり寝た方がいい」
ルギアは当然のように言う。
「……あなた、なんでそこまで」
「ん?」
「私を助けて、剣までくれて、町に連れてきて」
ルギアは歩きながら振り返る。その顔は、いつものふざけた笑み――のまま、少しだけ真面目だった。
「うーん。気まぐれ?」
「……」
「あと、君みたいな可愛い子、ほっとけないでしょ」
「それ、最低」
「褒め言葉として受け取っとく」
「受け取らないで」
私が言い返すと、ルギアは笑いながら前を向く。
その背中を見ながら、私は思う。
この人は、ただの通りすがりじゃない。
だけど今は、問い詰める力もない。
私には、名前しかない。
剣もない。記憶もない。
あるのは、胸の奥にある――得体の知れない“何か”。
そして腰にぶら下がる、戻らない、形だけの剣。
町の石畳を歩きながら、私は小さく呟いた。
「……シルア」
その名前が、いまは唯一の灯りだ。
ルギアが、聞こえたのか聞こえなかったのか、手をひらひらさせて言う。
「安心しなよ。大丈夫さ。たぶんね」
「“たぶん”って何」
「人生、だいたい“たぶん”でできてるでしょ」
ふざけた口調。
だけど――なぜだろう。
その“たぶん”が、今は少しだけ頼もしかった。




