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第一章・第十七話 噛み合わないペアの牙

シルアとリトリーがアルティナとカムイから離れて――。


アルティナが指さしたのは、牙を模した留め具が二つ、革紐で揃えられた飾りだった。

犬の牙と、狼の牙。刻印の模様が同じで、並べると――まるで“噛み合う”みたいに見える。


屋台の親父が、手元の小箱を開けて見せた。


「これのなー、つけ方はなー簡単だなー。耳のなー飾り穴になー通してもいいしなー、穴がねぇならなー留め具でなー挟めばいいからなー。しかもなー外れにくいんだなー。――ペアでどうかなー」


「……ペア」


アルティナの尻尾が、ぴん、と立った。立ちすぎて、揺れるのを忘れている。


カムイは一度だけそれを見て、すぐ視線を逸らした。

その癖で、余計に分かりやすい。


「……ほんとに二つ、要るのか」


「……うん」


声が小さくなったのを、自分でも分かった。

欲しいって言ってしまったら、もう引けない。けど――引きたくない。


カムイは短く息を吐いて、革紐を受け取る。


「じゃあ、二つ」


「えっ、いいの?」


「欲しいんだろ」


いつものぶっきらぼうな言い方。

なのに胸のあたりが勝手に熱くなるのは、反則だ。


親父が銀貨を受け取りながら、にやっと笑った。


「仲、いいんだなー」


「……っ」


アルティナの耳がじわっと熱くなる。返事ができない。

尻尾も今さら思い出したみたいに、ぱたぱた揺れてしまう。


カムイは何も言わず、受け取った飾りを掌で転がした。

それから二つの耳飾りをアルティナへ差し出す。


「ほら。……なくすなよ」


「……あ、うん。ありがとう」


受け取った瞬間、指先が触れた。ほんの一瞬。

なのに触れたところだけ、世界が妙に近い。


アルティナは自分の分を左手に握りしめたまま、もうひとつ――自分の右手の中を見た。

狼の牙。アルティナの犬の牙と同じ刻印。


それが自分の手の中にある。

自分の。


「……え、これ、つけないの?」


「ん?」


カムイは当然みたいに首を傾げて、飾りを見下ろす。


「……俺の、なのか? これ」


「えっ」


声が裏返りそうになって、アルティナは慌てて咳払いした。


「う、うん。だってペアだし。さっき親父さんも……」


「……そうか」


納得したように頷いて――カムイは、飾りを握ったままポケットへしまった。


しまった。


「……」


アルティナは、その動きを瞬きもせず見てしまった。


尻尾が、ぴたりと止まる。

止まった尻尾の分だけ、胸の中が忙しくなる。


「……どうして」


「何が」


「どうして……しまうの」


「落としたら嫌だろ」


正論みたいな顔をして言う。確かに嫌だ。けど――そうじゃなくて。


アルティナは拳をぎゅっと握って、笑顔を作った。

自分が笑えることに、逆にびっくりする。


「……落とさないように、つければいいじゃん」


「今つけるのか?」


「うん。今」


カムイが、ほんの少し困ったように眉を寄せる。

その困り顔がまた、ずるい。恥ずかしいのは分かる。けど、アルティナだって恥ずかしい。恥ずかしいのに――つけたいから。


「……自分でつける」


「つけられる?」


「つけられるし!」


語尾が強くなる。

カムイが口を開きかけて、やめた。アルティナの尻尾が今にも噛みつきそうなのを察したみたいに。


「……分かった。好きにしろ」


投げやりな許可。

でも許可は許可だ。アルティナは勝ったことにする。


アルティナは自分の分を先につけた。

耳の付け根に留め具を挟むと、ひやりとした金属の感触。すぐ、じわっと温まる。

鏡がなくても分かる。絶対、似合ってる。


それから、カムイを見る。


「……耳、こっち」


「え」


「こっち!」


カムイが渋々顔を寄せた。狼の耳が近い。

毛並みがきれいで、触ったら柔らかい――触ったことがある。何回もある。

なのに今日は、触るのが怖い。


アルティナは息を止めて、カムイの耳に手を伸ばした。


「動かないで」


「……」


耳がぴくっと震える。アルティナの心臓も同じように跳ねた。


留め具を挟む指先が震えそうになるのを、歯を噛んで止める。

カムイの体温が近い。息が頬に当たる。

それだけで、頭がぼんやりする。


「……よし」


留め具が、きちんと噛んだ。

狼の牙が耳元で揺れる。刻印が光る。


カムイが反射で手を当てかけて、止めた。触ったら外れると思ったのか、それとも――。


「……ついたか」


「ついた」


アルティナは、少しだけ胸を張って言った。

言いながら、顔が熱い。耳の先まで熱い。


「……これで、お揃いだね」


言った瞬間、自分の声が甘すぎた気がして、喉がきゅっと縮む。

でも言ってしまった。言いたかった。


カムイは数秒、固まったみたいに動かなかった。

狼の耳が、ぴく、ぴく、と忙しく揺れる。


「……お揃い、って」


やっと出た声が、少しだけ掠れている。


「……うん。ペアだもん」


アルティナが笑うと、尻尾が勝手に揺れた。隠せない。隠す気も、もうない。


カムイは視線を彷徨わせて、アルティナの耳の飾りを見て、また逸らした。

頬が、ほんの少し赤い。――赤い、気がする。たぶんじゃない。赤い。


「ところでー、えーと……シルアと、リトリーは」


唐突にカムイが言う。


「え」


アルティナが振り向く。さっきまで近くで屋台を見ていたはずの二人が――いない。

広場の端にも、通りにも見当たらない。


「……いないね」


「……なんでだ」


「なんでかな」


言って、アルティナは息を呑んだ。

あまりに綺麗に、二人いなくなっている。


カムイも同じことを思ったらしく、眉間に小さな皺を寄せたまま周囲を見回す。


「……はめられたか」


「えっ、誰に……」


言いかけて、アルティナは気づく。

シルアの、下手な言い訳。リトリーの、わざと明るい声。

あれは――。


アルティナは耳の飾りにそっと触れた。

さっきカムイの耳につけたときみたいに、丁寧に。


「……二人の計らい、かな」


「……そういうことするか、あいつら。そんなんじゃねぇって言ってるのに」


「……」


カムイが小さく舌打ちした。

照れ隠しの舌打ちにしか聞こえなくて、アルティナは笑ってしまいそうになる。笑ったら自分も赤くなる。


アルティナは、わざと明るい声を出した。


「せっかくだしさ。二人きりで、見て回ろうよ」


「……街を?」


「うん。王都、すごいし。さっきはみんなで食べ歩いたけど、今からは――」


“今からは”の続きを飲み込む。

今からは、二人で。そう言いたかった。


カムイは一瞬だけ迷って、それから頷いた。


「……そうするか。戻る時間だけ決めろ」


「決めなーい」


「……決めろ」


「じゃあ、日が落ちるまで!」


「……じゃあそれまでな」


尻尾が嬉しくて大きく揺れる。

カムイの狼の尾も、気のせいじゃなければほんの少しだけ動いた。見間違いでもいい。


△▼△▼△▼△


王都は、昼の顔をしていた。


人の流れが太くて、耳と尾が風みたいに揺れる。

笑い声、呼び声、焼けた油の匂い。

昨日より景色が近い。たぶん――隣にカムイがいるせいだ。


「どこ行く?」


アルティナが聞くと、カムイはしばらく考えてから言った。


「……甘いのでも、食うか」


「え」


思わず目を瞬く。


「……さっき、お前、氷菓子見てただろ」


「見てたけど……わざわざ?」


「……いらないならいい」


「欲しい!」


言い方はそっけないのに、胸の奥がほどける。


果実の氷菓子の屋台で、二つ買った。

同じ味を買ったのに、アルティナはそれだけで嬉しくなる。


「はい、カムイ」


「……ん」


受け取る指が触れて、また世界が近い。

アルティナが先に一口食べると、冷たさに目が細くなる。


「冷たい……!」


「……だから言っただろ」


「何も言ってない!」


言い返しながら、アルティナは笑ってしまう。

笑うと尻尾が揺れる。揺れるとカムイの視線が一瞬だけ落ちる。――落ちるな。


歩いていると、露店の端に小さな看板が見えた。

“相性占い”“恋占い”“耳と尾の相性も見ます”。


アルティナは足を止める。

止めたのが自分だとバレないように、氷菓子を舐めるふりをする。


「……占い、やりたいのか」


カムイが言った。


「えっ」


「……興味あるんだろ」


「あるけど……カムイはいいの!?」


「……明日のこともある。運の流れは見といた方がいいだろ」


完全に言い訳だ。恋占いの看板を見て“明日のこと”は苦しい。

でも、言い訳でもいい。並べるなら、並びたい。


占い師の老婆は、アルティナの耳飾りを見てにやりとした。


「お揃いの耳飾りかい。ふふ、もう答え出てるようなもんだね」


「えっ、ちょっ」


アルティナが慌てる。

カムイは咳払いを一つして、なぜか真面目な顔をした。


老婆は二人の手首に、細い紐をくるりと巻く。

指先が触れそうで、触れない。触れないのに、胸がうるさい。


「ほらねぇ。相性は――」


老婆が紙片に書いた文字を見せる。


“最上”。

その横に小さく、“片方が鈍いほど長持ち”とある。


アルティナの脳内が一瞬で真っ白になった。


「……っ」


カムイが紙片を覗き込み、眉を寄せる。


「……鈍い?」


「し、知らない! 占いだし!」


アルティナは慌てて紙片を奪って畳む。

でも畳んだところで、心臓が落ち着くわけがない。


カムイは、わけが分からない顔をしたまま小声で言った。


「……長持ちなら、いいんじゃないか」


「……っ」


その一言が、ずるい。

どうしてそんな平然と言えるの。どうして“長持ち”を肯定できるの。


アルティナは悶えそうになって、氷菓子をやけくそで一口食べた。

冷たさがキーンときて、逆に落ち着かない。


次は射的屋台。

アルティナが撃つたびに、カムイが無言で銃口を直してくる。


「そこじゃない。……肩を落とせ」


「はいはい、先生」


「先生じゃない」


「じゃあ、師匠」


「……好きに呼べ」


言いながら、指がアルティナの手の上に重なる。

重なるだけ。教えるだけ。なのに――熱が走る。


一発。

大影霊の絵が描かれた板が綺麗に落ちた。


「うそ、落ちた!全然びくともしなかったのに」


「……重心を考えて撃つんだよ」


「なにそれ、かっこよ……」


言いかけて、アルティナは飲み込む。

言ったら、カムイがまた変な顔をする。変な顔をするのが可愛いなんて、言えない。


景品は小さな木彫りの犬と狼だった。

店主が笑って渡してくる。


「はいよ」


「……っ」


またペア。

今日、ペアのものが多すぎる。心臓がもたない。


アルティナが犬を手に取ると、カムイが狼を取った。

当たり前みたいに、自然に。

それだけで胸の奥がじんわり甘くなる。


さらに歩くと、似顔絵描きの屋台があった。

二人並んで座ると、描き手が目を細める。


「お、いいねぇ。距離、もっと寄って」


「えっ、ちょ、」


アルティナが抗議する前に、カムイが無言で半歩寄った。

肩が触れる。触れて、離れない。


「……こうか」


「う、うん……」


アルティナの耳元で、狼の牙が揺れて光る。

自分の犬の牙も揺れているはずだ。お揃いで。

隣の体温が、やけに現実だ。


描き上がった紙には、耳と尾を揺らしながら笑っている自分と、

少し照れた顔で視線を逸らしているカムイが描かれていた。


「……え、カムイ、笑ってる」


「……笑ってない」


「笑ってるってば。ほら、口元!」


「……描き手が勝手に」


「勝手にこんな優しい顔、描けるわけないでしょ」


言った瞬間、アルティナは“言いすぎた”と思って固まった。

でもカムイは何も言わず、似顔絵を丁寧に受け取って――アルティナの手に押しつけた。


「……持っとけ」


「え、カムイの分じゃ……」


「……お前が見たいんだろ」


さらっと言うな。

そんなこと言うなら、胸が壊れる。


アルティナは似顔絵を抱えて、小さく笑った。


「……うん。見る。ずっと見る」


カムイは返事をしない。

でも歩く速度が、アルティナに合わせてゆっくりになった。


人混みが濃くなった場所で、肩がぶつかった。

アルティナがよろけそうになった瞬間、カムイが手首を掴んだ。


「……離れるな」


低い声。

掴まれた手首が熱い。


「……うん」


カムイは掴んだまま歩いて、混み合った通りを抜けるまで離さなかった。

“安全のため”って理由は分かる。分かるのに――アルティナは勝手に別の意味を足す。

足して、膨らませて、胸が苦しくなる。

苦しいのに、やめられない。


△▼△▼△▼△


日が落ちるころ、王都は少しだけ色を変えた。


屋台の火が強くなって、人の影が長く伸びる。

遠く、神域の森の上に、薄い光が帯みたいに残っている。昼の光じゃない。夜の光だ。


アルティナは自然に足がそっちへ向いた。

カムイも黙ってついてくる。


小さな高台に登ると、風が冷たかった。

王都の喧騒が下に沈んで、代わりに葉擦れの音が近くなる。


神域の輪郭が、薄く縁取られている。

結界の光が、夜の森を抱いている。覗いちゃいけない場所が、すぐ隣にあるみたいな景色。


「……綺麗」


アルティナが言うと、カムイは短く頷いた。


「……綺麗だな」


“景色”のことを言ってるのに、胸が勝手に跳ねる。

景色が綺麗なだけなのに。分かってるのに。


アルティナは耳の飾りに指を添えた。

金属が冷たくて、すぐ温まる。


「……これ、買ってよかった」


「……そうか」


「うん。カムイも、つけてくれてるし」


「……つけられただけだ」


「これからもつけていてね」


「……外す理由がない」


淡々と言って、カムイは視線を森に戻した。

逃げた。逃げたのに、耳の先が赤い。――今度も、たぶんじゃない。


アルティナは少しだけ近づいた。肩が触れそうな距離。

風が吹いて、カムイの髪が揺れた。狼の耳が、ぴく、と動く。

アルティナの犬の耳も同じように動いて、自分の鼓動を拾う。


「……ティーナ」


カムイが、ぽつりと呼んだ。

名前の呼び方が、いつもより静かだった。


「なに」


「……明日、神域に入る」


「うん」


「……怖いか」


アルティナは一瞬、言葉を失った。

怖い。怖いに決まってる。初めて入った時はそれこそ死ぬかと思った。それに今度は影龍までいる。

でも今、その“怖い”を口にしたら、隣の温度が遠ざかる気がした。


アルティナは小さく笑った。


「怖いよ。……でも、逃げない」


「……無理するな」


「無理してない。レオフィーナさんがいるし……カムイもいる」


二回目。

同じ言葉を夜に言うと、もっと重くなる。


カムイがゆっくりアルティナを見る。

視線が絡まって、逃げ場がなくなる。逃げないって決めたのに、息が浅くなる。


アルティナは、思わず言った。


「ねえ」


「……ん」


「……こっち向いて」


「向いてるだろ」


「ちゃんと」


アルティナはカムイの胸元の服を、指先で摘んだ。

自分から触れたのに、触れた指が震える。


カムイが息を呑む音がした。

狼の尾が、ゆっくり揺れる。


近い。

このまま――って、頭が勝手に言う。

アルティナは目を閉じそうになった。閉じたら、もう止まれない気がした。止まりたくない。


カムイの手が、アルティナの指に重なる。

掴むほど強くない。逃げないように押さえるだけの力。


「……ティーナ」


呼び方が、さらに低い。

アルティナの胸が、きゅっと鳴った。


――来る。

来る、って確信した。


なのに。


カムイが、真面目な声で言った。


「……寒いか。手、冷えてるぞ」


「……え」


アルティナの頭が止まる。


カムイは自分の外套を外して、アルティナの肩に掛けた。

丁寧に、逃げないように、包むみたいに。


「……風が冷たくなってきたな。明日体調崩したら困る」


「……困るの?」


「困るだろ。……お前が」


さらっと言うな。

そんなこと言うなら、今ここで倒れてしまいそうだ。


アルティナは外套を握りしめて、顔を上げる。

キスかと思ったら外套、って何。

でも外套の温かさが、カムイの体温みたいで、逆に悶える。


「……じゃあ」


カムイが、少しだけ言いにくそうに続ける。


「……そろそろ、宿に戻るか。明日も朝が早いからな」


「……う、うん」


笑顔が崩れそうで、アルティナは唇を噛んだ。

でも、外套の重みが優しすぎて、怒れないのも悔しい。


「……戻る。戻るけど……」


「……?」


アルティナは意地悪く、わざと小さく言った。


「この騒動が無事に終わったら――“続きを”してもいい?」


カムイが固まった。


「……つづき?」


その顔。

その顔が、ずるい。世界で一番ずるい。


アルティナは頬を膨らませたまま、言い切る。


「……分かんないなら、いい!」


「え……いや、待て」


待てって言うなら、分かって。

でもカムイは真面目に眉を寄せたまま、ぽつりと答えた。


「……無事に戻る。……それが先だ」


先、って言った。

先があるって言った。

アルティナの胸が、じわっと甘くなる。甘くなって、また苦しい。


「……うん。じゃあ、先に“無事に戻る”ね」


「……ああ」


その返事だけで、今夜は少しだけ眠れる気がする。

神域で光の線がいくつか走った気がした。


△▼△▼△▼△


宿に戻る道は、昼より暗かった。


灯りが増えて、人の顔が影になる。

その影が少し怖い。明日のことを思ったせいだ。

でも、隣にカムイがいると怖さが薄くなる。外套が温かいせいでもある。


宿の廊下は静かだった。

食堂の笑い声が下から薄く上がってくる。扉の隙間から焼けた肉の匂いが少しだけ漂う。


アルティナの部屋の前で足が止まった。


「……じゃあ」


カムイが言う。いつもの“じゃあ”の音。別れの音。


アルティナは扉の取っ手に手をかけたまま、動けなかった。

さっき“続きを”って言ったのに。

勝手に期待してしまうのが、いけないのに。


耳の飾りがかすかに揺れて光る。

カムイの耳の飾りも同じように揺れて――お揃いだ。お揃いなのに。


アルティナは喉の奥の熱を押し上げる。


「……ねえ、カムイ」


「……ん」


「……中で、お茶、飲む?」


言ってしまった。誘い方が下手すぎて、自分で自分を殴りたい。


カムイが一瞬だけ目を瞬かせる。

それから眉を寄せた。


「今からか?」


「……うん。少しだけ」


「……明日早いんだぞ」


「分かってる。ちょっとだけ……」


“ちょっとだけでも近くにいて”って言えたら、どれだけ楽だろう。

でも言えない。言ったら全部崩れそうで怖い。


カムイは少しだけ黙った。

その沈黙がアルティナには長すぎて、心臓が痛くなる。


やっぱり、だめか。

また、だめか。


そのとき、カムイが手を伸ばしてきた。

アルティナの頭の上――耳の付け根に、そっと触れる。


「……ちゃんと寝ろよ」


掌が温かい。撫でるみたいな、乱暴じゃない触れ方。

アルティナの胸がまた熱くなる。熱くなるのに、その熱が行き場を失う。


「……それと」


「……え」


カムイは少しだけ視線を逸らしながら、付け足す。


「……任務が終わったら……お茶をいただくよ」


「……っ」


今言う?

今言うの?

それ、約束ってことでいいの?

そう言うことだよね?


アルティナの思考が加速していく。加速して、加速して……


アルティナの思考が加速していく。加速して、加速して――


いける。

さっきはだめだったけど……。

今なら、してくれるかもしれない。目を閉じたら、きっと――。


アルティナはカムイの顔を見て、そっと目を閉じた。


心臓の音が、今日いちばんうるさくなる。


そして――。


「じゃ、おやすみ」


カムイはそう言って自室へ帰っていく。


「え、ま――」


呼び止めた声が廊下に小さく落ちる。

カムイは振り返らない。振り返らないまま少しだけ手を上げて、角を曲がっていった。


アルティナはその背中が消えるまで、動けなかった。


扉の取っ手を握りしめた手が痛い。

尻尾が、ぴたりと止まっていた。耳が少しだけ後ろに倒れる。


「……ここまで……鈍いの……?」


呟いて、すぐ後悔する。

鈍いんじゃない。優しくて、真面目で、明日のことを考えてるだけ。分かってる。


分かってるのに胸がもどかしくて苦しい。

苦しいのに、明日になったらまた隣に立ちたくて。


部屋に入って扉を閉めても、廊下の冷たさが残っている気がした。

ベッドに腰を下ろして、枕を抱きしめる。抱きしめても足りない。


高台で、あの距離で。

あの手で指を押さえられて。

あの声で名前を呼ばれて。


“寒い”で外套を掛けられるなんて、反則だ。


アルティナは枕に顔を埋めて、悶えるみたいに小さく唸った。


「……明日、絶対……“続きを”分からせてやる……」


何を、とは言わない。

言ったら最後、崩れる気がするから。

でも――少しぐらい、意地悪してもいいよね。


意地悪しないと、溺れそうだから。


窓ガラスに耳元を映す。犬の牙が揺れている。刻印が光る。

お揃いだ。お揃いなのに。


窓の外には、神域の薄い光。

遠くの森が、夜のまま呼吸している。


アルティナは指で自分の飾りを押さえた。


「……無事に戻って、お茶を飲んで、それから……」


それから、の先を想像して、また熱くなる。

熱くなって、眠れなくなる。


夜は、意地悪なくらい長かった。

カムイの手の温度と、外套の重みだけが何度も蘇って、そのたびに胸が甘く痛む。


△▼△▼△▼△


翌朝。


アルティナは鏡の前で、耳の飾りをちゃんとつけ直した。


外套も丁寧に畳んだ。

返すのが惜しい。返さなきゃいけないのに、返すのが惜しい。


廊下に出ると、眠れなかった分だけ目が重い。

でも足取りは軽い。軽くない。軽いふり。


一階へ降りる途中で、カムイの声が聞こえた。

他の冒険者と短く言葉を交わしている。いつも通りの声。


アルティナは息を吸って、食堂の空気の中に入った。

硬い空気。武器の匂い。

昨日の屋台の甘い匂いが嘘みたいに遠い。


カムイがこちらに気づいて、いつもの調子で言った。


「ティーナ――」


その瞬間、アルティナの胸の奥がじくじくする。

怒ってるわけじゃない。

でも昨日の約束を、あの鈍さで忘れてそうなのが腹立つ。


アルティナは、顔を向けなかった。


「……」


返事をしないまま、カムイの横を通り過ぎる。

尻尾が揺れない。揺れないよう力を込める。揺らしたら全部ばれるから。


背中に、困惑の気配が刺さる。


分かってる。カムイが悪いことをしたわけじゃない。

分かってるのに――分かってるだけで収まらない。


アルティナは唇を結んで、シルアとリトリーの方へ目を向けた。

助けて、って言いたい。言いたくない。

助けてほしいのに、助けてほしくない。


そのまま、アルティナは何も言わずに席を取った。

怒っている、というより――置き場のない甘さが、まだ胸に残っているだけだ。


昨日の夜の光と、カムイの手の温度と、

“戻ったら茶を飲め”という約束の言い方が、消えてくれないから。


そしてアルティナは、決める。


今日は影でも龍でもなんでもいいから真っ二つにして。

無事に帰って――今度こそ。


鈍い狼を分からせる。

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