第一章・第十六話 匂いが薄れる前
王都へ向かう街道は、途中から匂いが変わった。
湿った土と、獣の毛と、香草の青さ。
風が運ぶのは森の気配だけじゃない。人の数――生き物が密になる匂いだった。
遠くに見えた城壁は石じゃなくて、木だった。
太い幹が折り重なり、編まれて、壁になっている。枝先には鈴みたいな実がぶら下がり、歩哨の槍先がその間を縫って揺れる。
門の上に掲げられた紋章は、牙と角。
獣王連邦ガゼルの、王都。
入る瞬間だけ、視界の端で森が“もうひとつ濃く”見えた。
王都の横に広がる神域――結界に覆われた森の輪郭が、光に薄く縁取られている。
覗いちゃいけないものを、うっかり覗いたみたいに喉が渇いた。
△▼△▼△▼△
門を抜けた途端、音が増えた。
足音、呼び声、笑い声。
焼けた肉の脂がはぜる音。
荷車の車輪が石畳を叩く音。
屋台が途切れない。通りは川みたいに人で流れていて、獣人の耳と尾がそこかしこで揺れている。犬、狼、猫、兎、鳥――獣の種類が違うだけで、距離の詰め方や視線の運びまで、少しずつ違う。
アルティナの尻尾が、我慢できないみたいに左右へ大きく振れた。
「……すごい。やっぱり王都は人の量が違うね。美味しそうな匂いもするしお腹空いてきたー」
「匂いで腹鳴らす前に、まずは治療だろ。その傷一回観てもらえ」
「だいじょうぶ! たぶん!」
「“たぶん”を信用できるほど、俺は器用じゃない」
カムイの声はいつもより低い。
神域が見える距離に来たせいか、言葉の端が少し硬い。
レオフィーナは先頭で歩きながら、軽く振り返った。
「宿は押さえてある。一旦荷物を置いて、それからだね」
△▼△▼△▼△
受付に案内される間も、レオフィーナには視線が刺さっていた。
王都の冒険者も、兵士も、店の人間も――金獅子を見て、少しだけ道を譲る。敬意というより、最初から距離の取り方が決まっている避け方だ。
そういえばリトリーもレオフィーナを知っている口だった。
国の外にまで名が行き届くなんて普通じゃない。
「ねえリトリー。レオフィーナさんが強いのは分かったけど……そんなに有名なの?」
「えっ!? あ、そっか。ごめん、ちゃんと話してなかった〜」
「前も同じことがあった気がする……」
リトリーは両手を合わせて拝むような顔をする。反省してる“ふり”が上手い。
「“ガゼルの金獅子”って呼ばれててね。ガゼルで一番強い人。どんな相手でも真正面から斬り伏せるんだって」
「また大事なことを……次からはおやつ抜きだからね」
「そんなぁ〜」
部屋に荷物を置き、階段を下りるとき。
レオフィーナが立ち止まって言った。
「これから上の人たちと王都側で集まりがある」
「作戦会議?」
リトリーが身を乗り出す。
「ああ、そうだ。細かいことは、あたしが持ち帰るから」
レオフィーナは親指で外を示した。
「だから、あんたたちは――街でも見ておいで。これから大変だろうし、休むのは重要なことだからな」
アルティナが目を丸くする。
「え、ほんとに散策してていいの?」
「いい。……ただし揉めるなよ。変に目立っちゃ困るから」
「はーい!」
「返事が軽いー」
「軽い方がいいでしょ? 沈んでたら楽しめるものも楽しめないし!」
リトリーが笑って、私の肘をつつく。
「さっそく屋台を回らない?美味しそうなものたくさん見えたし」
「ほんとすぐそれ……」
レオフィーナは一拍置いて、口元だけで笑った。
「どうしても揉めるなら、向こうが先に手を出した時だけにしときな」
「それは揉め事じゃん」
リトリーが即座に突っ込む。
レオフィーナは肩をすくめて、次にルネアへ目を向けた。
「お前はどうするんだ?」
ルネアがにこっとする。
「迷うけど、今はフィーナちゃんについてくよ〜」
ルネアはそう言ってレオフィーナの腕に抱きつく。
レオフィーナの笑いが、一瞬だけ薄くなる。
「……好きにしろ。ただ、勝手に消えるなよ」
「はぁい」
ルネアは軽く跳ねて、レオフィーナの髪に埋もれる。
ガゼルの最強の目が死んでいる。
「じゃあ――」
レオフィーナが私たちを見渡す。
「明日、朝一で呼ぶ。宿にいなかったら置いてくからね」
「置いてかないでよ!」
アルティナが即答する。尻尾が不安と期待で忙しく動く。
レオフィーナは手をひらひらさせて背を向けた。
金髪と獅子の尾が、人混みにすぐ溶ける。
ルネアが振り返りざま、私に小さく手を振った。
「いっぱい食べて寝て、大きくなるんだぞー」
……知ってるみたいな言い方だった。
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結局、私たちは四人で大通りへ出た。
リトリーはもう首を左右に振って、屋台の匂いを追っている。
「ねえ、あれ! 串焼き、なんか光ってない?」
「脂が光ってるだけだろ」
「でも、光ってるってことは美味しいってことだよね?」
「理屈が飛んだ」
アルティナも鼻をひくつかせて、屋台の前で止まった。
「これ、鹿肉? 香草の匂いが……」
屋台の男が笑って、鉄板を叩いた。
「鹿じゃなくて、森牛だね。神域の縁で育つやつだ。結界の影響か、肉が締まってんだ」
“神域”という言葉がさらっと出る。
それだけで、この街では異常が日常のすぐ隣に置かれているのだと分かる。
リトリーが即座に言った。
「四本ずつください! えっと、辛いのと、甘いソースのやつ!」
「甘いソース?」
アルティナの目が輝く。
「甘い!?」
「蜂蜜と木の実、だよ」
男が言って、鍋からとろりとした黄金を垂らした。
甘い匂いが鼻に刺さって、私の胃が小さく鳴る。
……恥ずかしいから、誰にも言わない。
串を受け取って一口。
熱い。甘い。香草が遅れて舌の奥に来る。
脂が重いはずなのに、口の中でほどけて、さらっと消える。
「……やば」
アルティナが小さく言って、尻尾がぶんっと振れた。
リトリーが頬を押さえて唸る。
「おいしい……王都、反則……」
「まだ一軒目だぞ」
カムイが言いながらも、自分の串を一度だけ眺めてから食べた。
アルティナが横目で見る。
「カムイ、ちゃんと噛んでる? 飲み込んでない?」
「……噛んでる」
「ほんとに?」
「……ほんとうだ」
「じゃあ、もう一口。私のあげる、あーん」
「なんでお前のなんだよ」
「私がいいんだからいいの。はい、あーーん」
「……」
カムイが黙って視線を逸らす。
アルティナはさらに近づける。
「ほらほらほら」
「……っ」
ふっと諦めたみたいに、カムイが一口だけ食べた。
「……うまいな」
「うん!」
勝った、みたいにアルティナの尻尾が揺れる。
二人のいつもの攻防が始まって、少しだけ安心した。日常の匂いが、まだここに残っている。
△▼△▼△▼△
次の屋台は、焼いたパンに香辛料と刻んだ野菜を挟むものだった。
「これ、口の中燃えるやつだ」
リトリーがニヤニヤする。
「燃えないやつにして」
「じゃあ、燃えるやつ二つ」
「聞いてない」
果実を凍らせた氷菓子も買って、歩くたびに手が塞がっていく。
リトリーは途中、空に手を伸ばして小さな布を掴み取った。
どこにも掛けていないはずの布が、指先に“落ちてきた”みたいに現れる。
「はい、手拭き。油すごい」
「……ありがとう」
「ほらほら、アルティナも」
「私も!?」
アルティナが笑いながら受け取る。
カムイも無言で受け取り、少しだけ目を逸らした。
「……便利だね」
私が言うと、リトリーは得意げに胸を張った。
「普段使いなら、私のが最強だからね。シルアも、ほっぺ光ってる」
「光ってない」
「光ってる」
「光ってないって」
「じゃあ触るー」
「触らないで」
結局、リトリーは触ってきた。
指先が冷たくて、油の匂いが少しだけ薄くなる。
このまま時間だけ溶ければいいのに、と思った。
でも神域はそこにある。見上げれば、遠い森の上に薄い光がかかっている。
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しばらく歩いて、広場に出た。
中央に大きな木が一本立っていて、枝に無数の小さな札が結ばれている。
願掛けの札。揺れるたび、乾いた音が鳴る。
その木の根元に、小さな露店があった。
細い革紐と、爪や角の形をした留め具。お守りみたいな飾りが並んでいる。
アルティナが足を止めた。
「……これ、可愛い」
「買うか?」
カムイの声が、思ったより柔らかい。
アルティナの尻尾が、ぴんと立つ。
「買ってくれるの?」
「……欲しいなら」
「ほ、欲しい……!」
言った直後にアルティナが自分で照れて、咳払いみたいに笑った。
「じゃ、じゃあ……これ」
アルティナが指さしたのは、同じ形が二つで一組になっているものだった。
片方は犬の牙、片方は狼の牙。留め具の刻印が、同じ模様で揃っている。
「ペア……?」
リトリーが私の耳元で囁く。
「ね。ね。これ……」
私は頷いてしまった。
頷くしかない。
アルティナがカムイを見上げる。
「一個じゃなくて、二個なんだけど。……どうする?」
カムイが少しだけ眉を寄せる。
考えている顔。戦場で指示を出すときの顔に似ている。
「……二つ、要るのか」
「……うん」
アルティナの声が小さくなる。
普段の距離の近さが、急に怖くなったみたいに。
私はリトリーの袖を掴んだ。
「……行こう」
「え、今?」
「飲み物、買おう」
「……あ、うん! そうだね!」
リトリーがわざと明るく言って、私たちは広場の端へ歩いた。
二人きりにするための、下手な言い訳だった。
「私たち、今――」
「うん、今、消えた」
「消えたね」
屋台の湯気の向こうで、アルティナが何か言っている。
カムイが短く返している。
リトリーが私に小声で言う。
「……これで進展したらいいね」
「……するでしょ」
「進まな方がおかしいしね」
二人で同時に息を吐いた。
私の胸の奥も、同じ速度で沈んでいく。
日常の匂いが薄れるとき、いつも何かが削れる。
――削れても、止まれない。そう思う自分が、少し怖い。
△▼△▼△▼△
夕方まで、王都を歩いた。
武具屋の通りは刃の匂いがした。
鍛冶の熱、油、研ぎ粉。
そこに混じる祈り札の紙の匂い――剣が命の世界で、剣は祈りにもなる。
市場の奥には、薬草の露店が並び、白い粉や乾いた葉が小さな瓶に詰められていた。
“影”に効く、と書かれた札がいくつもあって、私は目を逸らした。
ガゼルで影霊は少ない。
ましてここは王都だ。それなのに影霊に対するものがいくつも売られている。
そこだけがなんだか日常から遠いと感じる。
日が落ちるころ、宿に戻った。
レオフィーナとルネアはまだ帰っていなかった。
食堂の灯りが揺れて、人の笑い声が窓から漏れる。
私は部屋の窓を開けた。
遠く、神域の森の上に、薄い光が帯みたいに残っている。
空の端に、ほんの一瞬だけ細い線が走った気がした。
見間違いだと、言い切れなかった。
△▼△▼△▼△
翌朝。
宿の一階に降りると、すでに人が集まっていた。
知らない顔の冒険者たち。武器の種類も、耳や角の形も違う。
空気が硬い。昨日の屋台の匂いが、嘘みたいに遠い。
レオフィーナが壁際に立っていて、腕を組んでいる。
隣にはルネア。昨日と同じ、楽しそうな笑み。
そして。
アルティナが、なぜか不機嫌そうに立っていた。
尻尾が揺れていない。耳が少しだけ後ろに倒れている。
カムイが近づき、いつもの調子で言った。
「ティーナ――」
アルティナは、顔を向けない。
「……」
「……おい」
無視。
カムイが固まる。
眉を寄せて、状況が理解できない顔になる。
「……何かしたか、俺」
「……」
アルティナはカムイの横を通り過ぎて、私とリトリーの方へ来た。
視線だけ寄越して、口を結ぶ。
リトリーが私の耳元で囁く。
「……あー……」
「……うん」
「失敗しちゃったんだ……」
「……私たちも悪いかな」
カムイがこちらを見る。助けを求める目。
でも私たちも、助け方が分からない。
そのとき。
「愛っていいよね〜」
声が、すぐ横から聞こえた。
いつの間にかルネアが、私とリトリーの間に立っていた。
距離が近い。
肩が触れそうなのに、気づかなかった。
リトリーが一瞬だけ目を見開き、すぐに眉をひそめる。
「……びっくりしたー。急に何?」
ルネアがにこにこする。
「ああいうの。噛み合ってないのに、噛み合いたい感じ。胸の高鳴りが止まんないね〜」
レオフィーナが、咳払いみたいに短く息を吐いた。
「ルネア。勝手に動くな、早く戻れ」
「あはは、はぁい」
ルネアは素直に一歩引いた。
引いたのに、視線だけは二人を挟んだままだった。
レオフィーナが前へ出る。
「揃ってるね。じゃ、行くよ」
扉が開き、外の冷たい空気が流れ込む。
私たちは列になって、王都の中心へ歩き始めた。
アルティナはカムイの隣を避けるように、少し前を歩く。
カムイは、それについていくしかないみたいに歩く。
一歩ごとに困惑が増えていくのが、背中から分かった。
△▼△▼△▼△
会議場は、王都の奥にあった。
石と木で組まれた大広間。天井が高く、柱に獣の紋が彫られている。
空気が冷たい。人の数が多いのに、熱がない。
長机の向こうに、鎧を着た者たちが座っていた。
兵士というより、国の顔。言葉の重さで殴ってくる種類の人間。
壁には地図が貼られている。
神域の森。影のように塗られた箇所がいくつも増えていた。
レオフィーナが机の端に立ち、顎で示す。
「――昨日までの報告は、これ」
黒い印が、森の縁から内側へ伸びている。
点じゃない。筋だ。広がり方に、意志があるように見える。
「影霊の群発が増えてる。融合体――影獣、影龍。核を潰さないと止まらない」
彼女の声が、広間に落ちる。
軽い口調なのに、言葉が沈む。
鎧の男が言った。
「結界の維持班からも報告がある。昨夜、結界が一瞬“揺れた”」
ざわめきが走った。
揺れる。それは、守られている前提が崩れる音だ。
レオフィーナが続ける。
「揺れた原因は……まだ掴めてない。けど、昨晩もあたしとこいつで何十体か減らした。まだしばらくは大丈夫なはずだ」
ルネアが隣で、楽しそうに小さく頷いた。
その頷きが、妙に合っていなくて、背中が冷える。
レオフィーナは私たち――冒険者側を見た。
「今日ここに集めたのは、手を貸してもらうためだ」
「森の中へ、入るんですか」
誰かが聞く。
「ああ、入る。ただし奥までは行かない。結界の内側、入ってすぐのところで影獣、影龍の数を減らしてもらう」
レオフィーナの視線が地図の黒い筋をなぞる。
「時間がない。龍は結界を出られないが影霊は別。影龍の”影”の部分が結界を出たという報告もある」
影龍の影が外に出た。
その言葉の後ろにあるものを、誰も言わない。言えない。
アルティナが唇を噛んだ。
カムイが息を飲む音がした。
リトリーが小さく、私の手の甲に指を触れた。
大丈夫、みたいに。
でも、その指先も少し冷たい。
レオフィーナが最後に言った。
「――作戦は今から詰める。班分け、持ち物、撤退線。全部決める」
そして、ほんの少しだけ声を落とした。
「……生半可な気持ちで来たやつは、ここで帰れ。あたしは守りきれない」
広間の空気が、さらに一段重くなる。
屋台の匂いは、もうない。
私は、神域の地図の黒い筋を見たまま、息を吸った。
日常の匂いが薄れるとき、いつも何かが削れる。
でも、止まれない。
レオフィーナが机の上の札を指で弾く。
「じゃ――始めるよ」




