第一章・第十五話 影混
影獣の突進が、アルティナの目の前まで迫る。
影が槍みたいに尖り、脇腹へ届く角度で伸び――
アルティナは、逃げ道ごと押し潰される位置まで追い込まれた。
その瞬間。
森の空気が、ひゅ、と一段軽くなった。
足音はあるのに、音が散らない。
枝を踏んだはずなのに、葉擦れが追いつかない。
――速い。
金色が視界の端を裂いた。
長い髪。陽だまりみたいな金。
髪の間から、獣の耳――獅子の耳が覗く。
次いで、剣。
一閃。
影の尖りが、途中で“ほどけて落ちた”。
黒い糸が空中で千切れ、霧になって消える。
同時に、突進してきた影獣の額から胴へ、まっすぐ裂け目が走った。
肉が裂けたというより、肉の上に貼り付いていた影が剥がされていくかのよう。
刃が通った瞬間だけ、世界が一瞬、明るく見えた。
裂け目の前に、ひとりの女が立っている。
立ち姿は堂々としているのに、威圧でねじ伏せる気配はない。
金髪が背中で揺れ、獅子の尾が、ゆっくり一度だけ動く。
琥珀じゃない。もっと強い金の瞳。
見られると、呼吸の癖まで読まれそうな目だ。
女が、剣を軽く返して言った。
「あんたたちが苦戦するなんてね、まあ初見だと厳しいか」
森の影がほんの僅か、縮む。
影が――この人を怖がっているみたいに。
カムイが息を呑む。
「金獅子……!? ――レオフィーナさん……!」
珍しく声が張った。驚きがそのまま漏れている。
リトリーは目を見開き、口を開けたまま固まる。
「え、うそ……金獅子ってガゼルの金獅子!?それって確かーー」
言い切る前に、影獣が吠えた。
裂けた胴が、ありえない速さで“埋まる”。
切れたはずの黒が粘って、縫い直すみたいに戻る。
剥がれ落ちた影も、地面に落ちる前に霧になって、影獣へ吸い込まれていった。
――まだ、生きてる。
影獣は止まらない。怒りの塊みたいに重さを増し、再び突っ込んできた。
「……しつこ」
レオフィーナが笑う。けれど目は笑っていない。
「下がって」
軽い声なのに、逆らえない圧がある。
アルティナが一歩出かけて止まり、唇を噛んだ。
カムイも剣を握り直す。割って入りたい気持ちが顔に出ている。
リトリーが一歩下がりながら、私の袖を掴んで小声になった。
「シルア……あの人、ほんとに……」
「見て」
私はそれだけ返した。
影獣の突進。
レオフィーナは正面で受けない。
避ける――だけでもない。
ほんの半歩、ずれる。
体の角度が少し変わっただけで、影獣の重さが空を切って通り過ぎた。
影獣が通り過ぎた“あと”に、レオフィーナがいる。
剣が短く走る。
狙いは肉じゃない。影と肉の縫い目――貼り付いた境目だ。
黒い皮膜がざくりと剥がれ、影獣が吠える。
吠え声が途中で湿った布みたいに潰れるのは、影が音を吸っているからだ。
影獣が爪を振る。
黒い爪が空気を裂き、レオフィーナの肩口を掠めた。
血が出る――はずだった。
黒い筋が肩に残り、冷えが染み込むように広がる。
肩の動きが、ほんの一瞬だけ鈍った。
「……っ」
アルティナが息を呑む。
次の瞬間。
レオフィーナの肩が、掠める前に瞬時に戻る。
黒い筋が、なかったことみたいに薄くなる。
レオフィーナは何事もなかった顔で剣を振り、影の腕を切り落とす。
「……やはり、これも同じだな」
独り言みたいに言いながら、影獣の動きの“癖”を読む。
その癖に合わせて半歩、半歩。
踊るように避け、剣だけが影のあらゆるところを割いていく。
影獣の背後で、倒木の影がぬるりと膨らんだ。
黒い腕が一本、二本と伸び、地面の影まで引きずり出そうとする。
私は息を吸う。
「ねえ!」
私が声を上げると、彼女は視線だけでこちらを見た。
「ん?」
「倒木の影の中、たぶんそこに核がある!」
レオフィーナが楽しそうに口角を上げる。
「オッケ。じゃ、そこ叩けば終わりね」
影獣が突進する。影の腕が増える。
今度はレオフィーナの足首、膝、腰――黒い糸が絡みつき、引き戻そうとする。
「……邪魔」
レオフィーナは糸を切る。
切っても戻る。戻って絡む。冷えが増す。
それでも彼女は倒木へ向かって歩く。
攻撃を“受けながら”歩く。
影獣の爪が背中を裂く。
黒が跳ね、レオフィーナの外套が裂ける。
――次の瞬間、裂けた外套が裂ける前の形へ戻っている。
受けたはずの傷も何もかも。彼女の周りは完全を保ち続ける。
カムイが小さく呻いた。
「……相変わらず無茶苦茶だな」
アルティナが悔しそうに奥歯を噛む。
「……また……」
レオフィーナは倒木の影の前へ辿り着く。
影の中は暗い。光が沈む。
奥で、黒い球が脈打っている。
――核。
影獣が最後の突進をする。
全身を捨てる勢いで、レオフィーナごと倒木へ叩きつけようとした。
影の槍が腹へ刺さる。
冷えが外へ漏れる。
それでもレオフィーナは振り向かない。
「邪魔って言ったでしょ」
言いながら、刺さった影の槍を握って引き抜く。
黒が指に残るのに、それもすぐ薄くなる。
そして、核へ一歩。
剣を、まっすぐ落とした。
一閃。
金色の線が影の中を走り、核が“息を止めた”かのように黙った。
割れる音はない。
代わりに、世界のどこかの緊張がぷつりと切れた。
倒木の影が、ただの影になる。
伸びていた影が戻る。
冷えた匂いが薄れ、森の匂いが戻ってきた。
影獣の体が、その場で止まった。
黒い皮膜が剥がれ落ち、肉が露わになり――肉ごと、土に溶けるみたいに崩れていく。
最後に残ったのは、普通の獣の骨ですらない、黒い霧の名残だけだった。
風が吹き抜ける。
霧が散る。
△▼△▼△▼△
レオフィーナが剣を鞘に収める。
その所作まで迷いがない。
アルティナが息を吐いてから言った。
「……その…助かった。ほんとに。……でも、どうしてここに?」
レオフィーナは肩をすくめる。
「理由? 仕事だよ」
「仕事?」
リトリーが首を傾げた。
レオフィーナは森の奥――王都の方角をちらりと見て、少しだけ声を落とす。
「神域でも出たのさ。影霊と……龍がくっついたやつがね」
その一言で、背中が冷たくなる。
「……神域で?」
私が聞き返すと、レオフィーナは頷いた。
「ここで見たのは“影霊と獣”。神域のは“影霊と龍”。格が違う。でかいし、飛ぶし……何より核を潰さないと死んでくれない」
「……核」
影霊や大影霊にそんなものは無かった。
「そ。こいつら融合体は明確に核があんの。さっきもそれっぽいところ斬りまくってたけど、そこのお嬢ちゃんが教えてくれなかったらもう少し長引いてたかもね」
アルティナの耳がゆっくり立つ。
「……神域の中でって、それってまずいんじゃ」
「だから、大規模に調査することになったわけ。王都主導でね」
カムイが低く言う。
「……上級冒険者を集めてる、ってことか」
「そ。各町を回って、腕の立つのを拾ってる最中。で、せっかくだからあたしがあなたたちがいる街にも顔出したってこと」
レオフィーナが、二人を見て笑う。
「……少しは強くなった?」
アルティナの尻尾が静かに揺れる。
「なった!……って言いたいけど、たった今助けられちゃったし……」
「あんなのといきなりやったらしょうがないわよ」
レオフィーナが笑う。
リトリーが私の方へ小声で言った。
「え、待って……神域の異常って、つまり国の案件じゃん……」
私は頷く。
ここで起きている異常が、神域でも起きている。
日常の匂いが、少し遠のく気がした。
「……一度、街に戻ろ」
アルティナが言った。
声に震えが残っている。それをいつもの明るさで隠そうとしている。
「報告もしなきゃだしな。それよりティーナ、大丈夫か?」
「大丈夫。……たぶん」
アルティナは笑う。
でも脇腹の傷の周りだけ、影の冷えがまだ皮膚の下に残っていた。
レオフィーナがそれを一瞥し、
「帰り道で抜ける」
と言った。
断言に近い口調だった。
△▼△▼△▼△
協会は相変わらず騒がしい――はずなのに。
レオフィーナが入った瞬間、ざわめきが一段落ちた。
視線が集まり、空気が勝手に道を作る。
受付の女が固まり、慌てて頭を下げる。
「……金獅子、さま……」
「“さま”はいらないいらない。疲れるちゃうから」
レオフィーナが手をひらひらさせ、報告を促した。
影霊の特異例。
核の存在。
破壊で消滅。
必要なところだけが紙に落ちていく。
職員の手が、微かに震えていた。
手続きが終わったところで、レオフィーナが言う。
「この街、他に腕の立つ冒険者いる?」
職員が口を開きかけて詰まる。
目が泳ぎ、周囲を探した。
アルティナが先に言った。
「正直……今ここにいるのが上の方。すぐ呼べる人は、あんまりいないと思う」
カムイが顎で私たちを示す。
「人数が要るなら、こいつらも使えるぜ。……シルアとリトリー」
急に名前を出され、心臓が一拍遅れた。
リトリーは「え、今!?」みたいな顔をしてから、すぐ背筋を伸ばす。
「……行くかどうかは、話を聞いてからだけどね」
私は息を整えて言う。
「……私も。状況次第」
レオフィーナが私たちをじっと見た。
金の瞳が、皮膚の内側まで覗くみたいにまっすぐくる。
「さっきは助かったよ。シルア、核を見抜いたよね」
「……あれはたまたま」
「ふぅん」
レオフィーナは小さく頷く。
「リトリーだよね、直接致命打を与えられるよな能力じゃないけどティーナとカムイが推すなら――足りる」
足りる、という言葉が重い。
“足りないなら切る”という意味が、そのまま裏に張り付いている気がして喉が渇く。
アルティナが私とリトリーを見る。
「……どうする?」
リトリーは笑って、いつもの軽さを無理やり作った。
「行っちゃう?こういうの、放っとけないし。――それに王都って屋台多そうじゃん?」
「そこ?」
私が言うと、リトリーは胸を張る。
「そこ超大事!」
カムイが短く息を吐く。
「……お前らしいな」
私は少しだけ考える。
ここで起きた“影霊と獣”が、神域の“影霊と龍”に繋がっているなら。
知らないふりをしたら、きっと後で後悔してしまう。
「……行く」
私が言うと、アルティナの尻尾が嬉しそうに揺れた。
「うん。じゃあ一緒に行こ!」
レオフィーナが手を叩く。
「決まり。明日の朝、出るよ。遅れたら置いてくからな」
軽い言い方なのに、本当に置いていきそうな口調だった。
△▼△▼△▼△
出発の話がまとまった、そのとき。
リトリーが、ふと思い出したみたいに言った。
「あ、そうだ。今朝協会でさ、龍核売ってた白銀の髪の人、いたじゃん」
空気が、また少しだけ変わる。
私の胸の奥がざわついた。
淡い銀。
蜂蜜みたいな金瞳。
“近づいたら危ないかもしれない”と、身体が勝手に判断する感覚。
「神域の素材持ってるなら戦力になるでしょ? 誘ったらよくない?」
アルティナが少し困った顔をする。
「でも、なんだか怪しい人だったよ?登録前から龍核持ってたし」
「国の一大事かもしれないんだよ?そんなこと気にしてる場合じゃないよ」
リトリーは言い切った。
私も思う。
――あの後、どこへ行ったんだろう。
その瞬間。
「もしかして私を探してる?」
教会の入り口から透き通った声が聞こえてくる。
全員の視線が、そこへ吸われる。
白銀の髪を靡かせながら彼女はにこっと笑って、受付の前まで歩いてきた。
周囲がざわつくのに、本人だけが気にしていない。
「私、ルネア。よろしくね!……面白そうな話してたから、つい聞いちゃった」
リトリーが固まってから、慌てて手を振る。
「びっくりしたぁ! え、えっと……私リトリー! こっちがシルアで、こっちがアルティナとカムイ!よろしく!」
「あはは、驚きすぎだよ〜、フィーナちゃんも久しぶり〜」
ルネアが楽しそうに言う。
「……ああ、久しぶりだな」
レオフィーナはどこか浮かない顔をしながら答える。
私はルネアを見たまま、慎重に言葉を選んだ。
「……神域の調査のために人手がいるの。一緒に来てくれない?」
「ちょーさねぇ……」
ルネアの目が細くなる。
蜂蜜みたいな色が、揺れない。
「影霊と龍の融合体……影龍かぁ。……それはきっと、楽しくて面白くなるんだろーなぁ」
面白い。
その言い方が、どこかで聞いた癖と似ていて、胸がひやりとした。
ルネアはレオフィーナを見る。
「フィーナちゃんが仕切るの?」
レオフィーナは肩をすくめる。
「仕切るってほどじゃない。まあ似たような立場だが」
「ふぅん。じゃ、私も行くー」
ルネアがあっさり言った。
アルティナが目を瞬かせる。
「え、即決……?」
「即決の方がいいでしょ。悩んでるだけ時間の無駄なんだから」
ルネアは笑う。
カムイが低く言う。
「レオフィーナさんと知り合いらしいが……素性は?」
「素性? 冒険者だよー」
ルネアが冒険者証をひらっと見せた。
さっき作ったばかりの、新しい札だ。
レオフィーナが一度だけルネアを見て、頷く。
「別になんだっていいだろう。王都でまとめてふるいにかける。来るなら、遅れないで」
「はぁい」
ルネアが軽く返事をする。
リトリーが私の袖を引っ張って小声になる。
「ねえ……なんだかすごいことになってきちゃったね」
「……うん」
私もそう思った。
金獅子。
神域の異常。
白銀の剣士。
日常の匂いが、また少し遠くなる。
それでも。
レオフィーナが言った。
「じゃ、準備。明日の朝。王都へ」
アルティナが「よーし!」と声を上げ、尻尾を大きく振る。
カムイが「……しゃあねぇ」と呟きながら、剣の柄を確かめる。
リトリーが「王都のご飯!」と小さく拳を握る。
ルネアは楽しそうに笑っている。
私は息を吸った。
風が街の匂いを運ぶ。
湯気と火の匂い。人の声。
それが薄くならないように、と願うのに。
私は結局、危ない方へ足を向ける。
王都へ。
神域へ。
私たちは、同じ方向を見ることになった。




