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第一章・第十三話 先輩冒険者

森へ戻る道は、街の匂いが背中から剥がれていくほど、音が澄んだ。


鍋の湯気と焼けた脂の匂いが遠ざかり、代わりに湿った土、苔、若い木の青さが鼻の奥に刺さる。葉を踏む音は柔らかいのに、どこかで枝が折れる乾いた音はよく響く。森は静かだ。静かだから、こちらの呼吸が目立つ。


アルティナが先を行く。尻尾は大きくは揺れない。揺れないけれど止まりもしない。その揺れ幅の小ささが、戦いの気配を含んでいる。


カムイは横につかない。少し斜め後ろ、私とリトリーを同じ距離で視界に入る位置。視線だけが森の中を走っている。音の前の気配を拾う目だ。


リトリーは、珍しく口数が少ない。歩幅だけが軽い。身体が勝手に走りたがっているみたいに。


「……近い」


アルティナが立ち止まり、指で地面を軽く撫でた。


草が同じ方向に倒れている。土が掘り返され、木の根が露出して、そこだけ森が乱暴に扱われた痕が続く。踏み固められた獣道。枝にこすれた泥の筋。湿った温度の匂いが、重なっている。


「今朝から、何度も行き来してるね。数が多い」


アルティナの声が低くなる。


カムイが短く言った。


「いた。向こうも気づいてる」


アルティナは頷き、私たちを見回す。


「私が前。カムイは横の線を作って。リトリーは足元から崩して。シルアは援護を」


私は小さく頷いた。頷きながら、自分の指先に意識を落とす。

力を使った時の疲労が魔力を差し出しているからだとしたら。


ユズキの力を対価にした時は内側が削れる感じはなかった。

対価を選べるとわかった今ならーー。


次の瞬間、藪が裂けた。


――巨大な猪のような獣が、突っ込んできた。


硬い毛並みが土を跳ね上げ、牙が白い弧を描く。体は丸太みたいに太く、頭だけが異様に低い。突進の軌道がブレない。一直線に“潰しにくる”。


一体だけじゃない。背後にも、左右にも。木々の間から同じ重さが増えていく。


「いくよっ!」


アルティナが声を飛ばしながら、先に踏み込む。


剣が走る。派手な軌道じゃない。肩から先だけで、刃先が“当たってほしくない場所”を正確に撫でる。突っ込んできた獣が一瞬だけ首を振り、進路が僅かに逸れた。


その逸れた隙間に、カムイが滑り込む。


カムイの剣は、受けない。避けるでもない。獣の牙が届く前に、刃先が先にそこへ居る。触れた瞬間だけ、力の向きをずらす。重さが空振りする。空振りした重さは止まれず、木の幹をかすめて土に食い込む。


「リトリー!」


私が呼ぶまでもなく、リトリーは走り出していた。


低い姿勢で獣の横へ潜り、前脚――膝の外側へ、踵を叩きつけるように踏み込む。蹴るというより、体重を“当てる”。獣の重い体が一瞬だけ、支えを失う。


ぐらり、と体が傾く。


その瞬間、リトリーは反対側へ回り込み、肩に手をかけて――そのまま全身で押した。


「よいしょっ!」


軽い掛け声と裏腹に、獣が横倒しになる。倒れる音が地面を揺らす。森の葉がぶわっと舞った。


「いい崩し!」


アルティナが即座に追撃。倒れた獣の首筋に短く刃を入れ、息を止める。


だが、息を止めたと同時に、別の突進が来る。


横から。速度が速い。獣同士で“隙間”を狙ってくる。

私とリトリーのいる位置に、一直線の重さが向く。


リトリーが反射で跳ぶ。跳ぶけれど、距離が足りない。


私は息を吸う。


風を――集める。


私は目の前の枝にぶら下がった木の実を掴んだ。硬い皮。指先で握り潰すと、甘い匂いが一瞬だけ濃くなって、次の瞬間、匂いそのものが“抜ける”みたいに消える。


風の密度が変わる。

軽いはずの風が、重くなる。


私はその重い風を、獣の鼻先へ叩きつけた。


音が出た。風で音が出る。

獣の突進が、見えない壁にぶつかったみたいに跳ねる。頭が持ち上がり、牙が空を切る。勢いの行き場を失った重さが横へ流れ、木の幹にぶつかって、幹が唸る。


リトリーが着地して振り返り、目を丸くした。


「シルア、今の……!」


「前!」


アルティナの声が重なる。感想は後回しだ。


今回の獣は群れだ。あたりにはまだたくさんの気配が残っている。


カムイが横の線を作る。

剣先を“置く”だけで、獣の進路が狭くなる。

アルティナが前を削り、リトリーが足を崩し、私は風で吹き飛ばす。


一体が突進をやめ、首を振って牙で薙いだ。

横薙ぎの牙が、リトリーの腹へ届く角度。


「っ――」


リトリーは後ろへ跳ぶのではなく、前へ滑り込んだ。

牙の内側。危険な場所。けれどそこが、最短で“当たらない”場所。彼女は獣の胸元へ潜り、肘を叩き込むように突き上げた。


衝撃で獣が息を吐く。

息を吐いた分、体がわずかに浮く。


そこへ、アルティナの刃が走る。

筋肉の隙間を縫って、動きを止める。


「次!」


アルティナが叫ぶ。


カムイが踏み込む。

短い一太刀で、突進の起点――肩の筋を斬る。

獣が勢いを失い、横へよろける。


私はもう一度、風を集めて他の獣を吹き飛ばす。

対価は周りにいくらでもある。


獣の群れが一段落するまで、時間は長くなかった。

一体ずつ確実に数を減らしていく。


倒れた獣が地面に横たわり、息の匂いが薄れる。

重い足音が消え、森の音が戻る。


私は息を吐いた。

吐いた息が、少し震えている。


リトリーが額の汗を袖で拭いながら、笑った。


「ふぅー……やぁっと終わった! これ、絶対おいしいやつだよね」


「まずは周り見て」


アルティナが言う。尻尾が小さく揺れる。周囲の警戒を怠らない。


カムイが視線を落とした。


「……別の足音がある」


背中が冷たくなる。

森の匂いが、違う層を連れてくる。


葉を踏む音が、軽い。

数が多い。

そして、音が揃っている。


藪の向こう、木の間に――灰色の影がいくつも見えた。

二メートルはあろう狼の群れだ。目が光り、口が半分だけ開いている。牙が揃って白い。


「……こっちの方が厄介だね」


アルティナが、低く言った。


狼たちは突っ込んでこない。

広がる。

こちらの背後、側面、逃げ道に“線”を引く。

群れで、相手の動きを読む目をしている。


そして、最初の一体が――餌を試すみたいに、ぎりぎりまで寄ってきた。


リトリーが前に出ようとする。

アルティナが、手で制した。


「待って。誘ってる」


誘ってる。

そういう言い方ができるほど、狼の動きは計算されていた。


次の瞬間、狼が動いた。


正面の一体が跳ぶ。

跳んだのと同時に、左右の二体が地面すれすれに回り込む。

背後にいた二体が、私とリトリーの間へ“割り込む”ように滑り込む。


――裂かれる。


「っ!」


私が息を吸う。

風を――と思った瞬間、背後の気配がさらに近い。

間に合わない。距離が近すぎる。


リトリーが反射で身体を捻り、腕で受けようとする。

素手で牙は受けられない。

分かっているのに、身体が先に動く。


その瞬間、カムイの声が落ちた。


「――止まれ」


短い。鋭い。

言葉が空気を斬る。


襲いかかった狼たちの動きが、ぴたりと止まった。


跳んだまま。

踏み込んだまま。

牙を剥いたまま。

まるで時間だけを掴まれたみたいに、固まる。


私とリトリーの呼吸だけが遅れて音になる。


「……なにそれ」


リトリーが呆然と呟く。


「後で聞け」


カムイが言いながら、止まった狼へ剣を走らせた。

止まっているものは、避けられない。

刃が首筋を通り、血が細く弧を描く。


止まった狼たちが崩れ落ちる。


だが、群れは終わらない。

動きが止まったのは前の数体だけで、外側に広がった狼たちは距離を取って、次の手を選び直す。


――賢い。

カムイを警戒して様子を見る。


アルティナが、剣を下げたまま前へ出た。


「攻めてこないなら…」


彼女は手を伸ばした。

刃ではなく、空いている手。


指が、軽く握られる。


見えない力が、空気を押し固めるみたいに走った。

狼の一体が、空中で“ぎゅっ”と縮むように歪み、地面へ叩きつけられる。


「……っ」


狼が呻く前に、アルティナがもう一度指を握る。

ぐ、と押し込まれ、動きが止まる。


「今!」


カムイがそこへ斬り込む。

短い一太刀で、息の線を断つ。


リトリーが、止まった狼の“外側”へ走る。

速い。足音が軽いのに、踏み込みの圧がある。

狼が跳ぶ前に距離を詰め、顎の下を掌底で打ち上げた。


「はっ!」


打撃で狼の頭が跳ね、牙が空を噛む。

その瞬間、リトリーは肩へ体重を乗せ、地面へ叩きつけるように倒す。

倒れた狼が起き上がろうとしたところへ、踵を肋へ落とした。


“どすっ”と鈍い音。

狼の息が抜ける。


剣を使わずに狼を仕留める。


群れが、リトリーを狙い直す。

正面から一体、背後から一体、タイミングをずらして来る。

挟み撃ち。人間を裂く動き。


リトリーは逃げない。

前の狼に向かって踏み込み、わざと視線をそちらへ集中させる。

背後の狼が飛ぶ――その瞬間、リトリーが床を蹴って回転するように身を翻し、背後の狼の腹へ膝を叩き込んだ。


跳んだ勢いが自分の腹に刺さって、狼が空中で折れる。

地面に落ち、呻く。


「リトリー、左!」


アルティナの声。

リトリーが反射で身を沈める。

その頭上を狼が通り過ぎ――


通り過ぎた狼の頭が、空中で“潰れる”。


アルティナだ。

飛びかかった勢いのまま、頭が歪み、落ちる。


狼たちは、もう一度距離を取る。

獣の目が、私を見る。


二体が、同時に来る。

一体は正面、もう一体は側面。

逃げ道を塞ぐ角度。


私は、風を集める。

集めるけれど、さっきほど“重く”はしない。


今度は――薄く、鋭く。


地面すれすれに風を走らせる。

落ち葉を一枚、二枚、刃のように滑らせる。

狼の目に葉が当たるほどではない。ただ、視界の端で“何かが動く”。


その一瞬の迷いで、狼の踏み込みが半拍遅れる。


遅れたところへ、カムイの声。


「――伏せろ」


私が伏せる。

リトリーも伏せる。

その頭上を、カムイの剣が通る。


刃の音が短く鳴り、狼の息が切れる。


アルティナが、残った一体を圧で地面へ押さえつけた。

肉が潰れる音が、森の湿った音の中でやけに生々しい。


リトリーが駆け寄り、最後に踵を落とす。

動きが止まる。


静かになった。


狼の群れの気配が、森から引く。

残ったのは血と土と、汗の匂い。


私は膝の上に手を置き、息を整えた。

胸の奥の締め付けが、まだある。

けれど、立てる。今日は、止まらない。


リトリーが、息を弾ませて笑った。


「はぁ……すごいね、ガゼルの冒険者って……っていうか、カムイとアルティナ、なに今の!」


アルティナが肩をすくめる。


「後で教えてあげるから。今は、周りを確認」


カムイも短く頷く。

視線が森を舐め、危険が消えたのを確かめてから、剣を納めた。


「よし、さっさと解体して素材を集めよーぜ」


「はーい」


リトリーとアルティナが淡々と作業に取りかかる。


胸の内側がすり減るような感覚はない。

ようやく自分の力を使いこなし始めた気がする。


△▼△▼△▼△


街への帰り道、足は重かった。

でも、それは疲れというより、現実の重さだった。


戦ったあとに残る匂い。血と土と、焼けていない鉄みたいな苦さ。

森の葉の青さが、それを薄めてくれる。


街に入ると、火の匂いが迎えてくれた。

さっきよりも強く感じるのは、体が冷えていたからかもしれない。


協会で素材の処理を済ませ、換金と分配を受け取る。袋の重さが、今日の戦いの証みたいだった。

リトリーが袋を揺らし、尻尾でもあったら振っていそうな勢いで言う。


「ね。晩ご飯、豪華だよね」


アルティナが笑う。


「豪華にしよっか。今日はよく動いたし」


カムイが小さく咳払いみたいに息を吐く。


「……酒はなしだぞ。明日もあるんだから」


「えー!」


リトリーが不満げに言うが、すぐに頷く。

分かっている。分かっていて、文句を言う。


△▼△▼△▼△


晩ご飯は、熱くて、うるさかった。


鍋の湯気が目に染み、焼いた肉の脂が舌に張り付く。

食堂の笑い声が天井に溜まり、森の静けさとは別世界だ。


リトリーは食べる。とにかく食べる。

戦闘で使った分を取り戻すみたいに、躊躇がない。


アルティナは食べながら喋る。

カムイは黙って食べるが、必要なときだけ短く言葉を落とす。


「さっきの、カムイの……動きを止めたやつ! あれ何!?」


リトリーが身を乗り出す。


カムイが食事の手を止めずに言った。


「そういう能力、相手に命令通りのことをさせることができんだよ」


「え、何それ。ずるい」


「ずるくねぇ」


「ずるいよ。死ねって言ったら死んじゃうんでしょ?最強じゃん」


「そんなの使えたらさっき使ってただろ。強い命令や相手だと簡単には通らねぇんだよ」


リトリーが納得した顔をする。


「確かに」


アルティナが笑って、今度は自分の手をひらひらさせた。


「私はね、狙ったものを潰せるんだよ。まあ岩みたいなのは無理だけど」


「いや無理とか言いながら、狼潰れてたよ!」


「狼は柔らかいでしょ」


「そりゃ岩よりは柔らかいかもだけど……」


リトリーがぶつぶつ言いながら肉を口に放り込む。


「でもそんなに便利な力なら最初から使えばよかったじゃん」


たしかに二人とも私たちが狼にやられそうになるまで能力は使っていなかった。


「剣の力はね、なるべく使わないようにしているの。純粋な力と技術だけで戦えるようにね」


「確かに二人とも剣の技術すごかったもんね」


普段の戦いで能力どころか剣すら使っていないリトリーも大概だろう。


「よし、明日も依頼取ろ! 今度はもっと稼いで、もっと食べよ!」


アルティナが乗る。


「いいね。じゃあ明日は朝、協会前集合。軽く連携合わせてから行こう」


カムイが頷いた。


「日が高くなる前には動けるようにな」


「はーい!」


リトリーが元気よく返事をして、また食べた。


△▼△▼△▼△


夜、宿の前は少し冷えた。


食堂の熱と匂いが扉の隙間から漏れて、外気と混ざる。

街灯の灯りが道を黄色く照らし、その先は森の闇へ溶けていく。


アルティナが伸びをする。尻尾が今日は大きく揺れた。


「じゃ、今日はここまで。明日もよろしくね」


「よろしく!」


リトリーが即答する。


カムイは短く言った。


「夜更かしはせずにさっさと寝ろよ」


私とリトリーに言ったのに、アルティナがわざとらしく肩をすくめる。


「心配性」


「心配してねぇ」


「してたよ」


「してねぇ」


いつものやりとりといった感じだ。

それが、夜の怖さを少しだけ薄める。


「また明日」


私の声を聞いた後、アルティナが先に行き、カムイが最後に一度だけこちらを見て、何も言わずに続いた。


私とリトリーが残る。


「じゃ、寝よ。明日も動くだろうし」


「……うん」


部屋に戻り、寝台に横になる。

目を閉じると、猪の突進の重さと、狼の揃った足音が、耳の奥に残っている。


風が窓の隙間から入って、布の端を小さく揺らす。

その揺れが止まるころ、私は眠りに落ちた。

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