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星剣

森は、昼のうちは「狩り」を許してくれる顔をしていた。


足元の落ち葉は乾いていて、踏めば小さく笑う。樹皮の匂いが近い。風は冷たいのに、どこか甘い。

青年は肩に太い縄を掛け、背の革袋の重さを確かめながら歩いた。


「チアくん。今日は“ちっちゃい”のじゃ足りないよ〜」


横を歩く彼女が、軽い調子で言う。白に近い銀の髪が枝影をすり抜け、金の目が森の奥を撫でるみたいに細まる。


「あいつら、肉ーって言ってたからな」


「肉は肉でも“おいし〜お肉”がいいよね。柔らかくて、脂がじゅわってやつ」


「……言い方が具体的すぎる」


「お姉ちゃんもチアくんの捕まえてくれたお肉食べたいな〜?」


青年は苦笑して、前を見た。


今日狙うのは、兎でも鳥でもない。

森の外縁――人が踏み込むと木々の間合いがわずかに変わる場所に、たまに現れるものがある。


“森哭き”。


獣と呼ぶには、あまりに曖昧だ。

鹿ほど静かじゃない。熊ほど正直じゃない。そもそも足音の出どころが地面ではない。

森哭きは、苔や樹皮を食むのではなく、森に溜まった「匂い」や「熱」や「思い出の残り香」を喰う、と言われている。


だから、まとっている匂いが一定しない。

一歩ごとに季節がずれる。隣の木と別の森の影が重なる。


見つけにくい。

とんだ面倒ごとを引き受けたもんだ。


「姉さん、ほんとについてくるんだな。実際めちゃくちゃありがたいが」


「だって、面白そうだもん。それに〜、かわいい弟が頑張っているところを見たいなーって」


「それが怖いんだよ」


「え〜そんなこと言わないでー」


彼女は笑って、枝を避けていく。避けるというより、枝の方が彼女を避けていくみたいに、道が自然に開く。

青年はその背中を追いながら、胸の奥の薄いざわめきを指で押さえた。


星が、少しだけ騒いでいる。

そんな気がする。


二人は森の奥へ分け入った。

倒木を跨ぎ、湿った斜面を降りる。獣道が一本、太い傷みたいに走っている――けれど、途中からそれが「獣道じゃない」ことに気づく。


踏み固められた土が、ところどころ濡れてもいないのに光っていた。

葉の脈が逆向きに走り、苔の上に薄い霜みたいな文字が浮いては消える。


彼女はしゃがみ、土を指で撫でた。


「これ。新しいね」


青年も目を凝らす。土が掘り返されているのではない。

土そのものが“置き換わっている”。

ここだけ、別の場所の土が上書きされたみたいに、匂いが違う。


「……森哭きだな」


「ねぇ、思ったより“濃い”よ」


彼女の声が少し弾む。

青年は背の縄を握り直した。


濃い。つまり、落とせれば“取れるもの”は多い。

でも、濃いほど、凶暴ということでもある。


息を整えようとした、その瞬間。

森が、ふっと黙った。


鳥が鳴くのをやめる。虫の羽音が薄くなる。

空気が、ひとつだけ深く息を吸う。


——来る。


青年の耳の奥で、星の粒が冷たく鳴った。

彼女が、ほんの少しだけ口角を上げる。


「いた」


前方の茂みが、盛り上がった――ように見えたのは錯覚だ。

実際には、茂みの“向こう側”が一拍遅れて追いついてきただけだった。


空間がたわみ、影が折りたたまれ、そこに形だけが先に生まれる。


出てきたのは、獣というより“現象”だった。

肩の高さは青年の背丈を越えているのに、体積が定まらない。輪郭が揺れて、木漏れ日が中でほどける。

角は一本じゃない。枝の束みたいに広がって――その枝先に生えているのは茸ではなく、小さな星の燃えカスみたいな淡い光だった。


顔のあたりに目があるはずなのに、どこを見ても“焦点”がない。

それでも、こちらが見られている気配だけは、肌に張りつく。


森哭きは鼻らしきものを鳴らし、匂いを嗅ぎ分けた。

土の匂い。人の匂い。焚き火の記憶。血の予感。


そして、青年を捉える。


次の瞬間、地面が跳ねた。


突進。

速い。重い。まっすぐじゃない。

巨体が揺れるのではなく、距離の方が歪んで縮む。木々の間合いが勝手に詰まり、逃げ道が細くなる。


青年は横へ跳んだ。

跳びながら、腰の刃に手を掛け――抜刀。……けれど、振らない。


その代わり青年の背後、空間が薄く震えた。


星の欠片みたいな小さな刃が、ぱちりと生まれる。

一つ、二つ、三つ。多くはない。


刃は浮かぶ。

浮かんでいるのに、それには確かな質量がある。


彼女はそれをキラキラとした瞳で見ている。


「いけー!チアくん、ふぁいとー!」


彼女が笑う。

青年は返事をしない。現象の塊から目を切れない。


森哭きの“肩”が迫る。

青年は手を振るみたいに指を動かした。


——空に刀が刺さる。


動きは見えない。

ただ、輪郭の揺れの奥に、一本。

角の根元に、一本。

喉――と呼べる場所の“空白”へ、一本。


“刺さった結果”だけが先に置かれ、現実があとから追いつく。


森哭きは突進を続けようとして――一拍、遅れた。

巨体が「痛みという情報」で止まる前に、世界の方が追いついてくる。


遅れて、滲む。

血ではない。夜色の液だ。冷たいのに、触れた空気が焦げた匂いを出す。

滴が落ちた場所の苔が、逆に青く発光する。


「……手応え、薄いな」


青年の喉が鳴る。

これだけ刺しても、まだ崩れない。肉の厚さではなく、“ここにいる”という執着が重い。


森哭きは吠えた。

吠え声というより、森の影が一斉に息を吐くみたいな圧。木々の影が立ち上がりそうになって、青年は目を細めた。


彼女が、青年の横にすっと立つ。並んでしまう距離なのに、不思議と怖くない。


「ねぇ、チアくん。どこに核があると思う?」


「今それどころじゃ――」


「教えて。手伝ってあげる」



「……角。左脚。背の奥」


「うん」


彼女は笑って、青年の手を握り、森哭きへ指を向けた。

その指先には何もない。何もないのに、次の瞬間、空間がまた震える。


幾本もの刀がその場の空を覆う。


青年の刃とは違う。質も数も。

彼女の周りに生まれるのは、もっと存在感の強い力の塊。刃が刃らしく、柄が柄らしく――それでも現実の金属ではない、光と影の折り紙みたいな質感。


数はまだ抑えられている。

遊びじゃない。狩りの規模だ。


彼女は青年を見ずに言った。


「チアくん、無理しないで。これは“ご飯”なんだから」


「分かってる」


分かっている。

分かっているのに、青年の胸の奥に熱が溜まる。


家にいるきょうだいたちの顔が浮かぶ。

兄の笑う姿。下の妹の寝癖。真ん中の弟が鍋を焦がす未来。

守りたいものがあると、不思議と力が湧いてくる。


青年はもう一度、指を動かした。


——刺さる。


左脚の関節――と呼べる“折れ目”に一本。

角の根元に一本。

背の奥、光の継ぎ目へ一本。


森哭きの巨体が、ようやく崩れた。

崩れるというより、上書きが剥がれる。

この場に貼り付いていた“別の森”が、ずるりと滑り落ちる。


倒れる瞬間、角が地面を抉り、土が飛んだ。

青年は顔を背け、泥を避ける――と思ったが、飛んできたのは泥ではない。

薄い、冷たい粉だ。触れると一瞬だけ、遠い焚き火の匂いがした。


静寂。


森哭きの体から、光の膜が剥がれ落ちる。

剥がれた膜の下に、ちゃんと“取れるもの”がある。

赤ではなく、淡い灰銀色の肉。温かいというより、湯気みたいなぬくもりが漂う。


青年は膝に手を置き、長く息を吐いた。


「……獲れた」


彼女が、嬉しそうに笑う。


「獲れたねぇ。みんな、喜ぶよ」


青年は笑い返そうとして、喉の奥が痛いことに気づいた。

少し力を使いすぎてしまったのだろう。


彼女が肩を叩いた。軽い。


「ほら、休憩しよ。ちょうどあそこに湖あるし」


△▼△▼△▼△


湖は、夜になると空を二つ持つ。


上にひとつ。

水の底にひとつ。


焚き火の小さな光が、黒い水面に揺れている。

青年は石に腰を下ろし、指先の震えを火に向けてほどいた。彼女は膝を抱えて、星を見上げている。


「ねぇ」


彼女が言った。


「……あの星、今、何を言ってるの?」


青年は少し笑った。姉さんは本当に好きなんだなと思う。

青年は目を閉じて、耳の奥を開く。


星の声は、人の言葉じゃない。

意味の塊が落ちてきて、それを青年が無理やり言葉にする。


——終わりたくない。


青年は、言うべき言葉を選べずに黙る。

彼女が横から覗き込む。


「ん? なに、渋い顔」


「……いや。あれは、終わりたくないって」


「へぇ。星もそんなこと思うんだ」


彼女は笑って、次を促すみたいに顎を上げた。


「で、こっちは?」


青年は別の星へ意識を向けた。


——見てる。

——退屈。

——幸せ。


青年は、思わず彼女の横顔を見た。

彼女は火を見ている。火の中に何かを見つけたみたいな目。


「……見てるって」


「なにを?」


「俺たち。……あいつらや……兄さんのこと」


彼女が、少しだけ口角を上げた。


「じゃあさ。私のこと、星はどう思ってる?」


青年は一瞬、言葉に詰まった。

言えば、形になる。形になった瞬間に、ほどけてしまう気がした。


それでも、彼女は待つ。軽いのに、逃げない。


青年は、火の爆ぜる音の合間に言った。


「……楽しそう、って」


「ふふ」


彼女は嬉しそうに笑って、青年の肩に額を預けた。

その重さが、驚くほど軽い。


「ねぇ、チアくん」


「なに」


「チアくんは、星の声、好き?」


青年は、すぐに答えられなかった。


好きか嫌いか。

そんな言葉で測れるなら、もっと楽だ。


青年は、湖面の星を見た。

二つの空が、同じ光を抱いている。けれど水の方は少し揺れて、歪む。


「……怖いときはある」


「うん」


「でも、姉さんや兄さんが隣にいると……少し、まし」


彼女は「そっか」と小さく言った。

それだけで、青年の胸の奥の冷たさが少し溶ける。


「じゃあ、帰ろ」


彼女が言う。未来を決めるみたいに。


「もうこんな時間だし、みんな絶対うるさいよ」


「うるさいだろうな」


青年は立ち上がり、焚き火を消した。

火が消えると、星の声が少し大きくなる気がした。


△▼△▼△▼△


家の灯りは、帰る理由そのものだった。


戸を開けた途端、声が飛んでくる。


「遅い!」


「遅いよ!」


「待ってたー!」


突進してきたのは、一人や二人じゃない。

背の高さがばらばらな影が、雪崩みたいに押し寄せる。


弟が三人、妹も三人。――一番小さい二人は寝ているのだろうか、奥からくぐもった声が一度だけ聞こえた。

年の近いきょうだいが肩をぶつけ合いながら、青年の革袋を狙って目を光らせている。


「うわっ、押すな!」


「袋! 袋見せて!」


「まだ! まだだって!」


青年が肩の縄を下ろすより先に、妹の一人がつま先立ちで袋を覗こうとする。

それを、台所から出てきた兄さんが、手の甲でやんわり止めた。


「はいはい、まず手を洗って。あと、袋は台所で開ける。床が汚れるから」


「えー」


「えーじゃない。今日はみんなで鍋にするんだろ」


兄さんと妹の横で、弟の一人が鍋を洗い、もう一人が野菜を刻んでいる。誰かが笑って、誰かが水をこぼして、誰かが布巾を投げる。


暮らしが、音になっている。


彼女はきょうだいたちの頭を順番に撫でて、笑う。


「ほらほら。文句言う前に準備。チアくん、運んで」


「俺が?」


「うん。だって獲ったの、チアくんだもん」


「お姉ちゃんも遅いの!」


と、真ん中の妹が言う。


「遅いのは、チアくんが寄り道したからだよ〜」


「なっ、してない!」


「したー」


妹が笑う。弟も笑う。

それにつられて、台所の方でも笑い声が広がる。


青年は袋を台所へ運びながら、胸の奥の熱を確かめた。

熱い。温かい。ここにある。


星の声は遠い。

遠いから、安心できる。


青年はふと窓の外を見た。夜の空がある。星がある。

星は黙っているのに、見ている。


——見てる。

——嬉しそう。


青年は、箸を握り直した。

この夜がずっと続けばいい、と言葉にしないまま思った。


△▼△▼△▼△


△▼△▼△▼△


△▼△▼△▼△


そこは空じゃなかった。


上下も距離も、かたちを決めた瞬間にほどけそうな黒。

黒の中には光が詰め込まれて、ぎゅうぎゅうに押し合っている。艦列の灯り、結界の縁、砲撃の尾、刃の残光。どれも光っているのに、温かくない。


中心にだけ、温度がある。


白銀の髪が揺れて、金の瞳が笑っている。

笑っているのに、瞳は忙しい。忙しいのに、余裕がある。


彼女の周りに、刀が浮かんでいた。


星の数に及ぶそれは生まれては消えを繰り返す。


刺さる瞬間の動きは見えない。

距離も角度も関係ない。

「刺さった」という結果だけが先に置かれて、現実があとから追いつく。


光が途切れる。

艦が裂ける。

結界が割れる。

悲鳴が上がる前に、消える。


彼女は笑う。


「あはっ……いいね〜!」


向こうが何万何億と押し寄せても、彼女の刃は瞬き続ける。

刺さって、落ちて、また刺さる。


そして、ふと。


ほんの一拍だけ、彼女は呼吸を置いた。


忙しい瞳が、黒の中のどこでもない一点を見る。

そこに誰かがいるみたいに。


「……チアくん」


その呼び方が、戦場の温度をほんの少しだけ変える。

彼女は笑ったまま、でも声だけは柔らかい。


「いつも、ありがとね、ルチア」


返事はない。

当然だ。もう、いない。


それでも刃は浮かぶ。

星の群れみたいに、彼女の周りで瞬く。


刺さって、消して、貫いて、また刺す。

彼女の手の動きは軽い。遊びみたいに軽い。


黒は裂け、光は詰め込まれ、刃は瞬き、結果が先に置かれる。

その中心で、彼女は笑いながら――一度だけ、いない誰かの名残に礼を言った。

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