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第一章・第十話 次の地

白い天井は、闘技場の空よりずっと近い。

塗り直した白が、まだ少しだけ匂う。薄い石灰と、乾いた木の匂い。そこに薬草を煮た苦い香りが混じっている。


灯りは明るいのに、影は薄い。

光源が近いせいか、壁の角にできる小さな影ですら、輪郭が頼りない。誰かがこまめに布で撫でているみたいに、影だけが削れていく。


ベッドの上で、リトリーが片腕を枕にして寝返りを打った。

軋む音は小さい。布の擦れる音のほうが大きく聞こえる。


「……ん。あ、シルア。起きてた?」


私は腰掛けに座ったまま、膝の上で組んでいた手をほどく。指先が白くなっていたことに、今さら気づく。


「うん」


「ごめんね。倒れたところ、あんまり覚えてなくてさ。……寒かったのだけ、残ってる」


リトリーの頬には、もう赤みが戻っている。目の焦点も合っている。

それが余計に、あの時の青白さを思い出させた。


「……もう、大丈夫?」


私が聞くと、リトリーはわざとらしく両腕を伸ばした。


「大丈夫だよ。ほら、見て。元気。明日には普通に歩けるって、キュラさんが言ってた」


言いながら、リトリーは髪を指で整える。軽口のリズムが戻っている。

戻っているのに、私はそのテンポに乗れない。


「……冷え、深かったって」


「あれはね、うん。なんていうか……影霊に“引っ張られる”の、想像以上に嫌だった」


リトリーは天井を見たまま、少しだけ眉を寄せた。

嫌だった、と言い切るところが、らしい。怖かった、と言わない。


「でも、もう大丈夫だよ。キュラさん、すごいよねあの人。能力だけの治療であそこまでできるなんて」


リトリーが笑って、咳をしそうになり、慌てて口を押さえる。笑いが喉にひっかかって、少しだけ顔をしかめた。


「水飲む?」


そう言って私は水の入った杯をリトリーに渡す。


「ありがと」


「無理しないで」


口から出た言葉が、少し硬い。


リトリーはそれを気にしないふりをして、目だけこちらに向ける。


「……ねえ。あのあと、どうなったの?」


問い方は軽い。けれど、軽さの下に、ちゃんとした重さがある。


私は一瞬、答えを探す。探したところで、答えはもう知っている。


「影霊は、いなくなった」


「うん、それは分かる。……闘技場、急に静かになってた。誰かがまとめてやっつけたんでしょ?」


リトリーの視線は、私の顔から外れない。


「シルアが、やったの?」


言い方は断定じゃない。逃げ道を残してくれている。いつもそうだ。


私は、頷きかけて止まる。

止まったまま息を吸う。胸の内側が痛い。あの“削れる”痛みとは違う。薄い熱が残っている。


「……やった、んだと思う」


「“と思う”って」


リトリーの声に、呆れた笑いが混じる。


「シルアって、そういうとこあるよね。自分がやったのに、“やったと思う”って言う」


「……あの時は」


言いかけて、言葉が切れた。

風が勝手に吹き飛ばした、なんて言いたくなる。けれど勝手じゃない。私は指を向けて、ほどいて、持っていった。

私以外のものを差し出して。


「……無理した?」


リトリーが、話をそらしたように聞く。けれど、そらしてはいない。私の言い淀みの真ん中を、避けずに触ってくる。


「……無理、したと思う」


「また“思う”」


リトリーは笑う。でも、そのあと少しだけ真面目な顔になった。


「でも、助かった。私も、みんなも。だから……ありがとう」


ありがとう、と言われた瞬間、胸の奥がきゅっと縮む。

ありがとうは、軽い刃みたいだ。嬉しいはずなのに、痛い。


私は視線を落とした。

ベッドの縁にかけた自分の指が、布を掴んでいる。掴む必要なんてないのに。


「……ごめん」


「え、なんで」


リトリーが本当に驚いた声を出した。驚きが先に出て、いつものツッコミが遅れる。


「なんで謝るの」


私は答えない。

答えたら、あの“ひとすくい”の話になる。

ユズキの燃えていた光。キュラさんは勇気と言っていた。

それを私は、指でほどいた。ほどいて、使った。


“奪った”のかどうか、まだ分からない。あれは消えても問題ない、ユズキ次第で増減するもの…のはず。

分からないから余計に、喉に引っかかる。


リトリーは、私の沈黙を一回だけ待ってくれる。

待ってくれたあと、布団の中で身じろぎした。


「……まあ、謝りたくなる気持ちは分かるけどさ」


「分かるの?」


「分かる、っていうか。シルアって、なんか……勝手に背負うじゃん」


言われて、私は少しだけ目を上げた。

リトリーは、にやっとして見せる。いつもみたいに空気を軽くするための顔。

でも、目だけは軽くない。


「背負った分だけ、あとで私にご飯奢ってくれるなら、私は許すよ」


「……そこ?」


「そこ。うん、そこ」


リトリーは満足そうに頷いてから、息を整えるみたいに肩を落とした。

瞼がゆっくり重くなる。


「……それで、ユズキは?」


その名前を聞いただけで、胸の奥がざらつく。


「……生きてる」


「生きてるのは知ってるよ。ほら、最後に膝ついてたじゃん。それでー」


リトリーは言いながら、指で自分の頬をなぞる。記憶の映像をなぞるみたいに。


「……今日、会いに来るって言ってた」


「じゃあそこでまた詳しく話してよ。あの子見てたら落ち着くんじゃない?それまで気持ちの整理でもしててさ」


リトリーは冗談めかして言う。


私は笑えなかった。


「……余計、言えない」


「余計に言えないか〜」


リトリーは短く言って、目を閉じた。


「まあ、無理に言わなくてもいいよ。……たださ」


目を閉じたまま、続ける。


「自分で、自分の中だけで決めちゃうのは、やめて。私、相棒なんだから」


相棒。

その言葉が、布団の白よりも強く目に入る。


私は「うん」と言おうとして、声が出ない。

代わりに、指をゆっくりほどいた。


リトリーが眠そうに呼吸を整える。もう一度寝るのだろう。

治療で体は戻っても、芯の疲れは残る。


私は腰掛けの背に体重を預けて、目を閉じた。

静かだ。

静かすぎて、闘技場の騒音が幻みたいに浮かぶ。


あの中央の深い影。最後に白く抜けた穴。黒が崩れて消えた瞬間。

消えた、はず。


でも、消えたあとに残るものがある。手触りだけが、まだ指先に残っている。


△▼△▼△▼△


ドアをノックする音は、規則正しかった。

二回。間。もう一回。


アルガルドらしい。


「入っていいですか」


低い声。乱れていない。けれど、どこか柔らかい。


エクトだった。


私は立ち上がり、ドアの方へ行く。


「……どうぞ」


扉が開く。

廊下の明かりが差し込んで、エクトの輪郭が白くなる。鎧ではなく、簡素な服だ。それでも姿勢が揃っている。


その後ろに、小さな影がひとつ。


ユズキ。


帽子もないのに、帽子を押さえるみたいに手を前で握っている。落ち着かないのが丸わかりだ。


「し、失礼するであります……!」


声は大きい。けれど、張りがない。無理に大きくしているだけの音。


私は一瞬、ユズキの剣を見る。

いつも腰にある古い剣。

今日は、それがいつもより重く見えた。光が消えたぶん、鉄の重さだけが残っているみたいだった。


「リトリーは、寝てる」


私が言うと、ユズキは「はい……」と頷いて、声を落とす。


エクトはベッドの方へ視線を向け、寝息を確かめるように一瞬だけ目を細めた。


「体の方はもう大丈夫らしいですね」


「うん」


エクトの後ろで、ユズキがもじもじしている。

言いたいことが喉に詰まっている顔だ。

私はそれが分かるのに、先に言葉を出せない。

私のほうが、詰まっている。


エクトが、その沈黙を一度だけ受け取ってから、ユズキの背中を軽く叩いた。


「ユズキ。挨拶は」


「り、了解であります……!」


ユズキは一歩前に出て、私に向かって頭を下げた。

勢いが良すぎて、額が空気を割る。


「シルア殿! あの、その……ありがとうございましたであります!」


小さな声で言うと思ったのに、結局大きい。

病室に響いて、リトリーが「ん……」と寝返りを打つ。


ユズキは慌てて口を押さえた。


「す、すみません……!」


私は「大丈夫」と言いかけて、止めた。

大丈夫じゃないのは、私のほうだ。


ユズキが顔を上げる。

私を見る目は真っ直ぐだ。


「……ユズキ、体は」


「だ、大丈夫であります! 怪我もなく……ただ、なんというか……」


言葉が迷う。迷ったあと、ユズキは正直に言った。


「……剣が、光らないであります」


私は、胸の奥が小さく揺れた。


ユズキは続ける。


「キュラ殿は勇気を出せばまた光るとおっしゃってくれたであります。でも……ぼく、あの光が出たとき、なんか……初めて勝てる気がしたであります」


勝てる気がした。

勇気が力になる、というのは、そういうことだ。


そして私は、その“気がした”を、指先でほどいた。


「……でも、最後まで戦えてよかったであります。リトリー殿も、助かったでありますし」


ユズキは笑おうとする。

笑いの形は、まだ下手だ。でも、下手な笑いは嘘じゃない。


嘘じゃないのに、私は目を逸らしそうになる。


「……ごめん」


口から出たのは、それだった。


ユズキが固まる。


「え?」


声が小さくなった。大きい声の鎧が剥がれる。


「ごめん」


私はもう一度言う。今度は少しだけ、息が混じる。


「……私、あなたに」


言葉が続かない。

続けたら、奪ったことになる。


ユズキは、私の言葉の続きを待たない。

待てないのだと思う。自分の中の不安が、先に形になる。


「シルア殿、もしかして……ぼく、足引っ張ったでありますか……?」


その聞き方が、ユズキだ。

自分が失ったものを、自分のせいにする。


私は首を振った。


「違う」


「じゃ、じゃあ……」


「あなたは、守った」


守った、と言った瞬間、ユズキの目が少しだけ大きくなる。


「……守った、でありますか」


「うん」


私は、それ以上言えない。


ユズキは「はい」と頷く。

頷き方が、少しだけ前よりしっかりしている。自分の中に、言葉を一つ置けたみたいに。


エクトが静かに口を開く。


「ユズキ。君の力が今、出にくいのは事実でしょう。しかし君の力は多くの人を救うものだ」


ユズキが目を瞬かせた。


「……ぼくが、救う?」


「ええ。ですから――」


エクトは一拍置いて、言葉をきちんと選ぶみたいに続けた。


「私のもとでその力を磨きませんか?」


ユズキは慌てて背筋を伸ばす。


「し、修行でありますか……!」


「修行、というと硬いですね。……まずは、剣の扱いから」


エクトがほんの少しだけ笑う。


「君の力は、君の勇気だけではありません。身体も、足も、呼吸も使います。勇気が光に変わるなら、勇気がないときも剣を振れるようにしておくべきです」


ユズキは真剣に聞いている。

聞きながら、私のほうをちらりと見る。

言いたいことが残っている目だ。でも、それを今は言わない。


それが、優しさなのかもしれない。


エクトは私に向けて軽く頭を下げた。


「シルアさん。……あなたも、休んでください。今日は、誰よりも動いた」


動いた、という言い方に、私は少しだけ苦くなる。

私は、差し出しただけだ。


「……他の人たちは、どうしてるの」


話題をずらす。自分でも分かる。

エクトはそれを咎めない。


「レインくんは現場検証に協力しています。彼は目が良い。ガリオは瓦礫の撤去と負傷者搬送の手伝いを……」


そこでエクトが少しだけ間を置く。


「途中で屋台の残りを見つけて、足が止まりましたが」


「ガリオさんだね」


私が言うと、エクトは頷く。


「キュラは治療の続きです。闘技場だけでなく、街の各所でも影霊が出ていましたから。……衛兵たちも調査に回っています」


アルガルドの衛兵。

揃った動き。揃った声。揃った視線。

影霊に揃いが崩されるのは、ここにとって一番嫌なことなのだろう。


「原因は……分かりそう?」


私は聞いてしまってから後悔する。分かるなら、こんなことにはなっていない。


エクトは首を横に振った。


「まだ、何も。ここまで大量の影霊の侵入を許したのですから何かはあるはずですが。闘技場の中央にあった“深い影”の残滓を調べていますが、触れた者が皆、寒気を訴えました。……剣で切っても、完全には“残り香”が消えない」


残り香。

私は指先を見た。自分の指にも、似たものが残っている気がする。


「だから、闘技祭は――」


「中止です」


即答だった。

即答なのに、強い言い方ではない。淡々とした、事実。


わかってはいたことだ。


「街は落ち着いてきましたが、影が増えた理由が分からない以上、また同じことが起きる」


エクトは続ける。


「補償の話は出ています。闘技祭の運営側も、国も。……ただ、具体的な額はまだ」


「うん」


ユズキが唇を噛む。噛みながら、私とリトリーのほうを交互に見る。言い出すのが怖い目だ。


「……あの、シルア殿……」


声が小さくなる。


「ぼく、迷惑かけたであります。参加費も、立て替えてもらって……リトリー殿のことも……」


迷惑、という言葉がまた刺さる。


「迷惑じゃない」


私は言った。

言ってから、少しだけ間を置く。言葉を足す。


「あなたがいたから、守れた」


ユズキの目が揺れる。

揺れて、でも逃げない。


「……でも、これから、どうするでありますか」


それはユズキだけの質問じゃない。

私たち全員の質問だった。


エクトが先に答えを持っている顔をする。たぶん、さっきまで誰かと話していたのだろう。


「あなた方はたしか旅をしているのでしょう?我が国からの提案なのですが……しばらくアルガルドに留まるか、あるいは護衛付きで次の目的地へ向かうのが良いでしょう」


護衛。

それは保護にも聞こえるし、監視にも聞こえる。

おそらくは後者だ。


私はその言葉だけで背中が少し硬くなる。


エクトは私の反応を見て、声を柔らかくした。


「強制ではありません。ただ、街道でも影霊が増えている可能性がある。……安全のためです」


安全、の言葉がここでは重い。


私は視線を落とし、ベッドに眠るリトリーを見る。

相棒。

勝手に決めないで、と言われた。


「……次の目的地、って」


ユズキがそう尋ねたとき背後から声がした。


「……私のいないところで、話が進んでる」


リトリーの声だ。いつの間にか目を開けている。寝起きの声なのに、テンポだけは戻っている。


「リトリー」


「起きた。だってさ、話が面白そうだったから」


リトリーは枕元からゆっくり起き上がる。まだ少しだけふらつく。けれど、顔はもう元気だ。


「獣王連邦ガゼルなんてどう?自然豊かな国だし、それだけでご飯が美味しそう」


「そこから?」


「そこから。だって自然豊かってことは、新鮮なお肉も野菜もあるでしょ」


リトリーは当たり前みたいに言う。空気を軽くするのが上手い。


エクトが少しだけ困った笑いをする。


「……食事情は、良いらしいです。多種多様な種族が協力して生きている国ですし」


協力して。

アルガルドの秩序とは違う響きがする。


リトリーが私を見る。


「シルア、どうしたい?」


その聞き方が、決めろ、じゃない。

一緒に決めよう、という距離だ。


私は唇を開いて、閉じる。

胸の奥のざらつきを思い出す。


アルガルドに留まれば、調査が進んで何かわかるかもしれない。護衛も厚い。

その代わり私はここで、“見られる”かもしれない。

偽物の剣のこと。今の私は、目立ちすぎた。


「……ガゼル、に行きたい」


口から出たのは、その名前だった。


リトリーが目を細める。


「へえ。意外。シルアって、獣とか、苦手そうなのに」


「……そんなことない」


私は正直に言った。


「でも……ここにいると、息が詰まる」


言ってしまったあと、胸が少しだけ軽くなる。


エクトは頷いた。


「理解できます。アルガルドは、良くも悪くも“秩序”の国です。息が詰まる者もいる」


リトリーが「うんうん」と大げさに頷く。


「じゃあ決まり。明日、私が歩けるようになったら、ガゼル行こ」


「護衛は付きます」


エクトが補足する。


「国としても、影霊の発生が各地で増えているなら、連邦側の状況を確認したい。……あなた方に頼みたい部分もある」


頼みたい、という言い方が重い。

保護ではなく、任務の匂いが混ざる。


ユズキが小さく息を吸った。


「……ぼくは、修行でありますね」


言い聞かせるみたいな声音。

それでも目は、私たちから逸らさない。


リトリーがユズキを見る。


「ユズキ」


「は、はいであります!」


「助けてくれてありがとね。いつかまたアルガルドを訪れるからその時は強くなったユズキを見せてね」


言い方が、リトリーらしい。軽いのに、ちゃんと約束の形になっている。


ユズキの目が少し潤む。


「……り、了解であります。ぼく、強くなるであります。次は、光がなくても――」


言いかけて、口を結ぶ。

今言い切ったら、背伸びになると分かった顔。


エクトが静かに続ける。


「ユズキ、このエクト・エクリスの名にかけて必ず君を強くして見せよう」


ユズキは力強く頷いた。


「お願いするであります!」


声が大きくなって、リトリーが指を口に当てる。


「静かにね、病室」


「り、了解であります……」


リトリーは私に向き直る。


「で、明日には退院ってことで。……えっと、病室から出るとき、空から荷物出すのやめたほうがいい? 衛兵に怒られる?」


「怒られはしませんが……驚かれるでしょうね」


エクトが言う。


リトリーはにやっとする。


「じゃ、驚かせる。少しは笑ってもらわないと。今日、みんな真面目すぎだし」


ガリオのことを思い出して、私の口元が少しだけ緩む。

でも、その緩みの奥に、まだ残っているものがある。


ユズキが私を見る。

何かを言いたい顔。


私はそれを待つ。逃げずに待つ。


ユズキは、少しだけ言葉を探してから、言った。


「シルア殿。……あの時、ぼく、急に力が出なくなって……ちょっとだけ、怖くなったであります」


私は、息を止める。


ユズキは続ける。


「でも、シルア殿の風が全部吹き飛ばして……怖さより、安心が来たであります。だから……」


私は言葉の続きを、怖いのに聞く。


ユズキは顔を赤くして、それでも逃げずに言った。


「だから、シルア殿が何をしていたとしても……ぼく、嫌じゃないであります」


嫌じゃない。

その言葉は優しい。

優しいからこそ、怖い。


私は頷けない。頷いたら、免罪符をもらったみたいになる。


「……ありがとう」


それだけ言うのが精一杯だった。


ユズキは「はい!」と返して、また声が大きくなりそうになって慌てて口を押さえた。


エクトが扉の方へ視線を向ける。


「そろそろ失礼します。……明日の朝、衛兵から旅程の説明があります。僕も立ち会いましょう。あなた方は体調を優先してください」


言い方は丁寧なのに、ここではそれが“命令”に近い重さを持つ。

私は頷いた。


エクトはそう言って、扉を閉めた。


ユズキも一礼して出ていく。廊下の足音が遠ざかる。


病室には、私とリトリーだけが残った。


リトリーが布団を整えながら言う。


「……エクトさん、いい人だね」


「うん」


「でさ」


リトリーは、私の顔を覗き込む。

近い距離。互いの息が掛かる距離。


「明日、ガゼル行くなら。私、元気になった証拠に、何か食べたい。肉まんはアルガルドにしかないのかな」


「……知らない」


「じゃあ調べよ。獣の国だよ? 絶対、お肉がある」


そう言って笑うリトリーの目が、少しだけ真面目になる。


「それと。シルア」


名前を呼ばれる。


私は視線を上げる。


「勝手に色々背負うの禁止。さっき言ったからね」


私は、ゆっくり頷いた。

頷いたところで、すぐに守れるかは分からない。

でも、頷けたことが、今は大事だった。


窓の外は夜だ。

アルガルドの夜は静かで、街灯の光が揃っている。揃っている光の下に、薄い影が落ちる。


その影が、今日は少しだけ怖い。


私は椅子に戻り、リトリーの寝息を聞きながら、指先を見た。


指先には、何もない。

何もないのに、まだ何かを握っている気がする。


明日には、ここを出る。

秩序の国を離れて、獣の国へ。

獣王連邦ガゼル。


名前だけで、風の匂いが違う気がした。


私は目を閉じる。

闘技場の白い風ではなく、木々を揺らす風を思い浮かべる。


同じ風でも、きっと違う。

違う場所で、違う影に出会う。


次はどんな出会いがあるのだろう。


△▼△▼△▼△


朝の光が病室の床に落ちたとき、影は昨日より少しだけ濃かった。


それでも、リトリーは笑って起き上がった。


「ほら。もう完全に元気だよ!」


その笑いに、私は少しだけ救われる。


扉の外では、揃った足音が近づいてくる。

説明の時間だ。

旅の時間が、また始まる。


獣の国へ。

影霊とは別の脅威が待つ場所へ。

そして、私の“普通”がまた試される場所へ。


私は立ち上がり、外套を手に取った。


息を吸う。

胸の内側が、まだ少しだけ熱い。


でも、歩ける。


「行こう、リトリー」


「うん。……まずはご飯ね!」


その言葉に、私は小さく笑った。


病室の白い天井が、遠ざかる。

次の空は、もっと広いはずだ。

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