第一章・第九話 私の力
「――来いであります」
声は揺れていない。
揺れているのは、膝の奥だ。怖さはもうない。けれど、自分のせいでリトリーを傷つけてしまった己に対する怒りがある。
それがユズキを影霊に立ち向かう勇気を生み出す。
もう同じことはさせない。
ユズキの足が、次の影へ向かう。
△▼△▼△▼△
エクトの光剣が、頭上でゆっくり弧を描く。
ゆっくりに見えるのは刃が大きすぎるからだ。振り下ろされる瞬間、空気が一拍遅れて追いつく。
白い弧が走り、闘技場の中央を再び横切った。
影霊の群れが、そこだけ切り抜かれたみたいに消える。
「少年、右!」
エクトの声は乱れていない。
乱れていないのに速い。命令というより、支えるための合図だった。
「り、了解であります!」
ユズキが右へ跳ぶ。
跳んだ先――観客席へ続く通路の影が、ぬるりと盛り上がっていた。
黒い腕が二本、三本。まるで同じ動きを繰り返す人形みたいに伸びる。
ユズキは剣を横に払った。白い線が二つ走る。
影霊は裂ける前に消える。
だが、消えた場所からまた滲む。今度は床だけじゃない。倒れた椅子の下、柱の影、逃げ切れず立ち尽くした人の足元。
影がある限り、そこが“入口”になる。
「……きりがない、であります……!」
喉が鳴る。言葉にした瞬間、怖さが少しだけ喉へ戻ってきた。
エクトが半歩、前に出る。
光剣を持つ腕が上がり、刃が縦に落ちる。
白い柱みたいな一撃が、影霊の塊を真っ二つに――消す。
「押し切れませんね」
呟きは淡々としている。けれど、その淡々に、ほんの少し硬さが混じっていた。
「出る場所が増えています。影そのものが……闘技場全体に染み込んでいる。ここまで一斉に出るのは初めてです。それも街中に」
少し離れた場所で、レインが針を飛ばしていた。
針は当たる。裂ける。裂けた黒は砂に落ちる前に、また起き上がる。
効率が悪い。レインの手の動きだけが、それを拒むみたいに鋭く速い。
ガリオは通路に立っている。
影霊が群がるたび、身体がしなって跳ね返す。弾かれた影霊が壁にぶつかり、輪郭を崩して消える。
「オデ、壁……壁、あったかい肉まんの壁だったら……うれしい……」
「今は我慢して、ガリオ」
キュラが息を切らしながら、倒れた人の側に膝をつく。
指先が淡い光を帯び、傷や冷えを追い出すみたいに触れていく。
その隣――砂に倒れたリトリー。
顔色はまだ白い。唇は青くない。でも呼吸が浅い。芯が凍えているのだと、見ただけで伝わってくる。
「……大丈夫、なの……?」
シルアの声は、自分でも頼りない。
キュラが一瞬だけシルアを見る。笑う余裕は、まだ残っている。
「間に合ってるわ。冷えが深いけど、連れていかれてはいない」
キュラが立ち上がる。
視線は戦場を測っている。どこに手が足りないか、迷いなく拾い上げる目だった。
「エクト」
呼び方が少し低くなる。
「あのバカは? バグラは何をしてるの。ここにいない理由、説明して」
エクトの剣が次の影霊を薙ぐ。
薙いだまま、答える。
「バグラさんは……つい先日、遠征部隊に合流するため出ています。戻りは未定です」
キュラの眉が、ほんの少しだけ上がる。
「……よりにもよってね」
「ええ。状況は良くありません」
言い切る声は落ち着いている。
落ち着いているからこそ、重い。
影霊は、また増える。
闘技場の中央にある“深い影”が薄くならない。エクトの光が削っても、そこだけは底が見えなかった。
ユズキが踏み込む。白い線がいくつも走る。
走るたび影霊は消える。消えるたび、ユズキの肩が小さく揺れる。ユズキもシルアと同じで”何か”を消費している。
「少年、無理は――」
エクトが言いかける。
ユズキは首を振った。振っただけで、目は影霊から逸らさない。
「無理しないと……守れないであります」
その声の背後に、砂に倒れたリトリーがある。
守りたいものが、言葉より先に背中を押していた。
△▼△▼△▼△
シルアは自分の手を見た。
指先がわずかに震えている。風を生み出しすぎたせいで、胸の内側がまだ擦れている。
――足りない。
頭ではそれしかないのに、身体が動かない。息を吸うだけで痛い。
「私、何をしてるの……」
呟きは砂に吸われた。
その時。
背後から、軽い声が落ちてきた。
「……さっきから見てたけどさ。君、勘違いしてるよ」
振り向くと通路の陰に、銀髪の男がいた。サングラスの奥は見えない。場違いなくらい飄々としているのに、立っている場所だけ空気が妙に静かだった。
ギンナー。
さっきまで、ジョー・ゼッツと一緒に騒いでいたはずの。
「ここ、危ない。なんで……」
「危ないから来たのさ。ほら、そんな疲れた顔しちゃって。胸、痛いでしょ」
言われて、シルアは息を止めた。
止めた途端、痛みが輪郭を持ってはっきりする。
ギンナーは、笑っているようで笑っていない声で続ける。
「君の力、“ちょっと疲れるけど、思い浮かべたことできる”……くらいに思ってない?」
「……違うの?」
「違うねー。……違うっていうか、そういう使い方を君の身体が先に覚えちゃってるだけだ」
シルアは眉を寄せた。
理解できない。できないのに、言葉が胸の奥に刺さる。
“覚えちゃってる”。
その言い方が妙に生々しい。
ギンナーが声を落とす。
周りの騒音があるのに、その声だけは耳の奥に直接触れた。
「何も、自分のものを削ってばっかりで願いを通さなくてもいいんじゃないかい。……君のそれは、もっと雑に、もっと酷く、使える」
「酷く……」
「本当は優しい使い方じゃない。だからこそ、君は無意識に自分のものを差し出してるんだろうけど」
シルアの視線が、闘技場へ戻る。
ユズキが光っている。燃えている。
燃えているのに危うい。炎が風に煽られたみたいに、強くなったぶん薄い。
影霊が、また通路の内側から生まれる。
エクトが薙ぐ。ユズキが消す。
消しても消しても、次が出る。
キュラの手は足りない。ガリオは壁を作れても、闘技場全体は塞げない。
レインの針は、吸われる場所が増えていく。
――このままだと、誰かがまた倒れる。
倒れるだけじゃ済まないかもしれない。
シルアの喉が、息を欲しがった。
吐けば痛い。吐けば削れる。
けれど、吐くより先に――別の感覚が指先に来た。
「……代わり、って」
シルアが小さく言う。
ギンナーが肩をすくめる。
「いくらでもある。どれを差し出すかは、君が決めるのさ」
使い方がなんとなくわかってしまった。
シルアはユズキを見る。
ユズキの勇気は、剣の光になっている。
今、燃えているから戦えている。
たぶん、この場でいちばん価値があるのは、あれだ。
あれを“差し出せば”、きっと。そう思った瞬間、その意味が怖いくらい分かった。
「それは……奪うってこと?」
「さあ?ものによるんじゃない?」
ギンナーはもうこれ以上教える気はないらしい。
シルアは前を向く。
影霊が、闘技場の中央から波のように押し寄せる。
ユズキが跳び、回転して、円を描く。十体の影霊が消える。
その直後、二十体の影霊が起き上がる。
影が増える。人が逃げ切れない。恐怖が影を濃くする。
濃くなった影から、また生まれる。
――終わらせないと。
今、終わらせないと。
「教えてくれてありがと、ルギア」
「どういたし……ありゃ、バレちゃった?」
「サングラスくらいじゃ変装したうちに入らないよ」
「あはっ、今後の参考にするよ」
ルギアーーギンナーはそう言ってそそくさと通路の奥に消えていった。
「終わらせよう」
誰に言ったのか分からない。
ユズキにか、影霊にか、自分にか。
シルアは息を吸った。
吸った瞬間、胸が痛い。
でも今回は、吐かない。
指先がユズキを指す。
指先の先――ユズキの光が、かすかに揺れる。
シルアは思い出そうとした。
どうやってやるのか。
思い出せない。けれど、身体が先に知っている。
ギンナーの言った通りだった。
「……ユズキ」
声は届かない距離のはずなのに、ユズキの肩が小さく跳ねた。
振り向かない。振り向けない。
でも、光だけが一瞬、強くなる。
シルアは指を引いた。
引く、というより――ほどく。
燃えていた勇気の“端”を、ひとすくい。
次の瞬間。
胸の痛みが、来ない。
代わりに目の奥が熱くなる。
喉が乾く。心臓が速くなる。
怖さじゃない。怖さより前に出るもの。
風が立ち上がった。
今までの“風”じゃない。
闘技場全体の空気が動く。
空気が、一斉に同じ方向を向いた。
エクトが動きを止めた。
「これは……!?」
光剣が空で止まり、白い刃が風に震える。
キュラが顔を上げる。レインの針が一拍だけ遅れる。
ガリオが「ん?」と、初めて食べ物と関係のない反応を示す。
ユズキの剣の光が、ふっと薄くなった。
代わりに、闘技場の空気が白む。
影が、薄くなる。
シルアは口を開いた。
言葉が勝手に形になる。
願いの形。
「――ここにいる影霊、全部を……吹き飛ばす」
息を吐かない。
代わりに、空気そのものが言葉を聞く。
命令じゃない。お願いでもない。
“決めた”だけ。
風が、落ちた。
落ちた風が、影を削った。
砂嵐みたいな派手さはない。
ただ、影霊の輪郭が一斉にほどける。黒が黒のまま留まれない。
闘技場の中央の深い影も、表面から薄くなっていく。
黒が抵抗するみたいに盛り上がる。盛り上がったところから数体の大霊が出るーー瞬間、強大な透明がそれを撫でて消す。
影霊が声を持つなら、今、悲鳴を上げていたかもしれない。
でも影霊は声を持たない。
風の音だけが残った。
一体、二体、十体、百体。
数の感覚が壊れる。
闘技場のあちこちで同時に、影がほどける。
観客席の足元から生まれかけた影霊も、立ち上がる前に薄くなる。
柱の影に絡みついていた黒も、ほどけて砂に落ちる前に消える。
最後に残ったのは、闘技場中央の“深い影”だった。
そこだけは、しつこい。
底の見えない黒が、まだ渦を作ろうとしている。
エクトの息を吸う音が聞こえた。
光剣を構え直す。
ユズキも剣を握り直した――握り直そうとして、指が滑る。
「え、あれ?」
シルアはそれを横目に闘技場全体を覆う風を中央に集める。
「……終わって」
風が、鋭くなる。
透明が刃になる。
黒い渦の中心が、ふっと白く抜けた。
抜けた穴から黒が崩れる。
崩れた黒は戻る場所を失い、砂の上で消えた。
闘技場から、影霊がいなくなった。
△▼△▼△▼△
静かだった。
さっきまでの悲鳴も、刃の音も、風の鳴りも。
静かすぎて、耳が詰まる。
ユズキが膝をついた。
剣の光は消えている。消えているのに、剣だけがまだ熱を持っているように見えた。
ユズキは剣を落とさない。落とさないまま、肩で息をする。
「……は、は……」
声にならない。
大きく瞬いた目が、何かを探すみたいに周りを彷徨う。
怖さが戻ってきている。
戻ってきているのに、逃げない。
逃げないけれど、燃えていない。
「少年」
エクトが近づき、屈む。
手を伸ばしかけて、止めた。触れたら折れそうなものを見る距離だった。
「……大丈夫ですか」
「だ、大丈夫……であり、ます……」
ユズキが笑おうとする。
でも、笑いの形にならない。
キュラがすぐに寄ってくる。
「……あら。特に怪我はないわね。疲れているだけみたい」
指先がユズキの額に触れる。冷えはない。怪我もない。
それなのに、キュラの目だけが少し険しくなる。
「急に普通に戻るのね。……そんなものかしら」
言いながら、視線はユズキの背後――シルアへ滑った。答えは、そっちにある、と分かっている目だ。
エクトも同じだった。光剣を収めながら、辺りに“何もない”のを見渡し、それからシルアを見る。
「……あなたが、やったのですか」
シルアは口を開きかけて、言葉が出なかった。
胸の奥に、さっきの感触がまだ残っている。熱いのに冷たい、変な感触。
レインが歩み寄る。針を操っていた指先が、今は止まっている。
「……すごいな」
それだけだ。
ガリオが通路の方から戻ってきて、シルアの前で立ち止まった。顔の赤い汚れを指でこすり、首を傾げる。
「お前、つよい……風、うまい……肉まん、飛ばない……えらい……」
褒めてるのか褒めてないのか分からない。けれど、ガリオなりの最大級なのは分かった。
キュラが腰に手を当て、少しだけ頬を膨らませる。
「もう。そんなにできるなら、もっと早くやってよ〜って言いたいところだけど……あなた、さっきから顔色が良くないわ」
シルアは反射的に胸へ手を当てる。痛みはある。けど、いつもの“削れる”痛みじゃない。
「……できる、と思ってなかった」
「思ってなかったのに、やった?」
エクトが短く聞く。
シルアはうなずきかけて、途中で止まった。うなずいたら、全部認める気がして。
その間に、観客席の方からも声が飛ぶ。
「今の、あの子がやったのか!?」
「決勝戦の子だ!」
「助かった……!」
歓声というより、安堵が拍手の形になって降ってくる。
キュラが肩をすくめる。けれど目は、優しい。
「ま、結果オーライ。今は生きてる人を数える時間よ」
ユズキが膝をついたまま、ぼんやりとシルアを見上げた。燃え尽きた瞳の奥に、遅れて安心が差し込む。
「……シルア殿、すごい……であります……」
その言葉に、シルアの胸がきゅっと縮む。
すごい、じゃない。
守れたのは確かだ。
差し出したユズキの力もあの時だけのものでいずれ消える、そういう類のものなのもわかっている。
それでも胸の内には何かモヤっとしたものが残っている。
砂の上に落ちた光の残り香が、薄く、消えかけていた。




