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オシリだって洗います~温水洗浄便座開発物語~

作者: 近藤良英

熱湯に耐えた青春があった。

焼き物の町・常滑で、おしりを清潔にするために奮闘した若き技術者たち。笑われながらも信じた「清潔の未来」は、半世紀を経て私たちの暮らしの当たり前になった。

情熱とユーモア、そして愛。

これは、ひとつのトイレから始まった“日本の奇跡”——。

技術と家族と風の物語。


〈主要登場人物紹介〉

北野秀雄きたの ひでお・・・

昭和四十年、知多製陶の若き技術者。お湯でおしりを洗うトイレ“サニタリーノ”の開発に人生をかけた。情熱的で不器用だが、人一倍誠実。のちに常滑で設備工事店を継ぐ。


北野芳江きたの よしえ/るみ・・・

鹿児島出身の事務員。集団就職で常滑へ。開発室で秀雄と出会い、彼の努力を支えながら心を通わせる。のちに秀雄の妻となり、北野家を支える存在に。


阿部祐太朗あべ ゆうたろう・・・

知多製陶の開発設計課課長。技術一筋の頑固者でありながら、誰よりも人情に厚い。秀雄の師であり、衛生陶器の未来を信じた理想主義者。


北野祐樹きたの ゆうき・・・

現代の大学生。祖父秀雄の遺した技術と想いを知り、家業の中に“生きた技術”の意味を見出していく青年。物語の最終章で、過去と現在をつなぐ役割を担う。



第1章 夏の常滑と壊れたトイレ

 愛知県常滑市。

 知多半島の中央あたりにあり、西は伊勢湾を望む。町のあちこちには、古びたレンガ煙突や登り窯が点在している。夏の陽射しの下では、焼き物の里らしい赤茶けた土の匂いが、潮風に混じって鼻をくすぐった。

 その町の外れ、海沿いの国道を少し入った場所に、「北野設備」という看板を掲げた小さな工事店がある。祐樹の家だ。祖父の代から続く水道工事店で、昭和二十五年に創業した。祖父はもう他界したが、いまは父が店を切り盛りしている。

 店の隅には、先代から使われている年季の入った工具箱が置かれ、壁にはホースやスパナがきっちりと並べられていた。床にこびりついたセメントの粉が、照り返しを受けて白く光っている。

 祐樹は名古屋の私立大学に通う二年生。

 父の手伝いで、休日はこうして現場に出ることも多い。店を継ぐよう言われているが、心の中には別の夢があった。東京へ出て声優になりたい——。小学生のころからずっと抱いてきた小さな野心だ。けれど、現実はそう甘くない。家業の手伝いを続けながらも、心のどこかで「本当にこの道でいいのか」と、いつも自問していた。

 八月に入ったばかりの午後。空には雲ひとつなく、陽炎がゆらめいている。

 軽トラックの助手席で祐樹は、タオルで額の汗を拭った。エアコンの風は、熱気をほんの少し和らげてくれるだけだった。

「祐樹、寝てないか?」

 運転席の父が、汗で濡れたシャツの背中を座席に張りつかせながら言った。

「起きてるよ。暑くて眠れないし」

「今日のお客さん、北野のおばあちゃんだ。先代のころからの常連だぞ」

「B棟901だっけ? あの高台の団地?」

「そう。伊勢湾がよく見えるとこだ。シャワットトイレの調子が悪いらしい」

 軽トラックは坂道を登り、白い集合住宅の前に止まった。海から吹く風が少しひんやりして気持ちいい。

 祐樹は工具箱を抱え、父のあとを追って階段を上った。コンクリートの壁が熱を吸って、ほんのりと湯気を立てているようだった。

 B棟901号室の玄関を開けると、柔らかな畳の匂いが広がった。

 「どうもどうも、暑いのにすまないねえ」と、北野芳江おばあちゃんが笑顔で出迎えた。白髪をきっちりまとめ、割烹着を着ている。背筋はまっすぐで、年齢を感じさせない。

 八十五歳を過ぎても一人暮らしだというが、受け答えもはきはきしていて、祐樹にはまるで昔の学校の先生のように見えた。

「おばあちゃん、トイレの調子が悪いって?」

「そうなのよ。ボタンを押してもお湯が出たり出なかったりでねえ。わたし、この子がいないと生きていけないのよ」

 と、おばあちゃんはトイレを指さしながら笑った。

「この子?」

「うちのシャワットトイレよ。初代のサニタリーノのころからずっと使ってるの。今ので二代目だけどね。五十年はお世話になってるわ」

 祐樹は思わず目を丸くした。

 最新型のウォシュレットが次々と出る時代に、そんな古い機種を今も使っている人がいるとは。けれど、トイレの蓋には手入れの行き届いた艶があり、おばあちゃんの几帳面な性格がうかがえた。

 父は工具箱を開け、ペンチやモンキーを取り出して作業を始めた。

 金属のぶつかる音が響く。祐樹はタオルを首にかけて、父の手元を覗き込んだ。

「なあ、おばあちゃん。昔からCHITAXを使ってるんですか?」

「そうなのよ。昔は知多製陶って名前だったの。わたし、そこで働いてたのよ」

「えっ、工場の人だったんですか?」

「ええ。もう六十年も前のことになるけどね」

 おばあちゃんの目が少し遠くを見つめた。

 窓の外では、蝉がいっせいに鳴き、遠くに伊勢湾のきらめきが見える。祐樹はなんとなく、これから始まる話に胸が高鳴るのを感じた。

「当時ね、知多製陶の女子寮が工場の近くにあってね。わたし、鹿児島から集団就職で来たの。社長さんの命令で、舎監のおばさんが二十四時間見張ってたのよ。まるで女子刑務所みたいだった」

「えっ、そんなに?」

「でもね、土曜の夜になると、常滑の男の子たちが車で寮の前に並んで、デートに誘いに来たの。スカイラインだのコンテッサだの、ピカピカの新車でね。あのころの男の子は、みんな格好つけだったのよ」

 おばあちゃんは、笑いながら懐かしそうに語る。

 祐樹は、想像してみる。昭和の常滑。レンガ煙突の立ち並ぶ町に、モノクロ映画のような恋の光景があったのだろうか。

「祐樹、こっちは順調だ。パッキンが劣化してただけだな」

 父の声で、現実に引き戻された。

 祐樹はドライバーを手渡しながら、まだおばあちゃんの話の続きを聞きたくて、ちらりと彼女の方を見た。

「おばあちゃん、工場って、どんなとこだったんですか?」

「そりゃもう、地獄みたいに暑かったわよ。焼き物の炉が何本もあって、みんな汗だくで働いてたの。お湯でおしりを洗うトイレなんて、最初は誰も信じなかった。だけどね、ある若い技術者が、本気でそれを作ろうとしてたのよ」

「若い技術者?」

「そう、秀雄さんっていう人。わたしより少し年上だったかしら。真面目で不器用でね。毎日、試作のトイレに座って実験してたの。熱湯を浴びて、よく“あっつううっ!”なんて叫んでたっけ」

 祐樹は思わず吹き出した。

「そんな危ない実験、命がけじゃないですか」

「そうよ。でもね、その人たちがいなかったら、今のトイレはなかったの。あの頃は、トイレなんて汚いもの、って誰もが思ってたのよ。だけど、彼は“清潔にできる時代が来る”って信じてたの」

 おばあちゃんの声が、少し誇らしげに響いた。

 祐樹は、心の奥がじんわりと温かくなるのを感じた。

 こんな町にも、こんな人たちがいたのか。自分の祖父のような誰かが、未来を信じて働いていた時代が。

「ねえ祐樹くん、あんた、あの頃のこと、卒論にでも書いたら?」

「えっ、いいかも。おばあちゃん、今度ちゃんとインタビューさせてください」

「いいわよ。お茶でも飲みながら、いくらでも話してあげる」

 そのとき、父の声がした。

「祐樹、ちょっと座ってみろ。動作確認だ」

「え、俺が?」

「いいから」

 祐樹は半信半疑で、シャワットトイレの蓋を開けた。便座はひんやりしていて、わずかに洗剤の匂いがした。

「スイッチ入れるぞー」

 父の声がした瞬間、シャワーの勢いが思いのほか強く、祐樹は「わっ!」と叫んで飛び上がった。

 慌てて立ち上がったままの彼の姿に——。

「きゃあ!」

 おばあちゃんが、お茶とお菓子を手に廊下に立っていた。

 しばらくの沈黙のあと、祐樹は真っ赤になって頭を下げた。

 「す、すみませんっ!」

 おばあちゃんは目を丸くしたが、やがて肩を震わせて笑いだした。

「ふふっ、やっぱり似てるわねえ」

「え?」

「昔の秀雄さんにそっくり。あの人も、実験中にお湯を浴びて飛び出してきたのよ。まるで歴史は繰り返すってやつね」

 祐樹は苦笑いしながら、胸の奥で不思議な感覚に包まれた。

 自分が生まれるずっと前に、この町で誰かが同じように汗を流し、同じように笑っていた——そんなことを思うと、遠い過去が一瞬、今とつながった気がした。

 窓の外では、セミの声が一段と強くなった。

 伊勢湾の向こうに、白い入道雲が立ちのぼる。

 常滑の夏は、まだ終わりそうになかった。

________________________________________




第2章 サニタリーノの誕生

 昭和四十年。

 焼き物の街・常滑の空には、今日もレンガの煙突から黒い煙がもくもくと立ちのぼっていた。

 海から吹く風が工場の屋根をなでては、土と汗の匂いを運んでくる。空気の中に、どこか鉄と粘土がまじったような、独特の湿り気が漂っていた。

 知多製陶株式会社——。

 衛生陶器、つまりトイレや洗面台をつくる会社としては、東海地方では名の知れた老舗だった。工場の敷地は東京ドーム一個分ほどの広さがあり、粘土を焼く焼成炉が何本も並んでいた。

 炉の温度は千二百二十度。

 窯のそばに立っているだけで、肌がじりじりと焼けるように熱い。働く人々は上半身にランニングシャツ、口元は手ぬぐいで覆い、頭には白い作業帽をかぶっていた。汗が流れ、腕をつたって地面にぽたぽたと落ちる。エアコンなど夢のまた夢。頼りになるのは、がらがらと音を立てて回る大きな扇風機だけだった。

 その一角に、他の部署とは少し雰囲気の違う区画があった。

 ベニヤ板で仕切られた簡易な小屋。入口には「開発設計課・実験室」と手書きの札がかけられている。中では、ひとつの便器が置かれ、そこに何本ものホースがつながっていた。床は水浸し。テーブルの上には図面と工具、そして、無造作に置かれた湯気の立つヤカン。

 ——これが、のちに“サニタリーノ”と呼ばれる温水洗浄便器の試作現場だった。

 そのトイレの上に座っている青年がいた。

 名は秀雄ひでお。二十三歳。岡山出身。大学を出て、この春に知多製陶に入社したばかりだ。赤いチェックシャツの上から作業着を羽織り、顔にはまだあどけなさが残る。

 だが、その顔は今、苦痛にゆがんでいた。

「う、うわああっ! あっつううっ!!」

 便器の中から湯が噴き出した。

 秀雄は悲鳴を上げて飛び上がる。

 ベニヤの壁の外で見ていた男が、すぐさまノートに何かを書きつけた。

「温度調節、まだ甘いな。七十五度は高すぎる」

 男の名は阿部祐太朗あべゆうたろう。開発設計課の課長であり、この実験の責任者だった。

 四十代後半、眉が太く、無骨な顔立ち。現場では“鉄の阿部”と呼ばれるほど頑固だが、誰よりも部下思いで、技術に対しては真摯だった。

「でも課長、角度はよくなりましたよ! まっすぐ垂直に出てます!」

「角度がよくても、熱湯を浴びてたら命がいくつあっても足りんわ」

 阿部課長は苦笑しながら、机の上にあったオロナインのチューブを秀雄に投げた。

「塗っとけ。大事なとこが焼けたら結婚できんぞ」

 実験を見守っていた女性が、思わず口を押さえて笑った。

 彼女の名は芳江よしえ。総務部から臨時で配属された事務員で、十九歳。

 鹿児島の山あいの村から集団就職で常滑に来たばかりだった。背は低めで、頬は少し丸い。白い半袖の制服からのぞく二の腕が、若々しく健康的だった。

 実験の様子を記録するのが彼女の仕事だが、あまりの熱気に顔を真っ赤にしていた。

「課長、これ、毎日やってるんですか?」

「毎日だ。革命は一日にして成らず、だ」

「でも……お尻の実験って、ちょっと恥ずかしくないですか?」

「恥ずかしがってたら開発なんてできん。衛生陶器ってのは“人の恥を科学に変える仕事”だ」

 阿部の言葉に、秀雄は苦笑しながらもうなずいた。

 ——恥を科学に変える。

 その言葉が、彼の胸に妙に響いた。

 夜。

 工場の時計が午後十時を指しても、実験室にはまだ灯りがともっていた。

 他の作業員はとっくに帰宅し、工場の外は蝉の声が止んで静まり返っている。

 焼成炉の赤い光だけが、遠くでゆらゆらと揺れていた。

「秀雄、そろそろ帰るぞ」

「はい。でも……もう一回だけ試してもいいですか?」

「いいだろう。だが無理はするなよ」

 秀雄は再び便器に腰を下ろした。

 ボタンを押す。

 ——しゅわっ。

 温かい水流があたる。少し強いが、もう痛くはない。

 思わず息をのむ。

 人間の体が、こんなふうに清潔になっていく感覚。

 ただの道具のはずなのに、そこに“未来”の匂いがした。

「……すごいな、これ」

 つぶやいた声は、誰に聞かせるでもなく、工場の熱気に溶けた。

 ***

 阿部の家は、工場から坂を登った小高い丘にあった。

 赤い屋根の平屋建て。玄関の灯りがオレンジ色にともり、帰りを待つようにゆれている。

 秀雄は課長の家に下宿していた。遠く岡山から出てきたばかりで、社員寮が満室だったのだ。

「ただいま」

「おかえりなさい、あなた」

 迎えたのは、阿部の妻・春江。四十歳くらいの美しい人だった。おかっぱ髪にエプロン姿で、まるで映画女優の松原智恵子に似ていると、課長はいつも自慢していた。

「秀ちゃんも、今日も遅くまでご苦労さま。お風呂、わかしてあるわよ」

「ありがとうございます。あ、課長、先にどうぞ」

「いや、若いもんが先に入れ。うちはFRPの浴槽だぞ。知多製陶の新製品だ」

 課長は得意げに胸を張った。

 湯船につかると、汗と土の匂いがゆっくりと溶け出していく。

 秀雄は天井を見上げながら、ぼんやりと今日の実験のことを思い返した。

 熱湯、ノズル、角度、圧力——。

 課長の言う“革命”は、ほんとうに起こるのだろうか。

 風呂上がり、居間では晩酌が始まっていた。

 ほっけの塩焼きと、冬瓜の味噌汁。湯気の上に、昭和の家らしい温もりが漂っている。

「どうだ秀雄。お湯でお尻を洗うなんて、ばかげてると思うか?」

「いえ……思いません。すごいと思います」

「そうか。俺は本気で世界を変えたいんだ。トイレを恥ずかしい場所じゃなく、“清潔な部屋”にしたい」

 阿部の目は真剣だった。

 その横顔を見ながら、秀雄は胸の奥に小さな火が灯るのを感じた。

 ——この人のもとで働きたい。自分の手で、何かを変えてみたい。

 その夜、布団に横たわる秀雄の耳には、風鈴の音とともに遠くの海のざわめきが聞こえていた。

 ***

 翌朝八時。

 工場のサイレンが鳴る。

 秀雄は早朝から実験室にこもり、再びノズルの調整を始めていた。

 角度、圧力、温度。どれも微妙にズレる。少しでも間違えば、昨日のように熱湯地獄になる。

 阿部は手元の図面をにらみつけ、頭をかきむしった。

「くそっ……。水圧が一定じゃない」

「課長、こっちの弁を変えてみましょうか」

「いや、そうすると角度が変わる」

「じゃあ——」

「待て、秀雄。焦るな。焦るやつほどトイレを詰まらせる」

 横で記録を取っていた芳江が、くすっと笑った。

「課長、うまいこと言いますね」

「うまいか? 俺は真面目に言ってるんだぞ」

「はいはい」

 芳江は軽く頭を下げ、頬を赤らめた。

 昼休み。

 食堂では、焼き魚の匂いと笑い声が混ざり合っていた。

 だが開発課の三人だけは、いつものように実験室で弁当を広げる。

 阿部は湯気の立つご飯をかきこみながら、言った。

「秀雄、芳江ちゃん。うちの開発は、社内でも“変人部屋”と呼ばれてる」

「変人部屋?」

「タイルでも便器でもなく、“おしりを洗う”なんて、笑われてるんだよ。だがな、社長だけは信じてる。『未来のトイレは清潔と快適だ』ってな」

 阿部は箸を置き、真剣な目を二人に向けた。

「いつか、みんながこのトイレを当たり前に使う時代が来る。そのとき、“サニタリーノ”の名が世界に広がるんだ」

 芳江は目を丸くした。

「世界……ですか?」

「そうだ。スイスやドイツの病院ではもう温水洗浄が始まってる。俺たちがやらなきゃ、日本は遅れる」

「すごい……課長、夢がありますね」

 秀雄は、思わず口にした。

 だが阿部は、静かに首を振った。

「夢じゃない。使命だ」

 その言葉の重さに、二人は息をのんだ。

 芳江は、自分がいま、とても大きな時代の転換点に立ち会っている気がしてならなかった。

 ***

 夕方、実験が終わるころ。

 焼成炉の赤い炎が沈み、外は薄暮に包まれた。

 秀雄が片付けをしていると、芳江が手ぬぐいで額の汗をぬぐいながら言った。

「ねえ、秀雄さん。いつかこのトイレ、うちにもつけられるかな」

「もちろんですよ。もっと安くて安全なものにして、誰の家にも置けるようにします」

「ふふっ、頼もしいわね」

 芳江の笑顔に、秀雄の胸が高鳴った。

 頬が赤くなる。けれど、その熱は炉のせいだけではなかった。

 工場の外に出ると、空には群青色のグラデーション。

 遠くの海から、潮の匂いが届いた。

 その風に吹かれながら、秀雄は心の中でつぶやいた。

 ——この町で、この仲間となら、きっと未来を作れる。

 夜の常滑に、三つの影が並んで歩いていった。

 焼き物の煙突の向こうに、星がひとつ、またひとつ灯り始めていた。

________________________________________


第3章 熱風の工場と青春の恋

 昭和四十一年の夏。

 常滑の街は、昼も夜も焼き物の熱気に包まれていた。

 工場の煙突から立ちのぼる黒煙は、真夏の入道雲と混ざり合い、空を灰色に染めていた。

 蝉の声すら、熱に溶けて遠くでくぐもって聞こえる。

 知多製陶の開発設計課では、今日も実験室の小屋に水の音が響いていた。

 しゅわっ、しゅわしゅわっ——。

 ノズルから噴き出すお湯が便器の中で乱れ、秀雄は思わず身をのけぞらせた。

「も、もうだめです課長……おしりが限界です」

 秀雄は泣きそうな声をあげながら、タオルで腰を押さえた。

 連日の実験で皮膚が真っ赤にただれている。軟膏を塗っても、熱湯の刺激が治まることはなかった。

「ふむ……角度は悪くない。だが水圧が強すぎるな」

 阿部課長は図面をのぞきこみ、眉をひそめた。

 「角度」「温度」「圧力」——この三つのバランスを取るのが、開発の最難関だった。

 どれか一つでも狂えば、ただの危険装置になる。

「課長、ノズルの動きが遅れるんです。出るタイミングが合わない」

「バネか……いや、構造そのものが違うのかもしれんな」

「でも、もう一ヶ月以上この調整ばかりですよ」

「それでもやるんだ、秀雄。諦めたら、そこでトイレは終わりだ」

 熱気と水蒸気が充満する実験室の中で、秀雄は深呼吸した。

 汗がつたって、作業着の背中をぬらす。

 天井の古い扇風機が、がらがらと音を立てて回り続けていた。

 どこかで蛍光灯がチカチカと瞬くたびに、空気の振動が肌を刺すようだった。

「芳江ちゃん、水温は?」

「えっと……五十度です。前回より五度低いです」

「よし。じゃあ秀雄、もう一度頼む」

「……はい」

 秀雄は苦笑いしながら、また便座に腰を下ろした。

 この瞬間ばかりは、まるで戦場へ行く兵士のような気持ちになる。

 深呼吸、スイッチ、そして覚悟。

「いきます!」

 ——しゅわっ。

 温かな水流が、狙った場所にぴたりと当たる。

 秀雄の目が見開かれた。

「課長! 今度は……当たりました!」

「本当か!」

 阿部はすぐにノートにメモを取り、芳江が温度計を確認する。

「温度も一定です。角度もズレていません!」

「やったな!」

 三人の顔が汗に輝いた。

 小さな実験室に、歓声と笑い声が弾けた。

 そのとき、外の風がふっと入り、ベニヤ板のすきまから光が差し込んだ。

 ——未来がほんの少し、見えた気がした。

 ***

 昼休み。

 社員食堂は、焼き魚と味噌汁の香りでいっぱいだった。

 食堂の奥には大きな扇風機があり、風の流れに合わせてご飯粒が舞い上がる。

 秀雄と芳江は、並んで麦茶をすすっていた。

「さっきの成功、すごかったですね」

「まだ成功とは言えません。課長が“再現性が大事だ”って言ってました」

「真面目なんですね、秀雄さんって」

「そうかな。だって、芳江さんだって毎日、暑い中よく記録取ってくれてるじゃないですか」

「私? わたしは……ただの事務員ですよ」

「そんなことない。芳江さんがいると、みんな元気になる」

「もう、そんなこと言って……」

 頬を赤らめて笑う芳江。その笑顔が、工場のざらついた空気をやわらかく包んだ。

 そのときの彼女の目の輝きを、秀雄は一生忘れないだろう。

 午後のサイレンが鳴ると、また実験室へ戻る。

 あの小さな小屋こそが、三人の戦場だった。

 新しいノズル、改良されたパイプ、温度センサー。

 少しでも調子が悪ければ、すべて最初からやり直しになる。

 それでも、秀雄は心が折れなかった。

 ——芳江の笑顔を、もう一度見たい。

 その思いが、彼を動かしていた。

 ***

 ある夕暮れ。

 外では、雨がぽつぽつと降り始めていた。

 実験が終わり、片付けをしていた秀雄に、芳江が声をかけた。

「ねえ、ちょっと寄り道しませんか?」

「え? 寄り道?」

「はい。工場の裏の坂を上がると、海が見えるんです」

 芳江が、ビニール傘を差し出した。

 ふたりで一つの傘をさして歩き出す。

 道端の水たまりに、街灯のオレンジ色が揺れていた。

「わあ……ほんとに海だ」

 坂の上から見下ろすと、伊勢湾の向こうに夕焼けが広がっていた。

 雨雲の切れ間から差し込む光が、まるで金色の橋のように海面に伸びている。

「常滑って、きれいなところですね」

「うん。最初は田舎だと思ってたけど、今はこの景色が好きです」

 秀雄の言葉に、芳江がうなずいた。

「わたしも。ここに来てよかった」

 静かな雨音。遠くで汽笛が鳴る。

 秀雄は、ふと隣を見た。

 肩が少し触れただけで、胸の鼓動が跳ね上がった。

「……秀雄さん」

 名前を呼ばれた瞬間、時間が止まったように感じた。

 芳江の瞳が、雨粒を受けてきらりと光る。

 何かを言おうとしたが、声にならなかった。

 ただ、胸の奥が熱くて、言葉が出なかった。

 ——その夜、秀雄は眠れなかった。

 ***

 翌週の日曜。

 知多半島を走る名鉄電車の中で、秀雄は緊張していた。

 手には映画のチケット。

 「サウンド・オブ・ミュージック」——芳江が見たいと言っていた作品だ。

 待ち合わせ場所の名古屋駅の時計台に、彼女は少し遅れてやってきた。

 白いブラウスに薄い青のスカート。いつもの作業服とは別人のように見えた。

「待った?」

「い、いえ……今来たところです」

「ふふ、映画デートなんて初めてだわ」

 彼女の笑顔に、秀雄は心臓が跳ねた。

 二時間の上映中、秀雄はストーリーよりも、横顔ばかりを見ていた。

 エンドロールの音楽が流れるころ、二人の距離はもう自然に近づいていた。

 映画の帰り道。

 名古屋の街は夕暮れに染まり、アスファルトがオレンジ色に光っていた。

 屋台のたこ焼きの匂い、喫茶店から漏れるピアノの音。

 昭和の街の喧騒が、二人の世界をやさしく包み込んでいた。

「ねえ秀雄さん」

「ん?」

「わたし、もっとこの仕事を知りたい。トイレのこと、サニタリーノのこと」

「本当に?」

「うん。だって、誰もやらないことをやってるでしょ? それってすごく素敵だと思う」

 その言葉に、秀雄は胸が熱くなった。

 “恥を科学に変える”——課長の言葉がよみがえる。

 もしかしたら、自分たちがやっていることは、恥ずかしいどころか誇るべき仕事なのかもしれない。

「ありがとう、芳江さん。……俺、もっと頑張ります」

「うん。応援してる」

 小さな声で交わされた約束。

 それが、二人の恋の始まりだった。

 ***

 工場では、相変わらず過酷な日々が続いた。

 温度計、圧力計、バルブ、配線。

 ノズルは改良を重ねるたびに複雑になり、失敗するたびに課長は苦笑いした。

 だが、秀雄の心にはもう迷いはなかった。

 いつか芳江と笑い合える日を夢見て、何度でも便器に座った。

「おしりがもうひりひりです」

「なら今日は休め」

「いえ、もう一回やります」

 阿部課長が呆れ顔でうなずく。

「……若いってのは、すごいな」

 夕陽が射し込む工場の隅で、三人の影が重なった。

 焼成炉の赤い光が、まるで希望の炎のようにゆらめいていた。

________________________________________


第4章 ノズルの奇跡

 昭和四十二年の冬。

 工場の窓の外には、うっすらと雪が積もっていた。

 煙突から上がる黒煙が冷たい風に揺れ、空へと溶けていく。

 だが開発設計課の実験室には、相変わらず夏のような熱気がこもっていた。

 焼成炉の熱、モーターの唸り、水の蒸気——。

 あらゆるものが混ざり合い、白い湯気の中で人の姿が霞んで見えた。

「課長、またノズルが詰まりました」

「弁を開けろ。圧が抜けてる」

「開けましたけど……あれ、逆流してます!」

「ちっ……! 止めろ!」

 しゅうううっ——。

 熱湯が吹き出し、壁に当たって音を立てた。

 芳江が悲鳴を上げ、阿部と秀雄が慌てて蛇口を閉める。

 その瞬間、ベニヤの壁がびしゃびしゃに濡れた。

「もう限界です……この構造じゃ安定しません」

 秀雄は膝に手をつき、息を切らした。

 毎日、十回以上の実験を繰り返している。

 温度、角度、水圧、すべてが少しでも狂えば失敗。

 それでも、誰もやめようとは言わなかった。

「小倉陶器が便座型を出すらしいぞ」

 阿部課長の低い声が響いた。

 「どんな便器にも後づけできるタイプだ。安いし安全だそうだ」

 芳江が顔を上げる。

 「そんな……じゃあ、うちのサニタリーノが負けちゃうんですか?」

 「負けられん。……だが、このままじゃどうにもならん」

 重い沈黙。

 時計の針が、静かに午後十時を指した。

 工場の外は真っ暗で、風の音だけが壁を揺らしていた。

「秀雄、今日は上がれ。あとは俺がやる」

「でも——」

「命令だ」

 阿部の声は厳しかった。

 秀雄は悔しそうに唇をかみ、工具を片付けた。

 ***

 夜の常滑の坂道を、秀雄はひとり歩いていた。

 吐く息が白い。

 街灯がオレンジ色に光り、凍ったアスファルトを照らしている。

 寮へ帰る途中、ふと立ち寄った自販機で缶コーヒーを買った。

 缶の熱が冷えた指先にしみる。

 見上げると、遠くの伊勢湾の上に、白くかすんだ月が浮かんでいた。

 ——本当にこのままでいいのか。

 課長はきっと自分のすべてをかけている。

 けれど、自分はまだ何も成果を出せていない。

 「俺は……ただのモルモットかもしれないな」

 独り言のように呟くと、冷たい風が返事のように頬をなでた。

 その夜、布団に入っても眠れなかった。

 天井を見つめながら、ぼんやりと工場のことを思い出す。

 あの熱気、あの音、あの焦げた粘土の匂い。

 そして——芳江の笑顔。

 あの笑顔を、もう一度見たい。

 それだけで、どんなに苦しくても頑張れた。

 ***

 翌日。

 工場に出勤すると、阿部課長の姿が見えなかった。

 机の上には書きかけの図面だけが残されている。

 「課長、帰ってないんじゃ……」と芳江が不安そうに言った。

 「家に寄ってみます」と秀雄が立ち上がる。

 課長の家は、坂の上の土管坂を登った先にある。

 風が強く、砂埃が舞って目に入る。

 玄関の赤い外灯がゆらゆらと灯り、家の中からは焼酎の匂いがした。

「課長、いるんですか!」

 引き戸を開けると、阿部がテーブルにうつ伏せて寝ていた。

 傍らには空になった焼酎の瓶。

 奥さんが困ったように微笑んだ。

 「すみませんねえ。昨夜からずっと考え込んでいて……」

 阿部は目を覚まし、秀雄を見た。

 「すまん、愚痴を聞かせてくれ」

 声には疲労と諦めがにじんでいた。

 「俺はな、サニタリーノで日本の衛生を変えるつもりだった。けど、会社はもう見切りをつけたらしい。営業は“採算が取れない”の一点張りだ」

 「そんな……」

 「俺たちは理想を追いすぎたのかもしれん」

 阿部は苦笑し、机の上の図面をくしゃりと丸めた。

 秀雄は黙って立ち上がり、玄関の外に出た。

 外の空気は冷たく、胸の奥が痛むほどだった。

 「諦めるのか……俺たち、ここまでやってきたのに……」

 ポケットに手を入れたとき、指先に何か硬いものが触れた。

 それは、小さな金属の棒。

 ——車のアンテナだった。

 亡くなった父が乗っていた古いクラウンから、廃車のときに外して取っておいた記念品だ。

 無意識のうちに、いつも持ち歩いていた。

 秀雄はそのアンテナを引き出してみた。

 カチカチ、と音を立てて、銀色の棒が伸びていく。

 その伸縮する感触に、ふと何かが閃いた。

「……そうか」

 秀雄は走り出した。

 坂道を一気に駆け下り、工場の門へ向かう。

 夜明け前の冷気が肺を刺す。

 息が切れても足を止めなかった。

 ***

 工場の実験室に灯りがついた。

 秀雄は机の上にアンテナを置き、スケッチブックを開く。

 「ノズルの伸縮構造……車のアンテナの原理で……」

 手が勝手に動く。

 書きながら、頭の中で映像が広がった。

 水圧で可動する内部シャフト。角度調整はスプリングで。

 そして、噴出のタイミングを弁で制御すれば——。

 夜が明けるころには、設計図が出来上がっていた。

 そこへ、阿部課長が現れた。

 「何をしてるんだ、秀雄」

 「課長、見てください!」

 秀雄は図面を差し出した。

 「アンテナをヒントにしたノズルです。これなら、伸び縮みして狙った位置に届きます!」

 阿部は目を見開いた。

 手に取ったアンテナを伸ばしてみる。

 シャッ、シャッと滑らかに動く金属の感触。

 「……まるで、これのために作られたようだな」

 その顔に、久しぶりに笑みが戻った。

 「よし、やってみよう!」

 その日から、二人は徹夜で試作を始めた。

 古い部品を外し、バネを切り、金属パイプを削る。

 工具の音が夜通し響いた。

 芳江も、食事やお茶を運びながら、懸命にサポートした。

 窓の外には、冬の星が瞬いている。

 時折、焼成炉の火が風に揺れて、室内を赤く染めた。

 そして、ついに試作一号が完成した。

 ノズルの先端には、アンテナ式の伸縮パーツ。

 シンプルだが、今までになく滑らかな構造だった。

「さあ、秀雄。試してみろ」

「はい……!」

 秀雄は便座に腰を下ろし、スイッチを押した。

 ——しゅわっ。

 柔らかく、しかし確実に的を射た水流が、彼の表情を変えた。

 「課長……成功です!」

 「よし!」

 阿部は拳を握りしめた。

 芳江が思わず拍手する。

 「すごい! 本当にできたんですね!」

 その声に、三人の笑いが重なった。

 安堵のせいか、秀雄はそのまま便座に座ったまま、うとうとと眠ってしまった。

 「おいおい、寝るなよ。……まったく、こいつは」

 阿部が苦笑し、芳江は顔を赤らめて手で目を覆った。

 「きゃっ」

 だがその声も、嬉しそうだった。

 長い戦いの果てに、ようやく光が見えた瞬間だった。

 ***

 数週間後。

 サニタリーノ新型は正式に完成した。

 その名も「サニタリーノⅡ」。

 新聞広告には、“日本初・温水洗浄一体型トイレ”の文字が踊った。

 一台三十五万円。

 高価だったが、それでも話題になった。

 特に医師や実業家、芸能人の間で注目を集め、販売は予想を上回る勢いだった。

「やりましたね、課長!」

「いや、やったのはお前たちだ」

 阿部は照れくさそうに笑い、静かに言った。

 「これで、日本のトイレが変わるぞ」

 工場の屋根の上、白い雪がゆっくりと溶けていく。

 それはまるで、凍りついていた未来が少しずつ動き出したかのようだった。

 秀雄は空を見上げた。

 あのアンテナが、あの夜のひらめきが、ここまで導いてくれたのだ。

 風が頬を撫でる。

 遠くで汽笛が鳴り、伊勢湾の方から潮の匂いが届いた。

 ——これが、俺たちのサニタリーノだ。

 秀雄の胸に、確かな誇りが満ちていった。

________________________________________


第5章 受け継がれる技術

 昭和四十三年の春。

 常滑の桜並木が、薄桃色の花びらを風に舞わせていた。

 工場の煙突の向こうに見える山の稜線がやわらかく霞み、伊勢湾の光がきらきらと揺れている。

 サニタリーノⅡが発売されて三ヶ月。

 知多製陶の工場には、久々に明るい空気が流れていた。

「課長! 販売部から連絡がありました! 東京のデパートで展示即売会を開いたら、初日に十台売れたそうです!」

「おお、そうか!」

 阿部課長の目に、一瞬光が宿った。

 「まだまだ高価な商品だが、ようやく時代が動き出したな」

 工場のあちこちで拍手が起こった。

 新聞や雑誌でも「夢の清潔トイレ」「文明の香り漂う座り心地」などと紹介され、世間の関心も高まりつつあった。

 秀雄たちは連日、修理依頼や設置指導のために全国を飛び回る忙しさだった。

 ***

 しかし、喜びの陰に、まだ多くの課題があった。

 「またノズルが動かない」「お湯が出ない」「熱すぎる」——。

 販売台数が増えるほど、クレームも比例して増えていった。

 特に、電気や水圧に関するトラブルは深刻だった。

 「うちの親分の尻にやけど負わせてどうしてくれる!」と怒鳴り込まれたこともある。

 電話口の怒声を聞きながら、秀雄は頭をかきむしった。

「すぐに伺います!」

 工具箱を抱え、電車を乗り継いで修理に向かう。

 日曜も祝日もなかった。

 ある時は東京、またある時は神戸へ。

 時には、夜行列車の中で仮眠を取りながら、翌朝には顧客宅の玄関に立っていた。

「また来たか。まるでドクター便座だな」

 阿部課長が苦笑する。

 「修理できるのは、今のところお前と俺ぐらいだからな」

 「課長こそ、もう少し休まないと……」

 「休んでたら、便座は冷えちまう」

 二人の笑い声が、疲れた体を少しだけ軽くした。

 全国をまわるたびに、秀雄は感じていた。

 ——人の暮らしの中に、自分たちの作ったものがある。

 その重みと誇りを。

 ***

 そんなある日。

 秀雄は名古屋への修理帰りに、芳江を誘って喫茶店に寄った。

 窓際の席からは、夕暮れのオレンジ色の光が街に落ちている。

 彼女は、会社帰りの制服姿のまま、少し緊張したようにコーヒーを飲んでいた。

「芳江さん、聞いてほしいことがあるんです」

「え?」

「課長に言われました。……“これからは自分の人生も考えろ”って」

「どういう意味?」

「つまり……俺、この仕事を一段落したら、常滑に戻ろうと思うんです。父の店を手伝おうかと」

 芳江は目を見開いた。

 「やめちゃうの?」

「サニタリーノは、もう完成しました。あとは後輩たちが引き継げばいい。……それに、地元でもこの技術を生かせると思うんです。リフォームや取り付けで、もっと多くの人に広めたい」

 芳江は少しの間、黙っていた。

 そして、小さくうなずいた。

 「……そうね。あなたが作ったもの、きっとみんなの暮らしを変えるものね」

 カップを置き、少し笑う。

 「じゃあ、わたしもついて行っていい?」

 「えっ?」

 「あなたがいないと、うちの実験室、静かすぎてつまんないの」

 その言葉に、秀雄の胸が熱くなった。

 「……ありがとう、芳江さん」

 店を出ると、街の灯りがともり始めていた。

 二人の影が並んで伸び、風に揺れて溶けていく。

 常滑で始まった二人の時間は、ようやく同じ未来へ歩き出そうとしていた。

 ***

 その冬、二人は結婚した。

 披露宴はこぢんまりとした町の料亭で行われた。

 工場の仲間たちが集まり、笑い声が絶えなかった。

 阿部課長が乾杯の音頭をとった。

「こいつらは、会社の未来を作った夫婦だ!」

 会場がどっと沸く。

 秀雄は真っ赤になって頭を下げた。

 芳江は白い着物姿で、恥ずかしそうに笑った。

 その笑顔を見て、課長は少し目を細めた。

 「……お前たちがいたから、俺は最後までやれたんだ」

 披露宴の帰り道。

 冬の空気が澄みきり、星がいくつも瞬いていた。

 駅のホームで列車を待ちながら、秀雄はポケットからアンテナを取り出した。

 あの夜の、奇跡の原点。

 指で伸ばしてみると、金属の棒が月光を反射してきらめいた。

 「……この技術、いつか必ず受け継いでいこう」

 そう心に誓った。

 ***

 昭和五十年代に入ると、日本の家庭に温水洗浄便座が一気に広がっていった。

 各メーカーが競うように新製品を出し、ついに「おしりを洗う時代」が到来したのだ。

 知多製陶も社名を「CHITAX」に改め、国産トップメーカーとして成長した。

 かつて“変人部屋”と呼ばれた開発室の夢は、現実となった。

 常滑では、北野設備工事店の看板が変わらずに掲げられていた。

 店の前には、秀雄と芳江の二人が立っている。

 青空の下、軽トラックの荷台に積まれた新品のシャワットトイレが、陽に照らされてまぶしく光った。

 店の窓からは、子どもの笑い声が聞こえる。

 小さな男の子——祐樹。まだ幼稚園の年少組だ。

 父の工具箱を開けては遊び、母に叱られて泣いていた。

「こら、祐樹! それはお父さんの大事な道具だぞ」

「でもピカピカしてるんだもん」

 秀雄は苦笑して息子を抱き上げた。

 「このスパナは、おじいちゃんから譲り受けたんだ。大事にしないとな」

 「おじいちゃんって?」

 「岡山にいた俺の父さんだよ。……お前が大きくなったら、この店を頼むぞ」

 祐樹はまだ意味が分からないまま、父の胸に顔をうずめた。

 その小さな背中を、芳江が微笑ましそうに見つめていた。

 ***

 それからさらに月日が流れた。

 阿部課長は定年を迎え、名古屋の自宅で静かな余生を送っていた。

 ある年の夏、新聞の特集記事「日本の暮らしを変えた技術者たち」の欄に、“温水洗浄便座の父・阿部祐太朗”の名が載った。

 記事の端には、若き日の彼と、隣に立つ秀雄、そして助手の芳江の写真が小さく印刷されていた。

「懐かしい顔だな……」

 老眼鏡を外し、阿部は窓の外を見つめた。

 庭の向こうに見える桜の木が、ゆっくりと揺れている。

 「やっと時代が追いついたか……」

 ***

 昭和の終わり、そして平成のはじまり。

 北野設備は町の小さな工事店から、地域の住宅設備会社へと成長した。

 秀雄は七十を過ぎても現場に立ち、工具箱を手放さなかった。

 「現場に風を入れろ」が口癖だった。

 その言葉は、息子へ、そして孫の祐樹へと受け継がれていった。

 祐樹が大学二年生の夏。

 久しぶりに帰省した日、父と共に訪れた高台の団地で、あの北野芳江——つまり祖母——が語った物語。

 それが、祐樹にとって初めて知る「家の歴史」だった。

 祖父がどんな思いで技術を生み出し、どう生きたのか。

 笑いながら、泣きながら、人生を“おしり”から変えた人の物語。

 修理を終えた祐樹がトイレのスイッチを押したとき、勢いよく噴き出した温水に思わず飛び上がった。

 「きゃあ!」と笑う祖母の声。

 そして父が見せた一本の古いステンレスノズル。

 それは、五十年前に祖父が手にしたアンテナ式の原型だった。

「俺はこいつを“ヒデオ”って呼んでるんだ」

 父がそう言ったとき、祐樹の胸の奥が温かくなった。

 見えない糸のように、時代と人がつながっている気がした。

 夕暮れ、常滑の海に赤い陽が沈む。

 潮風が吹き、線香の煙がふわりと揺れる。

 祐樹は手を合わせ、祖父母の写真に微笑んだ。

 「……ありがとう。俺も、頑張るよ」

 どこか遠くで、風鈴がちりんと鳴った。

 それは、まるで祖父秀雄の笑い声のように、夏の空気の中へ溶けていった。

________________________________________


最終章 夜風とカピンの霊

 八月の夜。

 常滑の町を包む空気は、昼間の熱気をまだ少しだけ残していた。

 海辺から吹く風が、ゆるやかに家々の間をすり抜け、どこかで風鈴を鳴らした。

 「ちりん……ちりん」——その音を聞くたびに、祐樹はなぜだか胸が締めつけられる。

 父とふたりで、おばあちゃんの家——常滑西団地のB棟901号室——を後にした帰り道だった。

 夜空には、赤くにじむような満月がかかっている。

 昼間に修理したシャワットトイレは、いまごろ静かにお湯を蓄えているだろう。

 おばあちゃんは「これでまた安心して座れるわ」と笑っていた。

 その笑顔が、どこか懐かしくてたまらなかった。

 父が軽トラックのハンドルを握りながら言った。

 「お前、あのおばあちゃんに似てるな。昔から芯が強い人だった」

 「え? 俺が? どこが」

 「人の話を最後まで聞いてから動くところだ」

 祐樹は笑って、窓の外を見た。

 街灯の下を通るたび、潮風に乗って線香花火のような匂いがした。

 「なあ、父さん」

 「うん?」

 「おじいちゃんのこと、もっと教えてよ」

 父は少しだけ笑った。

 「お前が聞いてくるとは思わなかったな。……でも、そうだな。いつか話そうと思ってた」

 その夜、家に帰ると、父は仏壇の前に座った。

 仏壇の上には、祖父母——秀雄と芳江——の写真。

 二人は、まるでいまもそこに生きているかのように、穏やかに微笑んでいた。

 「これが、おじいちゃんとおばあちゃんか……」

 祐樹は初めて、真正面からその写真を見つめた。

 祖父は作業着姿で、工具箱を抱えている。

 祖母は、白い割烹着に花柄のスカーフをしていた。

 どちらも、少し照れくさそうに笑っている。

 「おじいちゃんは、根っからの技術屋だった。会社を辞めて店を継いでも、ずっと“改良”のことを考えてた。『シャワットトイレは人を救うんだ』って、真顔で言ってな」

 父は笑いながら、線香を立てた。

 「夜中に便座を分解して、おばあちゃんに怒鳴られてたよ」

 「……そんなに好きだったんだ」

 「好きというより、信じてたんだと思う。“人がきれいに生きる”ってことをな」

 祐樹は、そっとおりんを鳴らした。

 「ちーん」という高い音が、静かな部屋に広がる。

 その瞬間、背中に涼しい風が通り抜けた。

 ふと、窓の外を見ると、白いカーテンがゆらゆらと揺れている。

 まるで誰かが通り過ぎたように。

 「風が気持ちいいね」

 祐樹がつぶやくと、父がうなずいた。

 「お盆が近いからな。きっと帰ってきてるんだろう」

 その言葉を聞いたとたん、祐樹の胸の奥に、何か温かいものがこみ上げてきた。

 今日、おばあちゃんの家で聞いた“あの昔話”——。

 熱い工場、実験室の小屋、車のアンテナ。

 笑って、泣いて、怒って、夢を信じた人たち。

 ——あの時代に、生きていたおじいちゃんとおばあちゃん。

 祐樹はふと、思った。

 「もしかして、俺がいまシャワットトイレを直してるのも、おじいちゃんたちがそうしてほしいって思ってるからなのかもな……」

 声に出すと、少し照れくさかった。

 でも、不思議と胸が軽くなった。

 その夜、風が少し強くなった。

 外の街路樹がざわめき、遠くで雷のような音が響いた。

 祐樹は窓辺に立ち、外を見た。

 空には、夏特有の湿った月が滲んでいる。

 耳を澄ますと、どこかで「ぽちゃん」と水の音がした。

 ——カピン。

 その音に、祐樹ははっとした。

 どこかで聞いた気がする。

 小さな金属音。

 水滴が便座の中に落ちるような、柔らかい響き。

 祖父が修理中に何度も聞いたという“試験ノズルの音”——。

 祐樹の背筋に、すうっと冷たいものが走った。

 「カピン……?」

 もう一度、耳を澄ます。

 ——ぽちゃん、カピン。

 たしかに聞こえる。

 けれど、どこからともなく消えていく。

 祐樹は思わず笑った。

 「……もしかして、おじいちゃん?」

 その瞬間、風がふっと吹き抜けた。

 部屋のカーテンがふくらみ、線香の煙が円を描くように揺れた。

 まるで誰かが笑いながら頷いているようだった。

 「お前、ちゃんとやってるじゃないか」——そんな声が、心の中で聞こえた気がした。

 祐樹は静かに手を合わせた。

 「ありがとう……俺、これからも頑張るよ」

 目を閉じると、焼き物の街の夏の匂いが鼻をくすぐった。

 潮風、粘土、そして少しだけオゾンの匂い。

 遠くの伊勢湾の波がざざん……ざざん……と響いていた。

 夜更け。

 祐樹は作業机の引き出しから、古いノズルを取り出した。

 父から受け取った“ヒデオ”だ。

 金属の表面には、長年の使用でできた小さな傷がいくつもついている。

 そのひとつひとつが、祖父たちの努力の跡のように思えた。

 手に取ると、冷たいはずの金属が、ほんのり温かく感じられた。

 「すげえな……五十年経っても、ちゃんと生きてる」

 そうつぶやいた瞬間、ノズルの先端から小さな水滴がこぼれた。

 “ぽちょん”と音を立てて机に落ちる。

 祐樹は驚き、思わず笑った。

 「……やっぱり、おじいちゃんの仕業か」

 窓の外では、夜風が再び吹いた。

 カーテンがふわりと広がり、月明かりが部屋に射し込む。

 その光の中で、ノズルの金属が一瞬だけ銀色に輝いた。

 まるで、誰かがそこに立っているようだった。

 祐樹はその光景を見ながら、静かに目を閉じた。

 おじいちゃん。

 おばあちゃん。

 そして、この町のすべての人たち。

 みんなが、自分の背中を押してくれている気がした。

 やがて夜風がやみ、部屋に静寂が戻る。

 線香の香りがゆっくりと薄れていく。

 祐樹は布団に横になり、目を閉じた。

 まぶたの裏に浮かぶのは、焼き物の煙突の町と、白い実験室の光。

 ——あの時代の人たちが見ていた“未来”は、きっと今この場所にある。

 眠りに落ちる直前、祐樹の耳にまた、あの小さな音が届いた。

 ——カピン。

 その音は、優しく、温かく、そしてどこか懐かしかった。

 祐樹は微笑んだ。

 「……おやすみ、おじいちゃん」

 そして、常滑の夜風がそっと頬を撫でていった。


(了)




この物語は、昭和の町工場から生まれたひとつの“生活革命”を、人々の心の温かさとともに描いたものです。技術は、ただの便利さではなく、人を想い、人を笑顔にする力であることを、登場人物たちが教えてくれました。時代が変わっても、モノづくりの魂は風のように受け継がれていく——。そんな祈りを込めて、この物語を閉じます。

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