第ニ章 少女と平和主義なネオミュータント その一
【サイド、イロハのハ号】
核戦争後の世界で放射能の影響を受けた動物達は異形の怪物へと変貌、進化した。人々はそれらを総じて「ミュータント」と呼び、恐れ、避け続けた。ミュータントは無秩序に徘徊し、種によっては生き残った人間を捕らえては喰らうものもいる。その中でも最も恐れられているミュータントがネオミュータントである。
ネオミュータントはトカゲと人間の間のような姿である。長い尻尾の生えた二足歩行の姿を持ちながら、その身体は人間より巨大で異常に発達した筋肉に覆われている。彼らはただの怪物ではない。高い知能を持ち、獲物を狩るための策略さえ巡らせる。彼らの最大の特徴は、凶暴性と食性だった。ネオミュータントは人間の肉を何よりも好み、獲物を捕えると生きたまま食らうことさえある。
それゆえにネオミュータントは人喰い鬼として人々の間で語られ、忌み嫌われていた。
ところが何事にも例外というものがあるようで、ある所に不可思議なネオミュータントがいた。
「ヌゥう」
荒野が広がっていた。ひび割れた地面とまばらな枯れ草、所々に錆びた鉄骨や車両の残骸が転がっている。遠くには廃墟がおぼろげに見える。放射能を含んだ風が砂と灰を巻き上げる。遠くの地平線まで人影ひとつ見えなかった。その荒れ果てた大地を一体のネオミュータントが重い足取りで進んでいた。
そのネオミュータントはイロハのハ号と呼ばれていた。
かつてイロハのハ号には仲間がいた。同じネオミュータントの群れの中で生きる術を学び、共に戦った。しかしイロハのハ号は他のネオミュータント達とは違っていた。ネオミュータントが野獣のように人間を追い、屍肉を貪る中で、イロハのハ号は人の肉を拒んだ。枯れかけた草や芋を口にし、人狩りを避けた。
それはそのイロハのハ号が元人間であったからだ。イロハのハ号は自分が突然変異する前の記憶をおぼろげに思い出していた。人間が人間を食べることはできない。
「お前のやり方では生き残れない」
そう言われ続けても、イロハのハ号は変わらなかった。力の象徴として肉を食らい、弱者を支配する群れの掟を受け入れられなかった。
ある日、ついに仲間達はイロハのハ号を見限った。
「お前は異端者だ。俺達の群れには要らない」
怒号と共に石が飛んできて、背中に鈍い痛みが走った。だがイロハのハ号は反撃しなかった。ただ背を向け、護身用に一本の野太刀と一本の小太刀、わずかな水と食料だけを持ち出してその場から去った。
そうして一か月ほどイロハのハ号は荒野や廃墟、森の中を歩き続けた。景色こそ違うがどこも死を連想させるような灰色の世界だった。それが果てしなく続いていた。足は鉛のように重くなっていく。飢えと渇きと疲労で意識が薄れ、視界が揺らぐ。倒れそうになる度、イロハのハ号は大地に野太刀を突き立てて自らを奮い立たせた。
「フウ……」
ある日の夕方、イロハのハ号は辿り着く。
そこは終点町と呼ばれている町だ。つまりは人間のいる所だ。
イロハのハ号は知っていた。人々はミュータントを恐れ、排除しようとするだろうということを。だがもう体力の限界だった。生きるためにイロハのハ号は最後の力を振り絞り、町へ足を踏み入れた。
その町の外れに広大なゴミ山があった。さまざまな廃棄物が無造作に積み重ねられていた。足元にはガラスの破片や錆びたネジ、紙くずが散らばり、ところどころ苔や雑草が根を張っている。空には鳥が舞い、猫のミュータントが何かを探して歩き回っている。
イロハのハ号は疲労と渇きと空腹でふらつく体を休めるため、瓦礫の山の傍に座り込んだ。そこで辺りの様子を伺う。
静かな場所だった。肌を刺すような冷たい酸性雨が降っているものの、まだ夕方で人が活動しやすい時刻だ。だがここに人はいない。
いや、イロハのハ号は八人の子供達を見つけた。リーダー格の少女の周りを囲むように小さな七人の子供達が群がっていた。リーダー格の少女は目が見えていないのか、両目に黒い眼帯をしていて小さな子供達が先導している様子だった。
イロハのハ号は作業をしている子供達が気になり、何となく静かに後を追っていた。
「皆ありがとね。危ないからもう少し離れて良いよ」
「はーい」
リーダー格の少女の体はぶかぶかの宇宙服のような古い強化外骨格に包まれている。
強化外骨格とは元々は軍事用や工業用途に設計され、兵士や作業員が重装備を身にまといながらも自在に動けるよう開発された物である。パワーアシスト機能を持ち、装着者の筋力を何倍にも増幅し、通常では持ち上げることすらできない重量物の運搬を可能にする物である。
少女の着ている強化外骨格は旧式のようで、あちこちに錆が浮き関節部はガタついているようだった。そんな代物で少女は両腕に巨大なドラム缶を抱えていた。危険だった。さらに見ればドラム缶の側面には危険物を表す標識が刻まれている。何か危ない物が詰まっているのかもしれない。危険だった。
このリーダー格の少女は他の子供達に危険が及ばぬように気を配っているようだ。きっと優しい子なのだろう。
「はぁっ……よい……っしょっと……」
「お姉ちゃん疲れた? 少し休む? 僕、代わってあげたいけど、生身の僕達じゃ強化外骨格を操作できない……」
「なぁに、これくらい大丈夫だよ!」
少女は子供達に導かれるままゆっくりと慎重に歩を進める。そしてゴミ山の一角に掘られた巨大な穴へ向かう。
「あと少し……」
少女は息を整え、最後の一歩を踏み出した。慎重にドラム缶を穴の縁に設置された昇降機構付きの足場へと運び、ゆっくりと手を離す。すると昇降機構付きの足場が大きな音を立てながら動き出し、ドラム缶を穴の底へ運んで行った。
「ありがとうございます。皆が先導してくれたおかげで助かりました」
少女は子供達にお礼を言う。すると子供達は解散してどこかへ行ってしまった。
少女は穴の近くに設置された資材置き場に行く。少女は肉体の一部を機械化したサイボーグなのだろう。もぞもぞ自身の体を動かし、背中の脊髄と直結している太い六本ほどの端子を引き抜き、下半身の強化外骨格を脱いだ。そして首に直結している三本の端子を引き抜き、上半身の強化外骨格を脱いだ。
そして杖を足下に突いて廃棄物を避けながら慎重に歩き出す。
少女の帰り道とイロハのハ号のいる方向がたまたま一致していたらしく、少女がどんどんイロハのハ号に近づいて来る。この目の見えない少女がイロハのハ号の存在に気がついている様子はない。
イロハのハ号はネオミュータントの自分の存在が人に知られれば、驚かせて騒ぎになってしまうと焦った。だが同時に人間の社会で生きていくならば、どこかで人間と接触しなければならないとも焦った。イロハのハ号は困惑して思考が一時停止した。
そんなイロハのハ号をよそに、ネオミュータントの存在に気づかない少女が目の前を通り過ぎる。
「痛ッ」
今は冷たい酸性雨が降っていた。目が見えていない少女は水たまりの泥に足を取られて派手に転んでしまった。着ていたジャンパーが泥まみれになる。少女の綺麗な顔にも泥がついてしまった。
「!」
イロハのハ号は少女に手を差し伸べるべきか迷った。しかし少女は一人で、ちゃんと自分の力で杖を取って立ち上がった。
「……」
イロハのハ号の傍にはゴミが沢山あった。その中に壊れたビニール傘があった。イロハのハ号は少女に気づかれないように静かにそれを手に取り、少女に雨が降り掛からないようにそっと少女の頭上で傘を差す。
「?」
雨が降り掛からなくなった少女は不思議そうに空を見上げ、首を傾げた。しかしそのまま少女は歩き出す。ゴミ山の瓦礫の間をイロハのハ号と少女は静かに進んでいた。イロハのハ号は気づかれぬよう慎重に傘を差したまま、少女の後ろをついて歩いた。
少女が足下に転がる廃棄された大きな家具に気づき、ゆっくりそれを避けるように進路を変えた。その瞬間、イロハのハ号の足元で小石が転がった。
カランと音がした。
少女はピクリと動きを止めた。
「……」
イロハのハ号は息を殺し、じっと気配を消す。
「……うん?」
少女の耳がわずかに動き、何かを探るように首を巡らせた。しかし少女はすぐに前方を向き、歩き出す。
イロハのハ号はほっと安心しながらも、なぜ自分がこうして少女を観察しているのか分からなかった。ただ少女の存在が気になった。そのままイロハのハ号は音もなく再び少女の後をついて歩いた。
ゴミ山の斜面にトタン板や廃材を寄せ集めて作られた小さなバラック小屋がぽつんと建っている。屋根は歪み、壁には色あせた看板やプラスチック片が隙間を埋めるように貼り付けられている。窓も扉もまともな形はなく、布きれやベニヤ板で寒さをしのいでいる。まるでゴミ山の一部がそのまま形になったような、寂しくも逞しい小屋だった。どうやら少女はスラムの住人で、ここが少女の家らしい。
「……」
「……」
少女は家の扉に手を掛け、意を決したように振り返る。
「……」
「……あの、ここまでありがとうございます。……あたしの家でお茶でも飲んでいきませんか?」
イロハのハ号は少女に自分の存在がバレていたことに気づく。目が見えていないといってもこれだけ長い時間一緒に歩いていたら当たり前かなとも思う。
「……う、ム」
イロハのハ号はそう返事をした。
イロハのハ号は少女がネオミュータントの自分にお礼を言ってくれたことが嬉しかった。そして少女は自分を家に迎え入れてくれるようであった。イロハのハ号は初めて自分を受け入れてくれる人間を見つけて嬉しかった。心に温かい灯がともったようだった。