第七話『暗号名:NOX』
“ノクス”――闇を意味するその名を掲げる組織。
かつて国の裏で兵器開発を進め、記憶移植や人格分裂の研究に手を染めていた。
三咲涼子をめぐる影が、ついに正体を現す。
天城リオナ――否、“それだったもの”と別れた俺は、一人で署に戻った。
午後9時。刑事課の灯りはまばらだ。
ただ一つ、部屋の奥でまだ光っているデスクがあった。
「……課長。帰ってなかったんすね」
「お前が何をしていたか、だいたい想像はついてるよ、日向」
その声には怒りも呆れもなかった。ただ、疲れがあった。
湊達也、俺の直属の上司。警視庁第八署・刑事課課長。
40代後半、無精髭に乱れたネクタイ、そしてどこか諦めを背負った背中。
「ノクスって言葉、聞いたことありますか」
「……聞きたくなかったが、ある」
課長はゆっくり立ち上がると、窓のブラインドを閉め、部屋の明かりを半分落とした。
「俺が公安にいた頃、国防技術庁の外郭団体に“Nox Initiative”ってのがあった。表向きは“意識の再構成”によるトラウマ治療や記憶補完の研究機関。だが裏では……」
「“記憶の兵器化”ですか」
「ああ。兵士に死んだ仲間の“戦術知識”をインストールして、即席のエリートを作る。人格と記憶の“断片”を合成し、命令だけを受け入れる人間を創る……。狂った計画だった」
「でも実行されたんですね」
「いくつかの実験体がいたと聞いた。番号で呼ばれてたらしい。No.1からNo.13まで。成功例はたった一つ。……三咲涼子だ」
やはり、すべてが繋がっていた。
「彼女が何か“鍵”を握っていると?」
「可能性は高い。だから俺は、お前に言っておく。これ以上深入りするな」
「無理っすよ。――もう、手遅れですから」
課長の表情がわずかに動いた。
「俺も、昔、ある事件に深入りして、同僚を一人失った。そのとき、自分が“何も守れなかった”って思いが、今でも消えねぇんだ」
「……じゃあ、俺はその逆を証明したい。守れた、って。証明したいんです」
「お前のその性分、嫌いじゃない。だが――」
言いかけた課長の机上に、内線の赤ランプが点滅した。
「はい、湊だ……何?」
課長の声が低くなる。
「それは本当か?……わかった、すぐ向かう」
「何かあったんですか?」
「――三咲涼子が……殺された。さっき、河川敷で身元不明の遺体が発見された。身長、髪型、衣服……一致する可能性が高い」
「嘘だろ……!」
胸が熱くなる。いや、焼けるようだった。
「まだ確定じゃない。だが、現場に行く価値はある」
「行きます。俺が、確かめなきゃいけない」
急いで署を飛び出す。雨が降り始めていた。
――リオナ、お前が言っていた“始末”って、こういうことか?
もし彼女が殺されたのなら、その背後にいるのは“ノクス”。
そして俺が動き出したことを知って、奴らは“口封じ”に入った。
タクシーを飛ばし、現場へ向かう。赤色灯が点滅する現場テープの向こうに、白布がかけられていた。
「……日向刑事か。こっちだ」
鑑識の若い隊員が俺を呼ぶ。布をめくる。
「っ……!」
血で濡れた金髪。白い肌に、焦点の定まらない瞳。
だが――
「違う……違うぞ……」
目の前の女は、三咲涼子でもなければ、天城リオナでもない。
似せて作られた、“誰かの偽物”だった。
死んだはずの彼女は――誰だったのか。
ノクスが送り込んだのは“ニセモノ”。それは、警告か、それとも挑発か。
そして日向は、ついに禁断の地下施設の扉を叩く。
次回、第八話『地下の記憶』――真実は、地の底で眠っている。