第五話『消された番号“7”』
赤い傘の下に戻ってきた女は、もはや“ただの通行人”じゃなかった。
彼女の背後にあるもの――“シグマ計画”と呼ばれる謎の実験、消された記録、削除された番号。
そして、俺たちは街の闇の奥へ、もう一歩踏み込んでしまった。
「“廃棄”って、どういう意味なんだ?」
街灯に照らされる公園のベンチ。二人並んで座り、傘は俺が持っていた。
雨は弱まり、代わりに空気が重くなっていた。
三咲涼子――そう名乗っていた女は、少しの間、沈黙した。
「私は……番号で呼ばれていたの。“ナンバーセブン”。7番目の“被験者”よ」
「何の……被験者だったんだ?」
「記憶の移植。もっと正確に言えば、他人の記憶の断片を、私に書き込むっていう実験」
冗談かと思った。けれど彼女の目は、真っ直ぐで、そして静かに濁っていた。
「他人の記憶を?」
「ええ。もともとは軍事転用が目的だったそうよ。ある戦闘員の“戦闘スキル”を、別の人間に転写する……でもね、そんなうまくはいかない。記憶だけじゃなくて、感情まで流れ込んでくる」
「感情……」
「“誰かを殺した手の感触”とか、“死ぬ間際の恐怖”とか。“自分が自分じゃなくなる”って、ああいうことを言うのね」
彼女の手が、わずかに震えていた。
俺は無意識に、それを包むように自分の手を重ねた。
「……で、逃げた」
「うん。でも私だけじゃない。“No.4”も、“No.2”も、消された。研究者たちは『廃棄』って言ってた。私の前にいた人たちが、どうなったのかは、もう誰にも分からない」
それが、彼女の過去。
いや、彼女が“持たされた”過去。
彼女がその記憶を見せられているあいだ、何を“見て”、何を“受け取って”、何を“消された”のか――想像することしかできなかった。
「俺は警官だ。だけど今、おまえを保護する術はない。だから……一緒に逃げるのも手だ」
「違うの、日向さん。私は逃げたいんじゃないの。“取り返したい”の」
「取り返す……?」
「自分の中にある、誰かの声や記憶に、私はもう支配されたくない。自分の人生を、自分で選びたいのよ」
そのとき、俺のスマホが振動した。通知は、真壁部長からだった。
『日向。交番、今朝の夜勤明けに何者かに荒らされた。お前のロッカーも開けられてた。
……何か、掴んだな? 気をつけろ。』
交番が、襲われた。
――これはもう、個人の問題じゃねぇ。
「なあ涼子、もし協力者がいるなら、引き合わせてくれ。少しでもこの“シグマ計画”の情報を集めないと……次は、お前自身が“消される”」
彼女は数秒、黙っていた。
そして、ぽつりと言った。
「一人だけ……“No.1”だった女性に会えるかもしれない。彼女は今、“潜って”る」
「名前は?」
「天城リオナ。元・研究スタッフ。自分から被験者に志願した女よ」
“ナンバー・ワン”。最初に実験台になった女。
そして、今も生きている。
「連絡を取れる手段は……?」
「明日の午後五時、三丁目の廃倉庫街。“第3貯水路跡”の前に来て。もし彼女が来れば、あなたに会わせる」
「了解。信じるぞ」
「信じて」
雨が止んでいた。
傘を畳み、彼女が立ち上がる。
赤い傘は、俺が預かったままだ。
彼女の背中は、小さく見えた。けれど、確かに前を向いていた。
――明日、この街の底が、少し見えるかもしれない。
だが、翌日の廃倉庫街で、俺は“ある男”に銃を向けられることになる。
しかもそいつは――警察手帳を持っていた。
被験者No.7の真実、シグマ計画の核心、そして“ナンバー・ワン”との接触。
すべてが動き出した矢先、現れる“警官”の正体とは?
次回、第6話『偽りのバッジ』――
赤い傘の下、笑うにはまだ早すぎる。