第四話『赤い傘はどこへ』
雨の日にしか会えない女がいる。
差し出された赤い傘の記憶は、妙に生々しくて、温かくて……それなのに、今はもう影も形もない。
嘘だらけの履歴、消えた勤務先、そして――銃撃事件。
笑っている場合じゃねぇのに、どうしてか、俺はまた笑ってた。
彼女の勤めていたという医療研究所は、三日前に閉鎖されていた。
正式名称――「合川メディカル・リサーチ研究所」。登記は存在する。だが所在地には廃ビル。室内には何も残っていなかった。張り紙ひとつすらない。
「これ、完全に“飛んで”るな」
現場に同行した真壁部長が呟いた。
「紙の上だけで存在してた施設……ってやつだ」
しかも、内部の防犯カメラの記録はすべて削除。ネット回線も切断済み。
ご丁寧に、職員の名簿や経費帳簿すら見つからない。
「三咲涼子って女も……この中の幽霊のひとりってわけか」
俺はがらんどうのフロアを見渡す。床に残るヒールの跡が、妙に寂しかった。
――彼女は、ここで何をしてたんだ?
その日の午後、俺は独断で“アレ”を使うことにした。
元刑事だった叔父から譲り受けた、裏情報屋の連絡ルート。
名は「ノイズ屋ジョー」。元公安のスパイ。今は地下に潜って、情報でメシ食ってる。
「日向ちゃ〜ん、おひさ〜。連絡くるなんて、めずらしぃね〜」
タバコと怪しい媚薬の匂いが混ざったような声が、電話の向こうから漏れた。
「“三咲涼子”って名前で、最近この界隈に出入りしてた女、調べてくれ。あと、合川メディカルって研究所の正体も」
「おっとぉ、それ金かかるやつぅ〜。あんた、公務員でしょ? 小遣いあるの〜?」
「もう振り込んだ。口座、前と同じだ」
「や〜ん、やる気出ちゃう〜♡」
ガチャッ。電話が切れた。
その夜、返ってきた答えは短かった。
「三咲涼子」は存在しない。
合川メディカルはダミー企業。裏で動かしてたのは、非合法な**“神経研究系ブローカー”**。
被験者リストに、涼子と思われる女性の登録記録が一件――削除痕あり。
だが一点、重要なメモが残っていた:
“シグマ計画、対象群:No.7、状態:廃棄指示”
連絡はこれっきり。
廃棄、だと……?
彼女は実験に使われた、使い捨ての“被験者”だったってのか?
俺の背中を、氷の爪が撫でたような感覚が走った。
それでも、笑うしかなかった。
こんなバカな話、笑わなきゃ、やってらんねえ。
翌朝、交番のデスクで、真壁が俺の顔を見た途端に言った。
「おまえ、昨日また勝手に動いただろ」
「ノイズ屋に聞いた。涼子は、“消された女”らしい」
「……やっぱりな」
「でも、俺はまだ会って話してない。ちゃんと……話してないんだよ」
真壁はしばらく黙っていた。そして、何かを決めたように口を開いた。
「だったら一つ教えてやる。……あの夜、おまえと彼女が会った公園、監視カメラに映ってた」
「映ってた?」
「ああ。そいつが今朝、誰かに消されてた」
ピンと来た。
彼女は今、誰かから“逃げている”。だが、警察内部にもその誰かの手が回っている。
もはや、正式な手続きも信じられない。
だったら――やるしかない。
笑ってでも、やるしかない。
俺は椅子を蹴って立ち上がった。
「部長。もうちょっと、バカやらせてもらってもいいっすか?」
「……ケツは俺が拭いてやる。だが、おまえが死んだら意味ねぇぞ」
「大丈夫っす。俺、運だけはいいんで」
その夜、再び雨が降った。
俺は、あの夜と同じ公園に立っていた。
――そして、現れた。
赤い傘をさして、どこか遠くを見つめる彼女の姿が、そこにあった。
俺は、濡れながら近づいていった。
「……やっぱり、来たんですね」
その声は、震えていなかった。
彼女の瞳は、最初に会ったときよりも、ずっとまっすぐ俺を見ていた。
「逃げても、もう終わらない気がしたんです。だから、ここに来ました」
「終わらせよう。俺が、付き合う」
赤い傘の下、俺たちは無言で並んで歩き出した。
――この街の深い闇の奥へと。
彼女の正体が“消された女”であるとわかったとき、
笑う警官はもう引き返せなかった。
真実のかけらは拾った。次は、それを武器にする番だ。
次回、第5話『消された番号“7”』へ続く。