第一話『赤い傘の女』
雨が降る夜には、誰かが泣いている。
けれどこの街じゃ、泣くより先に拳が飛んでくる。
これは、そんな街の片隅で“笑ってる”バカな警官と、
“泣けなくなった”女の物語。
灰門市に梅雨の雨が降り始めたのは、六月の終わりだった。
濡れたアスファルトにネオンが滲む。ブレーキ音、どこかのケンカ、猫の鳴き声。静かな街じゃないが、今日は妙に胸騒ぎがしていた。
「なあ日向。傘、持ってこいって言っただろうが」
交番の奥から怒鳴り声。渋いハスキーボイス、定年3年手前の巡査部長・**真壁 正道**だ。定時でも帰らない昭和の遺物。上司にしては珍しく、俺にだけ怒鳴る回数が多い。
「すみません。雨、予知できなくて……」
「バカか。ニュース見ろ」
「ニュースって、あの天気予報っすか? あれ信じてる派なんですね、意外とロマンチスト」
「お前、黙ってろ」
俺は日向 駿、28歳。警察学校を下から数えて4番目に卒業した、“警察官の皮をかぶった街の便利屋”みたいな存在だ。
でもまあ、人手が足りない街では、それなりに重宝されてる。
そのとき、無線が割れた。
「……中央公園、ベンチにて男性が倒れている。意識なし。目撃者1名。急行願います」
瞬間、真壁がコーヒーを置いて立ち上がる。
「おい、行くぞ日向。お前、運転な」
「え? 俺っすか? いや、昨日バンパー擦ったばっかで……」
「撃たれた人間の横で、言い訳してるヒマがあるか!」
「……ラジャー」
現場は、中央公園の北側、誰も使わないベンチのあるスペースだった。
夜の闇の中、ポツンと差された赤い傘。その下に、男がひとり、ぐったりと横たわっている。
胸には、刃物で刺された傷跡。血は乾きかけていた。
そして、傘を差していたのは――女だった。
長い黒髪、膝丈の黒いワンピース。ヒールを履いて立つ姿は、雨に濡れた夜に妙に馴染んでいた。
「……あの、あなたが通報者ですか?」
俺が声をかけると、女は微かに頷いた。
「はい……通りすがりで」
静かな声だった。表情はまるで化粧のように作られていて、どこまでが本当かわからない。
「名前、伺ってもいいですか?」
「……三咲。三咲 涼子」
「年齢は?」
「二十七」
嘘じゃない。けれど、何かがひっかかる。
真壁が先に男の脈を確認して、救急の連絡を入れる。その間、俺は女と向き合った。
「その傘、濡れてませんね」
「え?」
「いや、あなたは濡れてるのに、傘の外側だけ乾いてる。もしかして、持ってきたばかり?」
女の表情が、ほんの少しだけ硬くなる。
――違和感の正体が、首の奥で警鐘を鳴らしていた。
「あなた、本当に……通りすがりですか?」
「……信じるんですね。警官って」
「俺、バカですから。信じるのが仕事なんです」
その場で身柄を保護。正式な取り調べは本署の捜査一課に任されたが、俺の中ではもう始まっていた。
女が殺したのか?
それとも――もっと深い、何かが動いてるのか?
赤い傘の女。それは、腐った街の底に落ちていくための、赤い誘導灯だったのかもしれない。
この街では、雨がすべてを洗い流すわけじゃない。
血も、嘘も、罪も。
けれど日向は笑う。自分が“バカ”であることが、誰かの救いになると信じて。
次回、日向は一人の少年と出会い、また一歩、闇に近づく――。