育児の主役は子どもです
(産婦人科病棟っていつ来ても緊張するな)
僕は出産間近のミキさんに会いに来た。
(産婦人科は女性の聖域な気がするんだよね)
少しへっぴり腰になっている自分がいる。
(堂々と胸をはって会いに行く勇気が欲しい……)
そうこうしているとエレベーターは目的地に着く。
「約束のジンジャークッキー持ってきたよ」
病室に向かいミキさんにジンジャークッキーを渡す。
「ありがとうナオヨシさん」
「どこも売り切れてたから手作りしちゃったよ」
「うふふ。助かるわ」
笑うミキさんを見て作ってよかったと心から思う。
(友人の話が役立ったよ)
少し前の友人とのやり取りを思い出す。
『ブラッドオレンジが欲しいって言いだしてなあ』
『そりゃ大変だ。あったのかい?』
『オレンジならなんとか』
『ならよかった……のかな?』
『ほしいのはブラッドオレンジ!って怒られてな』
このやり取りのおかげであれこれ下準備できた。
僕は友人に心の中でお礼を言う。
「それでね、クッキーの型取ってて気づいたんだ」
「なにを?」
「そのうちここにもう一人いるんだなってさ」
僕がそういうとミキさんはお腹の子に話しかけた。
「お父さんもやっと自覚ができたみたいでちゅねー」
「あはは、そうだね。ようやく父親を実感できたよ」
ミキさんの一言が僕の胸に迫る。
☆ ☆ ☆
(子を授かったときにミキさんは自覚したんだ)
僕はといえばつい最近ようやく自覚した。
(周回遅れにもほどがあるな)
そう思っているとミキさんは雑誌を膝の上に置く。
「ところでなんの雑誌を読んでたんだい?」
少し古びた表紙の雑誌が気になった。
「ネイチャーって雑誌。談話室にあったの」
「ひょっとして世界三大科学誌のネイチャー?」
「そうみたい。天才を育てる方法が載っててね」
僕は表紙を軽く見る。
(2016年9月8日537巻7619号か)
英語表記でVolumeやIssueの文字があった。
「なんて書いてあったの?」
「生来子どもが持ってる才能を伸ばすが親の役割」
ミキさんは簡単にまとめて僕に教えてくれた。
「そうなの?なら英語とかの早期教育は?」
「赤ちゃんが興味を持って続けたなら効果あるかな」
「そうなのか。育児の主役は子どもってこと?」
僕が首を傾げているとミキさんは雑誌を渡す。
(まとめるとだいたいこんな感じっぽい)
子どもに多様な経験をさせる。
強い興味や関心があれば機会を与えて伸ばす。
知的要求も感情的要求も両方に応える。
努力や経験で才能や能力は向上していく。
知的冒険を進め失敗を受け入れる勇気を育む。
比較やレッテル貼りを避けていく。
(才能は持って生まれてくるものなのか)
天才を育てるという言葉に惑わされていた。
(才能を早めに見つけ伸ばすことこそが親の役目)
親ができるのはその補助だけと論文は言う。
(そのために早期教育があるのなら僕は――)
思い切って行動に移す。
☆ ★ ☆
「外国語どうしようか」
「そうね。興味持ってくれるといいわね」
「欧米かアジアのどちらかを話せると便利だよね」
子どもの将来を見据えて僕とミキさんは考える。
「そうだ、欧米に興味を持ったら僕が話すよ」
「英語なら英語って感じ?」
「うん。僕だけ英語。でミキさんは日本語」
「なら私はアジアに興味があればその言葉で話すわ」
「ありがとう。そのときは僕が日本語で話すよ」
日本語の会話も大切という胸の内を明かす。
「そうね。まず自分の国の言葉を覚えるのが先よね」
ミキさんの言葉に引っ掛かりを覚える。
「いろんな国の言葉を流暢に話せるといいわよね」
「ああそうか。急ぐとその逆もあるのか」
「そ。だから私たちの子は日本語を覚えてからかな」
ミキさんの言葉に僕は首を縦に振った。
「まずは粘土とかこねるところから始めたいわね」
「えーとこねる動作は自己治癒力を高めるから?」
アートやワークを思い浮かべて僕は答える。
「それもあるし、会話の手助けにもなるのよ」
言葉での会話は言葉を覚えてから成り立つ。
それまでは粘土や絵や折り紙で内面を表現する。
「料理ならクッキーやハンバーグやポテトサラダ?」
「パンと白玉だんご、かき揚げもね」
「親子のコミュニケーションやストレス発散も――」
★ ★ ★
できると言おうとしたらアナウンスが流れる。
「もう面会の終了時間か」
「楽しかったわ」
「僕もだよ。また来るね」
「次は硬いリンゴが食べたいわ」
「わかった。明日には持ってくるよ」
ミキさんと約束して僕は病室を後にした。
(急いては事を仕損じる、か……)
僕はミキさんとの診察の時を思い出す。
『このまま逆子ですと出産は帝王切開になります』
『わかりました。それでお願いします』
ミキさんの素早い判断を僕は聞きそびれた。
(体に傷が残るのにどうして受け入れられるのかな)
あれから僕は帝王切開について調べを進めている。
(2020年には5人に1人が帝王切開していたのか)
医学の進歩はめまぐるしいとつくづく思う。
「ミキさんが決めたことだし大丈夫だろう」
そう考えて心配な気持ちを振り払う。
(大丈夫。医療控除や高額療養費もあるし大丈夫)
僕は大丈夫を繰り返し気持ちを切り替える。
「さて硬いリンゴか。となると新鮮な奴だな」
僕は該当するスーパーを脳内で探し始めた。