君想ふ、水彩の花
1つ色彩を重ねる度に、しゃぼん玉が弾けて思い出が蘇る。一緒に食べた朝食。彼女は俺の淹れた珈琲を飲みながら菫のように微笑んでいた。真夏の花火。きらきらと、火の光を纏った彼女は大輪の牡丹のように笑っていた。真白の遺体。血に彩られた彼女は白百合のように眠っていた。
ガシャンっと画材を力強く置く。
彼女の絵を描くのは好きだ。だって、それが彼女と俺を繋ぐ唯一の手段だから。絵を描いてる時、俺と彼女はデートをする。毎日だって好きな人とはデートをしていたい。誰だってそうだと思う。けど、完成もしない。だって思い出すから。忌々しい、赤に染め上げられた穢れのない雪のような彼女を。
はぁ…と溜息を吐いて髪をぐしゃぐしゃと掻き混ぜる。なんで、どうして、もしあの時、そればかりが頭を巡って俺を苦しめる。痛みや苦しみ、恐怖はやがて水となって目から零れた。とめどなく泣きながら彼女の絵にひれ伏すように蹲る。
「うぅ…。くっ。なんで…」
衝動の突き動かすままに、ゆっくり立ち上がるとキャンパスを掴んで振りかぶる。けれども、下に振り下げたはずの右腕はなにかに阻まれて上にあがったままだ。
「優里くん。ダメですよ」
彗が手に力を入れて止めて来る。
「離せよ」
「ダメです。落ち着いてください」
「うるさいな、離せよ!お前に俺の何が分かるんだよ!」
怒鳴り散らす。離せ、離せ、離せ。俺は、これを叩き割って、それで。それで、どうするのだろう?辛さや恐怖を逃したくて、どうしようも無い衝動から叩きつけようとした。ただそれだけ。もう見たくない。苦しい。でも、誰より愛おしい彼女が床に叩きつけられるとこなんて見たくない。なのに、何故、俺はそれを叩きつけようとしたのだろう。なんで、そんなことが出来た?分からない。分からない。
複雑に絡み合った糸のような感情が俺を苦しめる。
「分からないです。でも、それは優里くんの大切な人の絵なんでしょ?そんな風に叩きつけて良いはずのものじゃない」
彗が俺の腕を掴んでない方の手で、ゆっくりと絵を引き抜くと近くの机に優しく置いた。それから、俺の腕を離す。若干赤くなった腕が彗がどれだけの強さで掴んできたのかを伝えてる。
「とりあえず、保健室行きましょう。みんな優里くんのこと心配してます」
「なんで…」
「この時間に優里くんが絵を描く時は大抵荒れてますから。一応、残ってるんです。みんな、優里くんのことが心配なんですよ」
彗は、どうするのが正解か分からなくて迷子になった幼子のように微笑む。
少しだけ冷静になってきて、怒鳴って申し訳なかったなとか、心配かけて申し訳ないなという気持ちになってくる。
「そっか。ごめん」
「行きましょう。優里くん」
振り返ると、彼女が微笑んでいる。夕陽に照らされて、なお輝いている柔らかく、美しい微笑み。彼女と、鈴宮花蓮と出会ったのは大学1年生の頃だった。
デザイナーを目指して美大に入って3ヶ月。まだまだ慣れない広いキャンパスをさまよい歩いていると、空き教室から歌声が聞こえてきた。しっかりとした歌じゃない。鼻歌のようなもの。
「~♪〜♪〜♪」
なんとも楽しげな音色に惹き付けられて扉を開けると1人の女性が水彩画を描いていた。踊るように、歌うように筆を滑らしていく。1つ、また1つと彩りが足される。彼女の手で世界が虹色に染まっていく。
「綺麗…」
ポツリと漏らした言葉に反応した彼女は歌うのを止め、筆を置き、俺の方を見て微笑んだ。
「ありがとう」
「ごめんなさい。急に…」
「大丈夫よ。むしろ、褒めてくれて嬉しい」
「あの、お名前を聞いてもいいですか?」
「私は鈴宮花蓮。よろしくね」
鈴宮花蓮。彼女は花のように笑う人だった。
花蓮と仲が深まって、世にいう恋人関係になるまでは時間はかからなかったと思う。たぶん、1ヶ月とかそれくらい。
花蓮の描く水彩画は、しゃぼん玉や硝子のように美しい。けれども、彼女は学校の先生になるという。それが俺は不思議で仕方がない。花蓮の実力があればプロの画家にだってなれるのに。
俺の部屋で今日も、歌を歌いながら絵を描く花蓮に近づいて、マグカップに注いだ珈琲を手渡す。
「はい、これ。少し休憩しよ?」
「ありがとう、優里くん」
花蓮は、筆を置いて大切そうにマグカップを両手で包むと微笑んだ。
「どいたしまして」
花蓮の微笑みは眩しくて、真正面から浴びると少し照れくさい。
「ねぇ、なんで先生になりたいの?」
「えぇ、どうしたの急に」
花蓮は戸惑うように微笑んだ。
「花蓮の実力ならプロの画家にだってなれる。なのに学校の先生になりたいのはなんでかなって思って」
「そうねぇ。絵を描く時間って自分と向き合う時間だと私は思ってるの。だからね、そういう自分との対話の時間が心の成長にとって、いかに大切か子供たちに教えてあげたいの」
真っ黒な珈琲を見ながら真っ白で穢れのない想いを語る花蓮に、俺はまた、恋をする。愛おしさが真白の雪のように際限なく振り積もって俺の心を染め上げていく。
珈琲の入ったマグカップを机にそっと置いた。花蓮のマグカップも、そっと取り上げて、戸惑う花蓮に気付かぬふりをして机の上に置く。珈琲が零れたら大変だから。
「花蓮らしいね」
座ってる花蓮を囲うように抱きしめる。
「そうかな?」
「うん、花蓮らしくて俺は好きだな」
「ありがとう」
ふっと力を抜いて俺に身体を預けてくる花蓮が愛おしい。花蓮から、花のような、シャボン玉のような香りがする。俺の大好きな匂い。思わず首筋に鼻を寄せて、すんすんとかぐ。花蓮が、擽ったそうに身を捩る。そんな仕草が、また愛おしさを増長させた。
「これって、香水の香り?」
「知らない」
照れたように花蓮が言う。
「じゃあ、花蓮の香り?」
愛おしい香りが、より濃く薫る首筋にキスをして尋ねる。
「分かんない」
ついに、顔を紅に染めて俯いてしまった。
「いい匂い。もっと近くにいかせて」
「これ以上近づけないよ」
抱き締めていた花蓮から身体を離して、座っている花蓮の手をエスコートするように引っぱって立たせる。ぎゅっと抱き締めて桜の花のような唇に柔らかくキスを落とした。摘まぬように、枯れぬように、細心の注意を払って優しくキスをする。
「ほら、近づけた」
唇を離して笑いかける。
「もう!」
拗ねたように俺の胸元に顔を埋めながら背中に回した手でペシペシと軽く叩いてきた。そんな花蓮を抱き寄せて、自分の身体に溶け込ませるように、抱きしめる。
幸福の定義を決める哲学者のように俺は幸せとは、この時間だと信じてた。幸福の下僕である信者のように俺は、この時間が永遠に続くのだと疑わなかった。
カシャっとスマートフォンのカメラ音が耳元で鳴る。
花蓮の絵から目を外すと女子生徒が俺の横に立ってカメラを撮っていた。
「こら、スマホダメでしょ」
「はぁい。ごめんなさい。…あ、そうだ!私、ゆう先生を呼びに来たんだ!先生、もう授業始まってるよ」
あぁ、そっか。次は2年の美術の授業だった。…春は良くない。花蓮を奪った憎々しい季節になると俺は、ぼーっとすることが増える。一応気をつけてはいるのだけれど。椅子から立ち上がって、筆を置く。
「ごめん、ごめん。すぐ行くね」
「綺麗な絵…」
女子生徒は、俺の方ではなく心を奪われたように絵を食い入るように見ていた。
「え?」
「この絵。綺麗な人だなぁって思って。ゆう先生の知り合い?」
一瞬言葉に詰まる。正直に言えばイエスだ。でも、正直に言いたくないと思った。今はまだ、花蓮の全てを自分の中に閉じ込めておきたいから。
「想像で描いてるだけだよ。さっ、授業に行くか〜」
授業に必要な荷物を持って隣の美術室に向かう。
「あ、ゆう先生、まってよぉ」
絵に夢中になっていた生徒が後ろから追いかけてくる。今日も、花蓮の意志を継いで俺は教壇に立つ。
「絵を描く時間は自分との対話の時間なんだ。だから、自分の心に語りかけて、絵を描いてみて」
今日の課題は、円を描くように座っている生徒たちの中心に存在している筋肉隆々のマネキンをデッサンすること。
「はい、はーい!ゆう先生〜。マネキンより実際の人物のが細かいところ描きやすいし、ゆう先生スタイルいいから脱いで欲しいです!」
男子生徒が挙手をしながら言ってくる。
そっちの方が描きやすいなら、と上半身のシャツのボタンを外す。言い出しっぺの男子生徒が何故か、ぎょっとしたような目で見てきた。なぜだ。君から言ってきたのに。
「ゆう先生!冗談、冗談だから!…本当に脱ぐとは思わなかったよぉ。こんなことバレたら、他の先生に怒られちゃうよ!」
なんだ、冗談だったのか。最近の子のジョークは分かりづらいな、なんて思う。三月くんのジョークは分かりやすいのに。
「そっか、そっか。ごめん」
外したボタンを止め直す。
ボタンを止め終わった頃には、生徒たちは絵に夢中になっていた。真剣にマネキンと向き合う姿は、なんとも健気だ。
『絵と向き合う時間はね、自分と向き合う時間なんだよ』
花蓮の言葉が木霊する。
今、生徒たちは自分と向き合っているのだろうか。そうだったら良いなと思う。
ふと、1人の生徒が目に止まった。雪村冬夜、真面目で几帳面ではあるけれど、社交的で穏やかな人柄。そんな彼には珍しく絵のタッチが雑だ。顔色、表情、他の生徒とのやり取りは通常通りだった。でも。なにかに心が乱されてる?
「雪村くん、放課後に美術準備室に来れる?」
デッサンをしている雪村くんに横から話しかける。
「え?…大丈夫ですけど」
けどの後には、なんの用ですか、が付くのだろうことは彼の言い方から伝わってきたけれど気付かぬふりをした。
「じゃあ、また後でね」
「はい」
キンコンカンコンと授業を終えるチャイムが鳴る。生徒たちは絵の道具を片付けて、1人また1人と美術室から去っていく。次の授業を受けるために。
美術準備室で、いつものように花蓮の絵に色彩を重ねているとコンコンとノック音が響く。
「はい」
「失礼します」
雪村くんが、自分は何を言われるのだろうかと不安げな表情で、おずおずと入ってきた。
「雪村くん、どうぞ。狭いけど好きな席に座って」
「ありがとうございます」
雪村くんが、俺の横にあるパイプ椅子に座る。雪村くんに向き合うように身体の向きを変えた。
「単刀直入に聞くね。雪村くん、何か悩みでもある?」
「え…」
雪村くんは、なんでそんなことを聞くのだろう、という戸惑いを浮かべる。
「無理に聞くつもりは無いよ。言いたくないなら言いたくないって言えばいい。…でも、話してスッキリすることもあるからって思って。気付いたのに気付かぬふりをして放置するのは嫌なんだ」
「なんで。なんで、悩みがあるって思ったんですか」
「雪村くんの絵が乱れてたから。いつも雪村くんは丁寧に絵を描いてる。でも、今日は違った。絵の影は雑だし線も乱れてた。だから、何かあったのかなって思ったんだ」
観念したように、感心するように、雪村くんが溜息を吐く。
「ゆう先生には、敵わないなぁ」
「それは、君より長生きしてるからね」
「昨日、告白されたんです。でも、俺には好きな人がいるからって断ったんですよ。まぁ、その好きな人は、ずっと前に亡くなっちゃってるんですけど。でも、忘れられなくて。あぁ、告白してきた子も、俺の好きな人が大分前に亡くなってる事は知ってますよ。そしたら、告白してきた子に言われたんです。いつまで囚われてるつもり?って。そんなことしても彼女は喜ばない。むしろ、悲しむと思うって。私を振ることは構わない。でも、その口実に彼女を使わないでって。…俺、もう、どうしていいか分からなくて」
雪村くんの気持ちは痛いほど分かる。俺もそうだ。雪村くんと一緒。ずっと囚われてる。花蓮に囚われ続けてる。それは、まるで愛という名前の呪いだ。
「雪村くん。告白してきた彼女の言葉は正論だと思う。でも、俺はね、正論だけが正しいとは思わない。囚われることが悪い事だとも思わない。好きな人に囚われ続けることで本来は見えなかった景色が見えることもある。だからね、好きなだけ囚われ続けて、もういいかなって思ったら前に進めばいい。歩くのも留まるのも君の自由だよ。誰かに言われたからって言って無理やり進む必要なんてない」
雪村くんは、意外なことを言われたというように目を瞬かせる。
「ゆう先生も、居るんですか?囚われてる人」
「居るよ。もうずっと囚われ続けてる」
「苦しくないですか?」
「苦しいし痛いよ。でも、その苦しみや痛みが彼女との繋がりだと思うと愛おしい」
「ゆう先生は、前に進もうって、まだ思わないんですか?」
「まだ思わないよ」
「いつかは、前に進もうと思いますか?」
「それは、分からない。思うかもしれないし、思わないかもしれない。でも、それでいいと思ってる」
「そうですか…。ありがとうございます。なんか、そのままでいいって言われて少し気持ちが楽になりました。告白してきた子には申し訳ないけど、俺はもう少し好きだった子に囚われます」
「うん」
雪村くんは、来た時よりも幾許か清々しい表情で去っていった。
俺が彼に伝えたことは正しいことでは無いかもしれないけど、少しでも彼の心が救われればいい。正しさだけが心を救うわけじゃない。心とは不可解だ。
「いつかは前に進もうと思いますか、かぁ」
自分は前に進みたいと思う日が来るのだろうか。それは、どんな時なのだろうか。考えを巡らしても分からない。分からなくなるくらい長い時間、もうずっと囚われ続けてる。夕焼けに鴉が鳴く。赤く、赤く染め上げられる空。赤は嫌いだ。忌々しい血の色を思い出すから。
春、夏、秋、冬が過ぎて、また春が来る。
今日は、3年生が卒業する前の最後の授業。やることはやってしまったし、何をしようか。せっかくだから、海斗先生を見習って生徒たちに何をしたいか聞いてみようかな。
「今日は最後の授業なんだけど、やらなくちゃいけないことは全部やったから、好きなことをしたいと思うんだ。みんなは、何かしたいことはある?」
「はいはいー!恋バナしたいです!」
「分かる!恋バナしたいよね!ゆう先生ってミステリアスで恋愛観とか分からないから気になる!」
「確かに!俺も、ちょっと気になるかも」
「先生たちの恋愛観って謎だよな」
「三月先生は、分かりやすいけどね〜」
生徒たちが、恋バナをしたいと盛り上がる。んー、それは、授業と全く関係ないんだけど…まぁ、最後だし良いか。
「恋バナね。良いよ」
「「やった〜!」」
思ったより喜ばれて、感嘆する。
「みんな好きだね〜。恋バナ」
「もちろん!楽しいじゃん。…ねぇ、ねぇ、早速だけど、ゆう先生の恋愛話聞かせてよ!」
「分かる!気になるよね!」
「なんか、彼女めっちゃ居そう!1年に1回は彼女変わってるみたいな」
生徒たちが勝手な憶測を飛ばしまくってる。全然実際の自分と違うのが面白くて、なんだか笑えてきてしまう。
「はい、残念。不正解。先生は今まで1人の人としか付き合ってません」
キッパリと告げる。
「「えぇ!?!?」」
生徒たちが驚きの声を上げた。
「その人は?どんな人なの?今も付き合ってるの?」
質問攻めにあう。花蓮のことは、今まで語ったことは無い。花蓮の全てを自分の中に閉じ込めておきたくて。でも、不思議と今日は話しても良いかなって思った。それは、卒業前の、どこか浮き足立った空気がそうさせたのかもしれないし、春特有の甘やかな香りが花蓮の香りに似てたから、そうさせたのかもしれない。
「彼女と出会ったのは大学1年生の頃なんだ。お互いに惹かれあって恋人になるまでには時間はかからなかった。彼女は美術の先生を目指していて、当時の俺はデザイナーを目指していたんだ。そして、大学4年生の時、彼女は車に轢かれて死んだ」
その日は桜が雪のように舞っている日で、春にしては暖かく、いつもより花蓮はお寝坊さんだった。
俺は、花蓮が好きな珈琲を淹れる。この時間が愛おしい。花蓮は、いつも俺の淹れる珈琲を飲む時『美味しい』って言って菫のように笑うのだ。その笑顔を見るのが何よりも好きで、毎朝淹れてしまう。
「おはよ〜」
「おはよう、お寝坊さん」
欠伸をしながら、花蓮がパジャマ姿で現れる。小さく口を開けている可愛らしい唇に朝のキスをする。
「もう!朝から!」
花蓮は恥ずかしそうに顔を染めて怒る。
「目、覚めたでしょ?」
悪戯っぽく笑う。
「覚めたけど…」
納得いかない…というふうに花蓮はふてくされた。椅子に座り珈琲を1口飲むと、さっきまでふてくされていたのが嘘のように、笑う。俺の大好きな菫の花のような笑顔。
お互いに準備をして、玄関を出る。今日は俺は昼からの授業のみなので、花蓮を見送ったら部屋に戻って掃除でもするつもりだ。
「じゃあ、行ってきます」
「うん、行ってらっしゃい」
笑顔で送り出す。花蓮も桜のように微笑んで手を振ったあと、くるりと向きを変えて前に歩いてく。それは、一瞬だった。横から飛び出てきた車に、花蓮は轢かれたのだ。毬のように弾けて、しゃぼん玉のように飛んで、花弁のように地面に叩きつけられた。
「花蓮!!!」
慌てて駆けつける。車は花蓮を轢いたあと自分は無関係だとでも言うように走り去っていった。一連の流れを見ていた近所の人が救急車を呼んでいるのだろう声が聞こえてくる。
内臓が損傷してしまったのだろう。花蓮のワンピースは真っ赤に染め上がっている。そっと抱き上げて膝まづいた太ももに花蓮の上半身を乗せて座るような体制にする。少しでも血の流れを止めるために。この血は花蓮の命だ。流れ出ていくことは許さない。
「花蓮、花蓮。大丈夫。大丈夫だから。直ぐに救急車が来るから。だから。」
「っ…。ごめんね、優里くん。もう無理かも」
「諦めるなよ!大丈夫だから。絶対に助かるから」
ふるふる、と弱々しく花蓮が首を振る。
「自分の身体のことだもん。…自分が1番よく分かってるよ」
「そんなことない!死ぬなんて、許さない」
仕方ないなぁというように花蓮が笑う。ゆっくりと、最後の力を振り絞るように花蓮は俺の頬に手を当てる。
「さようなら。愛してる」
桜の花が散る一瞬前のように微笑むと、パタリと手が俺の手から落ちて花蓮の目が閉じた。
白百合のように眠る彼女を抱き締めて慟哭する。救急車のサイレンが鳴り響く中で、俺はひたすら花蓮を抱き締めて泣いた。
それから、しばらくの間の記憶はあやふやだ。花蓮が死んだ瞬間はあんなに泣けたのに、今は実感が無くて少しも泣けない。あの日に泣きすぎて涙が枯れてしまったのだろうか。外から風が、ふんわり入ってきて花蓮の匂いが香る。俺の大好きな香り。
『絵を描く時間って自分と向き合う時間だと私は思ってるの。だからね、そういう自分との対話の時間が心の成長にとって、いかに大切か子供たちに教えてあげたいの』
香りと共に、花蓮の言葉が甦る。一筋、涙が流れた。せき止められていたダムが決壊するように、止めどなく流れ続ける。
俺は、花蓮の夢を叶えたい。
「それから、内定を辞退して美術の先生を目指したんだ。最初は、もちろん、両親には反対されたけど最終的には、好きにしなさいって言われた。両親には感謝してる」
話し終えて、生徒たちを見ると、みんな泣いていて、ぎょっとする。
「ちょっと、みんな、泣かないでよ〜」
言いながら、生徒たちの優しさとか過去の思い出とか色々な感情が溢れてきて、自分も泣きそうになってくる。
最初は花蓮の夢を叶えたいだけだった。でも今は違う。生徒たち1人1人が未来に羽ばたけるための手伝いをしたいと自分の意思で思ってる。
あぁ、そっか。俺は、もう、とっくに囚われてなんかなくて、自分の意志でここに居るんだ。
「ねぇ、皆に見て欲しいものがあるんだ」
美術準備室から花蓮の絵を持ってくる。淡い色彩を放つ水彩画。どうしても完成させられなかった絵。今なら、完成させれる気がする。
「この絵、実は大切な彼女の絵なんだ」
生徒たちが固唾を飲んで見守る中、最後の1色を灯した。
生徒たちを見回して心から微笑む。
「俺がよく言ってる絵の時間は自分との対話の時間っていうのは彼女の受け売りなんだ。これから卒業しても自分のことは自分が1番大切に思って心の声を聞いて、愛してあげて」
「「はい」」
生徒たちが、返事をする。俺の好きな菫のような笑顔と共に。
生徒たちが、すっかり全員帰った後に花蓮の絵を眺めながら珈琲を飲む。鴉が鳴く真っ赤な夕焼けも、今日は不思議と嫌いじゃない。
「お、完成したのか」
「れいくん」
後ろから呼びかけられて振り返る。
「一生完成しないのかと思ったが…」
「うっせぇ」
「おぉ?珍しいな。彼女と付き合ってから言葉遣いが綺麗になったのに。久しぶりじゃないか?」
れいくんが、不思議そうな顔をする。
「もう、花蓮は居ねぇから」
「そうか。でも、生徒たちの前では綺麗な言葉遣いのままで居ろよ。びっくりすると思うから」
儚げな先生で有名な、ゆう先生がいきなり荒々しい口調で喋り始めたら生徒の夢が壊れてしまうとか何とか、れいくんは呟いている。けれども、それ以上追求はせずに、頭を2、3回ぽんぽんと柔らかく撫でてきた。れいくんは、優しい。
「優里。久しぶりに飲みに行くかぁ」
「れいくんの奢りなら」
「しょうがねぇなぁ」
真っ赤な夕焼けの中、廊下を歩く。
絵の中の花蓮は、優しく微笑んでいた。
卒業式。覚悟はしていたけど、旅立つ生徒が眩しくて、生徒たちと離れるのが単純に寂しくて、わぁわぁ泣いた。それはもう、盛大に。たぶん、生徒本人たちより泣いてるし、保護者たちより泣いてる。なんなら、少し周りに引かれてるのだろうなぁというのも節々に感じた。
「もう、ゆう先生しっかりして!彼女に笑われるよ!」
「そうだよ、ゆう先生!」
涙目で見つめた生徒たちは、きらきら輝いていて、花蓮の描く水彩画のようだった。