愛するひとの幸せのためなら、涙を隠して身を引いてみせる。それが女というものでございます。殿下、後生ですから私のことを忘れないでくださいませ。
「私はね、あなたを傷つけたかったの」
淡々と語る私のことを、ジョシュアは目を丸くして見ている。
「プリムローズ、僕は君のことが!」
「同情ならいらないわ」
思わず薄い笑みがこぼれた。本当に、もういいのだ。
「どうして笑うんだ、こんな時に」
芝居掛かった仕草で台詞を吐けば、彼が顔を青ざめさせた。
桜の花はやっぱり嫌いだ。私の大事なものを、全部連れ去ってしまう。私ひとりを置き去りにして。
***
「プリムローズ。学園の校史がどこにあるか知らないかい」
「急にどうしたの?」
「ちょっと調べたいことがあってね」
いつものように図書室で過ごしていた私は、友人であるジョシュアからの質問で顔を上げた。蔵書整理をする予定がつい本に夢中になっていたことに気がつく。日はすっかり傾いていた。彼に声をかけられなければ、真夜中になってしまっていたことだろう。
「学園の歴史が知りたいなら、学園長先生にお伺いしたらどうかしら。少なくとも、ここ数十年の出来事については誰よりも詳しいはずよ」
「学園長先生にはちょっと聞きづらいんだよ。僕が調べているのは、学園の七不思議に関することだからね」
「明日卒業するっていうひとが、一体何を調べているの」
あまりの意外さに本を取り落とした。
学生というのは、古今を問わず怖くて不思議な話が好きなもの。けれど、ジョシュアはとても現実的な少年だった。魔王や聖女という存在は伝説上の存在だと口にしてはばからない。魔力保持者も年々少なくなり、魔術が廃れかけている今となっては無理もない話なのかもしれないけれど。そんな彼が七不思議に興味を持つなんて。
「ジョシュア、あなたもやっぱり男の子。怖い話に興味があったのね」
「いや、そういうわけではないんだが」
少しばかり歯切れの悪い返事。なるほど、七不思議の中には恋愛成就を謳ったものもあったはずだ。ジョシュアには好きなひとがいるのだろう。
「それなら図書室の女神と呼ばれるこの私が、お手伝いしてさしあげるわ」
「ありがとう。君に助けてもらえるなら百人力だよ」
弾むようなジョシュアの声に、私はすぐさま後ろを向いた。目に飛び込んでくるのは窓の向こうにある満開の桜。二階にあるこの図書室にまで大きく枝を伸ばす学園のシンボル。桜は嫌いだ。この花が咲く頃は、いつだって別れの季節だから。
彼は今、どんな顔をしているのだろう。好きなひとのことを想い、はにかみ頬を染めているのだろうか。
彼と私が結ばれることなどないと最初からわかっていた。あまりにも無理がありすぎる。
学園は、外の世界とは異なる秩序で成り立っている。けれど学園を卒業してしまえば、第二王子である彼と口をきく機会なんて二度とないだろう。
だからつい提案してしまったのだ。七不思議を調べるなんてこと、やるべきではなかったのに。
***
私の気持ちなんて知りもしないジョシュアが、七不思議を指折り数えていく。
「僕が見つけたのは、六つだけなんだけれど」
「七つ目まで知ってしまうと不幸が訪れるとかいうものね。まあ、迷信なんだけど」
「迷信という根拠は?」
「世代によって流行り廃りがあるのよ。全部合わせると七つなんて軽く超えちゃうわ。それに幽霊の正体見たり枯れ尾花ってね」
七不思議というのは面白い。時期や聞く相手によって、内容に少しずつ変化が表れる。さて、どんな話が聞けるかしら。
「一つ目は、音楽室のピアノ。誰もいないはずの校舎で、誰かがピアノを弾いているのを聞いた生徒がたくさんいる」
「ああ、アガサのことね。彼女はいつも放課後に音楽室でピアノを弾いているから」
「知り合いなのかい?」
「ええ、ちょっとしたね」
「誰が弾いているかわからないだけで、怪異扱いになってしまったということか」
「よかったら、好みの楽譜を贈ってあげて。本人がいなくても、音楽室に置いておけば翌日には練習を始めるはずだから」
最近はアガサのピアノを耳にする機会が減っていたからちょうどよかったわ。またいろんな曲を弾いて、彼女のことが話題になるといいのだけれど。
「二つ目は、美術室の描き足される油絵」
「実際に描き足しているだけなのに、何の問題があるの?」
「これも実在の生徒なのか」
「オードリーはひとつの作品をじっくり仕上げるタイプなのよ」
「気が長いにもほどがある」
確かにそうね。普通なら、あんなに長い時間ひとつの絵に向き合うことは難しいかも。それも愛ゆえにということかしら。
「三つ目は、踊り場にある大鏡。見知らぬ少女が映り込むらしい」
「バーバラね」
「話の流れでおそらく人間なのだろうとは思っていたが。そのバーバラとやらは、何を目的にそんなことを?」
「せっかくなら、七不思議らしい七不思議を作ってやるって張り切っていたの」
「なんと傍迷惑な」
とはいえ、彼女が張り切っていたずらをしかけているからこそ、しっかり噂となっているわけで。やっぱり認知されるためには、アピールが必要なのよね。
「四つ目は、訓練所の暗黒騎士。ぼんやり油を売っていると、恐ろしげな甲冑を着た騎士に追いかけられるらしい」
「カミラのことね。彼女、将来の夢が女騎士だったの。運動部の生徒が通りかかると、つい追いかけてしまうそうなの」
「せめて甲冑を脱げ!」
「甲冑は彼女の好みではないらしいわ」
「先祖代々の品ということか。見るたびに装飾が増えていっていると聞く。あまり重くすると関節への負担が酷いから危険だと伝えてくれ」
私が身につけたら重くて動けなくなりそう。思わず手首や膝といった関節部分を撫でていると、ジョシュアに首を傾げられた。年を取ったら、関節にくるらしいわよ。知らないけど。
「五つ目は、告白に成功する桜の木」
「ジョシュアが知りたい七不思議ね」
「な、何の話だ」
「恥ずかしがらなくてもいいのよ。とはいえ、本当に好きなひとがいるのなら、桜の木の下での告白はオススメしないわ」
「やはり呪いが?」
「あそこ、葉桜の季節でなくても毛虫が大量発生しているの。恋愛成就どころか初恋が消え失せること間違いなしよ」
「……なるほど。心に留めておこう」
あら、告白目的ではないということ? 戸惑う私をよそに、ジョシュアが一瞬だけ口ごもり、一息に吐き出した。
「六つ目は、卒業パーティーの婚約破棄。僕が一番知りたいのは、この件なんだ」
***
この学園には春の風物詩というものがある。卒業パーティーで行われる婚約破棄だ。
「そもそもなんで卒業パーティーで婚約破棄をしなくちゃならないんだ。毎回最終的に断罪返しをされて、元の婚約者と結婚するのに。様式美か?」
「それはもう、七不思議というか歴代王族のやらかしとしか言いようがないんじゃないの?」
「そもそも婚約というのは政治的な結びつきによるもの。片方が一方的な婚約破棄を宣言したところで、言い分が丸ごと通るはずがない。君はおかしいと思わないのか」
「思ってるわよ。バカの一つ覚えみたいに毎回同じことの繰り返し」
「兄は婚約破棄しなかったし、僕は王子にも関わらず婚約者がいない。一応王族も考えてはいるんだ」
「進歩したじゃない」
私が笑い飛ばすと、彼は突然真剣な顔になった。これは茶化してはいけないわね。空気を読み、口をつぐむ。
「その上、婚約破棄の顛末がこれほど曖昧なんて」
「歴代の国王陛下が、それぞれ箝口令を敷いているのでは? 自分の息子のやらかしは、自分自身の黒歴史を思い出すことにもなるのでしょうし」
「だが、一般的に噂というものは止められない。現にこの学園に在籍している生徒はみんな知っているじゃないか。それにも関わらず、学園の外でこの話題を聞くことは一切ないんだ。忖度なんて話じゃない。婚約破棄という事実が、最初からなかったとでもいうかのようだ」
そう、みんないつか忘れてしまう。どれだけ衝撃的な演出をしたところで同じこと。だからこそ、こんな風に疑問を持ってくれるジョシュアのことが愛しくてたまらない。思わず口角が上がってしまう。
ジョシュアはどこから取り出したのか、テーブルの上に書類の束を載せ始めた。あっという間にテーブルが埋め尽くされる。
「これは?」
「校内に保管されていた学生名簿だ」
「重要書類ではないの?」
「僕が持ち出せる場所にあるんだ。見られて困るような書類ではないはずだよ」
「ものは言い様ね」
万が一この件が公になった時には、「生徒に持ち出されて困るような場所に重要書類を保管しておくほうが悪い」とうやむやにするつもりなのだろう。さすがは王族。考え方と行動力が悪どい。
「付箋を貼った部分を見てほしい」
「何かしら」
「数十年分の書類だが、保管状態は極めていい。定期的に虫干しなどもされているんだろう。けれど数枚だけ、信じられないものがあるんだ」
彼が数枚の書類を抜き取ってくる。
「数枚だけ、まるで虫食いのように文字が消えてしまっている。名前すら読み取れない。僕はそれらの書類に書かれている人物たちこそ、婚約破棄に関わった女生徒だと……そんな、嘘だろ……」
「どうしたの?」
「復元されている……。今朝までは、まったく読めない状態だったのに……」
「よかったじゃない。これで、あなたの疑問が解決するかもしれないわよ」
「こんな魔法みたいなことありえない!」
うろたえるジョシュアから書類を受け取った。消えかけていたとは思えない、黒々とつやめく文字をなぞってみる。
大切な友人たちの記録。よかった、これでもうしばらくは一緒に過ごせるのね。私は改めてジョシュアにお礼を告げる。
「あなたのおかげよ。あなたが七不思議を調べてくれたから、息を吹き返したの。アガサ、オードリー、バーバラにカミラ。みんな喜んでいるわ」
「何を言って……」
「神さまは信仰されないと存在が消えてしまう。そんなことを聞いたことはないかしら」
問いかければ、彼は居心地悪そうに答えてくれる。
「……王宮でいつも言われている。特に父と母からは、教会の重要性を繰り返し教えられてきた。確かに教会の教えは、人々の心の支えになるだろう。だが、聖女や魔王といった夢物語を信じることになんの意味が」
「いるのよ、魔王が」
「は?」
「だからね、この学園は魔王を封じた場所の真上に建っているのよ。この建物は魔術の学び舎であり、強い結界であり、魔王を封じるために必要な贄――聖女――を捧げるための場所なのよ」
***
うろたえるかと思っていたけれど、ジョシュアは思ったよりも冷静だった。
「……与太話だとは言わないのね?」
「嘘だと切り捨てるには、すべての出来事が異常過ぎる」
「婚約破棄はね、王族の直系男子に与えられた儀式なの。教会に所属する聖女はこの学園の持つ役割を知っているわ。だからこそ、本気で王族男子の心を得ようとするのよ」
「なぜ?」
「相手の心を得ることができたなら、孤独な魂の牢獄でも幸せに暮らせるでしょう?」
「……どういうことだ?」
「あなたも話していたじゃない。王族の婚約は政治的な結びつき。恋心うんぬんで解消されることは決してない」
王族の婚姻相手にふさわしいのは、由緒正しい貴族の娘だけ。贄として捧げられるのは、魔力が豊富な孤児ばかり。だから彼女たちは、贄になる対価として王子さまの愛を乞う。
「わざわざそんなことをする必要がどこにある。魔力の有無が重要なら、死刑囚を贄にすればいい」
「それがね、贄には祈りの心が必要らしいの。王国を守りたいという強い想いがなければ、封印として機能しないんですって。邪な心得は、逆に災厄を呼び寄せたそうよ」
愛するひとのために死ねと言わんばかりの封印方法は、魔王に相応しい底意地の悪さだ。
「贄として捧げられたひとは、通常とは異なる時間の中を生きていくことになるわ。誰かの記憶に残る限り、生き続けることができるの。それはつまり、封印が強固になることを意味するわ。でもね、みんなに忘れられると存在が消えてしまうのよ」
「そのための婚約破棄だというのか!」
英雄を讃える話よりも、王族の汚点や醜聞の方が多くのひとに広がり、長い間残り続ける。だがそれも永遠ではない。
何せこの学園の外に出ると、王族とその伴侶、そして高位の神官以外はこの出来事を尋常ならざる速度で忘れてしまう。さらには、すべてを都合よく脳内で書き換えてしまうのだ。私の義妹として、聖女が引き取られたことに私の家族以外誰も違和感を覚えないように。
「プリムローズ、どうして君はこんなことを知っているんだ」
「ねえ、ジョシュア。七不思議が六つしか見つからなかったというのは、嘘でしょう?」
「それは……」
「やっぱり聞くのが怖くなった?」
あおられたと思ったのか、ジョシュアが私を睨みつけた。
「僕が七不思議に興味を持ったのは、君のことを知りたかったからだ。『思い出せない図書室の女神』、君のことなんだろう」
「女神だなんて言われると、なんだか照れちゃうわね」
「何を今さら。今日だって自分でそう名乗ってたじゃないか」
「だってわかりやすい名前で自分を形作っていないと、変な要素で固定されちゃうんだもん。噂の力って強いんだから。カミラだって最初はあんな変な甲冑を着ていなかったのに、だんだんおどろおどろしくなっちゃって。ジョシュア、せっかくだから美人な女騎士の姿で噂を流し直してあげてね。まあどうせまたしばらくしたら、変化しちゃうんだろうけど」
「プリムローズ、やっぱり君は」
私の存在はまだ新しい。記録を調べる前から、もしかしたら私が誰なのか彼は理解していたのかもしれない。
「あなたにはこう言った方がわかりやすいかもしれない。私はあなたの父親に婚約を解消された元婚約者。これでも一応、侯爵令嬢だったのよ」
「婚約破棄されなかった唯一の事例……」
「それにしても、図書室の外に出たら私を忘れてしまうはずなのに、学園の外でも覚えていられるなんて。呪いへの耐性が強いのは聖女だったあの子譲りというところかしら」
友人ふたりによく似た彼の顔を見ていると、私はなんだか胸がいっぱいになってしまった。
***
「贄になるのは聖女だけだと……」
「まあ偶然なんだけれど、私も魔力が高かったのよ。今代の王太子が新たな贄をこちらに寄越さずに済むくらいにはね」
そもそも最終的に私と結婚したところで、夫となるひとの心は永遠にあの子のものなのだ。そんな結婚生活、控え目に言って地獄である。死んだ女には勝てないなんて世間では言うらしいが、似たようなものだ。そもそも別に元婚約者に恋なんてしていなかったし。
「どうして、君は僕に全部教えてくれたんだ? 両親でさえ、ここまで説明してくれなかったのに」
「二人は王太子さまには伝えたそうよ。まあ、あなたが信心深いタイプじゃないから、諦めたのかもね。変に引っ掻き回されて、結界が緩んでも危ないし」
「それでも!」
「それに私があなたに教えて上げたのも、優しさからではないわ」
七不思議に言及すれば、正体がバレることはわかっていた。それでも、彼に私のことを覚えておいてほしかった。
「私はね、あなたを傷つけたかったの」
淡々と語る私のことを、ジョシュアは目を丸くして見ている。
「プリムローズ、僕は君のことが!」
「同情ならいらないわ」
思わず薄い笑みがこぼれた。もういいのだ。自分の存在が擦り切れるまでの時間を、ただ少しずつ伸ばしながら生きていくしかないと思っていた。
「私、婚約破棄なんて意味がないと思っていたのよ。だって、ただの茶番じゃない。でもね、あなたを好きになって初めて気がついたの。好きなひとのいる世界なら、守れるわ。どんなに寂しくても、相手が私のことを覚えていてくれるなら耐えてみせる」
人々から忘れられたら、贄は消えてしまう。それは呪いであると同時に、救いなのだと思う。愛するひとが自分のことを忘れてしまったら、この世界にとどまる理由はきっとなくなってしまうから。
「どうして笑うんだ、こんな時に」
「愛するひとの幸せのためなら、涙を隠して身を引いてみせる。それが女というものでございます。殿下、後生ですから私のことを忘れないでくださいませ」
図書室で読んだ戯曲の中から、とびきりの一文を選び出す。芝居掛かった仕草で台詞を吐けば、彼が顔を青ざめさせた。
私は、あらんかぎりの力で咲き誇る満開の桜に向かって彼を突き飛ばす。窓はこっそり開けておいた。咲き誇る桜の枝が、落下する彼を抱きしめてくれるだろう。その間に私はこの図書室を内側から閉じてしまえばいい。
七不思議にも数えられていた告白が絶対に叶う桜の木。ここでいう告白とは、愛を告げることではない。王族が、聖女の役割を婚約者に告げる贖罪の場。意思を持つ桜は、王族の守護神だ。
桜の花はやっぱり嫌いだ。私の大事なものを、全部連れ去ってしまう。私ひとりを置き去りにして。
「ジョシュア、あなたの幸せを願っている。あのひとの息子としてジョシュアが私の前に現れたように、今度はあなたの子どもたちがこの学園に来てくれるのを楽しみに待っているわ。それまでちゃんと守っておくから。安心してちょうだい」
下を見ることなく窓から離れようとしたら、思い切り腕を掴まれた。なんと彼は壁のへりに掴まって、図書室へと舞い戻ってきたらしい。さすが学年首席の第二王子殿下は、座学だけでなく運動神経も抜群のようだ。
「諦めるなんて許さない」
「ちょっと、ジョシュア。何を怒っているの?」
「まさか、僕の父親のことを今でも好いているのか?」
「違うってば。あなたのご両親とは、本当に友人だったのよ。好きになったのは、あなただけ」
「プリムローズ、愛している。絶対に誰にも渡さない」
強く抱きしめられたかと思えば、視界がぐるりと回る。背中には冷たく硬い床。目の前には美しいかんばせ。貪り食らうとはこのことか。押し倒された私の肌には、桜の花弁のような痕がいくつも刻まれていく。
卒業式の前日、私は乙女を卒業することになったのだった。
***
散々に私を喰らい尽くし、彼は卒業式に出席した。あんな大人の階段をのぼりきった状態でよかったのだろうか。
それ以来彼は私の元に姿を見せていない。当然だ、卒業したのだから学園に来るはずがない。結局あの夜の出来事は彼にとって思い出作りだったということなのだろう。
年上だし、振られても余裕でいたかったが、時の影響を受けない私の感覚は老成することはない。寂しくて悲しくて、涙がこぼれる。
「ジョシュア、今頃何をしているのかしら」
「ちょうど引越しが済んで、部屋を片付けてきたところだけれど?」
大好きなジョシュアの声。たった数日聞いていないだけなのに、もはや懐かしい。
「どうして、ここに?」
「この学園から離れると、君のことを忘れてしまうんだろう? だからここで暮らすことにした」
「卒業しなかったってことなの? 留年? 休学? 王子さまなのに?」
「卒業はしたさ。これから僕は助手をしながら、魔術の研究をするよ。許可を得るために、卒業式のあと、急いで王宮に向かったんだ。連絡ができなくてすまない。一応、言伝てを頼んだんだけれど、図書室が開かなかったらしくてね」
その言葉に私ははっとする。そう言えばしばらくいじけていて、ジョシュア以外の人間の立ち入り制限を図書室にかけていたのだ。
「私のこと、遊びなのかと思ったわ」
「そんなわけないじゃないか」
桜は嫌いだ。この花は別れを連れてくる。けれど同じように新しい出会いもまた連れてきてくれるのだと私は知った。
***
伝説と化していた魔法を一般に復活させた魔術師ジョシュアは、妻プリムローズを女神のように崇拝していたと言われている。
プリムローズは大変博識な女性で、学園の生き字引のような存在であったらしい。彼女の周囲には多くの友人が集ったという。音楽、絵画、奇術に剣術と、その才能には目を見張るものがあったとか。
ジョシュアとプリムローズが結婚の誓いをした桜の木の周りでは、春になると永遠を誓う多くの恋人たちで賑わうのだそうだ。
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