⑤
サキの姿がとっくに消えていき、少しだけ酔いの冷め始めた頭をふらふらと揺らしながら歩いていると、どういうわけか無性に寂しさが込み上げてきた。裏道の通りの一角にある小さな神社には、くすんだ色をしているシーソーが街灯のライトの端に照らされていて、なんだか僕と同じなんじゃないかなと思った。右側が下に傾いていて、僕はそこに腰を下ろす。ほんの少しだけ、きしんで、高くて耳障りな音が響く。幼い頃、夜の神社に近づくことはなかった。幼稚園でも、小学校でも僕が一番の怖がりだった。薄く湿った感じが漂う神社を視界に入れるのも嫌だったので、いつも違う道で帰っていた。久しぶりに実家に帰ってきたからだろうか、こんなことを最近はよく思い出す。その当時の僕は、いやきっと誰もがテレビや絵本で見たことがそのまま現実にシンクロしてしまって、さらに想像力は掻き立てられて様々なことが生まれてきた。昼間に見るシーソーと夜に見るシーソーは同じシーソーでも同じではなかった。今は朝に見るシーソーも昼に見るシーソーも夜に見るシーソーも春に見るシーソーも夏に見るシーソーも秋に見るシーソーも冬に見るシーソーも晴れの日に見るシーソーも雨の日に見るシーソーも雪の日に見るシーソーも変わらない。乾いてるか濡れてるか、熱を帯びてるか冷えきってるか、触れてみて初めて分かるだけだ。
古くなったものには神様が宿ると幼い僕に教えてくれた祖母は、十年も前に記憶が酩酊しながら死んでいった。優しい人だった。いつもエイチャンエイチャンと僕のことを呼んで、お父さんにもお母さんにも内緒だよと撓れた口の前に撓れた人差し指を持ってきて、百円玉やお菓子をくれた。僕は家のすぐ横にある小さな酒屋に行って、駄菓子を買ってくると、これはおばあちゃんのぶんと言って渡した。本当は自分で全部を食べてしまいたかったけれど、頭を撫でてくれながら、偉い子だね、じゃあひとつお話をしてやろうかね、そうやって話してくれる物語を聞くことが好きだった。祖母は、どんな物語にもならずに生涯を終えた。そのことを悲しく思う人間はいないだろう。ほとんどの人間が忘れ去られるからだ。一部の過去偉人は永遠に記憶されると言うが、僕はそうは思わない。その人間を知っている人間はもう誰もいない。記憶されるのは偉人ではなく、偉業だ。偉人がどんな人間だったか書いてある文献はどれも懐疑的な感がつきまとう。そんなことはどうでもいい。祖母自身が自分自身のことを忘れてしまったまま死んだことが悲しい。死後の世界は信じてるわけではないが、もしそれがあるのならば、そこに祖母がいるのならば、記憶が戻っていてくれればと思う。記憶が戻らずに、ただ死後の世界にいるのならば、きっと祖母はあちらこちらをさまよいながら、町内放送で呼ばれていることだろう。もし記憶が戻っているのなら、僕と祖母が、温かい春の日に散歩をしながら公園まで歩いてシーソーに乗りながら、スーパーで買った甘くて科学的な黄緑色をしたジュースを一緒に飲んだことを思い出してほしい。それと、僕がどれだけ端に寄ってもシーソーは祖母の側が降りていたことも。
ふと小さな明かりが付いたような気がした。
小さな明かりはチカチカとせわしく揺れて、消えていった。
白い自転車に跨がる警察官がいた。僕のことを一瞥して、なにも訪ねずにまた自転車を走らせてパトロールに行ったようだった。