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 ③

 


 丸くなった求人広告は真っ直ぐゴミ箱には飛ばず、大きく逸れて壁にぶつかった。

 満面の笑みを浮かべながらガッツポーズをした男性と、その脇に高収入可能ですと謳い文句の書かれた記事ばかりが載っていて、何一つ興味が出なかった。

 多少の貯金に雀の涙ほどの退職金と、退職後の三ヵ月後から振り込まれる失業保険、それと実家にいるということで目先はどうにかはなるが、働かないわけにはいかない。そもそも働く意志が無いわけではない。ただなんの当ても無くまた働き出したところでまた同じことの繰り返しだ。

 僕は天職だなんて言葉を信じてはいない。どんなに好きだとしても誰しもが世界チャンピオンになれるわけではない。生活するために無理なく稼げるのが天職なのか、無理してでも巨額の給料を調達できるのが天職なのか、収入が無くとも無理を無理と思わず働けるのが天職なのか。それとも、その全てか、それ以外か。

 二階のベランダに出て庭を見ると母親が散水をしている。もともとガーデニングが好きな人だが、いつからか急に庭をバラ庭園にするんだと言い出し、バラの庭園が表紙になっている分厚い本を買ってきては読みふけっていた。それからすぐになにやら肥料やら柵やらを買ってきて庭の手入れにせっせと励みだした。それが二年前で、まだバラ庭園には程遠いのだが、文字通り芽は出てきているようだった。

 実家は、二階建ての一軒家造りで五年前に新築したものだ。片田舎なのでそこそこに大きい家だ。ただ前と比べると庭は少し小さくなった。目の前は片側一車線で両側に歩道のある広い通りが走っていて、滅多なことでは渋滞しないが昼間はそこそこ交通量がある。この庭がバラ屋敷になれば人の目にも触れるだろうから、それを考えれば精が出るのも頷ける。歩きや自転車でよくここを通る人には話しかけられたりもしているようだ。

 趣味と仕事の違いはなんだろうか。母親が庭を素敵で綺麗なバラ庭園を作る。もしかしたら、そこからなにかの仕事が生まれるかもしれない。例えば、見ず知らずの人が通りががりに綺麗なバラですね、もしよろしければでいいのですが、一本バラを下さらないかしら? と尋ねてくる。たぶん僕の母親はお金なんかいいんですよと言って渡すだろう。そういうことが次第に増えたときには、金を取り始めるかもしれない。それは利益を稼ぐというよりも育てるのと手入れにも金がかかるからだ。プレゼントのしすぎで「経営費」が無くなるのは本末転倒だし、人に渡しすぎて庭が貧相になることも望まない。そうなったらなば販売用のバラも育て始めるかもしれない。商売なんかしたことの無い母親は、きっと赤字での提供をするかもしれないから、それを仕事と呼べるかは怪しい。私の庭も見てくれませんか? という問いに対してもそれと同じことを言うだろう。

 誰かがそう言うのならば母親の天職はこれだろうか。いや、そんな言葉は幻想にしか過ぎない。

 ベランダから部屋に戻りベッドに倒れこむ。ベッドのスプリングと柔らかい布団の感触が心地悪い。病気になって何日も寝込んでいるときに、ベッドで横たわっているのが苦痛になる感覚と似ていた。いま僕は病気ではない。実はどこか調子が悪いのだろうか。しばらくそのままの格好でいたが、急にこのままじゃ腐ってしまうという感覚が心臓の辺りから鼓動が伝わるように全身を脈打った。それは一秒置きに強くなり、全身に波紋が波打つようだった。まだ退社をして三日目だった。

 携帯電話を見るが、もちろん誰からも着信はないし、メールも着ていない。平日の昼間だ。誰もが精力的に働いているのだろう。とりあえずパソコンを起動させ、ポータルサイトのトップ画面を開くが目新しい記事もないし、調べるようなこともなにもない。

 正直、仕事を辞めてみてここまで何も無いとは思っていなかった。会社へ勤め出したとき、黒い一つの水滴が手の甲に落ちた。最初はなにも気にしてはいなかったが、その黒い水滴は一年経ったとき手の甲全体に広がっていた。そして二年が経ち、肘のほうまで黒くなった。そして七年が経ったとき、脇から胸と首にかけても広がり、止まることのない進行に恐怖した。しかし、もしかしたら中途半端に進行を止めるよりも体中が黒く染まってしまったほうが良かったのかもしれない。或いは、会社へ勤めだしたのとは関係なく、その水滴は同時期に落ちてきただけのことだったのかもしれない。だとすれば僕は勘違いをしてしまっただけなのだろうか。そして既に僕の上半身は黒く腐っていっているのだろうか。えも知れない悪臭を放って、ぐちょぐちょと腐った体液で濡れはじめた皮膚から、さらにその下にある肉までを溶かしきっているのかもしれない。

 そう思うと恐ろしく不安になる。もう何をしても食い止めることはできないのだろうか。

 僕は携帯電話を手に取り、猿山に電話した。今晩、一杯どうかと誘ったのだ。案の定、猿山は電話に出た。相変わらずいつでも電話に出れるんだなと言うと、創作的活動の真っ只中に邪魔すんなと言ったが、誘いに対しては辞めたばっかりで呑みに行っていいのかよ、俺は金出せないぞというようなことを言っていて、まんざらでもないようだった。

 僕はもちろん「そこは割り勘で」と答えた。

 

 

 「エイジはパソコンに詳しく無くて良かったな」僕と猿山の二人だけだというのに、猿山は焼鳥を串から外している。きっと猿山は一人で焼鳥を食べていても串から外すのかもしれない。

 「どういうこと?」

 「誰とも関わりが持てないから、暇で暇で仕方ないんだろ?いまはインターネットを使えばオンラインゲームとかネット掲示板で誰かと繋がることができるからさ。それで段々と引きこもりになっていく人は少なくないんだってよ」

 「なるほどね。あんまし興味は無いんだけど、迂闊に手を出さないほうが良いかも」

 「クスリみたいなもんだよ。ネトゲ廃人って言葉、聞いたこと無い?」

 「ネトゲハイジン?」

 「そう。俺たちも学生の頃は、よく何人かで集まって格闘ゲームとかで対戦したり、人生ゲームを酒でも飲みながらやったりしたじゃん。そういう時って、あっという間に朝にならなかったか? 朝の日差しが気持ち悪くてさ。寝てないのに身体は疲れてなくて、指先しか動かしてないから変な疲労感があってさ。で、頭も回転しない」

 「確かにあったね。最近もたまにやったじゃん」

 「あれを世界の人とやるんだよ。家の中にいながら世界の人と繋がる」

 「廃人、ね」

 「まさに、ヤクチューだよ。エイジはそうならないと思うけどさ」そう言いながら抜き取った焼鳥の串を飲み終えたジョッキに入れた。

 「でもこのままじゃアルチューになっちゃうかも知れないよ」辺りを見回すと今日の客の入りはかなり入っている。この間とは打って変わって店員がせかせかと走り回っている。

 「早くやること見つけないとな。勉強したいこと、見つかったか?」

 僕は飲もうと途中まで持ち上げたグラスをテーブルに置いた。「まだ、なにも」

 「まだ三日目だから、焦らなくてもいいのかもしれないけどさ。でも、そのままでいたら鬱になっちまうかもな」

 「会社に勤めてたときも、そんなに毎日毎日が目一杯に精力的だった訳じゃなかったんだけどさ。こう辞めると、また違うね。金も入らないし」そして、どちらにしても気持ちが病んでいくことは同じだった、と心の中で呟いた。

 「へんな勧誘にのらないでくれよ。そういうとき、一本の支えが無いときにはまっちまうのが勧誘だとか、ウマイ話とかなんだからさ」

 「大丈夫だよ、きっと。それにサラリーマン生活で疲れててもはまる人ははまるんだよ。俺の感想だけど、日本の会社ってのは一つ一つがそれぞれ国みたいで、みんな会社を心の柱にしてるんだよ。たぶん終身雇用ってそういうことだと思う。愛社精神ってやつ?」

 「みんなで会社を盛り上げてこうって言うのは、そんなに悪いことじゃないだろ」

 「悪いことじゃない。いいことだよ」

 「じゃあいまのエイジはその柱が無いってことは認めるんだな」

 「そう考えると、確かに今は少し危ないかも」大きく長い溜息が口から漏れた。

 「とりあえず、一日の生活のリズムを作ることが大事なんじゃない」

 「家事手伝いでもするか?」

 「俺は専業主夫に偏見はないけど、エイジはそれがやりたいわけじゃないだろ」

 「まぁね。今はとにかく働きたいんだよ。働くことは楽しかった。何かに一生懸命に打ち込むってことは気持ちがいいし、今までやってきたこと、例えばバイトでもスポーツにしてもなんにしても今までそうやってきた」

 「じゃあ、なんで仕事辞めちゃったんだよ。人間関係?」

 「人間関係は良かったよ」でも腐ってしまいそうな気がしたんだ。ふと手の甲を眺めた。「今、俺は不安で不安で仕方がない」

 「焦っても仕方ないじゃん。そういう時はな…」それから猿山は、なにか良い方法は無いものかとぶつぶつ独り言を始めた。無理して考えなくても良いと思うが、ここは任せてみようと思った。

 腕を組み、唸る。それからこちらを向き、口を開こうとするがやはりまた視線を下に向けて唸る。そして僕は砂肝をつまむ。お互いにそれを何度か繰り返して、僕がもういいよと言おうとしたとき、ぱっと猿山がこちらに顔を向けた。

 「育てると良いんだよ。」

 「育てるとい良いって、何を?」

 「植物を」

 「植物?」

 「エイジのおふくろさんもガーデニングやってるように、エイジもやってみなよ。朝、水をあげて、手入れしてさ。いきなり動物とかよりも良いと思うし。芽が出て、実を付けさせるのか花を咲かせるのかは知らないけど、芽を成長させるんだよ」

 「なるほどね。でも何を育てようか」

 それを聞いた猿山は、唇の端を片側だけ持ち上げた。

 「いいネタがあるぜ」そう言って一粒の種を僕に差し出した。



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