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 ①

 刺激の少ない日々だった。

 かといって刺激を求める勇気も無かった。

 日々はただただ足早に、それも忍び足で目の前を通り過ぎていくだけだった。いくら音の無い足音といっても、目の前を通ればこの僕でもさすがに気付く。ただ、気が付いているにもかかわらず気が付かない素振で見て見ぬフリをしているだけだった。

 肉体的な成長がピークを迎え緩やかなカーブを描いて落ちていく中にでも、精神的な成長は止まることを知らないはずだと、ある人は言う。確かに年を重ねれば俊敏さも落ちてくるし、体から嫌な臭いも漂い始めてきて、これから出来ることはどうしても限られてくることを知らせる。例えるなら、八十キロのスピードでまっすぐ飛んでくる白球もろくにバットに当てられない二十九歳の僕が、プロ野球の選手をこれから目指すわけにもいかないということだろう。かといって精神的な成長ですら、十七歳から何も変わらないとしか思えない僕には、それも期待できないしいまさら何をどうすればいいのかが分からない。

 時間は残酷に僕の若さという可能性と夢と希望を蝕んでいく。いや、それは正確な表現ではない。若さは蝕まれる。けれども夢と希望は蝕まれることは無い。なにしろ、夢と希望が無いからだ。

 ある人は言った。何不自由の無い現代の生活に育った若い連中は、なにか一つ些細なことでも、嫌なことがあったり手に入らないものがあれば男女の垣根無くヒステリックを起こすと。それが最近の世相を現すような凶悪な事件を引き起こすのだと。

 それについて僕としては色々と言いたいことがあるのが本音ではあるが、ご他聞に漏れずに言いたいことも言えない世の中の中で社会的に生きている僕は、そういう類の話は右の耳に入れた後、すぐに左の耳から出すことにしている。残るのは愛想笑いだけだ。僕としては防御策を張ったつもりだったのだが思いもしない弊害もあった。そういうことを繰り返しているうちに、僕の頭の中は素晴らしい音楽を聴いても綺麗な風景や夜景を見ても、絵画を見ても、斬新な手法のオブジェを見ても、何も感じなくなっていった。唯一、綺麗な女性を見た時に性欲を感じるくらいで、他の感覚が鈍化されるにしたがって、この感覚がより鋭敏になってきているのを感じる。

 もちろん僕は性的な対象としてならば男性よりも女性の方が好きだし、綺麗な女性はなお好きだし、胸が大きかったりだとか形のいい尻をしている女性を見れば当然、欲情する。だけれども、言いたいことはそういうことではない。

 例えばある日曜日に友人の誘いで美術館へ行ったときのことだ。その時に展示されていたのは様々な革新的な手法で作られたアート作品だった。そもそもその展示会のことを僕は電車の中吊広告で知ったのだが、とても興味深くて一人で見に行っても構わないと思っていた。誘われたのはたまたまだった。声をかけてくれたのは仕事で知り合った人物で年齢も近く、直接的な仕事の関わりが無かったのだが、それが逆にきっかけでフランクな関係になった人だった。美術館に入り、チケットを買い、中に入っていくと爽やかにひんやりとした空気と美術館特有の硬く大らかな雰囲気が僕を高揚させた。足取りも軽快に作品を見ていくと確かに面白いことは面白い。が、正直あまり記憶には残らなかった。作品よりもその友人のことが気になって仕方がなかった。なにせその友人が女であったからだ。それも均整の取れた顔立ちの美人であって、しかも胸と足の形も綺麗な子だった。低い台の上に置いてある作品を見るときに前かがみになる彼女の胸元のほうが、そこにあったどんな芸術作品よりも魅力的に見えた。歩きながら話す会話よりも、ヒールを履いている彼女の足の甲から沿うように伸びている、なだらかな曲線が交差するのを見るほうが楽しかったし、時間が経つのも早かった。

 ある意味ではそれが正しい。むしろ人間の一つの真理ともいえるだろう。けれども今まで僕は女性と一緒にでも美術館に行けばその作品を楽しめたし、映画に行けば夢中で見ることができた。その後にする食事では見た作品について話すことが好きだった。僕としてはそういった変化に大きな違和感を覚える。まるで最後の危険信号かのようにも思える。

 そして休みが明けて、平日の五日間ないし六日間は会社へ向かいルーティンワークを行い、イマイチと人に言われ、各方面に頭を下げ、夜中に狭いアパートへと帰る。小さなバスルームでシャワーを浴び、埃の多いフロアリングに布団を敷き、寝る。そして気が付くと朝の光がその日もまたどんよりと薄いカーテンを貫き、目が覚める。

 「つまりこれが俺の人生かな」

 「自分で選んだんだろ」

 「洗脳されてたんだよ。とにもかくにも就職して働かなきゃ人間じゃないってさ」

 「そりゃそうだろ。身をすり減らしても就職して働く。その方がいいんじゃないか。それに就職しなきゃ人間じゃないなら、俺は毛の少ないサルかなにかってことになるのかな」そう猿山は言いながら、三分の一に減ったビールを湿ったコースターの上に丁寧に戻した。

 「気楽で良いじゃん」

 「自由業は不自由業だけどな」と、猿山は気楽そうに言った。

 「自由業っていっても、フリーターだろ」

 「この間の最終まで通った賞のプロフィールにはフリーターって書いたんだけどな、雑誌にはフリーに書き直されてたよ」

 「雑誌的にもフリーターじゃ載せられなかったんだ」

 「だから俺はフリーってことにしたんだ。つまり自由業者。本業での収入はまだゼロだけどな」

 「作品を作る金を入れたら赤じゃないのか」

 猿山はくすんだ緑色の枝豆を見つめながら、溜息をついた。

 「まっかっかだよ」

 「昔はさ、酒は楽しむために飲んでたんだけどな。いまは嫌なことを忘れるために飲んでるよ」僕は空になったグラスを振り、テキーラトニックをもう一杯頼んだ。もう六杯目だ。

 「じゃないと若いのが凶悪な事件をやらかしちまうからな」猿山はさも楽しげに枝豆の豆を取り出し、口に運ぶ。

 辺りを見回すと不景気のせいか、金曜の大衆居酒屋だというのに人の入りはまばらだった。若い店員が十字に重なる通路に集まり笑顔で話している。

 「俺達の将来ってどうなるのかな」

 「あんまり明るくはないな」

 「これからこの国はどこに向かうのかな」

 「まずは選挙に向かわないとな」僕はその言葉を聞いて、さらっと上手いことを言えるもんだなと、感心した。

 「俺の座布団やるよ」座っていた座布団を差し出した。

 「いらねぇよ」

 そう言ってから、猿山は十字の通路にいる店員に向かって大きく手を上げてから、空になったジョッキを高く掲げて七杯目のビールを頼んだ。

 「でも、」と猿山は口を開いた。「少し変わったかもしれないな。もっと純粋無垢な気がしてたよ、エイジは」

 「俺も少しは大人になったってことかな」おどけて言った。それに対して猿山は、ああそうだなと一言だけ言うと、すたすたとやってきた女性の店員から泡のしぼんだジョッキを受け取った。その子の背は低く線が細い。顔は瞳の大きさが目立つ、かわいい丸い顔をしている。猿山は満杯になったジョッキを受け取り口を付ける。口元に付いた貧相な泡を拭きながら、

 「仕事は辞めてこっち帰るんだろ」と言った。

 「再来月の二十日に退社して、こっちには来月末に帰ってくる。通えない距離じゃないから」

 「エイジが帰ってくると、この町も明るくなるな」

 「間違いない」

 「で、それからどうするんだ」

 僕はその問いに対して、どう答えようか迷った。僕はいったいこれからどうするのだろう。「前のような純粋無垢になりたいよ」ただの思い付きで言ったが、笑いながらは言わなかった。 

 「後ろを見ても仕方が無いんじゃない。前を向いて行かなきゃさ」と、真面目な顔をして答える猿山に悪い気がした。

 「本当はさ、勉強しなおしたい」

 「なんの?」

 「実は分からない」

 「自分探しの旅にでも出るのか」猿山は箸を伸ばしながら言った。

 「そういうつもりはないよ。だって自分はここにいるじゃないか」

 「自分はここにいる、か。自分を創るための旅になら出てもいいんじゃないのか」

 「もう十分に情報過多なんだよ。きっと。俺は何を選んで捨てればいいのかが分からない」

 「分からないことばかりだな」

 「分からないことばかりだ」僕はうつむく。口からはアルコールの臭いがした。

 「お互い前しか進めないんだから進むしかないんだよな。あんまり考えすぎないで元気出せよ」

 「猿山みたいになりたいよ」

 「珍しいな、エイジがそんなことを言うのは。打ちのめされたか」

 「自信は無くしたよ。勘違いとか、思い込みとか、理屈がなくても自信だけはあったのにね。それが良い事なのか悪い事なのかは、これまた分からないけど」

 「きっと、エイジはこれからがスタートなんだよ」猿山は屈託なく微笑んだ。僕は社会人になり営業スマイルや愛想笑い、それと嘲笑い。そんな笑顔ばかりを見てきた。酒はおろかチェイサーも喉を通らないほど気持ちが落ちてくることばかりだった。しかし実際には僕も同じような思いを他人にさせてきていただろう。だけれども、そのことを他人は大抵気付かない。それは痛みの無いカンナで少しずつ削っていくことに似ていて、きっと少しずつ誰かを傷つけている。だが、いまの猿山のその表情には人はこうやって笑えるんだった。そう思い出すことの出来る純粋な笑顔があった。

 猿山は専門学校を卒業してから、ひたすら洋服のデザイン画を書き、コンクールに送り続けている。実家に暮らしているが、日払いの、主に引越しのバイトをしながらなけなしの多少の金を家に入れつつ国に入れつつ、アイディアに必要な物を買ったり、見に行ったりしている。デザイン画選考を通過すると、現物を作らないとならないので生地を買ったりする分の金も貯めているようだ。なんでも作るときには何十メーターの生地を使って一着の服を作ることもあるそうだ。二ヶ月前に新人の登竜門である大きなコンクールの最終選考まで残った。そのとき作成した服は服としては機能しないくらいに重たかった。猿山は言った。こういうのはリアルクローズじゃないからさ。昔の十二単も似た様なもんだよ。あれはリアルクローズと言えるのかもしれないけど、と。そのやたらに肩が凝る鎧のような服は、雑誌にも載ったし、モデルがその服を着てランウェイも歩いたが入賞までは果たさなかった。果たさなかったものの最終選考まで残ったということがあればどこかのアパレルかデザイン事務所へでも入れる看板になるだろうが、本人としてはまだ足らないんだと言い、そのまま独学で作品を作り続けている。僕はといえば名前も聞いたことも無いような大学へ入り、のらりくらりと生活をしつつ、遊びつつ、四年間を過ごした。いま思えばただ時間を浪費していただけだった。永遠の若さなんて言葉は必要ないと思っていた。僕は大学での暇な時間を持て余していた。仲間はそろそろと就職活動をし始めて、会うときの会話もあそこの企業のエントリーシートがなんだとか、締め切りが何だとか、最終で落っこちちゃったとか、そういう類のものが増えてきた。だから僕は何となく就職活動を始め、運よく内定を取り就職した。

 僕が就職したころはまだよかった。今は、この時風の煽りで業績は芳しくなく、採用したものの経費ばかりかかる若手社員にまで風当たりが厳しい。定年まで数年という人にもプレッシャーをかけられていたが、さすがに経験の差か、かわすのが上手かった。社内の爆風を避ける技量もなければ隠れる盾もない若手社員がかわいそうだった。その光景を見ていると嫌気が差していた会社生活がさらに嫌になり、僕は退社することにした。本当は僕たちの年代が稼がないとならないのだが、度重なる会議でも本体と現場での温度差があって何の建設的な議論は出来なかったが、きっとそれはよくある話で珍しい話ではないと思っている。

 新入社員の内定取消話なんかを耳にするが、僕としては中途半端なキャリアでプレッシャーをかけられるよりもずっとマシな気がする。ともかく退職届を出したのが一週間前の話だ。上司にはやりたいことがあるから辞めますと言い退社の意思を伝えたのだが、その上司は、いまから焦っても手遅れだと思うけどせいぜい頑張ってくれとだけ言った。自分でも完璧に自由になるということに不安があるだけに、その言葉には渾身の右ストレートで顎を打ち抜かれた思いで、話が終わったあとにそこから立ち上がると膝が震えるようで上手に立てなかった。やりたいこともないのに手遅れと言われると、僕の中身は塵の一つ落ちていない完璧なまでに真っ白の部屋のような気がした。そこはきっと雨漏りとか隙間風が酷く、築年数が経っている。

 「十年来どころか十五年来の友人になったな。それ以上か」猿山がぽつりと言った。

 「中学生は、十四歳くらいか。そうしたら十五年だ」

 「あの頃は十年来の友達って言ったら、入園前から友達じゃないと十年来じゃなかったのにな」

 「時が経つのはあっという間だよ」

 「あの頃から、あんまり中身は変わってないな。お互いに」

 「三十歳間近でしょっちゅうこうして二人で飲むなんて、想像すらしてなかったよ。きっと家庭を持って会う機会が減るもんだとばかり思ってた」僕が言うと、猿山がすぐ頷く。

 「お互い結婚が早いと思ってたんだけど、さっぱりだったな」

 「これからさ」辺りを見回すと、先程の背の低い店員と目が合った。注文かと思ったのか、こちらに歩き出すその子に手を振り、違うと合図を送る。気立ての良さそうな子だ。

 「今の俺たちにとって結婚どころか彼女を作ることも、それこそ夢を語るような話だな」

 「事実は小説より奇なり。ちょっと違うか」

 「俺はこう思うんだが、」と猿山は前置きを言った。そんなときは大抵難しい話が出てくる。「あの頃の俺たちにとって、二十前後で結婚するのが一番普通なことだったんだよ。俺たちだけの世界の中ではね。それが実際にその後の時代の流れと俺たちとの接点が変わっていたんだ。だから、きっとそこで歪が生まれた。」そう言った猿山は、枝豆の皮をすでに山盛りになっている枝豆の皮入れへ勢いよく放り投げた。枝豆の皮は雪崩のように崩れた。

 「そしてその結果」猿山の言いたいことがさっぱり分からなかったが僕は口を開いた。「時が経ち、俺は無職になり猿山は収入の無いクリエーターになったってことか」

 「つまるところ、そういうことだ」猿山は崩れた枝豆から顔を上げて僕を見た。「誰も予想はしてないことだった。というよりも予想できなかった。今から過去を振り返り考えれば、あの時あれをしたから今こうなんだって繋げることは誰にでも簡単に出来る。だけど、今から先のことを考えるのはどんなに裏づけがあっても予想以上の範疇にはない。過去を振り返って学ぶことは大事だけど、結局進めるのは前しかない。そこが深い霧の中のようだとしてもね。これは俺の持論だけど」

 「さっきから何度も聞いてるよ」

 「だからこそ、わくわくするんだろ。毎日が」大げさに両手を広げて天を仰ぐ。「この素晴らしき日々の中へようこそ。エイジ。次は、いつどんな仕事をするのか分からないけど、無職だからって悲観することはないよ」

 僕はそうかと頷き、猿山の考えを考えた。無職といえどもプライドを持って夢へと向かう猿山は、収入が無く悩みはしても嘆きはしないのだろう。だからその気持ちは分かる。けれども二つ忘れてはならないことがある。僕にはそういったプライドの持てる目標が無いということと、僕たちは資産家の育ちでもなければ逆玉の輿にも乗っていないことだ。僕はこれから実家へ戻るのだし、猿山はずっと実家暮らしだ。実家暮らしの収入無の二十九歳。男子。いや、男性。確かにわくわくはしてくる。

 僕たちは飲んでいた六杯目のグラスと七杯目のジョッキを空にすると店を出た。地元の駅前の商店街はとてもひっそりとしていて人影は全く無かった。外は夜中の湿ったぬるい風が頬を軽く撫でて通り過ぎていく。今日は実家泊まるんだよな。というか終電とっくに終わってるもんな。俺の自転車あっちだから、じゃあまたなと猿山が手を振って路地を曲がり、消えた。女でも抱きに行こうか。必ずしもそういう話にならない友人との酒はいいものだ。



 少し座ろうかと思い、辺りを見回すと、アーケードになっている広い通りの真ん中に自転車が何台か放置してあった。そこの脇にある、木で出来ている酷くくたびれたベンチが目に付いた。それは懐かしいものだった。確か小学生の頃だろうか、母親とこの商店街まで一緒に買い物へ出かけるのが日課だったとき、必ず焼鳥屋でレバーの串焼きを買ってもらいここに座って食べていた場所だ。

 レバーは好き嫌いの多い食べ物の一つかもしれないが僕の好物だった。毎回買ってもらうのは決まってレバーだった。今でももちろん好物だが毎日のように食べたいかといえばそんなことはない。あるとき、いつものようにレバーを受け取りそのベンチへ向かうと手からレバーが滑り落ちた。あらあらと母親が仕方ないからもう一本買おうねと言うが、僕はいらないと言った。わざとじゃないんだから気にしなくていいんだよと言ってくれたが、きっと一日一本と自分の中でも思っていたのだろう、いらないと繰り返した。そうしているとその焼鳥屋の主人が近づいてきて、気をつけるんだよと一本のレバーを手渡してくれた。僕はまさかそれを落とすわけにはいかないと慎重に受け取った。母親が主人の顔を見ると、御代はもちろんいりませんよ。いつもありがとうございます。レバーが好きな子は珍しいけど栄養がたっぷりだから、本当は子どものおやつには最適なんですよ。母親は礼を言い、僕も礼を言った。それからもレバーは買い続けていたが、主人とはたまに一言二言を交わすくらいだった。顔は覚えてはいないし、優しい人だったのだと思うがもちろんどんな人間なのかということは分からない。年齢はきっと三十歳中頃かそれ以上といったところだったと思う。

 そのベンチに座り、綿で出来たジャケットの内ポケットから煙草を取り出して火を付ける。それから焼鳥屋の在ったほうを眺めると、煙草から漂う白い煙の先には十年前に作られた広い有料駐車場が見えるだけだった。思えば、駅から微妙に距離のあるところに大きなショッピングモールが出来てから、この辺りは寂れてきた。いくつかの飲み屋や歯医者やパソコン教室があるくらいで、丸一日シャッターが開かないところもある。その有料駐車場にいたっては、その一角の店舗が取り壊され、更地になり、コンクリートが流し込まれ、簡単な白線が引かれて、あっという間に完成したものだった。

 しばらくその風景を見ていた。何か考えや思いが明確な言葉になるわけではないのだが、湧きあがってくる小さな感情を読み解いていく。それは決して幸福なものではないが、心地よいものだった。それに、その作業自体がなにかとても懐かしかった。

 二本目の煙草に火を付けると、ふと人の気配を感じた。横を見ると若い女がいた。その女は両方の唇の端を持ち上げてから、軽い会釈をした。それから、「ライター持ってませんか」座ってる僕に覗き込むようにして話しかけてくる。瞳が黒く大きかった。

 「持ってるよ。マッチ売りの少女になった気分だよ」僕はずっしりとしたジッポライターを彼女に差し出す。

 「買わなきゃダメですか」

 「いや、煙草に火を付けた瞬間に現れたから。俺の幻覚とか幽霊とかじゃないよね」

 「かもしれないですね」彼女は微笑んでライターを受け取る。ころころとした笑顔が可愛らしい。

 「仕事帰り?」

 「仕事というか、バイトですけど」

 「学生さん?」

 「はい」彼女はライターを手渡してくる。僕はそれを受け取る。それから火を付けたばかりの煙草を携帯灰皿へ捻りこみ、立ち上がった。

 「好きなこと、勉強できてる?」

 「ええ、まあ」

 「それはいいことだね」そう質問した自分自身に年を取りすぎた思いがする。「この街はあんまり物騒でもないと思うけど、遅いから気を付けて帰ってね」と付け加えて、足早にその場から離れた。彼女がどんなスタイルでどんな服を着ていたかは、分からないままにした。

 しばらく歩いてから煙草を取り出し、火を灯す。その灯りの向こう側は、まだ何も見えてはこなかった。



読んで頂きまして、ありがとうございます。


今の気持ちとしてですが、4万字着地あたりを目指して書いています。

字数が万単位なんて書いたことがないので、とにかく無事に終わらせられるようにがんばります。

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