桜の屍人
1.
花曇りの午後、靖国神社の境内を歩く多くの花見客と一緒に三人の学生が歩いていた。
「わかったよ、白状する。ぼくは読んでません」
膨れっ面をしたのはJ大学文学部三年の牧田徹だ。首から三千万画素のミラーレス一眼を提げる、いかにもお坊ちゃん風の牧田は、たった五人しかいないミステリ研究会のメンバーだ。
「正直言ってさあ、十行読むだけでもしんどいんだよ。まるで頭に入ってこない。活字が紙の上を逃げ回って、まったくつかみ所がない」
「それって、訳者との相性が悪いのよ」
ショートボブの藤沢陽子がショルダーバッグからタブレットを出した。フランス語学科三年の帰国子女はミステリ研究会にとどまらない、J大学のマドンナだ。
「これ、読んでみて」
陽子が開いたのは、史上初の推理小説といわれるエドガー・アラン・ポーの短編を試し読みできるページだ。タブレットを受け取って読み始めた牧田が眉を寄せる。
「あれれ、これ、違うなあ」
「でしょ? これでも十行読むだけでしんどい?」
「いや、これなら……もう十五行くらい進んだ」
「ほらね。古典的な海外作品は誰の翻訳を読むかによって、まるで違ってくる。『モルグ街の殺人』は一八四一年の作品だからね。現在手に入るものだけでも何種類もある。その中から自分に合った翻訳を選ぶ。何人かの翻訳を読み比べる人もいるわ」
「そうだったか。なるほど、言われてみれば、そのとおりだよな。ともかく、これなら近日中に『モルグ街』の読者に仲間入りだ。というわけで、ポチっていい?」
「いやよ。自分で買いなさい!」
ふたりの後を黙って歩いていた雨宮尽吾が足を止めた。法学部三年の雨宮はミステリー研究会の代表者だ。彼の気配が離れたことに気づいた陽子が振り返り、牧田も立ち止まる。
「どうしたの?」
数歩引き返してきた陽子に聞かれ、雨宮は顎で右の路肩を示した。桜の木の根元に座った男が幹に寄りかかり、目を閉じている。
「酔っ払い?」
「手ぶらだぞ。それに、全く動かない。体も顔も」
雨宮たちと男の間を何人もの花見客が行き来するが、桜にもたれて目を閉じる男を誰も気に留めない。雨宮たちと年齢が近く、太目のチノパンにTシャツという服装は学生らしく見える。雨宮は彼に近付き、その前にしゃがんだ。掌を顔に近づけると、呼吸していないのがわかった。首筋に指を当てても、心臓に耳を近づけても、彼が生きている痕跡を見つけることはできない。
「陽子、一一〇番だ」
「え、救急車じゃなくていいの?」
「状況を説明すれば、一一〇番が必要な人を呼ぶよ」
雨宮は、男の右手の人差し指が伸びていることに気がついた。地面に文字を書いたらしい。乾燥した地面なので、何を書いたかわかりにくい。雨宮は男の背後に回って文字を読もうとした。
「『桜』、かな――」
牧田が隣りに来て文字を読んだ。
「うん、『桜』、みたいだ」
牧田はミラーレス一眼で「桜」の文字を撮り、幾つかの角度から遺体の写真も撮った。
陽子は電話の相手に丁寧に状況を説明していた。
「どこか怪我をしてるようには見えません。血は流れていないし、打撲の痕も見える範囲にはありません。荷物はなさそうですね。手ぶらです。シャツの胸ポケットも空っぽだと思います。ズボンのお尻のポケットは……見える限りでは何もなさそうです」
ふたりの制服警察官がすぐにやって来た。救急隊員も到着し、ようやく周辺は騒然となった。
第一発見者の三人はたっぷり一時間以上足止めされた。被害者の状況からして事件性はなさそうだという警察官たちのやりとりが耳に入ってきた。手ぶらだがポケットからスイカのカードが一枚見つかり、それを使えば移動に困らない。ただ、そのカードは無記名で、身元がわからないのが問題のようだ。
「あのう、彼が書いたと思われる字、気がつきましたか?」
五十歳くらいの私服刑事に雨宮尽吾は恐る恐る聞いてみた。
「字? そんなのあったか?」
彼は近くにいた別の刑事たちに確認した。驚いたことに、誰も気に留めていなかった。
「おそらく、あの人は、『桜』という文字を死ぬ前に書きました」
遺体のあった場所はブルーシートで囲まれ、検視が行われているらしかった。
「それって、ダイイング・メッセージじゃないでしょうか?」
刑事は雨宮の顔を覗き込み、ニヤリと笑った。
「キミ、そういうの好きなの?」
「ええ。J大学のミステリ研究会で代表をしてるくらい好きです」
「ダイイング・メッセージだとしたら、彼は殺されたことになる?」
「それはわかりません。ただ、自らの死に関連する何かを伝えたかったのは間違いないと思います」
「例えば?」
雨宮は虚空を見上げ、考えを整理した。
「殺人事件ならば犯人。そうでないなら、彼が死ぬ理由。他殺、自殺、病死、そのどれであろうと、その原因を残しておきたくて、彼は『桜』の一文字を遺した」
検視が一段落したらしい。死後一時間半から二時間。死因は不明。解剖が必要だという声が聞こえた。そうして、雨宮たちは解放され、花見の続きを歩き始めた。その背中を呼び止めた先ほどの刑事が、雨宮に名刺をくれた。
警視庁麹町警察署刑事組織犯罪対策課警部補・京村竹男
「何か気づいたことがあったら連絡してくれ」
彼はそう言い残し、ブルーシートの中へ消えた。
2.
夜のテレビニュースやネットニュースを気にかけていたが、靖国神社の死体に関する報道はなかった。司法解剖の結果、事件性はなく、病死との結論に至ったのだろうと雨宮は想像した。それを覆したのは、深夜零時近くなってスマホに届いた牧田からのメッセージだった。
〈緊急緊急! ネットMTGやりたい!〉
電源を落としたパソコンを再起動する。会議アプリを立ち上げると、不機嫌そうな陽子のアップが映った。
「もう、なんなのよ。スッピンなんだから絶対にスクリーンショットしないでよ!」
花柄のパジャマを着た陽子は、普段よりもずっと幼く可愛らしく見えた。
「俺、大変なこと思い出しちゃったんだよ」
牧田は興奮して丸顔の真ん中にある鼻を膨らませた。
「あの死体の男、中学時代の同級生だった。清河海星、あの清河憲一郎の息子だよ」
「なんだって!」
清河憲一郎は、一ヶ月ほど前に訃報が流れ、世間を驚かせた。食品ビジネスを中心に発展した清河グループの総帥だ。その大物が、自らが東京湾で釣ったフグを調理し、中毒死したのだ。
「実は、どこかで見たような気がして調べたんだ。中学時代の卒業アルバムに載っていたよ。間違いない。清河海星だ」
牧田の実家は千葉市の土気にある。四谷の大学まで通えない距離ではないが、親に無理を言って荻窪にある雨宮のアパートの近所に住んでいる。清河海星の実家は土気の中でも有名な高級住宅が建ち並ぶ一角にあるという。それにしても、中学の卒業アルバムを一人暮らしのアパートに持ってきていることが、雨宮は意外だった。
「あいつ、健康優良児でさ、病死だとすると納得いかないんだよね。で、写真をよく見てみたんだよ。そしたら、こんなものが写ってた」
牧田が一枚の写真を共有した。桜の木にもたれかかる男の左側に立って撮った写真だ。「左腕の肩の下を見てよ。とても小さい点が見えるでしょ」
そう言いながら、牧田は共有画像を拡大した。なるほど、シャツの上に小さな点がある。「これって、注射の痕じゃないかな。黒く見えるけど、色を解析したら赤が混じっているんだ。つまり、注射して僅かだけど出血した痕だと思うんだ」
さすが、三千万画素クラスのフルサイズカメラだと注射痕のような微少な痕跡もしっかり捕らえている。
「おまえ、鑑識か科捜研か、どっちかを目指すべきだな」
さすがに、この時間に京村刑事に連絡するのは憚られる。プロの検視官が注射痕を見逃しているとも思えない。
「明日の朝、昼間の刑事に伝えておくよ」
モニターに映る陽子が大きな欠伸をした。
「清河海星君って、兄弟いるの?」
「確か、ひとりっ子だったと思うよ」
「じゃあ、本来ならば、清河憲一郎の遺産をがっぽり相続した筈なのね」
三人はフリーズしたように押し黙った。もし、清河海星が何者かに毒を注射されて死んだのであれば、遺産をめぐる争いの可能性がでてくる。
「なんか、目が覚めてきちゃった」
陽子はぽりぽりと頭を掻いた。
「中学時代、海星君と同じ高校に行った友達はいるかな?」
雨宮は早くも探偵モードだ。
「何人か心当たりはあるよ」
「そのルートから、彼の近況について調べられる?」
「やってみるよ」
次の行動は、牧田が入手するネタ次第、ということにして深夜のミーティングは終了した。
翌朝、雨宮尽吾は麹町署の京村警部補に連絡を入れた。指定されたメールアドレスに牧田が撮った写真を送ると、程なく折り返しの電話がきた。
「このこと、外部に漏らしていないよね?」
声の調子から、いささか機嫌が悪いと雨宮は察した。同時に、報道がまるでなされていない理由が頭の中でフラッシュする。現場での検視や解剖の結果、彼の死には事件性があった――つまり、殺人事件として捜査することになったのではないか。
「共有しているのは、ぼくを含め昨日の三人だけです」
「わかった。くれぐれも内密にね。それと、余計なことはしないように」
「了解です」
確かに、余計なことをするつもりは毛頭ない。やるのは興味のあることだけだ。雨宮は待ちきれずに牧田のスマホに連絡を入れた。
「何かわかった?」
「S海洋大の遺伝子工学部に進学したことがわかったよ」
なるほど、清河グループは食品ビジネスを柱にしている。その関係なのだろうと雨宮は想像した。
「クローンとか、そういう研究をするゼミに入っているらしい。ええと……水井ゼミだ」
ひと晩でよく調べたものだと雨宮は感心した。S海洋大は千葉県の房総半島北部の太平洋岸にある。
「行ってみるか?」
牧田は行きたそうな雰囲気だが、その前に当主と跡継ぎを失った南条家がどうなっているのか、確認しておきたいと雨宮は思った。
「久しぶりに実家へ寄ってみたらどうだ?」
牧田は言葉に詰まったが、たまにはいいだろう、と渋々同意した。
東京駅で土産の菓子折を買い、土気に到着したのは昼前だった。ふたりは清河家を訪ねた。駅から十分ほど歩いた清河家は、テレビドラマに出てきそうな洋館だ。
インターホンを押そうとして、牧田が手を止めた。標札にふたつの苗字が掲げられているのだ。ひとつは「清河」。もうひとつは「米本」だ。牧田は何歩か下がり、首に提げたミラーレス一眼で標札の写真を撮った。
「どういうことかわかるか?」
雨宮に問われた牧田は唇を揺らして首を横に振った。
インターホンを押して現れたのは、海星の母親、つまり、清河憲一郎の妻だろうか。大金持ちのご婦人というより、ごく普通の「おばさん」に見えた。
「ぼくたち、中学時代に海星君の同級でした」
説明が面倒なので、雨宮も同級生ということで示し合わせてある。
「この度は、海星君が亡くなったと聞いたものですから……」
母親の表情に警戒が走ったような気がした。彼が死んだのは前日で、関係者に公表したわけではないのだろう。
「それは、わざわざ……。でも、まだ遺体が警察から戻ってきてないんです」
「そうでしたか。海星君は病気で亡くなったと聞きましたが……」
雨宮が探りを入れた。
「ええ。私もそう聞いています。でも、返してくれないんですよ」
母親に対しても病死を匂わせているようだ。ということは、母親も容疑者になっており、真実を伝えられていない可能性があるのだろう。
「先月、ご主人が亡くなられたとも聞いています」
「そうなんです。馬鹿ですよね。自分で釣ったフグに当たって死ぬなんて……」
「宜しければ、お線香を上げさてもらえませんか?」
半ば強引に雨宮と牧田は清河家に上がり込んだ。
清河憲一郎の仏壇は、リビングの一角に置かれた洋風のものだった。遺影の中の憲一郎は、とても健康的で精力が漲り、とても病死する弱さは感じられない。雨宮と牧田は順番に手を合わせた。
「フグ、お好きだったのですか?」
「ええ。仕事の関係で養殖のフグを食べる機会はよくあったのですよ。それでも釣ったフグを食べるのが好きで、こういうオチがついてしまいました」
「いつも、ご自身で調理を?」
「釣り上げたフグは乗合船の船宿で捌いて貰っていたのですが、最近は、そのまま持ち帰ってました。近所の寿司屋で調理して貰うと、船宿には嘘をついていたみたいです。どうしてもレバーが食べたかったらしくて……」
「亡くなったのも、やはりレバーですか?」
「ええ。舌にピリピリするのがたまらないって、大喜びで食べてました」
雨宮はこの話に違和感を覚えた。いくらフグのレバーが美味であるにせよ、これまで死亡事故が起きて禁止された食材を口にするというリスクを、食品関連会社を率いるオーナーが冒すだろうか……。
「ご主人は、フグの調理師免許を持っていたわけではありませんよね?」
「もちろん、見よう見まねです」
もうひとつ、聞いておきたいことがあったが、それを聞くと相手の心証を悪くするかもしれない。雨宮は別のお願いを先に持ち出した。
「宜しかったら、海星君の部屋を見せて貰えませんか?」
明らかに母親の顔色が変わった。ひょっとすると、警察からも要請されたのかもしれない。
「いいですけど……特に変わったものはありませんよ」
「構いません。ただ、ちょっと懐かしんでみたくて」
「あら、この家に来られたこと、ありました?」
「ええ。中学時代ですけど……」
雨宮は嘘をついた。咄嗟に、牧田がフォローする。
「覚えていませんか? 中学の体育祭で優勝したとき、みんなでお邪魔したんです」
「ああ、そんなこと、ありましたね」
雨宮は母親から見えないよう、牧田に親指を立てた。
清河海星の部屋は、ゲームやマンガが散乱するでもなく、本棚には海洋関係の専門書が並び、極めて真面目な大学生の部屋といった雰囲気だった。
「これ、見てもいいですか?」
雨宮が手に取ったのは、背表紙に「水井ゼミ」とラベルを貼ったファイルだ。全部で十冊ほどもある。几帳面な性格だったのだろう。各ファイルの最初には、見出しページが付けられている。その中のひとつに、雨宮は目を引かれた。
〈自然界テトロドトキシンを中和する内服薬について〉
それは、漁業関係の業界紙を切り抜いたもので、水井博之教授のインタビュー記事だ。 雨宮は素早く記事を読んだ上で、ノートにあった数ページ分の写真を牧田に撮らせた。中には、かなり古い写真も含まれていた。
清河家を出る直前、玄関まで見送ってくれた母親に対して、雨宮は最後の質問をぶつけた。
「ふたつの表札が門に掲げられていました。『清河』と『米本』。どういうことか教えていただけますか?」
母親はむっとした表情になりかけ、すぐに諦めたような笑顔になった。
「米本は私の苗字です」
「夫婦別姓、ということですね?」
「いいえ。私は清河海星の母親ですが、清河憲一郎の妻ではないのです」
雨宮はじっと母親を見つめ、何か憑きものが落ちたかのように、にっこりと微笑んだ。彼の頭の中で、全てのピースが繋がったのだ。
「ウチ、寄ってくか?」
牧田の実家はすぐ近くだ。しかし、雨宮は首を横に振った。
「今日の夕方は、我がミステリ研究会の特別会合を開こう」
「え……もしかして、全ての謎が解けたのか?」
「まあ、そういうところだ」
「で、謎ってどの謎だ?」
「決まってるだろ。清河海星君殺害事件について、だよ」
雨宮と牧田は、藤沢陽子と他のふたりの部員に招集をかけた。そして、麹町署の京村警部補にも連絡した。
「ぼくの推理が正しいかどうか確認するには、どうしても警察のご協力が必要なんです」
京村は半ば呆れながら、時間があればミステリ研究会を訪問する、と約束した。
3.
J大学のクラブハウス棟二階にミステリ研究会の部室はある。二十㎡ほどの小さな部室だ。部員である五人の学生と、ふたりの刑事が入っただけで、急激に酸素が失われていくような気がする。窓を開けて換気をしながら、ホワイトボードの隣には牧田が立ち、それに向かって六人が座った。雨宮はレーザーポインターを使って説明するつもりなのだ。十七時十五分、牧田が一歩前へ進んだ。
「ではみなさん、これより、S水産大学遺伝子工学部三年、清河海星君殺害事件の真相について、我がJ大学ミステリ研究会による推理を発表します。雨宮代表、お願いします」
雨宮は立ち上がり、京村たちに礼をした。
「それでは、さっそくですが、現場の写真からご覧ください」
牧田が一枚の写真をホワイトボードに磁石で留めた。清河海星が桜の木にもたれたまま死んでいる写真だ。
「ここには、幾つかの謎が示されています。まず、彼は何故死んだのか? その答えとして有力な痕跡がここにあります」
雨宮はレーザーポインターで左肩の下あたりを示した。
「注射痕です。ただし、現場に注射器は遺されていません。また、彼の死因について警察は発表していませんので、注射だとしても何かの毒物なのかは不明です。次の謎は、彼の右手の前に遺されていました。かなり崩れた筆跡ですが、『桜』と読めました」
牧田はホワイトボードに「謎=①注射痕、②「桜」の文字、と書いた。
「次に、彼の背景についてご説明しましょう。彼の父親は、清河グループの総帥と呼ばれた清河憲一郎氏です。一ヶ月ほど前、自ら釣ったフグを自ら調理し、その毒に当たって死亡しました。憲一郎氏の肉親は、清河海星君、ただひとりです。海星君の母親とは結婚していません。数十億円といわれる憲一郎氏の遺産は、全て海星君に相続される見込みでした」
この話を始めて知るふたりの部員がざわついた。
「一方、海星君を受取人として一億円、海星君の母親を受取人として一千万円の生命保険に憲一郎氏は加入していました。ただ、憲一郎氏クラスの生命保険金額としては少ないくらいで、保険加入の経緯や死亡原因に不審なところはなく、すでに、支払いは済んでいます。従って、生命保険について、これ以上、考慮するのはやめておきましょう。さて、海星君が亡くなった今、 一旦、海星君に相続された財産は、どうなるでしょうか?」
雨宮に視線を投げられた藤沢陽子が答えた。
「肉親である母親に回っていくでしょ?」
「正解。憲一郎氏と婚姻関係にない母親の名前は、米本沙織さんです。ここで、我々はひとつの疑問にぶつかります。米本沙織さんが生んだ海星君を憲一郎氏は実子として認知した。なのに、なぜ、沙織さんとは結婚しなかったのか?」
雨宮は死んだ海星がもたれかかる桜の木にポインターを置いた。
「この桜の木にもたれて死んだことこそ、海星君からの重要なダイイング・メッセージだったのですよ。皆さん、ソメイヨシノなど観賞用の桜がどのように子孫を残しているか、ご存知ですよね?」
ポインターが京村警部補を指した。京村は咳払いをして、自信ありげに答えた。
「新しい枝を台木に接ぎ木して増やしていくんだよね?」
「大正解。これは、極めて初歩的なクローン技術です。元々ある桜の木から若い枝を取り、生命力の強い野生の桜の木などに接ぎ木をする。そうすると、一本だった桜は二本に増える。こうやって、どんどんコピーが誕生する。清河海星君は、自分は米本沙織という台木を使った清河憲一郎のクローンだと訴えたかったのではないでしょうか」
牧田は一枚の写真をホワイトボードに留めた。
「これは、海星君が所有するファイルにあった古い名簿の写真です。二十年ほど前のH大学農学部にあったゼミのメンバーが載っています。ゼミの名前は清河ゼミ。そうです。あの清河憲一郎氏は、食品ビジネスの世界へ転身する前、H大農学部でクローン牛の研究をやっていた。そして、ゼミの学生の中……ほら、ここに、米本沙織の名前があるのです。それだけではありません。もうひとり、注目すべき名前がありました。水井博之。海星君が通うS海洋大学で、海星君が参加するゼミの指導教授です。そして、今、水井教授が研究するテーマというのが、これです」
〈自然界テトロドトキシンを中和する内服薬について〉と題した業界紙の水井教授インタビュー記事を牧田は掲示した。
「この記事を読むと、水井教授は、特に自然界のふぐ毒の成分であるテトロドトキシンを中和する成分の抽出に成功しているとのことです。医薬品としての認可までには時間がかかるが、デトックスのサプリメントとして実用化の目処は立っており、清河食品から特定健康補助食品として発売される予定だと述べています。効能として書くことはできないが、理論的に、フグを食べる前にこのサプリを服用すれば、肝臓などに含まれるテトロドトキシンで命を落とす恐れはない、と明言しています。そのサプリは既に商品化されていて、デトックス・サプリメントと銘打って、ドラッグストアや通販で購入できます」
「でも、実際は効かなかったから清河氏は命を落としたってこと?」
藤沢陽子の疑問に雨宮は表情を引き締めた。
「もしくは、清河氏がフグを食べる前に飲んだのが、効果のあるデトックス・サプリではなく、ただのビタミン剤や整腸剤に何者かがすり替えたか。そのどちらかでしょう。それは、今後、警察の皆さんが明らかにしてくれると思います」
京本警部補は腕を組んで大きく深呼吸をした。
「さて、いよいよ結論にいきましょう。清河海星君は、なぜ、死んだのか――。推理の基本としては、犯人は被害者を殺して最も利益のある人物です。この場合、海星君を経由することで清河憲一郎氏の遺産を手にいれる村本沙織さんが最も疑わしいことになる。しかし、彼が自殺した可能性は拭えない。憲一郎氏がフグ毒で死亡し、結果的に最も利益を得たのは自分なのですから。もし、母親が憲一郎氏を殺害したという確信を彼が持ったのだとすれば、その責任を感じて自殺したとしても不思議ではない。自分の右手に注射器を持って注射すれば、ちょうど注射痕があった位置になりますよね。
しかし、これについても、彼はダイイング・メッセージを遺していたんです。この地面に書いた『桜』の文字ですよ」
雨宮は立ち上がり、ホワイトボードの前に立った。
「彼が死の間際に書き遺したのは、『桜』という字ではなかったのです。まず、「木へん」の部分……これは、『木』ではなく『水』なんです。そして、『ツ』と読める部分……これは、ふたつに分解し、ひらがなの『い』とカタカナの『ノ』になります。最後の『女』はこのまま。続けて読むと、『水いノ女』。つまり、犯人は『水井教授の女』だと彼は訴えた。それが何者なのか? 清河教授の元で同じゼミに所属していた海星君の母親、米本沙織さんが犯人だと、彼は告発したんです。ええ。もちろん、彼女が水井教授の女であるとの確証はありせん。なので、その点については、京本警部補にお任せしたいわけなのです」
「わかった。後はこちらで調べる」
京本警部補と彼が連れてきた若手刑事は立ち上がった。
「京本警部補――」
部室を出ようとする背中を雨宮は呼び止めた。
「自分を桜のクローンになぞらえ、たっとひとりで花見に来て死んでいった海星君の絶望と悔しさ。晴らしてあげてください」
京本警部補は大きく頷いた。
数日後、米本沙織と水井博之は逮捕された。犯行に使ったのはテトロドトキシンで、水井の研究室で抽出したものだった。犯行に使用した注射器は研究用の廃棄物と一緒に捨てられており、水井の指紋が検出された。清河憲一郎については、それが殺人であると立証するのが困難だったのかもしれない。その後も報道されることはなかった。
「そういえばさあ、なんで、あのとき、あたしたちは靖国神社へ行ったのだろう……」
雨で桜の花びらが落ちた真田堀の土手を歩きながら、藤沢陽子が首を傾げた。
「確か……」
雨宮は思い出した。言い出しっぺは牧田だった。
「授業中に居眠りしていたら、夢の中で誘われたんだよ。花見をしようって……」
「誰に!」
雨宮と陽子に質された牧田は、真っ青になった頭を抱えてしゃがみ込んでしまった。ありがとう、というように、花びらのひとひらが、ゆっくりとその肩に落ちて行った。(了)