3
「お待たせ、ハクナ」
「うん。それじゃあ行こうか」
《ライブラリ》のロビーで、わたしとハクナはいつもと変わらぬ挨拶を交わし《書庫》への接続を行う。途端訪れる未明の暗闇と、その中に浮かび上がるわたしとハクナのアバターの輪郭。それを撫でるように、傍らを青く光る文字の魚たちが泳いでいく。
マヤとの一件があった翌日、わたしはハクナ宛に『やっぱり、わたしも行きたい』とだけメッセージを送っていた。その返事は『明日、いつもの場所で』という素っ気ないものだったけれど、そこには『明日外に出る』という揺らぎのない意志が見えるような気がした。
そして今、わたしたちは《書庫》のデータの海を下へ下へ、いつもの『潜る』時よりもずっとずっと深層まで潜行している。
「『外』へ出るのに下に行くのね。なんとなく上に向かうようなイメージだったけど」
周囲はまだ見慣れた景色のはずなのにそわそわと落ち着かないわたしに、体の周りでゆらゆらとなびく銀髪も、左右対称のほんの少しの笑みを浮かべた端正な顔も全くいつも通りなハクナは答える。
「レイネは上昇志向が強いのかな」
「……からかってる?」
「レイネの緊張が解けるかな、と思って」
相変わらずの平坦な声の冗談に、わたしもついいつもの感覚でため息を零す。それで多少なりとも浮ついていた気持ちが落ち着くのだから腹立たしい。
「まぁ冗談はさておいて。下に向かっているのは『バックドア』があるからだよ」
「バックドア?」
聞き慣れない単語に眉をひそめると、ハクナはこともなげに言う。
「そう。そこからセントラルに接続できる」
「えっ」
なんでそんなものが、とか、なんでハクナがそんなことを知っているの、とか疑問は色々あったけれど、それらが解消されればそこには確かな説得力があるように思えた。
この仮想ネットワーク《大揺籃》は個々の《揺り籠》が《セントラル・クレイドル》――通称セントラルの管理下で繋がることによって維持されている。中枢機関であるセントラルと《揺り籠》の間の接続は一方的で、わたしたち《揺り籠》側からセントラルにアクセスすることはできないようになっている。それはセキュリティの観点からそういうものだということになっているが、実際にセントラルの内情を知っている者はいないブラックボックスだ。
しかし今ハクナが言わんとしていることはそこではない。
セントラルは《揺り籠》を管理している。その管理セグメントの内の一つが《揺り籠》筐体内部で休眠している肉体のモニターだ。
このセグメントにおいて、休眠状態と生命活動の維持が保たれている限り、セントラルが《揺り籠》に干渉してくることはない。
その不干渉が破られる時、それは『休眠状態あるいは生命活動の維持が困難になった場合』――つまり、《揺り籠》の中で肉体が死を迎える時だ。仮想社会は接触を排除することには成功したが、死を排除するまでには至っていない。多くの場合、肉体の死と共に脳の活動も停止する。そして《揺り籠》とは人が仮想的に生きるための繭であって棺桶ではない。死んだ肉体は《揺り籠》の外に排出され、浄化槽へと送られる。身体的接触を『不浄』として排斥した社会では、最終的に肉体は無へと帰すことで浄化されるのだ。
ここで重要なのは、浄化云々の一個前のプロセス。死んだ肉体が、セントラルの干渉により《揺り籠》の『外』に出る、ということ。
「つまり、わたしもハクナも死ねば『外』に出られるってことね?」
「いや違うよ。……レイネ、もしかしてふざけてる?」
「さっきのお返し」
「いつもの調子が戻ってきたようで良かった。要するに私が言いたいのは、セントラルにはこの《揺り籠》という硬く閉じた繭をこじ開ける術が存在するってことだよ。その制御コンソールの権限を一時的にでも掌握することができれば、『外』に出られる」
常に冷静な言動のハクナには似合わない強い言葉に、表には出てこないだけでハクナも緊張しているのだ、と気づく。
そう思うと、一度は弛緩した意識がまたぴんと張り詰めていくのを感じる。
「……死んだ肉体を搬出する機能を使って『外』に出ようだなんて、ハクナも結構悪趣味なのね」
「別に、レイネが他にもっと『良い趣味』の外に出る方法を探すのなら止めはしないよ」
「まさか。それより、セントラルに接続できたとして、どうやって制御コンソールを操作するの? 管理者権限なんて持ってないでしょ?」
当然の疑問を口にすると、ハクナはつい、と掌で周囲のテキストデータの海を示す。
「まさか、私がただ無為にこの《書庫》で読書に耽溺してたとでも?」
「え、違うの?」
無為に読書に耽溺していただけのわたしは、思い切り間の抜けた声を上げてしまう。
「……まぁ、目的のない読書が悪いとは言わないけれど――」
「ならそれ以上は何も言わないで。で、結局どうするのわけ?」
「まぁ、クラッキングを少々」
「うげっ、マジ?」
ふい、とあらぬ方向を向くハクナに、思わず汚い声が出た。
「そこまで行くと本当に犯罪者っぽいね……」
「まぁ、もうバックドアも作っちゃったし、今更という気はするね」
いけしゃあしゃあと嘯くハクナに、わたしもいい加減に覚悟を決めた。もとより、半端な気持ちではここへ来ていない。後戻りなんて選択肢も今更ない。
「――ストップ、レイネ。ここだよ」
潜行を止めると、ハクナは真っ暗な空間に指を走らせる。すると、その軌跡が白く光り、やがて扉の形となった。
「これがバックドアだよ」
「……ここからセントラルに行けるのね」
「怖い?」
「ちょっとね」
わたしが素直に答えると、ハクナの平坦な表情が僅かに崩れた、ような気がした。
「……実を言うと、私は一人で『外』に行くつもりだったんだ」
でも、と無機質な声で、ハクナは人間的な感情を訴えかけてくる。
「――でも、レイネが一緒に行くと言ってくれて、嬉しかった」
そう言って微笑むハクナに、わたしも微笑み返す。
「行こう、ハクナ」
「うん、レイネ」
一つ頷いてから、わたしたちは真っ白いドアを開け放った。真っ暗な空間を眩い光の奔流が埋め尽くす。
先の見えない輝きの中へ、わたしとハクナは同時に一歩を踏み出した。
*
「――――イネ……――――、レイネ」
声が聞こえる。遠くから響いていたそれは段々と近くなり、はっきりとわたしの名前を呼んでいることがわかる。
真っ白だった視界が揺れ動いて、散逸していた意識が戻ってくる。
――ハクナ。そうだ、わたしたちは一緒にバックドアに入って、それから――どうなったんだっけ?
「レイネ。レイネ?」
辛抱強くわたしを呼ぶ声に、今度こそわたしは完全に覚醒した。真っ白い光を警戒しながら、閉ざされていた瞼を開く。
「レイネ、ようやく起きた?」
「…………えっ」
真っ先に視界に入ってきた、見慣れたと言うにはまだ慣れないピンクアッシュに、わたしは呆けた声を出した。
「どうしたの、変な顔して」
先ほどからずっとわたしを呼んでいた声の主に向かって、わたしは問いかける。
「……どうしてここにいるの、マヤ?」
視線の先――ストリートファッションに身を包んだマヤは、心外そうに肩を竦める。
「どうして、とはご挨拶ね。電子捕縛器の網に掛かったあなたのアバターを回収してあげたのは誰だと思ってるの?」
「捕縛って、え? どういうこと?」
「失敗ってことよ。あなたたちの計画はね。あなたたちが使ったバックドアは、セントラルに監視されてたのよ」
失敗。監視。つまり、わたしとハクナは『外』に出られなかったということだ。
そこまで呆然と考えて、わたしはいないはずの人がいることではなく、いるはずの人がいないことに気づく。
「マヤ、ハクナはどこ?」
周囲を見回すも、ハクナの姿はどこにもない。わたしが捕まったのなら、ハクナも一緒のはずなのに。それに、ハクナどころか周囲には何も見えない。ただただ真っ白の空間が広がっている。
「ハクナね。今頃電子捕縛器が浄化層に運んでいるんじゃないかしら」
「浄化槽って、ハクナは死んだの⁉︎」
「落ち着いて、『浄化槽』じゃなくて『浄化層』よ。肉体じゃなく、精神の浄化」
「待って、何それ? そんなのがあるなんて、わたし知らない。ハクナはどうなるの?」
「何って、浄化よ。『外』に出て肉の器に戻ろうだなんて不浄な思想を記憶ごと洗い落とすの」
当たり前のように言うマヤに、わたしは絶句した。
「そんなの、洗脳じゃない……」
「そうね。綺麗でない脳は洗わなきゃ」
面白い冗談を言った、というようにクスクスと笑うマヤ。何かが変だ。
「まぁ、レイネが知らないのも無理ないわ。一般の権限じゃ知ることのできない情報だし」
そこにいるのはわたしのよく知る、移り気で享楽的な友人のはずなのに、その外見と中身がブレているような違和感に襲われる。
「……そんな情報を、マヤはどうして知っているの? 捕まったわたしを回収したっていうのも」
「レイネ、まだわからないの? 本当に何も気づいてなかったのね」
表情には笑みを含みながらも、どこか憐れむようにマヤは言う。
「あたし、言ったよね? レイネのことよく見てる、って。あれは本当に文字通りの意味だったんだよ。それにこうも言った。セントラルに目をつけられるようなことするな、とも」
先日の《半心浴》での一件を思い出す。その時の茶化すようなマヤの言動も、電子ドープに対する苦言への混ぜっ返しも。
まさか。でも。
「あたしがレイネのことを見てたのは、セントラルの監察官としてよ」
マヤは、普段学校のロビーで話す時と変わらない声音で告げる。
「さっきあなたたちのバックドアが監視されてた、って言ったけど、報告をしたのはあたし。監察対象としてレイネの行動ログは全部知ってたから、怪しいところは全部調査したの」
ログを全部追うのは大変だったんだから、となんてことない愚痴を零すみたいに言うマヤを、わたしは呆然と見つめた。今までずっと友だちだと思っていた相手が、わたしのことを監視していた? 悪い冗談でしょう、と思いたかった。けれど、今置かれた状況が、そうすることを許さない。セントラルに背く計画を企て、その失敗をセントラルの人間に突きつけられている。その事実から目を背けることはできない。
「……どうして、マヤはわたしを監察していたの?」
「あぁ、監察対象の選定基準の話? 色々あるけれど、今回に関してはハクナがわかりやすいエサになってくれたお陰で見つけやすかったわ」
「エサ? どういうこと? もしかしてハクナも――」
浮かんできた疑問を口にしかけ、すんでのところで思い止まった。違う、ハクナはわたしを騙したりなんてしていない。マヤの言葉が真実なら、ハクナだってハメられた側だ。
わたしの葛藤なんてわかっている、とばかりにマヤはあしらうように軽く手を振って答える。
「違う違う。ほら、ハクナは見た目や思想からして、わかりやすく危険因子でしょう? だから彼女に関しては表面的な動向だけ注目していればよかったのよ。でも、彼女のように表には出さないけれど彼女の思想に同調する人は、見つけるのが難しい。だから、あたしたちセントラルはハクナを泳がせてたの。彼女に惹かれて寄ってくる人間を炙り出すために。そしてそれがレイネ、あなただったってわけ」
粛々と、淀みなくわたしは追い詰められていく。友だちの手によって――いや、そう思っていたのはわたしだけだったのかもしれない。もうずっと前から、あるいは最初から、マヤはわたしのことをただの監察対象としか見ていなかったのだ。
「……それで? わたしのことをどうするつもり? どうしてハクナと同じように『浄化層』とやらにぶち込んではいお終い、ってふうにはしないわけ?」
噛み付くように言うと、マヤはクスクスと楽しげに笑う。
「レイネってば、何をそんなに喧嘩腰になってるの? 友だちでしょう?」
「よくもまぁ、ぬけぬけと。友だちごっこは楽しかった?」
「……ねえ、レイネ。あたしだって、本当は『ごっこ』になんてしたくなかったのよ?」
ふいに、それまで楽しげだったマヤの声が険を帯びた。その刺すような眼差しにわたしは怯む。
「あたしたちの関係を嘘にしたのはレイネの方でしょ? ハクナみたいな物理主義者なんかにコロッと騙されちゃって」
「ハクナはわたしを騙したりしない!」
吐き捨てるようなマヤの言葉に、頭で考えるよりも先に言い返していた。
「どうだか。どうせ、あいつの特異性とそれっぽい言葉にときめいちゃっただけでしょ?」
「違う! わたしはわたしの意志で――」
「それなら、レイネはどうして『外』に出たいの? そこで何をしたいの?」
「それはっ――」
怒りに任せて吐き出しかけた感情は、けれどその輪郭をうまく捉えることができずに彷徨う。わたしは――
「……わたしは、ハクナと一緒に『外』に出たくて……本当のわたしの体で、ハクナに触れたくて」
「ハクナ、ハクナ、って、馬鹿みたい。それって結局ハクナに依存しているだけじゃん。今回の計画だって全部ハクナ頼みだよね? レイネはたんにハクナを追いかけていただけ。自分の考えなんてこれっぽっちもない、それなのに恵まれた現状に満足することもできない、最も愚かで空虚な人種。庇護されているのに、そのことに気づかないで泣き喚く赤ん坊みたい」
連ねられたマヤの言葉たちが、整理し切れない情報に押し潰されそうな意識を切り裂いていく。これほどのことを言われても、わたしは何も言い返すことができない。だって、確かにハクナと出会わなければ、彼女と言葉を交わさなければ、わたしは『外』に出ようだなんて思いもしなかっただろうから。
俯いて、擦り切れそうな意識を必死に繋ぎ止めようと堪えるわたしの肩が優しく引き寄せられる。視界が柔らかなピンクアッシュに埋もれ、思考をふやかすような甘い匂いに包まれる。
「マヤ……?」
「可哀想だね、レイネ。でも大丈夫だよ? あたしがレイネのことを守ってあげる。レイネが赤ん坊でも、揺り籠の中に大事に大事に包んであげる。だからレイネ、あたしのところへ戻っておいで?」
わたしの背中をぽん、ぽん、と規則正しく叩くマヤの掌は熱くも冷たくもなく、けれどその感触には安らぎを覚える。ずっとそれに浸っていたいような、ゆるやかに眠りにつくような感覚を。
触れる。仮想の体を。いくら重ねても、そこには期待値以上の刺激も、感情も生まれないけれど。でも、それでもいいのかな。期待値以上にはならないけれど、期待値以下にもなることはない。一定で、安穏な、電子の海の中。
背中を、頭を、マヤの掌が撫でる。同じ質感の電気刺激の連続。落ち着く。感情が――『外』へ出たいと、渇望していた意識が、ぬるま湯に満たされて溶けていくみたいに。
ギリギリで開けていた瞼が、落ちる。保っていた意識を手放そうとした、その瞬間だった。
視界の隅、上空の真っ白な空間を、見慣れた白銀がなびいた。
無機質な白い肌の四肢を投げ出し、銀髪は扇のように広げた、その姿。
「――――ハクナっ」
投げ出しかけていた意識を力ずくで引き戻し、マヤの抱擁を振り払って、わたしは立ち上がる。
「ハクナっ、ねえ、ハクナ!」
目を凝らすと、真っ白な空間の中にパイプのように透明のラインが通っていて、ハクナはそこに乗せられてどこかへ運ばれているようだった。どこか――それがマヤの言っていた『浄化層』という場所ならば、そこへ辿り着く前にハクナを助け出さなければ。
「無駄よ、レイネ。『浄化層』で危険思想を脳から消去した後でなければ、ハクナは目覚めない。それにハクナはかなり深いところまで『不浄』に毒されていたから、『浄化』した後は人格ごと変わってしまうかもね」
「……だったら、なに」
「諦めなさい、ってこと。何も殺すわけじゃない。むしろこの社会の中でより幸福に生きられるように手助けしてあげるのよ」
聞き分けのない子どもにするように、嫌になるほど優しい声でマヤはわたしを絡め取ろうとする。けれどもう、わたしは走り出していた。
「――っ、レイネ!」
「うるっさい! 幸福とか手助けとか、可哀想とか守るとか、そんなの勝手に押し付けないでくれる⁉︎」
着実に終わりへと運ばれていくハクナを追いかけながら、わたしは背後に向かって怒鳴る。
「わたしは確かに、ハクナに影響されてるかもしれない。やりたいことだって、『ハクナに触れてみたい』ってことだけだよ。でも仕方ないじゃん! 何も知らないんだもん! わたしもハクナも、それにマヤだって! 『外』の世界のことなんて何も知らないじゃん! だから知りたい! 知って、そこからやりたいことだって見つけたい! 色んなものに触れて、実存を知りたいの! 触れるものを知らないと、触れられない感情があるの! だからわたしは『外』に行きたいんだよ! ハクナと一緒に!」
走っていた感覚が消え、わたしのアバターは真っ白な空間へ投げ出される。頭上の透明のラインからハクナのアバターが降ってくる。銀髪をなびかせて、ゆっくりと沈むように落ちてくる。
「ハクナっ」
目の前に落ちてきたハクナに飛びつくと、びくり、とわたしの腕の中で彼女のアバターが震えた。
「――んっ、……あれ、レイネ? ここは? ……なんか、私たちまた下に向かってない?」
「もぉ! ハクナってば、何呑気なこと言ってんの⁉︎ もうすぐわたしたち『浄化層』ってところに落とされて、『外』に出たいっていう思想をじゃぶじゃぶ抹消されそうになってるのに⁉︎」
「ちょっと待って? 私が意識を失ってる間にひどく悪いことが起きていたみたいだね?」
「最悪だよ!」
わたしの肩越しにちら、と下を見ると、ハクナは整った鼻梁に微かにしわを寄せた。
わたしたちが落ちていく先、そこには周囲よりも一段と深い白色の電子が音もなく渦巻いている。
「……確認なんだけど、あそこに落ちたらどうなるの?」
「だからぁ、記憶を消されて、『外』に出ようなんて考えられないように洗脳されて、人格まで変わっちゃうんだって!」
「……そっか。つまり、今回は失敗したってわけか」
どんどんと近づいてくる白い海を見つめながら、ハクナは静かに呟いた。何をそんなに落ち着いているのか。
「ちょっとハクナ? なんでそんな悟ったみたいな感じなの? もうちょっとこう、最後まで足掻こうとかないの?」
「いやでも、もうそういう段階は過ぎてるっぽいし」
こんな時でも真顔で、ハクナは淡々と言葉を紡ぐ。その態度はやっぱりハクナらしくて好きだな、と思うのだけれど、こんなやり取りができるのもこれで最後になるのかも、と思うと寂しさにない胸が張り裂けそうになる。
「レイネ、なんだか元気なさそうな顔してるけど、大丈夫?」
「これから頭ん中ぴかぴかに漂白されそうなのに元気いっぱいでいられるわけないでしょー⁉︎」
「それだけ叫べるなら元気いっぱいだね」
この期に及んでも冗談を口にするハクナに、わたしももう馬鹿馬鹿しくなってしまった。
「……ハクナ、今までありがとう。楽しかった。あなたのことは死んでも忘れない。もうすぐ記憶は消されるけど」
「別に構わないよ、記憶くらい消されたって」
ため息混じりのわたしのジョークに、ハクナはあろうことかそう答えた。
「記憶くらいって……」
「だって、記憶なんてなくたって、私たちはまた会えるよ」
ハクナの透明な瞳が、まっすぐにわたしの瞳を見つめる。
「この非接触社会で生きる限り、私たちはいずれ今日と同じ孤独を抱く。誰にも触れられない、ってことは、忘れさせられたって忘れられっこない、そういう孤独だ。そして、同じ孤独を持つ者同士、また巡り会える。そしたらまた、一緒に『外』を目指すよ。互いに触れ合うために、私たちはきっと、何度でも」
そんな、楽観的で希望的観測に溢れた未来図を、ハクナは臆面もなく言い放つ。根拠も何もないただの願望で、そんなの信じられっこないことはわたしでもわかる。
でも。それでも、わたしはハクナのその言葉を信じたいと思った。
もう、眼下の白い海は目前まで迫っている。もう幾ばくも猶予は残されていないだろう。
だから、わたしはこの感情を言葉にするのは諦めた。
爆発しそうな感情を、この仮想の体の唇に込めて、ハクナの唇に押しつける。至近距離で、透明な瞳がびっくりしたように何度も瞬く。
「――っ、レイネ、これはどういう」
「わたしにもわかんない! だから、どういう意味かは未来のわたしに聞いて! いつか一緒に『外』に出て、本物の体でキスした時に!」
やけくそで叫んでから恐る恐るハクナの顔を窺うと、
「……ふふっ」
「えっ、嘘」
ハクナは、笑っていた。いつもの左右対称な薄い微笑じゃなく、小さな子どものように、屈託のない笑顔で。
わたしの最後の記憶は、ハクナのその笑顔だ。
二人もつれるように重なったまま、わたしたちは『浄化層』の真っ白な電子の海へと落ちた。
何も見えない、白い闇の中へ沈んでいく。深く、深く。
この闇が晴れた時、わたしたちは今一度、社会の赤子として、《揺り籠》の中で揺蕩うのだろう。
でもいつか、その微睡みからも覚めてやるのだ。
ハクナと一緒に、この真っ白な硬い繭を破って。
だから、いずれ来るその時まで。
おやすみ、ハクナ。
*
レイネとハクナのアバターが沈んだ『浄化層』を見下ろし、マヤは呟く。
「……やっぱり、レイネはあたしを選んではくれないのね」
その呟きは誰にも届かず、マヤの顔に浮かんだ感傷的な表情もすぐに仕事用のそれに取って代わる。
『はい。監察対象の浄化を完了しました。次のフェーズへと移行します――』