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「レイネー? 入らないの?」


 ぼんやりと考え事をしていたら、不満げな声と共に目の前でピンク色の毛先が躍った。目を上げると、水着姿のマヤが腰に手を当ててこちらを見ていた。慎ましやかな胸を大人しめのフリルで覆った水着は、可愛らしい顔つきのマヤによく似合っている。


「あ、ごめん、ぼんやりしてて」

「もー、レイネってば、最近ボーッとしてんね。折角水着新調したのに、張り合いなーい」

「あはは、似合ってるよ、それ。マヤにしてはセンスいいじゃん。派手すぎなくて」

「ふふん、でしょー? レイネも早く泳ぎに行こーよ」


 ぐいぐいと腕を引くマヤに引きずられるようにして、わたしも無難なワンピースタイプの水着姿になると、多くの人が水着姿で揺蕩っている《浴層》へと一緒に身を躍らせた。


 ハクナとテキストデータの海で密談を交わしてから数日、今日はマヤに誘われて《半心浴》のオープンルームに来ていた。


 前時代、人々は夜に肉体が眠りにつくことで脳も休息を取っていた。しかし《揺り籠》の中では常に肉体は眠りにつき、脳は覚醒している状態だ。そのことで脳にかかる負荷を中和するために行うのが《半心浴》だ。特殊な電子で満たされた《浴層》で泳ぐことによって脳を半休止状態にし、リフレッシュする目的がある。


 ……というような実用的な名目よりも、多くの人は割とレジャー感覚で利用している。個人利用のクローズドルームよりもオープンルームの《半心浴》の方が人気なのがその証拠だ。中にはピンクやパープルなどのサイケデリックにライトアップされていたり、ドーナツリング状に回り続ける《浴層》で泳ぐようなオープンルームもあるらしい。これはマヤからの又聞きだけれど。


 わたしたちが来ているのはそれよりは比較的大人しい、柔らかな白が基調の室内風景のオープンルームだ。マヤからは「もっといいトコにも連れてってあげるのにー」と度々お誘いがあるのだが、わたしにはこれくらいが丁度いい。


 足先からとっぷりと《浴層》に浸かると、アバター全身に軽く痺れるような多幸感が広がる。この感覚も《半心浴》が人気の理由の一つだ。身を委ねるように《浴層》の中で揺蕩っていると、それ以外どうでも良くなっていくような気がする。気持ちが良くて、けれどわたしは少し怖い。わたしを構成する要素が電子の中に溶け出していくような、多幸感の中でも決して消えない――むしろ浮き彫りになる不安がある。


 しばらくその感覚に浸ってから《浴層》の外に出ようとしたわたしの手を、くい、とマヤの手が引いた。


「マヤ、わたしもう出ようかなって」

「えー、早くない? もうちょっと一緒に泳ごうよ?」


 多幸感からか、クスクスと笑いながらマヤはぎゅ、とわたしの腕に抱きついてくる。その質感はいつもと変わらないはずなのに、暖かい電子の海と多幸感の中で、触れ合ったところが熱いような感じがする。ぼんやりと脳が火照るように、思考が拡散していく。


「ねぇ、レイネ? 最近、ハクナと一緒に何してるの?」

「何って、《書庫》でテキスト読んだり…………ちょっと待って? マヤ、なんでわたしがハクナといること知ってるの?」


 ぼんやりした頭で答えていたわたしは、この間の密談の内容までぽろっと零しそうになり慌ててマヤから体を引き離す。


「えー、そんなの見てればわかるよ。あたし、レイネのことよく見てるから」


 引き離したはずがいつの間にかわたしの首にはマヤの腕が回されていて、蠱惑的な笑みがすぐ目の前に広がる。ぼんやり、ついこの間ハクナと唇が触れ合ったのもこれくらいの距離だったな、と思う。


「あたし、知ってるよ。レイネが何か悩んでるって。それってハクナのせいなんでしょ?」

「えっ、いや、ハクナのせいっていうか、なんというか」


 まとまらない頭で否定とも肯定ともつかない言葉を羅列する。実際、ハクナと『外』の話をしたことで最近のわたしは頭を悩ませていたので、マヤの言うことにも一理ある。


 マヤは回した腕の先、濡れたような艶を放つ指先でわたしの耳たぶを撫でる。それはただの電気刺激のはずなのに、触れた場所から溶けていくような、甘い喪失の気配がする。わたしを構成する一部が、淡く溶けて解けていく。


「あたしなら、レイネを悩ませたりしない。ううん、悩みなんて忘れさせて、楽しいこととか、気持ちいいことでいっぱいにしてあげる。だからハクナのことなんか忘れて、あたしだけ見て?」


 すぐ耳元で囁くマヤの声は《浴層》の中いっぱいに拡散して、まるでマヤの中に包まれて揺蕩っているかのように錯覚する。アバターの、体の境がなく、一つに溶け合っていくような狂おしいほどの多幸感に包まれながら、わたしの中で違和感がじりじりと浮き彫りになっていく。


 おかしい。これほどまでの多幸感、今まで感じたことなんてなかった。これは、違う。


 目の前で、マヤのピンクアッシュの髪がふわふわと躍る。大きな瞳がゆっくりと瞬いて、あ、今の瞳の色はアーモンド色なんだ、と思う。……違う、そうじゃない。このおかしな感覚の原因を考えたいのに、気づけば目はマヤを食い入るように見つめている。まつ毛の一本一本が、ピンク色の唇から覗く真珠のような歯の一本一本が、馬鹿みたいに蠱惑的だ。電子の海の中、艶めかしい肌が密着し、思考がぼやける。


「ね、レイネのほしいものは、あたしがあげるから」


 そう言ったマヤの唇がわたしのそれに触れる、その刹那。



『他の何人だって、私のほしいものをくれることはないんだ』



 微睡んでいた頭の中、無機質なハクナの声が響いてわたしの意識を揺り起した。

 それは、わたしとハクナが初めて言葉を交わした時のことだ。


 どうして他の人のようにアバターを人間らしくチューニングしないのか、というわたしの問いに答えたハクナの冷徹なまでに真っ直ぐな透明の瞳、銀色の髪が、まるで眼前に浮かび上がるかのように想起される。



『《揺り籠》の生活は豊かだよ。でもその豊かさは犠牲の上に成り立つものだ。肉体からの解放は、同時に喪失でもある。接触という身体言語を失った私たちは、それに伴う感情すらも失ってしまったんだ。他者と触れ合い、その実存性を確かめる瞬間の感動を、私たちは知らない。私たちの感じることができるのは、定められた数値内で再現された触覚でしかない。そんなの、無限の感受性の強奪だ。だから私は、そんな作り物の感受性を押しつけられるくらいなら、無感情でいることを選ぶ。作られた、仮想の人間らしさよりも、私自身の信じる人間らしさのために。この閉じた世界の誰にだって与えられやしないそれを、いつか私自身で掴み取るその時までね』



 そうだ。あの時ハクナは――無表情で人間味に乏しい、ロボットのような不気味な奴、と色々に揶揄されていたハクナのことが、この《揺り籠》の中で生きる他のどんな人たちよりも、ずっとずっと人間らしく思えたのだ。……いや、違う。人間らしさなんて曖昧なものじゃなく、ただわたしと同じ喪失を感じていた人がいた、ということが、わたしは嬉しかったのだ。そして彼女の方がわたしよりずっと、その喪失に真摯に向き合っていた。それが羨ましくて、憧れて、だからわたしは、ハクナにもっと近づきたいと――作られた、仮想のものではないわたし自身で触れたいと、思うようになったのだ。


 天啓のようにわたしの意識を貫いたそれに、弛緩していたアバターが反応してマヤの肩を掴んで押し留める。唇同士が触れ合う直前で止まった距離に、マヤの目が細められる。


「……レイネ?」

「ごめん、マヤ。わたしがほしいものは、きっとマヤが与えられるものじゃないの。マヤだけじゃなくて、他の誰にだって、与えられない」

「ふぅん……ハクナなら、それをくれるってわけ?」

「ううん。違うよ。ハクナだって与えてくれない。でも、ハクナと一緒に掴みたいんだ、わたしは」

「…………あっ、そ。わかったよ」


 強く言い切ったわたしに、マヤはしばらく何か言いたげな顔をしていたが、やがて諦めたように「べっ!」と舌を出した。


「ん? マヤ、それなに?」


 マヤの突き出した舌の上、そこにはカプセル状のものが張り付いていた。それから、先程までの異常な多幸感を思い出す。


「……マヤ、もしかして」

「あ、バレた? でも気持ちよかったでしょ?」

「それ、電子ドープでしょ⁉︎ 何してんの⁉︎」


 わたしが詰め寄ると、マヤは「きゃー」なんて白々しい悲鳴を上げながら《浴層》の外に泳ぎ出ていく。

 わたしも話には《浴層》に混ぜて多幸感を強めるクスリの存在を聞いていたが、まさかマヤが使っていたなんて。


「別に有害なものじゃないから、大丈夫だって」

「ホントにぃ? セントラルに目をつけられても知らないからね?」

「へーきへーき。てか、あたしよりも自分たちの心配しなよ? 何しようとしてるか、詳しくは聞かないけどさ」


 軽口のように放たれたマヤのセリフに、わたしはハクナとの秘密を見透かされたみたいでどきりとする。


「……マヤ、どこまで知ってるの? というかどうやって?」

「んー、別に。言ったでしょ? あたしはレイネのことよく見てる、って」

「あ、そう……」


 ぱちっ、と片目を瞑ってみせるマヤに謎の底知れなさを覚えながら、わたしも《浴層》から上がる。リフレッシュのはずが、なんだか無駄に疲れた気がする。


「ねえ、レイネ」


 電子ドープの影響か、マヤは気怠そうにチェアに体を横たえながらわたしを呼ぶ。


「本当に、ハクナには気をつけてね。あたしはレイネが心配なの」


 姿勢とは裏腹にひどく真剣なその口振りに、わたしは頷くしかなかった。


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