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わたしたちは《揺り籠》の中にいる。
無菌の羊水のような保存液に浸って、眠っている。
その一生を庇護される代わりに、その体は何ものにも触れることなく。
無垢で清潔な《揺り籠》の海の中で。
覚めることのない夢のように。
揺蕩う。
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「ねぇ、聞いた? 例の噂」
「噂って?」
学校のロビーで次のクラスの予習をしていると、隣で同じように予習――という名のダベリをしていたマヤがふとそんなことを口にした。
「知らないの? あいつ――ハクナが『外』に出たことある、って噂」
「『外』って、《揺り籠》の外ってこと? マジ?」
「マジマジ。ソースは不明だけど」
「テキトーじゃん」
「いやま、そりゃそうでしょ。『外』に出るとか普通に考えてありえないし、あったとしてもセントラルにバレたら絶対ヤバいだろうから誰にも話したりしないだろうし」
「……じゃあ結局その噂はなんなの?」
「さぁ? ハクナのこと嫌いな人が気分で流したんじゃん? あいつ、敵多そうだし」
「あー、まーね」
わたしの雑な相槌を最後にマヤはその話題を打ち止めると、綺麗なストレートの金髪をくるくると指に巻き付けながら、「髪色変えようかなー」なんて、もう全然関係のないことを呟く。
わたしもわたしで別にそれ以上深掘りしようとも思わないので、授業の予習に戻る。
「――あ、ハクナだ」
しばらくして隣から聞こえてきたマヤの呟きに顔を上げると、ロビーに入ってきたばかりなのか、接続光をその身に纏いながらこちらへと歩いてくるハクナの姿が見えた。
息を潜めるようにして、マヤが耳打ちしてくる。
「にしてもさ、今時初期アバなのがヤバいよね。だから変な噂とか流れるんだっての」
「……ね」
マヤの言うように、ハクナの姿はロビーにいる他の誰とも異なっていて、明らかに浮いていた。ハクナの姿を認めて、あからさまに顔を顰める人までいる。
けれど、わたしは彼女のその姿が嫌いではなかった。
《揺り籠》で暮らす人々がごく当たり前にやっているチューニング処理も行わず、自身の好みに合わせた装飾も皆無のハクナのアバターはとてもシンプルな姿で、白髪に近い銀髪や機械的に整った顔パーツからはどうしても無機質な印象が拭えない。その姿を以て、前時代的な人工造物である『ロボット』などと陰では呼ばれたりしている彼女だが、その内面は外見ほどに無機質でも機械的でもないことを、わたしは知っている。
「あ、もう次のクラス始まるじゃん。あたし行くわ」
「うん。――って、マヤ、その髪どうしたの」
隣からの声に顔を上げたわたしは、鼻先で躍るピンク色に目を瞬いた。
「ピンクアッシュにしてみた。どう、似合う?」
ついさっきまでさらさらの金髪ストレートだったマヤは、鼻持ちならない感じの動きでピンク色になったツインテールの毛先を跳ね上げてわたしの鼻先を撫でた。服装も、ツイードのジャケットにタータンチェックのスカート、足許はローファーでまとめていたブリティッシュスタイルとは打って変わって、上はダボっとしたスウェット、下はショートパンツにスニーカーといったストリートっぽいファッションになっている。
「……似合うし、可愛いけど。それにしてもマヤ、髪弄り過ぎじゃない? 金髪にしたのだって先週じゃん。服装も統一感なさ過ぎ」
あまりにも節操のないチューニングにやんわりと抗議を入れると、マヤは詰まらなそうに鼻を鳴らした。
「だって、そういう気分だったから。あたしからすればレイネだってもっと弄ったっていいと思うけど。それこそ初期アバのままのハクナとか、ホント何考えてるのかわかんない」
呆れたように肩を竦めると、マヤは「じゃね、レイネ」という軽い挨拶と、ロビーとの接続を解除した際の残光をわたしの目の前に置いて消えた。次のクラスのルームに接続したのだろう。
残光が消え去ると、ぽっかりと開けた視界の先でこちらを見る大きな瞳と視線がぶつかる。
週替わりで髪や肌や瞳の色を変え、様々なファッションに身を包むマヤとは対照的に、常にシンプルな白のシャツにグレーのズボン姿の彼女は一定で揺らぎがない。
「ハクナ」
「おはよう、レイネ」
呼びかけると、彼女はわたしの前で立ち止まり完璧に左右対称な微笑を浮かべた。チューニングされていないその声もまた、システムアナウンスのような――むしろそれよりも感情の欠落した響きをしている。
「……おはよう」
「どうしたの、レイネ。なんだか元気がない顔をしているけれど」
「別に、そんなことない」
「そう? てっきり友達と私の陰口を叩いていたところに本人が登場してしまったから、バツが悪くてそんな顔をしているんだと思ったのに」
「……もぉ、ハクナってば聞いてたの」
「まるで私が好き好んで自分の陰口に聞き耳を立てていたみたいに言うね。陰口の方が勝手に耳に入ってきたんだ」
わたしと話す時、ハクナは割と饒舌だし、冗談だって口にする。けれど、その顔に感情の温度はない。それを指してハクナのことを不気味だと揶揄する人の気持ちもわからないではない。
ただ、わたしがそういった瞬間に覚える感情は、恐怖や嫌悪ではなく、寂しさだと思う。
この《揺り籠》の中の世界では、わたしはハクナの感情に触れることはできないのだと。
「レイネ、やっぱり少し元気ない?」
気づかわしげ、と言うにはあまりにも平坦な声音で、ハクナはわたしの顔を覗き込んでくる。
「ううん、別に大丈夫だから」
「ホントに?」
「ホントだって。ちょっと考え事してただけで」
「考え事? なに?」
「えっ……とぉ」
咄嗟に口を衝いた出まかせを誤魔化そうと、わたしは慌てて言葉を重ねた。
「ほら、例のハクナに関する、噂……」
ハクナが『外』に出たことがあるらしい。
そんな、子どもじみていて馬鹿々々しい噂があるんだよ、というようなことを言いかけたわたしの声は、次第に尻すぼみになっていった。
「レイネ」
非人間的に整ったハクナの顔がわたしの顔に触れそうな距離にまで近づき、普段と変わらないのにどこか警告的な響きを伴った声でわたしの名を呼ぶ。
「それは、あまり人前でする話じゃないよ」
「ハ、ハクナ? もしかして、ホントなの? あの、噂……『外』に出たことがある、って」
切れ切れな問いかけに、ハクナはつい、と目を逸らすと、その薄い唇をわたしの耳に近づけて囁く。
「本当に知りたいなら教えてあげる」
聞きなれたはずのその声には、聞いたことのない彼女の感情が滲んでいるように思えて、気づけば頷いていた。
「それじゃ、いつもの場所でまた後で」
そう言い置いて、ハクナは燐光を発しながらロビーから姿を消した。
一人残されたわたしは、ハクナの声がこびりつく耳たぶを軽く引っ張る。
外。
ハクナは、本当にこの《揺り籠》の外を見たことがあるのだろうか?
この、繭のような世界の外側を。
*
『完全非接触型社会』
《揺り籠》の普及によって訪れた、仮想ネットワークを基盤とする現代の社会構造はそう呼ばれている。
顔を合わせて話す、誰かの触ったものを使用するなどの間接的な接触から、友人間のスキンシップや恋人との間のキスや生殖行為などの直接的な身体接触を伴うかつての『接触型社会』の慣習。
人から人へ媒介する感染力の強いウイルスの流行により、それらは『不浄』と見做され、社会から駆逐された。
一口で駆逐された、と言っても、それまで大前提であった社会構造の変革は容易ではなく、公的権力による抑圧・弾圧、民衆の相互監視化、抑圧からの暴動など、様々な問題が起こりいくつかの国家が事実上崩壊した。
そんな中、変革におけるブレイクスルーを担ったのが、とある国の研究チームが開発した《揺り籠》の存在だ。
それまで、物理社会を存続しながら身体的接触を削減する方向で動いていた各国政府だったが、《揺り籠》の研究チームは彼らに物理社会を捨て、仮想社会を構築するべきだと提言したのだ。
仮想社会。つまり、わたしたち人間が行う全ての社会活動――家庭での生活、職場・学校での生活、その他ありとあらゆる消費・生産活動――を仮想空間において行う、というもの。
変革以前も『メタバース』という語があったように仮想空間の利用は進んでいたが、あくまで物理社会の副次的な位置づけであった。しかし、《揺り籠》を運用した仮想社会は、物理社会を丸ごと仮想空間に移行するというもの――国家・世界レベルでの電脳化社会を目指したものだった。
特殊な保存液を使用した半永久生命・睡眠維持、そしてその内部で入眠した人間の脳それ自体を一つのインターフェースとし、仮想社会ネットワーク《大揺籃》に接続する機構、それが《揺り籠》だ。
一度《揺り籠》に入った人間はその外に出ることは二度とない。いや、健康で幸福な社会生活を送る上でその必要はなくなる、というのが《揺り籠》の開発理念だった。《揺り籠》の中では怪我も病気もなく、最低限度の生活は保障される。
人々は仮想社会《大揺籃》の中で思い思いのアバターを作り上げて生活し、今では物理社会よりも遥かに自由に生きることが可能になった。
チューニング処理を行えば、《揺り籠》内部に安置された自分の肉体と寸分違わぬアバターも作成でき、さらに自分好みにパーツを弄ることも随時可能。電子装飾デザイナー――『電飾家』から好みのアバターや装飾品を購入することもできる。
《揺り籠》の保存液から肉体の生命維持に必要な栄養素は随時供給されてはいるが、《大揺籃》内でも食事やその他五感に頼った娯楽に興じることが可能だ。視覚だけでなく味覚や嗅覚や聴覚、そして害にならない程度の痛覚まで、《揺り籠》から脳に電気刺激を送ることで再現される。
種としての存続すら、《揺り籠》から卵子と精子を人工母胎に送り受精させ、十分に成長してから別の《揺り籠》に移管することで、他者との物理的接触を断ちつつ出産まで行うことが可能となった。
もはや《大揺籃》での仮想社会はかつての物質社会を完全に再現しつつ、物理的制約がないことによってそれ以上の発展を遂げ、その名の通り人々は穏やかな微睡みの中に浸るような社会生活を送ることができている。
*
一日のクラスを終え《ライブラリ》にアクセスすると、ロビーには既にハクナの姿があった。
「お待たせ、ハクナ」
「うん、それじゃあ『潜り』に行こうか」
ハクナに促され、ロビーから《ライブラリ》内部へと接続する。すると、レファレンスを備えた明るい室内風景は消え去り、どこまでも真っ暗な空間へわたしたちの仮想の体は落ちていく。一定の速度で、柔らかに沈んでいく。
落ちていくわたしたちの傍らを、仄青く発光するものがゆっくりと横切った。深海を泳ぐ魚のように、緩やかに流れるそれは文字列だ。
目の前を通り過ぎていく『接触型社会の終焉』、『《揺り籠》は墓場か?』、といった青い文字列からここは『社会科学』の層だと判断する。
ひらひらと尾びれを揺らすように泳いでいく『接触型社会の終焉』に指先で触れると、触れた部分から無数の文字が魚群のように溢れ出し、青く光る繭のようになってわたしの体を包み込んだ。
ここ《ライブラリ》には《大揺籃》内のありとあらゆるテキストデータが保存されている。レファレンスを通せば必要なデータをピックアップしてもらえるが、わたしとハクナはそれをせずに、自ら《書庫》のデータの海に潜っては様々なテキストを読み漁っているのだ。《書庫》の中に入り込んでは、特に目当てもなく読書に耽溺するこの時間を、わたしとハクナは『潜る』と称している。そのアングラな響きからもわかるように、わたしやハクナのような人間は少数派だ。この《大揺籃》には、テキストデータの海で泳ぐ以外に娯楽がないわけじゃない。
「レイネは社会学系のテキストが好きだね」
青く光る文字の繭の向こうから、ハクナの平板な声が届く。
「うん。知らない世界のことを知るのは、楽しいよ」
「人が触れ合っていた時代のこと?」
「そう。触れる、って、どういう感覚なのかな」
「別に、私たちだって触れ合うことはできるよ」
青く光る文字列の繭を破って、ハクナの手が伸びてくる。文字に照らされて青く染まったその掌に、わたしもそっと掌を重ねる。そこには確かに感触がある。けれど、その感触は『何かに触れている』という情報が脳に直接送られているだけに過ぎない。そこには、《大揺籃》以前の接触型社会のテキストに度々書かれている『身体的接触に伴う情動』を励起するようなものは何もない。
「……かつて、人は親愛の証として他者に触れていたのよね。その逆で、触れ合うことで親密になったり」
「他者を傷つけるための身体的接触もあったはずだよ」
「『暴力』のこと? わたしが言いたいのはそういう『敵対的接触』じゃなくて『友好的接触』のこと。わかるでしょ?」
「例えば?」
これはどっち? とでも問うかのように、ハクナはわたしの掌を指でとんとんと叩く。掌を重ね合わせていた時と変わらない質感が、狭範囲に断続的に再現される。
「例えば……、手を繋ぐとか、抱き合うとか、キスするとか――」
「こういうこと?」
思いつくままに述べていると、青い繭を破って現れたハクナの顔が目と鼻の先まで近づいた。
熱くも冷たくもない、掌に感じていたものと同質の感触を唇で受け止める。
一瞬だけ重なった唇を離すと、ハクナは平生と全く変わらない感情の見えない表情で小首を傾げた。ハクナだけじゃなく、わたしの感情も普段となんら変わることなく一連の動きを知覚している。そこには特別な情動は何もなく、起こった出来事がデータとして脳に伝達されるだけだ。
「あれ、違った?」
「……違わないけど、いきなりはやめてよ。びっくりするじゃない」
「びっくりしただけ? 私たちの親密さに何か影響は?」
「いや、特に何も」
「そう。残念」
ちっとも残念そうじゃないハクナに、わたしは展開していたテキストデータを圧縮して向き合う。
「……それで、ハクナ? いい加減に教えてもらえる? 例の噂の真相について」
「そうだね。レイネはきっと知りたがるだろうと思ってた」
青く光る文字の魚に照らされたハクナの微笑は、いつもより非人間的な色をしている。
「『外』に出たことがあるか――それが質問だったね?」
ハクナはつい、と顎を上げ、それからこともなげに言った。
「ないよ。もちろん」
「…………え」
予想外の答えに、わたしは思わず馬鹿みたいな声を上げた。いや、現実的に考えれば《揺り籠》の外に出たことがある人なんていないのだろうけれど、それでもハクナが思わせぶりに場所を移して話をしよう、と言ってきたからには万が一という可能性もあるのかも、と考えていたのだ。正直、拍子抜けである。
「……もぉ、ハクナも人が悪いのね」
「そんなに期待していた? ただの根も葉もない噂だってわかりそうなものだろうに」
あからさまに落胆するわたしを面白そうに観察しながら(表情は変わらないけれど、なんとなくそんな気がする)、ハクナは言う。
「レイネは、そんなに『外』に出たいのかい?」
「えっ、『外』に出たいなんて、わたし言ったっけ?」
「『外』に関する噂にそんなに食いついてるんだ、言っているようなものだよ」
「うっ、まぁ、興味はあるけど……」
「それなら、一緒に『外』に出てみる?」
見透かされていた気まずさに口ごもるわたしに、ハクナはまた予想外のことを言う。
「えっ、でもハクナ、『外』には出たことないんでしょ?」
「うん。出たことはないけれど、出ようとはしているよ」
「ええぇ⁉」
「実を言うと、噂を流したのは私なんだ。『外』に関する噂を餌として流すことで何かしら役に立つ情報が釣れるんじゃないか、と思ったんだけど。……実際に釣れたのは同じように『外』に出たがっているレイネ、君だったわけだけど」
「ええぇ……待って、それって結局『外』には出たこともないし、出る方法も知らないってことだよね? それなのに一緒に行こうとか……」
「いや、実は一つのプランはあるんだよ」
わたしの言葉を遮って、ハクナはいつもより少し早い口調で続ける。
「情報集めはそのプランが実行するに足るかどうか見定めたい、っていうのがあったんだけど、どうやらそううまくはいかないらしい」
「……つまり?」
「実際に行動を起こすしかないってこと」
ここまでハクナが語ったことを反芻し、わたしは呆然と呟く。
「……本当に『外』に出られるの?」
「可能性はある」
わたしを試すように、ハクナは無表情で首を傾げる。
「レイネは、どうする?」
その掌を差し出して、ハクナは待っている。わたしに一定の質感しか与えない、無機質な仮想の掌。
『外』に出れば、本当の意味でハクナに触れられるのだろうか。今、こんなに重大で反逆的な計画を話しているのに、表情も声も一定で、感情がどこか別のところにあるようなハクナに。
作られた体でも、声音でも、表情でもない、本当のわたしで触れられる?
「わたしは――」