第5話『君がため惜しからざりし命さへ長くもがなと思ひけるかな』(5/13)
──舞台はアイルランドからコーンウォールへ向かう船の甲板。舵を取るのはトリスタンであるが、イゾルデを避けている。イゾルデは、なぜトリスタンに無視されているのか、なぜトリスタンではなく別に好きでもないマルケ王へ嫁がねばならないのかと激しい苛立ちを覚えている。イゾルデは「愛のない結婚は苦しみである」と嘆きトリスタンを道連れにして死のうと考え、侍女のブランゲーネに毒薬を用意するよう命じる。やがてトリスタンが現れ、互いに本心を打ち明けぬまま皮肉を言い合う。イゾルデは和解の盃と偽って毒薬をトリスタンに飲ませ、自分も飲み干す。しかし、2人が飲んだのは毒薬ではなく媚薬だった。たちまち2人は燃え上がり、熱い抱擁を交わす。船がコーンウォールへ無事到着し王の妃を讃えて幕──
https://wso-tokyo.jp/tristanundisolde/
(上記URL早稲田大学交響楽団特集記事 ワーグナー/楽劇「トリスタンとイゾルデ」解説文面より抜粋)
司馬一家も東城一家も自分からVIP扱いを求めるような性格ではない。選挙カーの周囲の群衆の後側で街頭演説を遠巻きに見ている。
ワラワラ超会議二〇三〇の観客にはコスプレイヤーが多く、司馬子元や桜薙瑠の容姿も万単位のオタクたちに紛れあまり目立たない。
やや低身長の美咲がぴょんぴょん跳ねてなんとか見えないかと試みている。黄色のパーカーがふわふわ揺れる。
「洋介、肩車お願い」
「わかった、ほい」
スキニージーンズ越しに必然的に美咲の腰回りが密着するが……
「変なこと考えるなよ?」
「美咲、自意識過剰」
──美咲が太ももで洋介の首を締め上げた!
「がっ! ぐあああああああ~~~~!!!!!!」
むっちりした太ももが洋介の首を圧迫する。
「洋介はん。なかなか面白いこと言うとりはりますなあ?」
「出た~、美咲の関西弁、本気モードだ」
「そこに、愛は、あるんか?」
糸目で微笑む美咲の鉄拳制裁に洋介が小中学校の図書室にほぼ唯一置くことを許された平和学習漫画の主人公が弟もろとも反骨精神豊かな親父におしおきされそうな悲鳴をあげる。
アーティストを侮ってはいけない。歌唱や演奏のためにアスリート並みに体幹を鍛えている。中学校吹奏楽部時代の美咲がグラウンドをランニングしている光景を思い出した。
美咲も美咲だ。どっちに回答しても相手に不利な狡猾な質問ではないか。政界進出を物部と青梅に誘われているが意外と丁々発止の駆け引きに向いているのかもしれない。
洋介が酸欠になったところで美咲も力をゆるめる。
「勘弁してください! ボクこわいです!」
「帰ったら食事当番一ヶ月連続」
「あ、おい待てい、既に育児以外全て俺の担当だぞ」
保守党衆議院議員の西村篤志前コロナ対策担当大臣を父にも持ち、西村郁子も演歌歌手で似たような感じの母親だ。幼なじみとして世話を焼いた記憶が走馬灯のように廻る。その代わり美咲は質実剛健で無愛想な洋介に現代人らしい文化をレクチャーしたのでおあいこである。令和にふさわしいカップルだろう。
「自衛官なんだから掃除洗濯料理得意でしょ」
「わかったわかった」
薙瑠はそんなふたりを信じられない様子で見つめる。
「旦那様を尻に敷くって、美咲様すごい……」
ちなみに「一期一会!ゥチらズッ友だょ!今度タピりにいこぅねっ」(原文ママ)的なノリで友達になろうと言われたが敬称は譲れぬらしい。
「俺も春華にはかなり……いや、何でもない」
うっかり口を滑らせた仲達を春華が恐ろしく据わった目つきで牽制する。仲達はわざとらしく咳払いした。
(史実の三國志によれば司馬仲達が仮病で出仕を断る隠遁生活の中証拠隠滅のために張春華が女官を手にかけ、また史実の柏夫人に仲達が鼻の下を伸ばした際は子元子上共々ハンガーストライキを決行したらしい。あくまで史実ではである。大事なことなので二度言いました。)
「薙瑠、人が多い、離れるな……」
子元が彼女の手の甲をつつき、そのまま包み込む。薙瑠の白くて細長い女の子らしい指が親指、人差指、中指、薬指、小指の順に子元の指の隙間にはさまり、ぎゅ、と握り返す……いわゆる恋人つなぎに子上が目をぱちくりさせ、うらやましそうに微笑んだ。
* *
保守党党歌がスピーカーから鳴らされる。保守党の双璧、物部と青梅の街頭演説が始まった──
群青色のスーツに金色のネクタイで太い眉に肉厚の顔の物部泰三元総理大臣。現党副総裁。
漆黒のスーツに緑色のネクタイで皺の深い顔、青梅一郎元副総理兼財務大臣。現党最高顧問。
そのふたりが観客に手を振り、観客の一部は日の丸で応える。
前座を務めるのは大泉進太郎党広報本部長だ。
ハンサムで切れ味鋭い弁舌で将来の首相候補! ……ともてはやされたのはいいが、物部政権末期に環境大臣に抜擢したらレジ袋を値上げしたり大泉構文を流行らせたりして郵政省をぶっこわした親父みたいに環境省をぶっこわしてしまった。首相官邸でフランス系の美女アナウンサーにおもてなしされちゃった結婚会見は有名。
余談だが民間企業でも社長の息子とかそういうのは企画とか広報とか営業とかと相場が決まっている。
『世界も色々! 日本も色々! カップルも色々! 日本に鬼のカップルがいたっていいじゃありませんか! やっぱり理屈じゃないんだよね、セクシーに……』
青梅がコケて大泉から早々にマイクをひったくる。
『青梅一郎ではありません。青梅一郎です。今日はいよワラワラ超会議! うちの甥が社長やってるから、与党最高顧問として一発演説を頼まれたんだが、俺も総理総裁やったとはいえ、もう八十九歳よ? 鬼たちは年を取らねえそうじゃねえですか? 薙瑠ちゃんや神流さんみたいな若い女の子見慣れた連中に……若者の言葉で俺老害? 扱いされちまうんじゃねえの?』
ここで観客がドッと沸く。青梅は身振り手振りを交え、時折手すりから身を乗り出しながらべらんめえ口調で世の中をぶったぎる。
『少なくとも、日本は魏の人たちがいなければ、ここまで発展しませんでした。新型エネルギーしかり……軍事、政治もそうです。悪魔のような民衆党政権から物部ちゃんが保守党総裁に返り咲いて、第二次政権を獲得し……支持率がⅤ字回復して羽賀信義総理総裁、秋津悠斗総理総裁への道を切り開けたのもそう。言うまでもありませんが、保守党支持層は神道で公民党は仏教なんだからね? 木花咲耶姫の存在が証明された以上、天皇陛下に狼藉を働く労働党や民衆党は尻切れトンボよ……それじゃあ老いぼれはこのあたりにして、俺の盟友の物部ちゃんに変わろうかね』
青梅が物部にマイクを手渡す。
『美しい日本を取り戻す! 私は、保守党副総裁の、物部泰三であります。今朝もまさに中国が二〇二〇年に制定した国家安全維持法により、あろうことか幻華譚を強奪しようとする暴挙に打って出ましたね。ご覧のように日本を取り巻く安全保障環境は厳しさを増しています。その中にあって日魏同盟はまさに希望の同盟であります!』
「「「物部総理!」」」「「「物部総理!」」」「「「物部総理!」」」
勇ましい弁舌に歓声が上がりツカミはOK。物部もなかなかパフォーマンスが得意だ。聴衆の黒山の人だかりの中の司馬一家と東城一家をしっかりと見据え、マイクを握る手にいっそうの力を込める。
『物部政権下の二〇一八年に日本国政府は魏國と邂逅しています。以来保守党政権は魏国への恩返しを考えていました。党員バッジは芍薬の華を模し、私たちのスーツの襟に光るブルーリボンバッジは薙瑠ちゃんの綺麗な瞳をイメージしました。保守党政権下での集団的自衛権、特定機密保護法、憲法改正運動、国有地売却問題、すべてがこの時のための伏線だったのです! 特事対の調査によれば、今この瞬間にも、中国軍と魔界軍が盟を結び再び魏国に侵略の手を伸ばしつつあります! 集団的自衛権を発動し、魏国から賜った国力を恩返しのために使おうではありませんか! 仲達さんのリーダーシップで子上君を皇帝陛下に推戴した晋王朝を樹立しましょう! 我々の力で歴史をかえてヤマトヲグナ作戦を前進させ、子元君と薙瑠ちゃんを日本にご招待しましょう』
物部は握りこぶしを突き上げ、力強い応援演説を振るう。
『子元君と薙瑠ちゃんにはまだ話していませんが、ふたりが日本で暮らしていてくれること自体が国益になっています。政治には表と裏があるとはよく言いますが、このお話の裏を申せば、三國世界への歴史介入それ自体が国際社会でのアドバンテージとなり、日本の発言力が増しています。この恩に報いるためにも、子元君と薙瑠ちゃんを国民こぞって推しCPとしようではありませんか。アツアツな子元君と薙瑠ちゃんの仲を引き裂こうとする野党に投票する人たちは、あまりにも無責任ですよ! あんな人たちに皆さん、私たちは負けるわけにはいかない。中国共産党の、脅威に、屈しては、ならないんです! ──そして、仲達さん』
仲達さんだよ! 物部ちゃん謝った方がいいよ! と観客がツッコミを入れる。仲達に睨まれ物部が縮み上がる。さすが云々をでんでんと読み間違えたりしただけはある。
「物部ちゃん、仲達さんに暗殺されちゃうよ!」
とカップ麺を四百円すると思い込んでいる未曾有の上級国民の青梅閣下が物部の背中をバシバシ叩き、笑いを取る。
観客爆笑。
「そんなに興奮しないでください」
さらに観客爆笑。
「物部さん、ここで持ちネタお願いします!」
大泉が物部の口にみずみずしいさくらんぼを放り込む。
「非常に、ジューシー」
次に乾いて硬くなったスルメが放り込まれる。
「非常に、ジューシー」
観客の腹筋が崩壊し痙攣を起こす者もいた。
ワラワラ動画の感想字幕に『wwwwwwwww』と草の象形文字が生やされ、埋め尽くされる。
仲達の顔がひきつっていたが、頭に豆電球みたいな漫符がピコン! と浮かび、早足で選挙カーいそかぜ号に乗り込み、車内の梯子からお立ち台に駆け上がる。
演出の一環と思い込んでいる呑気な観衆の騒音で書き消されているうちに司馬仲達が物部泰三の首根っこを掴み、持ち上げる。
SPはさすが場数を踏んでおりさりげなくふたりを見えないようにカバー。
「言葉が乱れると国が乱れるぞ」
物部の手をバキッ! と握手のふりして圧砕!
『いてて……仲達さん。閣下と私は同じ未来を視ている。我々は二〇〇〇年前からはるばるやってきた魏國の方々と、お互いの世界で、もう二〇〇〇年先の話ができるように、駆けて駆けて駆け抜けようではありませんか! ……と、いうわけで、来るべき衆議院解散総選挙では、小選挙区は保守党に、比例代表は公民党にお願い致します! ありがとうございました!』
冷や汗まみれになった物部は半ば強引にきれいにまとめ、マイクを収めた。
観客が司馬一家に振り返り、万雷の拍手を送る。物部と青梅のコンビによりついに国民感情は政府とシンクロした。
万雷の拍手に包まれながら、仲達は珍しく微笑む。
「────ふ、二〇〇〇年先の話か、悪くない」
魏國からの訪問団は顔を綻ばせる。
仲達も、春華も、子上も、神流も、そして彼らに仕える武将ら皆が日本国政府を信じる気になった。
あとは──子元と薙瑠の気持ち次第だ。
「こうなったら日本国の軍事力と科学力を借りて魏國の生き残りを図ってやる」
──あの村で、子元の蒼燕を助けたいという願いを突き放してしまった。三日三晩、泣きたくなるほど悩んだ。
幻華譚に翻弄された息子と、息子がはじめて自分より大切に思えた存在が息子を好きになってくれたことを、仲達自身が誰より嬉しく思っている。
司馬仲達が目を細め、見つめる先には──‥‥‥互いを慈しむように寄り添う司馬子元と桜薙瑠のふたり。
「舞台は整った……あとは、お前自身が未来を選べ──‥‥‥」
春華は国家指導者から父親の顔になった夫にほほえみ、妖艶な動きで首をかしげた。
* *
時系列は跳躍し、陸上自衛隊富士演習場──
……と、いうわけで日程二日目をあっという間に終え、寝そべる薙瑠は左向きから右向きに身体ごと足をくねらせながら、寝返りをうつ。
考える時間がほしい、と薙瑠は日本サイドとの雑談を切り上げ、皆の宿舎とは離れて小さいテントを借りて休んでいる。
いつの間にか眠ってしまっていた。
今彼女は不思議な夢を、不思議なビジョンを視ている──
──ぴちょん、ぴちょん、と墨汁のような黒い雫が透明な水面に滴り落ち、二重三重の波紋が広がる。
雫が落ちる先にはふわりと広がる蒼の長髪があって。
青い髪の毛の房に筆のように墨が付着し、毛細管現象で染み渡り、簡素な寝間着姿で寝そべる薙瑠の毛先から根元を染めてゆく……
薙瑠の髪は、はじめから青かったわけではない。
蒼燕から青い髪を授かり、茱絶に心を許した返答にその幼い身体を憎しみの刃で貫かれ、木花咲耶から桃色の瞳と、どす黒いまでに残酷な運命を与えられて──
──身体の中から魂が抜けて羽を生やして羽ばたいていってしまいそうな錯覚を覚えた。
「……死にっ、たく、ない」
焦点を失い、瞳孔が開いた蒼い瞳から涙がぼろぼろと溢れ、止まらない。
──その残酷さと恐怖に心を焼かれるのが──夜。
「……うぅ、死ぬ、のは、怖いっ……!」
身体を布団の中で丸め、自分で自分を抱きしめる。
──戦艦大和の甲板で子元様と洋介様があんなに楽しそうに戯れていたのも。
──子元様が背中を優しくさすってくれたのも。
──美咲様が友達と言ってくれたことも。
──天皇陛下の身体に木花咲耶の血が流れていることも。
──みんなでお寿司を食べたことも。
──夜の街を散策して、子元様と肉まんを食べたことも。
──未来の大陸の國が検閲を正当化していることも。
──日本の政治家が魏について熱く語ってくれたことも。
──超会議でケバブの屋台に並んだことも。
──子元様と私の推しパフェを食べたことも。
そして、ついさっき、風光明媚な富士山の山麓でカレーライスを作り、キャンプファイアーを囲んだことも、
みんな、みんな、みんな、大切な思い出が、全部、消えてしまう──もう、奪わないで!
しばらくそうして目を瞑り、手を心臓の上に置き、仰向けになる。
息を整え、今夜も呪詛にも似たまじないを唱える──手を宙に伸ばしながら──‥‥‥
「──子元様、私は‥‥‥貴方になら──‥‥‥」
ゆっくり伏せられていく純真可憐な青い睫毛が宝石のような瞳を包み込み、世界でいちばん綺麗な透明の雫で濡れていく。その雫は薙瑠のちいさなまるい頬に沿って滴り、寝具に二、三の染みをこぼす……
今日もいつものまじないを唱え、ひとりぼっちで深海より暗く苦しい奈落の底へ意識を沈めるはず──だったが、
「────薙瑠」
「(え…………?)」
宙に伸ばされた救いを求める小さな手がこの世界への失望に起因する遠慮で下げられかけた時、司馬子元が男性らしい力強い両手で包み込む。
薙瑠の蒼い瞳がゆっくりと開いてゆく──彼女は眼前の光景を夢と思ったに違いない。
「子元……様……?」
「──俺が側にいる。お前をひとりで死なせはしない」
乙女の寝室に忍び込んだはずの子元が、世界でいちばん格好よく、頼もしく思えた。
「……声が聞こえたから、だ。お前が苦しんでる声が。お前が泣いている声が」
その瞳に映る子元の顔。その顔が泣きそうになっていることに彼も彼女も気づいた。
子元は汗でしっとりと湿った彼女の前髪を指でかきわける。
蒼い髪をほどいた彼女は清楚でまた違った可愛らしさがあった。
「俺は……お前にそんな顔、させたくないっ……」
「私だって、あなたにそんな顔、させたくない、」
気弱な自分を見られたくなくて。
大好きな女子の前では格好いい男子でいたくて。
子元は顔をそむけるのだけれども、誰より薙瑠が自分に真摯に向き合おうとしてくれるのを知っているから、自身も逃げずに薙瑠に向き合うことで返礼と為すのだ。
「……俺の感情が、お前に気付かれていて、重荷になっていることぐらい、わかっている。お前がこの場から出ていけと言うなら、出ていく」
「…………………………………………………………………………………………………………………………………………」
「…………そうか、わかった、」
一向にしゃべらない薙瑠を拒絶と捉え、恥ずかしさと悲しさで脳内で描いていた気の利いた言葉が霧消してしまって、子元は思い切りよく腰を上げた。
「邪魔したな、帰る──」
「待って! ……ください」
振り向いた子元がわずかに目を見開くと、薙瑠が遠慮がちに寝間着の裾をつまむ。唇をきゅっと噛み締めて、目線は下向きで、ほっぺたは桃みたいに染まる。
「…………き、今日も、私をまもってく……くれますか?」
疑問形にしたのは、秘めたるこの想いを絶対に、絶対に打ち明けまいとする薙瑠の覚悟の証明。
それをわかっている子元はそのまま薙瑠を自身の懐に引き寄せ、その腕の中に薙瑠の身体をおさめてしまった。
薙瑠の言葉を拡大解釈し、精神的に守るのではなく物理的に護ると言うのか。
「えと……子元様、何をするの……??」
子元の懐に包まれた薙瑠は、原作中盤で子上に、二次創作冒頭で洋介に再現されたあの有名なで大胆すぎるプロポーズを受けたあの時より顔を紅潮させ、敬語を忘れてしまう……むしろ子元は敬語抜きで薙瑠と話してみたいとさえ思うだろう。
「……お前と出逢う直前、俺は言われた。咲き損ないだと、魏國の恥だと、嫌われ、蔑まれ、疎まれるのなんかとっくの昔から慣れてるはず、だった、のに、父上を侮辱されて、赦せなかった──」
──彼の身体が、震えている。
──彼の心が、怯えている。
「子元様?」
──いつもと彼の様子が違う。
薙瑠の知っている彼はもっと沈着冷静で、格好よく、他人に弱さなど、見せないのに。
「あいつの言うことも正しい、正しいんだ──俺は、どうしようもなく、弱くて身勝手な人間だ……っ!」
子元の胸から聴こえる鼓動のリズムが速くなり、薙瑠の繊細な身体に負荷をかけないように指先に力を込めつつ彼女の肩に指を這わせる。
子元は睫毛を伏せ、眉目秀麗な美しい顔から雫をつぅ──‥‥‥っとすべらせる。
薙瑠の小さな手にそれが落ちてきて、普段みせない子元の脆い一面に戸惑い彼女は子元を見上げるが、泣き顔を見せたくないから彼は顔をそむけ、薙瑠を優しく抱きしめる。
男だって泣きじゃくりたいときはある、必ず誰にもあるのだ。ただ、男が泣くなど古今東西において公衆の面前で許されていないだけなのだから。
秋津悠斗が事前担当者会合の場で国を率いる立場でありながら書類を涙で滲ませていたのを思い出す。日本国は帝でも丞相でも涙を流す、皆が一様に等身大の人間なのだ。
「聞いてくれ、薙瑠──」
「子元様?」
彼の空色の瞳はひどく儚くて、切ない想いをその瞳の水面にたたえていた。こんなに必死に切ない顔で懇願している子元を見るのは初めてだ。
トクン、と薙瑠の心までが彼の瞳のようにゆらめきをたたえる。
「────俺と、同じ時間を生きてほしい」
司馬子元に仕える忠実なる側近は恋愛感情だけは従ってくれそうになかった。
「……日本への転生でお前がどんな姿になっても、俺はお前だけを愛する。お前が年老いて目や耳が衰えても、俺がお前の目や耳になってふたりで選んだ新天地の美しさを伝える。もっと年老いてお前の思考と心が俺の存在を認識できなくなっても、お前の強くて優しい純粋な魂は俺が生涯忘れない……お前が俺に従っているのではない、俺がお前に従っているんだ、だから、もう俺は命令なんかしない」
「…………こたえ、られ、ませ、ん……」
「それは俺の言葉に答えられないのか、感情に応えられないのか、環境に堪えられないのか、なんなんだ……」
────ずるい。
薙瑠は耳まで真っ赤にして、首を横にぶるぶる振り、子元の懐に顔をうずめて、相手に聴こえるぎりぎりまで心とともに声を抑えて、ぽつりと言ったその言葉は──
「────生まれ変わったら、ちゃんと────‥‥‥」
途中まで言いかけて、薙瑠は自分の感情に素直になることに決めた。
子元の肩にちいさな手を添えて、上目遣いで、だが決然と子元に向き合う。子元は左手でそのこわれてしまいそうな肩をさすってやり、右手で軽く頭を撫でる。
鼻先がくっついてしまいそうな、落ち着かない距離。
月明かりが逆光となり子元と薙瑠の向かい合う顔のシルエットを白黒のツートンカラーでくっきりと浮かび上がらせる──
夜空に雲が流れ、草原がざわめき、桜の花弁がひらひらとテントの隙間から爽やかな夜風と共に吹き込み、薙瑠のほどかれた青瑪蝋の長髪を揺らした。
はらり、はらりとたくさんの桜の花びらに包まれながら、子元は薙瑠の震えの誤差にひとしいかすかな唇の動きを凝視し、今最も期待している二つの音節を抽出することを試みる。
だから、薙瑠も声には出さない。使命と恋心の葛藤で結論づけた最適解が今の──‥‥‥告白。
桜の雨に祝福されながら、薙瑠は夜風の中に、子元に悟られていても決して打ち明けないと決めていた想いを紛れ込ませることに成功した。
「────って、伝えますから…………」
薙瑠は唇をきゅぅっ、と噛み締めて、睫毛を臥せ、子元の視線から逃げる……
「…………ああ──この時間が消えた後に、俺が迎えに行く」
肝心な部分を聞き取らせてくれなかったが、今はこれでいい。
薙瑠の気持ちを確信した子元は春の海に温かい潮が満ちるような心の安らぎを覚え、胸の奥からの熱い血潮が身体に染み入り体温が二、三度上昇するのを実感した。
────子元は昨日まで側近だった恋人に抱きついた!
月明かりがようやく心からひとつになるふたりのシルエットを優しく包みこむ。
「もう、離さない」
「そうですか」
「俺は本気だからな」
「ふふ、わかってますよ」
……ところで、偽りの陽の物語を紡いだ三華世界の創造主は、この状況に何を感じているのだろうか?
……お菓子の包装を破り、スティック状のチョコレート菓子を薙瑠に差し出す。
「それは……?」
薙瑠がまんまるのおめめをぱちくりさせて首をかしげ、青い髪がたなびくのが子元を悩殺する。
「ぽっきー、というらしいが……(なんだこの可愛い生き物は)」
で、その「ぽっきー」なる代物はビスケットの軸の表面八、九割はチョコレートに上塗りされているため渡し方に迷う。
何を勘違いしたのか薙瑠が菓子を凝視したまま口を半開きにし、顔を近づけていく──‥‥‥無自覚とは恐ろしい。
そして子元もそこまでのことは薙瑠に求めていない。一緒に菓子をつまみながら夜更かししたいだけだったのに。だけど、彼女が可愛くてたまらない。
薙瑠が唇で菓子を受け取り、少しずつ器用に噛んでいく。子元は手を放し、自身も口に咥える。
「おいひいれす」
「そうか。よかった」
いい感じのムードの真っ最中に兄貴の方の烏(子元が鴉斗という名を知ったのは後の話)が薙瑠に癒しを求め、子元のアプローチを完膚なきまでに打ち砕かれたあの時を思いだし、薙瑠を懐に招き入れ、両足で挟み、後ろからそっと腕をからめる。
……子元なりの勝利宣言か?
ふたりは気まずさをごまかすため、一冊の書物を取り出し、その密着した姿勢をふたりで同じ頁を眺める。
静かな時が流れ、心に穏やかな波が満ちる。
ふたりとも何もあえて言葉を発しない。されど、子元は薙瑠を解放しないし、薙瑠は子元を拒まない。
その冊子の名は──【ヤマトヲグナ作戦概要】
ぱらり、と薙瑠が一枚ページをめくり、両手でちょこんとかわいく本を持つと、子元は右手を薙瑠の右手に添え、人差し指で薙瑠の人差し指から手首にかけて指でなぞる。
やわらかいおててをこね回してみたり、押してみたり、つまんでみたり、
愛撫のごとき行為に薙瑠は身体をむずらせる。
ふと、夜空を見上げれば、星が綺羅、綺羅ととまたたき。天の川銀河の一片が赤、青、黄、緑、紫と虹色の恒河沙のあまねくかがやきをたたえる。
月が不自然なくらいに明るくかがやき、草をつたう夜露の透明さを演出する。
あたりに少し強い夜風が吹き込み、たくさんの桜の花びらに包まれる一面の紅桜の世界。
──あゝ、時間がこんなにも純粋で綺麗なこと、知っていたのに、忘れそうになっていた──‥‥‥
いつまでもこうしていたいのに、時間は廻りめぐる──
……藍色の空は、徐々に青紫色に変わり、そして綺麗な水色へと変化する。
幻想的な色の変化は、彼にとっては心を落ち着かせる効果があるようで。
その変化を瞳に映す子元の表情は、とても穏やかだった。
そして、隣を見れば……薙瑠が咲ってくれている。
これからは薙瑠が子元と同じ時間を瞳に移してくれる。
──薙瑠はもう、夜なんて怖くない。隣に子元がいてくれるから。
子元ももう、朝なんて寂しくない。隣に薙瑠がいてくれるから──。
* *
「おはよ」
「おはよ」
朝のシャワーを浴び顔をほのかに上気させた色っぽい東城美咲が灰色のキャミソールに黒のスパッツ姿のままで洗面所で艶やかに濡れた髪をドライヤーで丁寧に乾かしていると、黒Tに短パン姿の東城洋介が寝癖頭をぼりぼりかきながら歩いてくる。
「きゃー♡洋介くん、今日もカッコいい!」
「美咲ちゃん、かわいいよ!」
北海道のマリモ野郎みたいな目付きになってバカップルを演じる洋介と美咲。数秒の気まずい沈黙ののちふたりはかぶりを振った。
「やめやめ、俺たちのキャラじゃねえ」
「かしこま!」
あくびをしながら洗面台のシェービングクリーム缶を手に持ち、口回りに吹き掛けた洋介は続いてシェーバーのスイッチを入れ、顎を押さえながら髭を剃る。この時のために新しく買った五枚刃で根元がフレキシブルに可動するタイプ。
髪を留め、化粧水を肌になじませながら美咲が問うた。
「今日の予定は?」
「魏軍と自衛隊の模擬戦だ。そのあと新幹線で東京駅に行って、明日は天皇皇后両陛下との謁見と国会での歓迎行事」
乳液を手に取ると美咲が口を尖らせる。
「なかなかハードスケジュールだね」
「桜が散る前にヤマトヲグナ作戦を終わらせなきゃならないからな」
美咲が目を閉じているうちに新しいシャツに身をくぐらせたはずだが、
「あ、腹筋六個に割れてるね」
「数えるな。夫の腹筋を数えるな」
洋介が慣れた手つきでデジタル模様の迷彩服に袖を通す。
「そういうお前の腹筋は……は? え? ムキムキじゃねえか。少年漫画雑誌の表紙で解禁された立体的に機動する装置で戦うヒロインの腹筋並だ」
「つまむな。嫁のお腹をぷにぷにすんな」
美咲はペースト状の化粧下地を指にとり、まず額、鼻、頬、顎につけて顔全体に塗り込んでいく。
「おとーさん、おかーさん、おはよ~」
パジャマ姿の遥がクッションを抱えて歩いてくる。
「おはよ」
「おはよ」
遥が眠たそうな目つきで歯ブラシに歯みがき粉をつけ、大雑把に磨く。はっきり言って五歳の遥だから全然磨けていないがうかつに手伝うと娘の自立を阻害しかねないので美咲はあくまで見守る。
その間に美咲は下着の上から灰色の襟つきのシャツを羽織り、ボタンを留め、青い下衣に足を通し、腰まで持ち上げ、股のファスナーを引き上げ金具を留め、中着をしまった上でベルトの金具を閉める。
「そう言えばさ、子元殿と薙瑠ちゃんが夕べさ──」
青い上衣を着込むのを待ちきれず、美咲は口を開いた。
「ん?」
「どーしたのおかーさん」
遥が泡だらけの口を開け、よだれが垂れる。
美咲はファンデーションをまぶす手を不自然に止めた。
「お嬢ちゃんどうした」
いかつい軍服姿の幸一が銭湯にありがちなコーヒー牛乳をすすりながら興味津々に場に混ざる。
三人の頭をなるべく近くに寄せ、口を近づけた美咲が吐息ばかりで一向にしゃべらない。
「まさか──」
「実は──」
美咲がアイライナーのペンを宙にくるくる回し、待ちかねた洋介が顎の陰の剃り残しに気づき、シェーバーを当てた、その時──
「──そこで何をしている‥‥‥」
────張本人、司馬子元あらわる!!!!
「うおおおおお!」
洋介がカミソリ負けして血液ぶっしゃー!
「きゃああああ!」
美咲のアイライナーが目玉に直撃して涙ぶっしゃー!
「ぐおおおおお!」
幸一がむせかえしてコーヒー牛乳ぶっしゃー!
「わあああああ!」
遥が口に含んでいた歯磨き粉がぶっしゃー!
子元から見て左から遥、美咲、洋介、幸一がコンマ一秒のずれもなく同時に回れ右し、右足を踏み出す──
「「「「────馬鹿めが!!!!」」」」
驚かせるな! と言わんばかりに東城一家親子孫もろびとこぞりてカミソリ負けと涙とコーヒー牛乳と歯みがき粉が撹拌された汚い水溜まりを、ダン! と一斉に踏みしめ飛沫を散らしながら驚かせた子元を一喝した!
一秒後、畏れ多くも司馬師に対し奉り臣民東城家上中下、甚だ不敬極まる言動を猛省する。
ところが、
魏國を治めるあの司馬仲達の御子息であらせられる司馬子元は、そんな彼らの無礼を許したではないか。
柔らかい表情で苦笑までしているではないか?
東城家が我に返り、焦ると同時に子元が今まで見せなかった余裕に仰天する。
「あっ、やべ、すいません。あの、これ口止め料じゃなく迷惑料だと思ってお納めいただければ」
洋介が黒革の財布から五千円札をつまみながら愛想笑いを浮かべるが、
「迷惑料、の代わりと言ってはなんだが──」
「洋介──俺の髪を切ってくれるか?」
やや遅れて、司馬子元の側に現れた桜薙瑠──乙女は恥を帯びて立てり。
「美咲様──私の髪を梳かしてくださいますか?」
ふたりの関係が加速度的に進展したことを、幸一と洋介と美咲がかわるがわる顔を見合わせながら、直感で悟る。
東城一家が凝視する彼と彼女のやや明度と彩度が違う青い瞳は、春の、丁度今の季節の青空のように澄んで、晴れわたっていた──‥‥‥
明けぬれば 暮るるものとは 知りながら
なほ恨めしき あさぼらけかな
(藤原道信朝臣(52番) 『後拾遺集』恋二・672より引用)
参考資料
https://ogurasansou.jp.net/columns/hyakunin/2017/10/17/1295/
(第二章「純愛篇」)




