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フェイズ04「支那事変(1)」

 上海で空前の勝利を得た日本は、ここで講和に向けての行動を強めるべきだった。

 後の史家の多くがそう言う。

 

 しかし実際論として、首都南京を攻略するにあたっては並行して講和工作を進めるべきところが、作戦が予想外に進展したため間に合わなかった。

 この事を自分の責任外だと、先に講和準備を進言していた陸軍の石原次長は東条大臣などをののしったと言われるが、何を言おうが後の祭りに過ぎなかった。

 


 そして南京攻略では、この頃の日本陸軍の伝統の「独断専行」が大きく影響していた。

 

 大勝利を掴んだ第10軍は、南京攻略の大本営命令に先だって独断にて進撃制限線を突破、独自の判断で南京攻略を準備しており、上海派遣軍と第10軍との進撃競争となったのだ。

 

 しかも既に敵主力部隊は、自分たちが包囲殲滅及び追撃戦で撃滅していた。

 上海=南京間は300キロ近くあったが、背を見せて逃げまどう兵士以外に敵の姿はなかった。

 

 そして南京前面には、10万程度が守備する南京防衛外郭陣地があったが、これも機械化部隊と海軍航空隊の支援により呆気なく突破に成功。

 まともな戦闘にもならず、中華民国軍は旧時代の兵士のように算を乱して逃げ散った。

 

 その後も日本軍は快進撃を続け、1942年3月13日に支那軍は退却を始め、入れ替わるように日本軍は1個聯隊を入城させ、南京の完全占領を発表した。

 しかも第10軍の機械化部隊は南京を大きく迂回して、南京を脱出した中華民国軍の大部隊の捕捉及び包囲に再び成功しており、上海と合わせて約80万人いた中華民国軍主力部隊はほぼ殲滅されることになった。

 奥地に逃げのびた兵士の数は、周辺に潜伏した者を含めても20万人に届かないと言われている。

 軍組織としては、完全に瓦解していた。

 

 なお日本陸軍中央での当初の作戦計画では、1942年4月中旬から南京攻略戦が開始される予定であり、その間に講和が行われる予定だった。

 しかし実際には、予期した一ヶ月以上も前に南京は陥落した事になる。

 急な開戦、戦争展開と合わせて考えれば、講和の準備が間に合わないのも道理というものだろう。

 

 しかも日本の中華での大規模な軍事行動はかつて列強間で結ばれた「九カ国条約」に違反するため、この点でも日本は国際非難されていた。

 


 それでも和平に対する働きかけは行われており、中華地域に利権を持つ他の国々に対して日本が領土欲が無い事、第三国の権益を損なう気がない事、日本だけが経済開発を独占しない事の三つを伝えることで、仲介を依頼した。

 これにイギリス、ロシア、フランス、ドイツが応じ、当事者以外の国々を仲介とすることで、上海での戦いの最中に以下の概要の条件が伝えられていた。

 


 1. 内蒙古自治政権の樹立

 2. 満州国境から天津・北京にわたる間に非武装地帯を設定

 3. 上海の停戦地帯の拡大と国際警察での管理

 4. 抗日政策の廃止

 5. 日本商品に対する関税引き下げ

 6. 外国人権利の尊重

 7. 戦闘を誘発させた張学良の処罰


 以上の事件に対して汪兆銘政府も、自らの領土主権の尊重を条件として日本側の条件を呑む意志を見せつつあった。

 しかし上海での圧倒的勝利とその後の南京に向けての進撃、そして占領が、日本側に傲慢を呼び込んでしまう。

 

 戦勝に奢った日本は、南京陥落後に「満州国の正式承認」、「我が占領地域を非武装地帯とする」、「賠償の支払い」など新しい要求を相手に突きつけた。

 追加された条件は、いかに現実主義的な汪兆銘でも飲める条件でないのは明白であり、戦闘を誘発させた事、和平提案への回答遅延という中華民国側の失策があったとしても、この時の非は勝手に条件をつり上げた日本側にあった。

 

 もっともこの頃の日本中央では、中華民国との全面戦争、長期戦に自信がないため、実行組織である陸軍参謀本部は秩父宮殿下、石原次長などは寛大な条件での戦局収拾を強く希望していた。

 しかし戦勝に浮かれた内閣は「支那側に誠意なし」、「屈伏するまで作戦は続行すべし」として、中華民国に「中華民国政府が回答を行うまで、帝国政府は軍事行動の停止しない」とする政府声明を発表する。

 

 これは日本側の選択肢を著しく狭める結果になり、戦闘(戦争)の長期化が必至となった。

 しかも考え方によっては、日本の政治指導者が能動的な責任放棄したに等しく、無為無能の現れと見ることができるだろう。

 敵国の首都攻略が大局的な戦争指導を誤らせたのは確かだが、これが中途半端な軍国主義がもたらした一つの結果であった。

 本来なら日本の政治指導者たちは、双方の国力、軍事力、経済力の実状を把握し冷静に判断するべきところを、全てを安易に考えてしまったのだ。

 まさに思考放棄と言えるだろう。

 


 そして日本側の声明に対して、中華民国政府は黙殺を持って応え、宣戦布告無き全面戦争が本格的に始まる。

 

 しかし実質的な戦争はまだ始まったばかりであり、これからが軍事力のみが突出した新興国に過ぎない日本と、まだまだ後進国だった中華民国による総力戦の事実上の幕開けだった。

 


 なお、この時期の日本軍は、陸海軍共に兵器弾薬・資材等がまったく不十分だった。

 陸軍兵員数こそ準戦時動員の緊急実施により一気に平時の三倍に膨れあがったが、日本陸軍の基準でも三ヶ月以上の戦闘を行うだけの物資、特に弾薬が不足していた。

 

 また事変前の日本陸軍は、師団14個、近衛師団1個、戦車師団1個、戦車旅団1個、戦車連隊9個(※他部隊所属含む)、空挺旅団(※実質大隊規模)1個、各騎兵連隊20個、重砲兵旅団4個を有していた。

 また陸軍航空隊は、22個飛行連隊の編成で約600機の常用機を運用していた。

 他に満州、台湾にもいくつかの部隊、守備隊が駐留していたが規模は限られていた。

 

 平時の総兵員数は20万人で、海軍の5万人に対して4倍の規模があったが、海軍が世界で三番目の規模なのに対して、陸軍の規模は列強の中では平均的なレベルでしかなかった。

 1930年代から重視された機械化戦力の強化についても、一部を除いて依然として遅れている状況だった。

 歩兵師団の自動車化、機械化も2個師団の自動車化が終わったばかりで、輜重用の自動車輸送部隊は各自動車化、機械化部隊の輜重部隊以外には乏しかった。

 

 しかし上海事変勃発で国内に準動員体制が敷かれて、後備師団は師団番号の頭に100を付けた師団として編成され、近衛と戦車以外の15個の後備部隊は、全て戦時編制の3単位師団として動員された。

 この一部は早くも上海事変に投入されており、日本陸軍の動員能力、速度が低くない事を伝えていた。

 

 そして総力戦が本格化しようとしていた1942年5月頃には、臨時動員と徴用により、師団数は歩兵30個にまで増加。

 そのうち6割を支那戦線(中華民国)方面に投入する体制を整えつつあった。

 また事実上の戦時計画で、各部隊の重武装化、戦車を中心とする機甲戦力の増強、航空部隊の大量増加などが決まったが、全ては紙の上の事でしかなかった。

 そして中でも当面深刻だったのが、先に上げた備蓄弾薬の不足だった。

 


 一方の日本海軍だが、こちらは1942年春に2隻の新造空母を迎え入れ、秘密兵器扱いだった超大型の新鋭戦艦も夏には1番艦が就役予定だった。

 また予算面での海軍補充計画の遅れから、旧式化しつつあった戦艦のさらなる延命工事も決まり、当面は戦艦12隻、大型、中型空母合わせて6隻を基幹とする大所帯での運営が決まっていた。

 また事変勃発に従い海軍航空隊の大増強が決まり、今までに倍する規模の航空隊の編成が早くも始まっていた。

 兵員数も、陸軍から一部分けてもらう形で、平時編制で7万人にまで増強される事になった。

 

 ただし、助成金により建造した大型客船の空母化は、全面中止された。

 空母への改装を前提として建造された水上機母艦、潜水母艦も、全てそのまま運用されることになった。

 しかも、艦艇整備のための「マル四計画」までもが一年遅延とされ、その余剰予算を航空隊関連を中心に他に回した。

 このため3隻目の巨大戦艦の就役は、1946年にまでずれ込む事になった。

 

 大所帯となった運用経費と海軍航空隊の拡充に、ほとんどの予算が注がれたからだ。

 

 このため海軍内では、事変拡大は大迷惑というのが偽らざる感情だった。

 しかし陸での戦闘が主軸となるので、遠距離移動力の高い海軍航空隊自身は自分たちにとっての追い風と捉えている者も多く、海軍自身も陸軍への対向のため海軍航空隊に多くの予算を投じざるを得なかった。

 そして海軍航空隊は、この戦争の中で世界初の「戦略空軍」として大いに発展していく事になる。

 


 そして強大な日本軍との全面対決を余儀なくされた中華民国軍だったが、内実は問題だらけだった。

 

 中華民国軍の中核は国民党軍だが、各地には軍閥と呼ばれる近代的な武装を持った昔の豪族のような存在が多数存在していた。

 いちおうは、それらのほとんどが国民党を中華民国のリーダーと認めた形になっていたが、近代的な統治体制からはほど遠い状況だった。

 

 政治組織もそうだが、軍隊においては特に問題が多かった。

 

 最盛時の中華民国軍は公称300万人あったが、戦争全期間に渡ってその過半はまともな軍事訓練を受けた事がない食い詰め者、盗賊上がりがほとんどだったと言われている。

 例外は、開戦前に存在した国民党の精鋭部隊とドイツ軍事顧問に教練を受けた部隊だった。

 これらの精鋭部隊は、1941年冬の時点で約100万人いた。

 さらに装備も鉄兜や衣服に至るまでドイツから輸入し、遠目にはまるでドイツ兵のようだった。

 

 しかしそのほとんど全ては、上海から南京にかけての戦闘で消えていた。

 多くが激戦の中で倒れたのだが、かなりの数が包囲された上での日本軍への降伏だった。

 しかし彼らの奮闘より問題だったのが、中華民国軍が事変初期の段階で精鋭部隊のほとんど全てを失った事だった。

 しかも空軍部隊も初期の戦闘だけで既に壊滅状態に陥っており、武器弾薬のうち銃器などの簡単のなもの以外の生産力が皆無な中華民国では、戦闘自体が可能なのかすら疑問という状況だった。

 

 しかも国民党が頼りにしていたドイツの軍事顧問団は、日本との対決姿勢が見えるとドイツ政府が強い態度で撤退を行っていた。

 僅か半年で、連絡と兵器売却交渉の一部を除いて殆どが既に帰国した。

 それでも一部の者が帰国できないまま戦闘に巻き込まれ、1名が戦死、数名が日本軍の捕虜となっていた。

 

 ここで日本とドイツの外交問題になるかと思われたが、日本側はドイツ人をすぐにも釈放し、ドイツ政府は中華民国に即金以外での武器売却の中止と総量自体の減少を通達した。

 この裏には、外聞を気にしたドイツ政府の思惑と、ドイツ軍事顧問を事実上の人質に取った日本側の裏交渉があったと言われている。

 

 また中華民国に対する他国の動きだが、上海事変での報道は世界中にほぼ公平な形で伝えられていたため、上海事変そのものでは中華民国が被害者という向きは少なかった。

 戦闘を仕掛けたのも、最初に拡大させたのも、最初に条約を違反したのも全て中華民国だったからだ。

 欧米各国は、中華に対して強欲な日本への反感や反発はあったが、上海での戦闘そのものは日本の方に歩があると見ていた。

 

 しかし首都南京が落ちて事実上の全面戦争になると、少しずつ風向きが変わり始めた。

 

 戦線を拡大して領土欲を見せているとしか見えない日本に対する批判が高まり、負ける一方の中華民国を被害者と見る向きが出てきたのだ。

 しかもロシアは、極東での日本の足を引っ張ることには肯定的なため、日本との間に事実上の中立協定を結ぶ一方で、中華民国への事実上の軍事支援を水面下で約束し、日本に絶対邪魔されない中央アジアから続く支援ルートを開設した。

 また他の国々にとっても、中華民国を利用して日本の国力を落とすことは好都合であるため、アメリカも中立法の適用は遂に行わなかった。

 そして貿易の傍らで借款による武器輸出が行われ、日本を「侵略者」とした者達による義勇組織、義捐金が中華民国にもたらされるようになった。

 

 そしてこれを表向き非難する日本も、自身の貿易の途絶は可能な限り避けたいため、諸外国の動きを容認せざるを得なかった。

 しかし欧米各国と日本との関係はますます悪化し、事変の中で日本の国際孤立は進んでいった。

 

 とは言え、中華民国は侵略を受けた被害者という位置ではあるが、国際政治上では単なる自業自得としか見られず、欧米諸国にとってはいかに搾り取るかという以上には捉えられなかった。

 

 チャイナ自体の疲弊は市場価値の下落をもたらすが、とりあえず事実上の戦争特需は各国にとって望むところだったし、戦争による日本の疲弊もまた各国の望むところだった。

 

 こうして世界大戦後初めての大規模戦争は、入り口も出口も見えないまま、混沌とした思惑の中で進んでいく事になる。

 


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