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フェイズ02「支那事変前夜」

 1940年(昭和15年)9月21日土曜日、第十二回東京オリンピックが開催された。

 同年春からは同じく東京でエキスポも開催され、さらに同年2月には「紀元二六〇〇年祭」が国を挙げて行われ、日本中がお祭り騒ぎに沸いた。

 

 世界中からも、多数の豪華客船が東京湾にやって来た。

 国内では帝都高速道路、弾丸鉄道など巨大インフラ計画が次々に持ち上がり、日本は「五輪景気」と言われる好景気に沸いていた。

 また、京都や奈良などの日本の伝統的都市は、オリンピックついでの観光客が多数訪れた。

 欧米の比較的裕福な旅行者達の中には、東京夏季オリンピック、エキスポ、日本各地での観光、札幌冬季オリンピックと半年以上日本に滞在する者も多数いた。

 そうした人を迎えるため、日本各地の宿泊施設や観光地も賑わった。

 

 また日本国民の間でも当時は旅行ブームだったため、尚更日本各地は賑わいを示していた。

 

 しかし祭りは翌年2月の札幌冬季オリンピック閉会と共に終わり、約一年間続いた日本中の騒ぎも祭りの後の静けさとなった。

 


 オリンピック、エキスポの開催は、日本にとって大きな実りとなった。

 建設景気による国内経済の活況もそうだが、外交面での効果が大きかった。

 オリンピック、エキスポの同時開催により国威は大きく盛り上がり、平和の祭典の連続により諸外国の対日警戒感もかなり緩和した。

 特に、日本国内が軍国主義に傾いたと見られていた「誤解」が解けたことは、何よりの成果といわれた。

 

 しかも日本の政治家、軍人達にとって嬉しい事に、同年11月のアメリカ大統領選挙で日本に対して厳しく中華外交に傾倒していたフランクリン・ルーズベルトが敗北し、政権が共和党へと移った。

 

 これは日本にとって外交を巻き返しを計る大きな機会チャンスであり、政権を担う近衛文麿は1941年3月にはアメリカ訪問を実現し、日本にとっての外交環境は大きく好転した。

 

 しかし、日本の成功に焦りを覚えるものが内外にいた。

 

 国内で焦ったのは、一部の軍人達だった。

 自分たちの存在が、数年前に比べてかなり希薄化したからだ。

 政治家も五輪、万博に沸く民衆の支持を背景に勢いを取り戻しつつあり、両イベント開催のため軍事費までが大きな削減を強いられていた。

 しかも相手が五輪、万博という日本国民が願いに願っていた国家行事のため、軍部があからさまに反対を唱えることも出来なかった。

 

 これは官僚的性質の強い軍隊にあっては、危機的状況でもあった。

 しかも五輪景気は一部都市だけでなく周辺部にも波及しており、貧農出身の将校達の態度もかなり軟化しているとあっては、強硬路線を走ってきた将校達にとってはゆゆしき問題だった。

 彼らにとっては、富国こそが彼ら自身にとっての憂国の事態なのだ。

 そしてそれを感情的に否定しなければならないところに、彼らの無理と焦りの双方があった。

 

 一方海外で、日本の躍進に最も強い焦りを見せたのが、隣国の中華民国だった。

 

 日本では好景気により経済が躍進し、一度は落ちた国際的地位、信用も回復しつつあったが、これらは相対的に中華民国の希薄化を意味していた。

 しかもアメリカでの政権交代が追い打ちとして加わった。

 しかも皮肉なことに、軍閥の鎮圧と国内の統合が進んでいる事は、尚更欧米諸国の関心を薄れさせる事につながった。

 武器市場として魅力がなくなると見られたからだ。

 しかも世界中の国々は、中華国内での内乱には賛成で、中華民国が近隣諸国に限られた範囲での軍事圧力を加えることには肯定的でも、誰も戦争は望んでいなかった。

 このため年を増すごとに蒋介石、国民党への支援や支持は減少し、蒋介石が軍閥討伐の進展と共に暖めていた排外路線を挫折させ続けていた。

 金がなければ、何も出来ないからだ。

 

 しかも事態は、国民党と蒋介石にとってむしろ悪くなるばかりだった。

 

 このため中華民国は、かねてからの構想通り政策の転換を図ることを決める。

 内憂外患のうち内憂を取り除いたので、次は外患の解決を図る事だった。

 一番のターゲットは、満州を牛耳る日本だった。

 モンゴルを事実上牛耳るロシアも対象にしたかったが、同時に二つの敵を抱えることは得策ではないので、まずは外交音痴な日本を追いつめ、中華世界から追い出すことから始める事とした。

 

 そして無理矢理にでも日本との長期紛争状態を作り上げることで自分達を被害者に仕立て上げ、日本と諸外国の関係を一層悪化させるのが目的の一つだった。

 そして日本との紛争を契機として、最終的には全ての外国を中華世界から排除する事を目指していた。

 


 しかし中華民国にとって、当時の外交状況は良くなかった。

 

 ドイツは、中華国内が沈静化すると共に、軍事顧問の引き上げが相次いだ。

 これは、内乱鎮圧なら諸外国との軋轢は少ないが、中華民国の軍隊が外に向かうとなると外交問題に発展しかねないからだった。

 そして依然平和国家の道を進むドイツにとって、ロシアや日本と対立する方向に進んでいる中華民国は、武器市場として以外の活用は控えるべきだった。

 特に自国の国防そのものに問題を抱えているドイツとしては、近隣のロシアとの関係悪化は可能な限り避けるべき外交事案だった。

 

 イギリスは、自らの市場拡大を目的とした中華民国の貨幣制度導入に力を入れたが、そもそも多数の市場を持つのに国内の生産力が低下しているイギリスにとって、中華市場はどうしても必要ではなかった。

 助力も、もはや市場獲得ではなく外交としての側面が強く、自らの影響力を保持するために中華民国との一定の関係を保つという要素が最も重視されていた。

 当然、中華民国の行う危険な行動につき合う可能性は低かった。

 

 ロシアは、日本とは満州を含めて長い国境を接する事になっているが、ロシアの極東政策は基本的に日本との妥協と協調だった。

 しかもロシアは満州国建国以後は、北満州の利権を日本に売却している。

 その上満州国の経済発展に連動する形で日本、満州との貿易を増加させていた。

 実際極東地域の経済は好調で、シベリア鉄道の往来は増え、極東への国内移住者も増えていた。

 シベリアの開発でも、日本との積極的な協力が増えていた。

 ヨーロッパロシアからでは、極東開発に限界があったからだ。

 

 加えてモンゴルを事実上配下に置き、中央アジア方面でも国境問題を抱えているので、中華民国との関係はあまり良好ではなかった。

 それでも日本の過度の勢力拡大を阻止するため中華民国への武器輸出を行っていたが、ロシアの兵器は軍国主義化の進む日本に対向するには力不足なものが多かった。

 だいいちロシアは、日本に次ぐ中華民国の仮想敵だった。

 

 他の欧州諸国は、上海租界、天津租界に若干の兵力を置くフランス、イタリアを含めてアテにならなかった。

 むしろフランスなどは、弱みを見せたらつけ込んできそうだった。

 

 中華民国にとっての希望は、アジアのことに疎いが市場進出だけはしたがっているアメリカだけだった。

 だが、そのアメリカでも、強い親中反日政策を推進していたルーズベルト政権が倒れ、自由放任主義な上に不干渉主義を掲げる共和党のウィルキーが政権を握った。

 アメリカの政権と政策が大転換した1941年1月以後、中華民国とアメリカの関係は冷める一方だった。

 しかも選挙に敗れたルーズベルトは、選挙に敗れて以後病気で伏していた。

 

 そうした状態で、中華民国深くに入ったアメリカのジャーナリズムが、国民党と蒋介石をファッショだと報道した事がアメリカ国内で広まり、アメリカ国民の中華民国特に国民党への関心を下げさせていた。

 これは政権交代に伴う政策変更というアメリカ国内での政治の結果だったが、とばっちりを受けた国民党の打撃は大きかった。

 アメリカからの援助も支援もほぼ消えてしまい、貿易だけが残されただけになった。

 蒋介石のバックボーンである宋財閥が動いても、アメリカが政策として行っているだけにどうにもならなかった。

 

 このため東京万博閉幕後すぐにも行動を起こそうと考えていた蒋介石は意気消沈してしまい、しばらくは対日強硬路線を自ら封じるとまで考えていたほどとなった。

 ロシア、アメリカなど日本の軍事的脅威を持つ国々は中華民国を大なり小なり煽ったが、日本と他の国々との全面戦争の可能性が極めて低い状況では、中華民国だけが不利益を被る行動に出ることは難しかったからだ。

 


 一方で行動を起こすに至ったのが、日本軍部の中の一部の者達だった。

 

 「二・二六事件」以後、日本陸軍では統制派と呼ばれる派閥が権力を握った。

 とは言え行った事は、陸軍内での勢力を広げること、海軍に対して優位に立とうと政争にかまけた事、そして自分たちの軍事予算を増やすことぐらいだった。

 やっている事は、少壮将校達が糾弾した腐敗した政治家達と大差なかった。

 無論だが、世界征服や東亜解放などの気宇壮大な事は、ごくたまに法螺話で吹聴する程度で、まともには考えていなかった。

 

 それでも軍事予算は潤沢になったので、航空隊と各部隊の重武装化、機械化が推し進められていた。

 どれも多額の費用が必要とされるもので、軍の近代化を進めるという向きもあったのだが、主に海軍が建造を進める巨大な戦艦や空母に対抗しての事だった。

 しかし欧米先進国ですら予算の問題から進んでいない軍の近代化を、いまだ先の大戦型の編成や装備から抜けきっていない日本陸軍で行うことは困難がつきまとった。

 このため、一部の精鋭部隊を実験部隊のように扱う以上の事は、なかなかできなかった。

 陸軍としては師団数の増強なども行いたかったが、ロシアを口実とすることが難しかった。

 

 軍備に金をかけたくないロシアは、依然として日本との軍事的緊張を望まず、第一次世界大戦頃の旧ロシア帝国時代のように満露国境は両者一定以上の軍備を置かないことが不文律となっていた。

 また日本国民も、紛争もなく確たる敵もいないのに過度の軍事予算による増税などは望んでいなかった。

 

 このため「精鋭関東軍」の実体は、現地での匪賊、馬賊の討伐組織であり、日本本土の三倍近い面積を持つ広大な満州に対して、常時4個師団が駐留するに止まっていた。

 他にも騎兵や戦車隊、航空隊なども駐留していたが、兵力密度は朝鮮半島よりも低いほどだった。

 兵力の多くも、ロシアより中華民国を指向していた。

 

 これに対して日本海軍は、自分たちで構築しつつある新たな軍事ドクトリンに従った世界に冠たる海軍と、新たな力である長距離空軍としての整備に余念がなく、諸外国からも日本海軍の方が圧倒的に警戒されていた。

 しかも巨大な戦艦、空母、巨大な航空機は、国民にも受けがよく人気も高かった。

 

 この裏返しが、陸軍の一部精鋭部隊の重武装化や航空隊の増強であり、それは広大な満州で主に行われていた。

 1934年に編成された独立混成第一旅団と呼ばれる戦車を中心とした諸兵科連合の機械化部隊がその典型であり、こうした部隊は世界中でも実験的に編成された以外では存在しない先進的なものだった。

 この部隊は、海軍への対抗もあって装備の更新と規模の拡大を続け、1940年度からの空挺部隊の創設と共に陸軍の目玉商品とされ、1940年には戦車第一師団に改変された。

 この部隊は、紀元二六〇〇年祭に東京での閲兵式にも参加し、諸外国に大きな衝撃を与える事にもなった。

 いまだ列強各国では、戦車は歩兵に協力させるか、せいぜい単体で運用することが一般的で、機械化された諸兵科統合にまで至っていなかったからだ。

 

 これは、軍が政治の主導権を握り多くの予算と人材、資材を投入できたからこそ日本が先んじることができたものだった。

 

 また海軍への対抗心から、むしろ高コストの兵器調達に走り、それが仮想敵が貧弱なのにも関わらず装甲車両の大型化と重武装化を促すという流れを作り出していた。

 こうした中で誕生した戦車の一つが、後に有名になる「九七式戦車」とその系譜であった。

 

 しかし日本での軍拡は常に限られていた。

 1940年度計画での陸軍の規模は、俗に言う宇垣軍縮から大きな変化はなかった。

 戦車旅団が戦車師団になり空挺団が新たに設立される事になっていたが、兵員自体は他の師団の幾つかを「四単位制」から「三単位制」にすることで捻出される予定だった。

 そして「三単位制」師団には優先的な重武装化と一部自動車化を行い、師団戦闘力を低下させることなく、むしろ大幅に向上させる事を目指していた。

 

 しかも日本全体が、1932年からの景気回復とその後の五輪景気により産業の拡大が続き、自動車生産数の増加と単価の低下も一定割合で進んでいたので、こうした社会の変化そのものも陸軍の優位に働いていた。

 


 だが、軍の近代化が進んでも、軍の存在自体が希薄化するのは避けなければならなかった。

 世界大戦以後の日本陸軍にとって、自身の存在の希薄化は常に問題視されていたから尚更だった。

 

 世界大戦までの仮想敵には、ロシアがいたしドイツもいた。

 しかしどちらも崩壊してしまった。

 新たにアメリカ、イギリスが日本の仮想敵として浮上したが、そのどちらもが海洋国家な上に最重要貿易相手国だった。

 まともに考えれば、友好を深めこそすれ敵とする事自体が間違いだった。

 

 それでも日本海軍はまだマシだった。

 多少無理があるが、仮想敵を与えてもらったからだ。

 これに対して日本陸軍には、まともな敵がいなくなっていた。

 

 確かに、ロシア人は極東では日本との友好を謳いながらも中華民国を支援していたし、ドイツ人は食い扶持を得るために中華民国にせっせと武器を売っていた。

 他のヨーロッパ諸国も、中華民国への武器売買には熱心だった。

 しかしそれだけだった。

 中華民国は、自力での重工業生産力をほとんど持たない遅れた農業国家な上に、国家、政府としての統一にも欠ける遅れた国だった。

 軍隊もドイツ軍事顧問が育てた国民党の一部精鋭部隊以外は、ほとんどが匪賊(盗賊や暴力組織)が武器を持っただけのような存在だった。

 栄えある帝国陸軍の敵とするには、役者不足も甚だしかった。

 かといって日本海軍と同じイギリス、アメリカを仮想敵とするわけにもいかないので、日本の父祖の権益を「奪い取ろう」とする中華民国こそが帝国陸軍の仮想的ナンバーワンとなっていた。

 

 しかし日本国民は、日清戦争以後支那(中華民国)を見下す傾向が強く、支那程度の敵のために陸軍の規模拡大にはあまり肯定的ではなかった。

 そんな必要性がないと思っていたからだ。

 このため海軍の八八艦隊計画の頃の師団拡張計画も計画自体が成立しなかったし、二度の軍縮で15個師団にまで師団数も減少させられた。

 装備が近代化したが、ポストの削減は官僚でもある軍人にとって屈辱であり由々しき事態だった。

 

 そうした世界大戦以後のマイナス感情は、間違いなく陸軍の暴走につながっていた。

 

 それでも何とか彼らなりに頑張ってきたが、また新たな敵が現れたのだ。

 次なる敵は、1920年代以後急速に勢力を拡大しつつある都市部を中心とした「豊かな国民」だった。

 彼らは生活の向上を優先し、行き過ぎた軍備の拡大には否定的だった。

 オリンピック開催の前年頃から「民意」を受けた報道各社も、陸軍への風当たりを再び強めるようになっていた。

 権謀術数に秀でた政治家達も、息を吹き返しつつあった。

 軍を後押しする財閥も、平時の軍需よりも民需の方が儲けられるとなると、簡単に民衆に迎合した。

 

 これは1940年度の軍の整備計画にも悪影響を与え、日本海軍は再び大規模な艦艇整備計画を通してもらえたのに、陸軍は我慢しなければならなかった。

 

 そこにきての陸軍の希薄化だった。

 

 このままでは、帝国を守ることは出来なくなってしまう。

 それが「憂国の士」の共通した考えであり、無知蒙昧な国民の盲を開かせ、いまだ満州国を認めないばかりか妄言ばかりを吐く支那を懲罰することは崇高な義務ですらあった。

 

 そして、支那側の誘いに乗る形で日本を正しい道に導く計画が水面下で進むことになる。

 


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