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フェイズ10「日本経済再建」

 日本政府公称「支那事変」後、日本政府は一つの政策を決定する。

 それは、満州国を含めた内需拡大政策だった。

 1946年当時の日本人一人当たり所得は、ヨーロッパ先進国の半分以下。

 アメリカ、イギリスと比べると5倍近い格差が存在した。

 つまり日本は、まだ途上国もしくは新興国でしかなかった。

 

 今までもそうだったが、現状では重工業国として一定の水準にまで達することが出来ていた。

 少なくとも工業生産高(力)では既にイタリア、ロシア、フランスを追い抜いていた。

 工業化の指標である鉄鋼生産力が、数字を如実に物語っている。

 当時フランスは最大で約400万トンの鉄鋼生産力だったが、日本は満州を含めると最大で700万トン、通常でも600万トンの生産力があった。

 しかも、日本の規模と施設は拡大傾向にある。

 

 その上にいるイギリスとの間にはまだ大きな開きがあったが、多くの施設の老朽化が問題視され全体的に停滞しているイギリスに対して、日本の重工業はまさに途上段階にありまだまだ上向きだった。

 国内や満州には、資本投下先もまだまだあった。

 

 無論問題もある。

 最大の問題は国内債務だ。

 支那事変(日中紛争)ではうず高く積まれたし、それまでの借金も膨大だった。

 

 借金問題を内需拡大と合わせると、日本政府は内需拡大による日本全体の所得の大幅な拡大により、相対的に借金を減らし続けるという方針を打ち出したことになる。

 

 実際、東京オリンピック前の1939年から1945年の間に、日本の名目総生産額は約二倍に膨れあがっていた。

 つまり、国家予算と借金も、名目上は半分になっている。

 これを戦争ではなく内需拡大で行ってしまえば、借金した以上の実質成長が見込めることを意味していた。

 また戦争中に拡大した工業生産力を裁くためにも、供給先が必要だった。

 

 当然インフレが起きると予測されたが、個人の国民所得も上がるように政策を組めば、国民の不満も紛らわせる上に内需拡大にも大きなプラスとなると考えられた。

 政策により大規模な雇用が生まれれば、支那事変終了後に動員解除された元兵士達の雇用にも役立つ。

 

 加えて、戦時中に行われた各種国家統制や労働者に対する保護は国民の保護と景気拡大にも役立つため、これらの恒久化のためにも国家予算の投入が必要だった。

 そのためには、国家予算を拡大しなければならず、景気、国富、国家財政の拡大が必要だった。

 

 とどのつまりは、上向きの国家にだけ良性に作用することが多いとされる、ケインズ理論の実践と言うことにもなるだろう。

 

 こうした考えには多分に秀才官僚的な面が見られたが、ある程度の実績と目の前の問題を前にして、特に問題視もされなかった。

 

 そしてある程度の実績としては、満州国建国以後の莫大な投資による日本経済の量的成長という実例があった。

 これを、国内においては東北、北海道で実施。

 満州に対しては、次なる成長段階への投資を実施。

 そして帝都から瀬戸内海にかけては、日本が先進国列強に向かうための大規模な社会資本建設計画、都市改造計画が立案された。

 

 全てを官僚達が作った工程表通りに実施できれば、四半世紀後の日本は毎年億の単位の鋼材とセメントが必要となるほど経済が拡大すると見込まれた。

 もし実現できれば、アメリカに次ぐ経済大国となるという野心的なものだった。

 

 無論問題もある。

 中でも大きな問題は二つ。

 

 一つは軍隊、もう一つは金だった。

 


 「軍隊」、特に陸軍が、支那事変での活躍の組織に対する「報償」が大量の動員解除ということで、下級将校を中心にしてかなりの不満をため込んでいた。

 海軍も軍縮条約によって大量の艦艇を破棄しなければならず、こちらも不満を溜めていた。

 単純に見れば1920年代中頃の状況に近かった。

 しかし支那事変では200万近い兵士が動員され、そしてその殆どが動員解除されるという事件は、日本の近代史上でいうと日露戦争ぐらいしか類似例がなかった。

 

 そして、大量動員によって軍と戦争の実状を知った多くの一般人は、殆どの者が威勢の良いだけの職業軍人の声にあまり耳を傾けなくなっていた。

 従軍したことで軍の実態をある程度知り、また戦場を体験した影響だった。

 

 軍、特に陸軍は一部秀才だけのものではなくなり、その一部秀才が国家から与えられた力で勝手に何かしようとする、もしくは利益誘導しよういう姿勢は、支那事変後には国民の支持を得られなくなっていた。

 当たり前と言えば当たり前の話しなのだが、その事を理解できない秀才軍人も一部にはいた。

 

 そして支那事変終息後の一時的な弛緩状態と動員解除を利用して、政治家、官僚が巻き返しを計った。

 軍の現状を憂う良識派の軍人と軍に残った一般出身の軍人を抱き込む事で、軍中央の一部勘違いした人々を合法的、組織的に無力化していったのだ。

 

 ここで軍人達の一部は慌てて気勢を挙げたのだが、結局のところ老獪な人々に時間をかけて絡め取られてしまえば、若い秀才ではどうにも出来ないからだ。

 そして一部の人々への事実上の粛正は軍に冷や水を浴びせる効果を発揮し、1930年代あれほど荒れ狂った軍隊は、事変後はむしろかなりの落ち着きを取り戻していた。

 

 また軍内部にも、支那事変中に動員されそのまま軍に残った、一般社会を知る軍人が一定数いたことも、軍の専横と横暴を抑止する力となった。

 

 事件については機密解除の問題があるので割愛せざるを得ないが、日本という国家が途上国から徐々に熟成した先進国に向けて動いていた何よりの証拠と見ることが出来るだろう。

 また一方では、「熱が醒めてしまった」という実に日本人らしい側面も、軍隊のが大人しくなった要因となっていた。

 

 海軍は、戦時に大幅に拡大され、そして戦後縮小された航空隊以外に、あまり大きな変化は見られなかった。

 もともと軍の規模は陸軍より小さいし、海軍軍人は政治に関わることも意図的に避けていたので、軍縮で多少不満を溜めてもそれ以上にはならなかった。

 それに軍縮で軍艦は減ったが、支那事変中に拡大した航空隊は国家予算面以外での削減はされなかったので、戦後の職業軍人のポストが十分確保されていた事も、一定程度は海軍組織内のガス抜きになっていた。

 


 一方「金」だが、内需拡大といっても海外貿易による利益が必要となる。

 何しろ日本は無資源国なので、海外から資源を輸入しなければいけない。

 しかし輸入してばかりでは、貿易赤字が膨らんでいくばかりとなる。

 だが日本が諸外国もしくは諸外国の植民地に工業製品を輸出することには、諸外国はいい顔はしない。

 支那事変は局地戦争に過ぎず、世界が植民地で覆われている現状は、ほとんど変わっていないのだ。

 

 日本にとっての僅かな救いは、実質的な植民地である満州地域があることと、中華地域から海南島を得たことだろう。

 二つの地域からは鉄鉱石が採掘できるし、満州には巨大な炭田もある。

 満州では油田の存在も噂されていた。

 満州は全ての意味において、日本経済のカンフル剤となりうる場所でもあった。

 既に4000万人を越える満州の住民も、市場としてはかなり有望だった。

 しかも住民の数は、中華民国から流れ込む大量の移民、流民によって、年間100万人というものすごい勢いで膨張を続けている。

 

 満州には相当の投資と努力が必要とされ、中華民国とは事実上の全面戦争すらしなければならなかったが、相応の結果を得ることができた。

 だからこそ、日本の官僚と政治家達は、内需拡大という政策を行う気にもなったのだ。

 

 一方、再び混乱しつつある中華民国に対しては、武器の輸出と共に一定の援助もしなけばならず、軍需企業にとってはともかく、日本全体としては旨味が少なかった。

 ヨーロッパ各国については、主にイギリスから沢山の地下資源や原材料を購入しているので、その分の輸出を求め、イギリスも多少は経済的余裕を取り戻していた事もあり、ある程度は日本との貿易を促進する事になる。

 

 しかしまだ足りていなかった。

 

 そこで一部政治家と官僚達が目を向けたのが、アメリカだった。

 

 アメリカは常に自由貿易、つまり自分たちが自由に出来る植民地ではない市場を求めていた。

 


 日本とアメリカの対立と摩擦も、最後の市場である中華地域を巡ってのことだった。

 そして現時点では、血を流すことを厭わなかった日本が一歩以上リードしている。

 しかし逆に、アメリカの不満も高まったままだった。

 これを緩和する意味も含め、日本とアメリカの二国間で、限定的な貿易協定を結ぼうというのが日本側の目論見だった。

 

 そしてアメリカにとっても、満州を含め1億人を優に越える日本市場と関係を深めることは魅力だった。

 しかもアメリカ、日本双方にとって互いの国は、重要な貿易相手国だった。

 だが、支那事変前から日米貿易が冷え込み続けたため、その巻き返しを自由放任主義の共和党政権も是としていた。

 

 なお、日米貿易が冷え込んだのは、満州事変から支那事変の対立だけが原因ではなかった。

 単純に経済的、技術的な問題があった。

 

 明治維新以来、日本からアメリカへの最重要輸出品は絹および絹製品だった。

 アメリカでは、主に女性が身につけるパンティストッキングの材料として絹が重宝されていた。

 しかし1936年にデュポン社がナイロン(化学合成繊維)を発明すると、1938年頃からアメリカでの絹の消費はがた落ちとなった。

 安価なナイロンで、パンティストッキングを大量生産するようになったからだ。

 

 そして絹以外の日本製品となると、1930年代には品質が向上した綿織物製品があったが、こちらはアメリカの関税障壁を前に苦戦を強いられていた。

 他の輸出品は、どれもアメリカ産業の隙間を縫うようなもので、規模はどれも小さかった。

 

 一方アメリカからは、1920年代より豊富な石油が輸出され、また製鉄の材料とする屑鉄も多く輸出していた。

 その他は工作機械、高度な工業製品などが日本へと輸出されていた。

 さらに日本には、アメリカ車のノックダウン工場もあった。

 

 そしてアメリカから日本への輸出も、1930年代半ば以後屑鉄の輸出が大きく減っていた。

 日本国内での生産施設拡充と能力の向上、加えて満州で一定量の銑鉄が生産されるようになったため、日本での屑鉄需要が大幅に減少したからだった。

 アメリカからの石油の輸出は規模拡大を続けていたが、支那事変中は日本を困らせるためアメリカ政府の意図によって自粛気味となっていた。

 このため日本は、不足分の石油の入手先をインドネシアや英領ボルネオ、ペルシャなど他の地域に求めた。

 そしてアメリカが日本を困らせた分だけ、日本はアメリカ製品を買わなくなっていた。

 

 このため支那事変が終わると、アメリカ国内の一部企業から日本との貿易改善を求める声が高まっていた。

 ヨーロッパを中心に他の貿易が伸びない現状では、日本との関係を修復するのが手っ取り早いからだ。

 

 このため日本政府から声をかけてきた事は、アメリカにとっても望んでいた事であった。

 


 1945年初頃から開始された日米両国による交渉は、貿易、お金、市場開放など様々な問題が重なるため簡単には進まず、まずは決まった量と金額での取引で一部関税を引き下げるなどの措置が双方の間で行われた。

 

 主に日本がアメリカに求めたのは、大規模土木建築に必要な土木作業機械、旋盤、ボールベアリングなどの高精度な工作機械、特殊鋼、トラックなどの産業車になる。

 取引額は、毎年1億ドル以上。

 アメリカにとっては、是非とも交渉を成功させたい商談だった。

 無論交換条件もあり、アメリカは日本に重工業製品を輸出する見返りとして、日本からの関税を一部製品に対して一定期間の間大幅に引き下げるのが条件だった。

 

 そしてアメリカにとっては重工業が、日本にとっては軽工業が当面の死活問題のため、交渉は合意に至る。

 その他一部製品でも妥協と取引が成立し、俄に日米間の貿易が活性化する。

 

 また日本政府は、かなり限定されてはいたが、満州国に対して諸外国に市場開放と資本投下を許すことにする。

 日本だけではお金も技術も足りないことが、この十年ほどで実感されたからだった。

 そして限定的であるならと、国粋主義者を中心にした反対派も、多少は気勢を弱めるようになっていた。

 また満州国に諸外国を入れることで、満州問題と日本と中華の問題から国際問題にしようとう意図も見られた。

 

 また一方では、貿易交渉と平行して諸外国に日本の国債を買うよう働きかけも強められた。

 

 そして日本政府は、国債により大規模な予算を編成すると、それを大量に公共投資に投入して雇用確保と需要喚起を行い、日本銀行は国債の一部を新たに紙幣を発行して購入し、さらに金利を大幅に引き下げた。

 

 後は、景気拡大とインフレの競争だった。

 


 計画の骨子は、先にも取り上げたように大きく三つ。

 

 一つは、今まで開発が後回しにされ続けていた東北地方の開発と、さらに北海道、南樺太など北方全般の開発計画になる。

 巨大な建設需要は、依然として貧困に喘いでいる東北住民の雇用と所得向上につながり、建設される社会資本が生活の向上をもたらす。

 北海道、南樺太の開発は、国内に増えすぎた人口の国内移住先、労働先としても期待された。

 当然だが、ロシアに対する抑止政策も兼ねている。

 

 二つ目の満州開発は、既に重要産業五カ年計画の第二次計画までが終わっていたので、第三次計画が中心だった。

 既に基礎的な重工業、社会資本の建設、国家そのものの基礎作りが終わっているので、その次を目指すのが骨子だった。

 多くは産業開発が重視され、中にはこれからの日本にとって必要な油田開発のための本格的な調査も含まれていた。

 開発の中には、日本本土に輸出するための農業生産の拡大も含まれ、発電と合わせた合わせた治水、治山事業も大規模に行われる予定だった。

 半世紀前まで更地だった満州には、資本投下先となる開発余地が無数にあった。

 

 また産業開発以外では、警察、消防など基礎的な国家機構の整備、基礎教育の普及、地域医療など社会福祉の向上など、近代国家として必要な多くの要素が盛り込まれていた。

 基礎教育の普及では、第二公用語としての日本語の教育、満州国を経由した、日本への忠誠心の向上を目指すなど植民地主義的な要素もあったが、経済植民地に対して基礎教育を行うという事自体は、世界的に見ても希な例といえた。

 日本にしてみれば自らの地盤固めの一手でしかなかったが、日本の姿勢を諸外国は少し困惑して見つめることとなる。

 

 朝鮮や台湾でもそうだったが、同族移民でもないのに植民地で基礎教育を行うなどあり得ないからだ。

 それが自国化政策の一端であったとしても、非常に奇妙と捉えられた。

 


 三つ目は、日本国内での社会資本整備の促進だった。

 

 大都市の合理的大改造と交通網の整備が骨子で、遅れている治水、治山事業なども広く盛り込まれていた。

 また今後の工業化進展のための埋め立て地の造成、治水事業を兼ねた電力施設の開発など、国土の狭い日本だから必要な開発計画も盛り込まれていた。

 

 なお、昭和19年、20年、21年と東海、南海地方を襲った大地震からの復興も計画の中には大きく盛り込まれ、耐震対策と社会資本の整備が一層進められることになる。

 

 そうした中での最大級の計画が、「弾丸列車」計画だった。

 

 計画自体は、一度1940年に開始されていた。

 しかし、支那事変勃発に伴う民間への鉄材供給の減少のため中断を余儀なくされていた。

 これを再構築し、さらに進んだ鉄道システムの構築が目指された。

 初期計画では、軍の要請から満州鉄道と同様の大型機関車で牽引する予定だったものが、ディーゼル機関車もしくは電気機関車へと変更され、全く新しい概念の高速鉄道を目指すべく、日本中の先端企業が動員されることになった。

 空気抵抗などの要素も必要なため、車体開発には航空技術者までが動員されたりもした。

 

 工事再開は1947年。

 既に一部の工事が始まっていた事もあり、東京=大阪間の開通は8年後の1955年を予定した。

 

 他にも、弾丸列車同様に支那事変の影響で工事が止まっていた帝都高速道路などの工事が再開され、さらに東京から大阪を貫く高速道路計画も新たに持ち上がっていた。

 昭和12年に工事が開始されていた関門トンネルの工事も、工期を大幅に繰り上げる工事が開始されていた。

 

 また社会資本整備の一環として、帝都東京と大阪、名古屋など主要大都市に大型の電波塔を建設することになる。

 これは1940年の東京オリンピックで試験的に行われたテレビジョン放送を、広範に行うために必要なものだった。

 

 そして中でも関東平野一円に電波を届ける仮称「帝都タワー」は巨大な規模が目指され、独立鉄塔としては世界最大のものが建設されることになる。

 大阪、神戸など大阪湾一円への電波をもたらすための塔も帝都タワーに匹敵する程のものが計画され、支那事変中に火災で焼失していた通天閣を、新規にそして巨大に作り直すことになった。

 

 一方治水事業、電力事業としては、日本山脈群での黒部川開発が目玉とされ、巨大電力の生産とそれによる工業の拡大が、規模を大小して日本各地で計画、実行された。

 

 以上のような数々の巨大建造物に代表されるように、20世紀の近代国家として様々なもの不足する日本を、一気に列強水準に追いつかせようと言うのが計画の目的だった。

 

 そして都合10カ年、昭和32年(1957年)には、日本の景観は驚くほど変化している筈だった。

 


 一方、日本政府は、内需拡大を中心に据えた経済政策以外でも、幾つかの政策を行っている。

 これは、「支那事変」に従軍した国民への報償としての意味合いが強かった。

 そのうち一つは、「賃金統制令」、「小作料統制令」などの恒久化を中心にした社会制度の拡充だった。

 そしてもう一つ大きな政策が、参政権の拡大だった。

 日本での参政権は、1925年の普通選挙制度によって25才以上の男子に選挙権が与えられていた。

 しかしヨーロッパ世界の趨勢では、女性にも参政権を与える向きが年々強まっていた。

 このため政府は、年齢制限を成人の20才とするのと同時に、婦人にも参政権を与えることとした。

 

 この事は国民からも大いに喜ばれ、欧米世界からも日本が軍国主義からの脱却を計ろうとしている証だとして歓迎された。

 

 そして改訂後の最初の総選挙は1945年秋に実施され、ここで軍人出身者、国粋主義者の多くが落選。

 日本の民意がどこにあるのかを、世界に知らしめることになった。

 


 なお、1946年から日本での巨大な内需拡大政策が開始されるが、開始された当初は大きな発注を受けたアメリカの一部産業以外、それほど大きな注目はされなかった。

 取りあえず、日本が軍隊の強化以外に金を使うことは好ましいという程度にしか捉えられていなかった。

 

 それにイギリス以外のヨーロッパが注目するには、日本は遠すぎた。

 ロシアはかなりの関心を示したが、行った事と言えば満州開発に便乗した極東開発と、シベリア鉄道を使った日本への輸出促進ぐらいだった。

 

 本当に世界が日本経済に目を向けるのは、1948年を越えてからになる。

 日本の経済成長率が、世界平均の4%の二倍に当たる8%を毎年記録するようになったからだ。

 このままいけば、9年で日本の経済力は二倍に伸びる。

 世界平均が約1.4倍にしかならないから、相対的な差は一気に広まり、一人当たり所得でイタリアを抜き、総所得ではフランスを抜くことになる。

 さらに経済植民地の満州も同様に経済の躍進が続いていたので、満州も合わせるとドイツに追随するほどにまで拡大することが予測された。

 しかも経済成長率は、年を重ねるごとにさらに伸びる可能性も十分に予測されるようになっていた。

 

 そして世界が依然として緩やかに進んでいる中で、アメリカに代わって日本が加速しつつあった。

 

 日本が大規模な戦争を経験することで、変化に向かうことが出来たのだと、世界は考えた。

 



●フェイズ11「次なる世界に向けて」


 国際連盟再編以後、世界はそれなりに平穏だった。

 しかし、完全に平穏だったわけではない。

 

 アジアでは、中華民国内では汪兆銘(汪精衛)の死後に出口のない内乱状態が再発していた。

 ヨーロッパでは、ドイツとポーランドが国境問題を加熱させつつあった。

 東ヨーロッパの中小国家間でも、対立や摩擦は激化しつつある。

 社会主義国家ロシアと他の国々との対立もある。

 列強と各植民地の関係も、年を経るごとに悪化の一途を辿っていた。

 

 しかし「日中紛争(支那事変)」の影響で、国家間の戦争は避けるべきだという感情が欧米諸国で再び台頭し、戦争が起こる気配は表面上なかった。

 

 欧米を中心にして、かつての戦乱、混乱の元凶である植民地帝国主義、保護貿易主義については、多少は改めるようになった。

 英連邦の改変による白人連邦諸国の完全独立がその象徴だろう。

 加えて、インド、エジプトでも自治権は拡大されている。

 そして世界各国の話し合いにより、自由貿易に関しての話し合いも少しずつ実を結ぶようになっていた。

 

 ドイツやイタリア、日本などの「持たざる国」の工業国が1930年代ほど騒がなくなったのは、そうした世界各国の努力と歩み寄りの結果でもあった。

 世界が「グレート・ウォー」と1929年の大恐慌からようやく立ち直ったからこそ、歩み寄りと壁の高さを下げる動きが出来たとも言えるだろう。

 

 1940年代の世界経済の平均成長率は平均3~4%で安定し、欧米を中心にして戦乱なき世界、安定と発展という考えが広まりつつあった。

 しかし一方では、ある種の逼塞感と停滞感も存在した。

 その原因の一つは、日本にあった。

 


 日本帝国は、1940年代前半で唯一大規模な戦争を起こした列強だった。

 大規模な軍隊の編成、国内の戦時体制などを「グレート・ウォー」以来初めて行った国となった。

 

 そして「グレート・ウォー」がそうだったように、戦争により日本の軍備は大きく前進して近代化され、また大規模な投資と戦争の結果、新しい技術、戦術が誕生した。

 

 戦術面だと、陸軍の機械化部隊、海軍での空母機動部隊がそれぞれ誕生して運用された。

 空軍力による、大規模な戦略爆撃も実施された。

 また、電波で相手の動きを捉える技術と手段も誕生・発展した。

 日本では空軍こそ設立されなかったが、航空隊の規模は大きく拡大された。

 少なくとも1945年段階では、日本は世界最強の空軍力を保有するようになっていた。

 

 諸外国でも、理論面、技術面では日本より進んでいた事は多いのだが、実際兵器や部隊として使える形にまで持っていったのは、殆どの場合日本軍となった。

 多くの事が、莫大な軍事予算を投入する事態、つまり大規模な戦争がなければ出来ないことだからだ。

 

 兵器の開発も同様で、平時予算では出来ることは常に限られていた。

 しかし日本は、限定的だったが大規模な戦争を行い、軍隊に莫大な投資を実施した。

 

 この結果、日本陸海軍は1945年に世界に先駆けて、2000馬力の空冷エンジンを搭載した航空機の実戦配備を開始する。

 航空先進国のアメリカですら、全く出来ていない快挙だった。

 加えて、戦争中に日本の航空産業は大きく拡大し、航空各社の規模も大きくなった。

 輸送機、旅客機開発も大きく進み、アメリカほどではないがヨーロッパ各国に匹敵するほどの性能を有する機体が、各航空メーカーで開発・生産されるようになっている。

 川西飛行機が生産した、民間用の「三式大艇(晴空)」は世界水準を大きく上回る旅客用飛行艇だった。

 

 しかし当時の日本は、好意的に見ても新興国だった。

 戦争を経ても先端技術、一般量産技術のほとんどが欧米に及んでいなかった。

 2000馬力の空冷エンジンを開発・量産したと言っても、周辺技術が追いついていないのが日本の現状だった。

 何しろ、航空エンジンを作る工作機械の大半は、依然として欧米製だ。

 

 地上兵器でも、日本陸軍は戦車を中心にした先進的な機械化部隊を縦横に用いることで、中華民国軍を一方的に粉砕した。

 だが、その装備を見ると、機械的には実に心許なかった。

 輸送の多くを担うトラックは、国産品だと採算度外視の高精度製品を使った一品生産で、大量生産品とは言い難く、しかも実質的な数の主力はアメリカから輸入された車両だった。

 

 戦闘の主力となったと言われる戦車も、「九七式中戦車」は確かに列強水準に到達した戦車だったが、それ以上ではなかった。

 機械的信頼性も、戦闘力に遙かに劣ると言われるアメリカの「M2軽戦車」以下だった。

 戦車の性能なら、依然としてフランス製、イギリス製の戦車の方が性能は高い。

 軍備制限が解除されたドイツにも、すぐに追い抜かれると言われていた。

 

 それでも、中華民国軍がロシアから輸入した戦車と日本の「九七式中戦車」、「九五式軽戦車」が実戦を経験することで日本のアドバンテージは増えていたし、戦車同士の戦いを想定した新型車両が日本陸軍では開発された。

 紛争中に投入された「一式中戦車」も、他国と比べるとかなり優れた点も見られるようになった。

 他国の戦車は、基本的に歩兵支援用の戦車だという点を考えると、日本軍の先進性は疑うべくもない。

 

 しかし工業大国のアメリカは、相変わらずの軍事費圧縮のため、まともな戦車を開発していなかったので比較が難しい。

 戦車を比較的熱心に開発していたのは、フランス、イギリスぐらいで、ドイツは1945年にようやく規制を解かれて開発が始まったばかりだった。

 ロシア、イタリアは既に日本より工業力で劣るようになっていたので日本の方が上回るようになっていたが、要するにその程度だった。

 

 日本の軍備のうち、世界が本当に恐れているのは海軍力だけだった。

 満載7万トンを越える超巨大戦艦、多数の高速空母などは、間違いなく世界最先端の兵器だったからだ。

 

 そして世界全体で見ると、「グレート・ウォー」以後大規模な戦争をしたのが新興国の日本であって、もっと強大な列強でない事が一つの問題だった。

 

 民間技術はともかく先端技術、軍事技術の多くについては、「グレート・ウォー」以後緩やかな進歩に止まっているというのが科学者や一部技術者の意見だった。

 

 一部先鋭的な意見を採用すれば、莫大な投資環境が存在していれば、1945年の時点で核分裂反応を利用した革新的な爆弾もしくは動力炉が発明、開発されていると言うことになる。

 航空機の開発も、2000馬力級空冷エンジンではなく、当時ドイツなど一部で研究が行われているに止まっていたロケット又はジェットエンジンが既に実用化されているとされる。

 また経済学者は、1940年代に「グレート・ウォー」に匹敵する戦争が勃発していれば、世界の総生産高は少なくとも150%、最大200%の増加もあり得るという予測数字を示した。

 

 大規模な戦争とは巨大な生産と浪費が行われ、新規技術も開発されることは「グレート・ウォー」でも立証されているとはいえ、これは余りにも飛躍した考えと言えるだろう。

 


 そして革新論者の中で最も危険な意見が、植民地帝国主義の終焉だった。

 

 1910年代に起きた「グレート・ウォー」により帝国主義にヒビが入り、世界で最も広大な勢力圏を有したイギリスは、1931年のイギリス議会におけるウェストミンスター憲章(Statute of Westminster)で、「英連邦=ブリティッシュ・コモンウェルス (the British Commonwealth) 」を成立させている。

 

 各地の独立運動も盛んになったし、「グレート・ウォー」の結果ヨーロッパでの民族自決は進んだ。

 

 1930年代又は40年代に大規模な総力戦が起きれば、これと同じ事がさらに拡大された形で発生する可能性が存在したというのだ。

 

 もっとも、こうした理論と意見には決定的な点が欠落している。

 そもそも「グレート・ウォー」のような戦争が起きる可能性が、世界のどこを見ても存在しないという事だ。

 

 確かに、世界に混乱をもたらしかねないファッショ(全体主義)はある程度台頭したが、一部国家での事象に止まった。

 社会主義よりも遙かに急進的な共産主義という政治的概念は、余りにも危険過ぎるため政治的に台頭する前に衰退していった。

 

 実際発生した最大規模の戦争も、日本と中華民国との間の局地戦争に過ぎない。

 世界の列強のほとんどは揺らぐことはなく、平和を維持し続けた。

 それが20世紀を半分越えようとしている現在の結果であり、今のところの結論である。

 

 世界は多少寄り道をしながらであるが、賢明な選択をとり続けている。

 今後も同じだとは限らないが、「グレート・ウォー」ほどの巨大な戦乱が安易に起きる可能性は低いし、起きそうになれば世界中の国々が阻止しようとするだろう。

 

 それが近代社会であり、世界規模化が進んだ世界の姿である筈だからだ。

 

 そうした視点から見れば、日本帝国と中華民国の戦争こそが今後のテストケースであり、世界の潮流からは少し外れていたと見るべきだろう。

 



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― 新着の感想 ―
[一言] 面白うございました。日本の場合、日中紛争を上手く利用することで、大戦後の改革の一部を取り込みながら戦間期のような国際協調体制がだらだら続く世界になりそうですね。 世界的に見ると、史実での…
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