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フェイズ09「現状確認1945」

 「中華紛争」後に行われた海軍軍縮会議と国連(LN)再編により、世界は一定の落ち着きを取り戻したかに見えた。

 ヨーロッパに暗雲をもたらしかねなかったファッショ(全体主義)も、世界どころかヨーロッパの潮流となることはなかった。

 カール・マルクスが提唱した「社会主義」、もしくはその後に生まれた「共産主義」という革新的な思想や概念も、ついに政治の潮流となる事はなかった。

 世界各国に、全体主義や社会主義の政党や団体は存在しているが、殆どの場合は現体制から冷遇されるマイナープレイヤーでしかない。

 

 世界は依然として帝国主義が覆い、列強特に世界の富の過半を有する欧米列強を中心として回っていた。

 また同時に、白人を中心にして世界が回っている点に変化はなく、世界中は欧米各国の植民地のままだった。

 アメリカ合衆国が、自らの植民地だった東南アジアのフィリピンを1944年9月に独立させたが、経済、軍事の多くは実質的に握ったままだった。

 口では自由や独立を謳いながらもアメリカも実質的には帝国主義の国であり、そして国内での有色人種に対するように人種差別の強い国でもあった。

 白人の自由しか認めないのが、当時のアメリカだった。

 

 そして列強と呼ばれる国の例外中の例外が、東アジアに存在する有色人国家の日本だった。

 


 世界の例外である大日本帝国と隣国の大陸国家である中華民国は、中華民国の中枢部を舞台として事実上の全面戦争を行い、戦場となった中華民国が実質的に敗北して大きく疲弊した。

 しかも中華民国では、1944年11月10日に政府首班の汪兆銘(汪精衛)が死去して、国家、政党共に政治的求心力を失ってしまう。

 その後の中華民国は、指導者に恵まれず1920年代前半のような混乱した時代に戻ってしまう事になる。

 

 このためアメリカを中心とした中華民国を支援していた諸外国も、有効な打つ手を無くしてしまい、取りあえず市場を確保して武器を売りつける事以外できなくなってしまう。

 

 そしてほぼ唯一の異端の列強である日本は、中華民国との戦争とそれ以前の満州国建国などでの帝国主義的行動によって、植民地世界の知識層、独立運動家などからかなりの失望を買っていた。

 しかも有色人種唯一の列強のため、孤独な異端だった。

 

 もっとも欧米列強は、日本にそれほど関心を払っていなかった。

 所詮は、孤立した二流の列強に過ぎないからだ。

 無論、国境を接する国を中心として気にする国もある。

 それなりに日本を気にしていたのは、北東アジアや太平洋に利権や勢力圏を多く持つアメリカ、イギリス、ロシアになるが、状況としては中華紛争前と大きな変化はなかった。

 

 アメリカでは1944年11月の大統領選挙があったが、日中紛争による戦争特需の恩恵もあって国内景気は若干上向き、そのまま共和党政権が続けて勝利していた。

 このため自由放任主義の経済と、融和外交がそのまま進められた。

 ついに国連に参加したのも、国際協調を心がける共和党政権が二期連続で続いた結果とも言えるだろう。

 

 一連の外交でも、アメリカは各国と連携する協調外交が心がけられ、日中紛争で悪化していた日本との関係もある程度修復された。

 少なくとも海軍軍縮会議が実現できたことは、日本に一定の足かせを着け続けておきたいと考えるアメリカにとって、大きな外交的得点だと考えられた。

 

 極東のロシアは、完全なマイナープレイヤーだった。

 ロシア自身の国威は依然として振るわないので、辺境となるロシア極東地域の開発や防衛がままならないからだ。

 このため日本に対しても外交的劣勢が続き、満州国国境での軍事的対立もロシアの側から避ける向きが強かった。

 その上ロシアは、日本の経済力を利用した極東開発を進めるべく、日本に対する融和外交が日中紛争以後加速しつつあった。

 


 ヨーロッパ諸国は、やはりドイツ外交が中心となって動いた。

 

 ドイツの外交問題は、先の「グレート・ウォー」後の領土割譲や軍備禁止地区、国際管理の問題だった。

 

 この件は海軍軍縮会議と平行して行われ、主な争点は依然厳しい制限が敷かれたままのドイツの軍備に関してとなった。

 必要以上にドイツが国力不相応に弱いまま置かれると、かえってヨーロッパに不安定がもたらされる恐れがあるのと、ドイツ自身が不満を溜めすぎて暴発する可能性が危惧された末の事だった。

 

 ここでドイツは、諸外国の承認を受ける形で国内の軍備制限地区に関する制限をほぼ解除されることになる。

 しかし、国際管理下の自由都市とされたダンツィヒ問題だけが保留とされた。

 

 現地は、プロイセン王国の古い時代からプロイセンの領土だった。

 ドイツ人人口も過半数を占めている。

 プロイセン王国を核として成立した近代ドイツにとって、ドイツ領であるのが当然の都市だった。

 これを列強が、ポーランドに港を与えるためという口実で、ドイツに対する「嫌がらせ」として、国際管理地区という名目を付けた上でポーランドに与えていた。

 その他の割譲した領土(西プロイセン、オーヴァーシュレジェン)についても似たようなところがあり、ドイツとポーランドの間には大きなわだかまりが横たわっていた。

 

 そして組織再編成後の国連において、ドイツはダンツィヒ一帯のドイツ復帰を要求。

 これにポーランドが反発して、国際問題として浮上する。

 だが最初の会議では両者の意見が対立して結論が出ず、一部で軍隊すら向け合ったまま、協議を続けるという名目で保留された。

 諸外国の反応も、ポーランドの肩を持つフランス、イギリス、ロシアと、いい加減ドイツに返還するべきだとする他の国々との間にわだかまりが残った。

 当然と言うべきか、ドイツ、ポーランド双方の国民感情はお互い悪化した。

 

 そしてドイツは単独で奪回を計るべく外交を展開したが、ポーランドの後ろにいるロシアの強い支援(軍事含む)を受けるポーランドは強気の姿勢を崩さなかった。

 

 革命以後、実質的な社会主義政権が続くロシアがポーランドを支援したのは、ドイツが軍事的にも復活して再び強大化し、ロシアに脅威を与える事を出来る限り阻止するためだった。

 またロシアとしては、日本がようやく少し大人しくなったので、外交の力点をヨーロッパに向けられるようになったため、国連再編後にポーランドへの支援を強めていた。

 

 社会主義革命以後のロシアは、依然として内政混乱と国力の低迷が続いており、ドイツが本格的に復活することを特に恐れていた。

 

 これはドイツが国連再編の折りの国際会議で、イギリスの20%までの海軍と、今までの二倍に当たる20万人までの陸軍兵力制限の緩和、そして生物・化学兵器を除く全ての兵器の製造禁止撤廃が決められたことが影響していた。

 

 西ヨーロッパ諸国にしてみれば、そろそろドイツは「刑期」を終えても良いだろうと言う程度の取り決めだったが、依然低迷の続くロシアにとっては死活問題とも考えられた。

 周辺国は、依然として仮想敵だらけだからだ。

 社会主義政権のロシアに友好的な国など一つもなく、しかもヨーロッパと極東という大きく二つの正面を抱える不利も強いられていた。

 

 そして極東側にある日本の国力は、革命のあった四半世紀前と比べると数倍の規模に拡大していた。

 国民生産力では、ロシアを凌ぐようにすらなっている。

 しかも満州国という「傀儡国家」ができた上に急速に国家制度を整え国力を増進させているため、ロシアが極東で受ける圧力は飛躍的に増大していた。

 これだけでも、いまだ他国に比べて重工業が大きく立ち後れているロシアにとっては、かなりの重荷だった。

 このまま推移すれば、日本に極東の領土を切り売りしなければならないと、真剣に言われているほどだった。

 

 その上でドイツの軍備が復活するのは、二正面に強敵を抱えることを意味していた。

 

 ロシア政府も、国内の工業化進展とそれに伴う軍備増強には相応の努力を傾けていたのだが、基本的にヨーロッパ製品に太刀打ちできないため国内産業はあまり育たず、また育てるための国内資本、市場、人材不足、などなど様々な問題が横たわったままだった。

 工業化指数では、既に日本にすら大きく水を開けられており、列強の中では最も低かった。

 列強として比較した場合、相対的には遅れた農業国のままなのだ。

 


 なお、列強と呼ばれる国々を選び出して当時の一人当たり国民所得を国順に並べると、アメリカ、イギリスがダントツで高く、ドイツ、フランスと続き、少し間を開けてイタリア、少し落ちて日本、さらに少し落ちてロシアとなる。

 これに各国の総人口が加わった総生産高そのものになると、順位が若干入れ替わりイタリアが最下位となる。

 つまり1945年頃の日本のGDPは、日本人が夢に見た列強五指に入っていたわけだ。

 

 ちなみに他の西欧各国の一人当たり国民所得の平均は、フランスからイタリア程度になる。

 北欧諸国は少し高くドイツやフランスに匹敵し、東欧地域は日本からロシアに近い数字を示す。

 しかしどの国も、領土か人口そして軍事力が少ないため列強足り得ていない。

 スペイン、ポルトガル、オランダ、ベルギーのように海外植民地を有する国もあるが、工業力や生産力以前の問題として、国の基本的な体力から列強足り得ていなくなっている。

 海軍軍縮会議に呼ばれていない事が、これらの国々の実状を現している言えるだろう。

 

 また世界にまで視野を広げると、中南米諸国は総人口又は一人当たり所得で欧米や日本に全く追随出来ないでいた。

 かつては日本以上の国民所得を有している国もあったが、今では完全に低空飛行状態だった。

 中華民国は人口だけは4億人以上いたが、一人当たり所得が10ドル程度では、国力としては話にもならなかった。

 英連邦に属して実質的に独立しているカナダ、オーストラリアについても、一人当たり所得はともかく、人口などから換算できる国力そのものについては南米諸国と似たような状態だ。

 

 そして上位を占める7つの国の本国だけで、当時の世界の経済力の3分の2を占めていた。

 そして7つの国々は、新たな国際連盟常任理事国でもある。

 このため国連再編後は、「サミット(頂上国)」という言葉が「グレート・パワー(列強)」に代わり徐々に使われるようになっていた。

 

 しかも7カ国それぞれには、植民地や勢力圏、影響国などが数多く加えられていく。

 ヨーロッパ以外の列強の影響が低い独立国全ての国内生産を全て集めても、世界比率の10%にも届かない。

 世界が限られた国によって主導されていたのは、当然と言えば当然の時代だったのだ。

 こうしたところに、明治維新以後の日本が「奇跡」だと言われる所以がある。

 

 なおもう少し正確な数字で見ると、1945年の世界全体の一年当たり総生産高(GDP)は約2900億ドルとなる。

 そして各国(本国のみ)ごとだと、米:950億ドル、英:310億ドル、独:240億ドル、仏:140億ドル、露:120億ドル、日:115億ドル、伊:90億ドルという数字になる。

 英連邦の主要白人国(カナダ、アンザック、南ア)を全部足すと、さらに約100億ドルが加わる。

 その上に、ヨーロッパ諸国のGDPが加わる。

 そしてさらに、各国の植民地の分が上乗せされていく。

 白人世界が、如何に優位にあるかが端的に分かるだろう。

 日本には、併合地の朝鮮半島や満州国の数字を足してもいいが、足してもそれほど大きな数字にはならない。

 世界比率で見ると、せいぜい5%程度だ。

 

(※この時代の基軸通貨は依然としてポンド(※為替レート:1ポンド=4ドル)が中心だったが、世界経済の三分の一近くを占めるアメリカのドルを基準に記している。)

 また人口面で言うと、日本とロシア以外の欧米諸国の総人口、つまりロシア以外の白人人口は合わせて約3億5000万人である。

 総人口がようやく20億人を越えた時代なので、世界の17.5%、僅か6分の1の人が60%の富を持っていた事になる。

 しかもこれは一年当たりの生産額なので、積み重ねられた資産総額となると、天文学的な差が見られる事になる。

 ヨーロッパ諸国の町並みが立派なのは、当たり前と言えば当たり前の事だったのだ。

 


 そしてイギリスこそが、いまだ世界の覇者だった。

 

 支配領域、影響圏の土地面積は、地球上の約4分の1にも及んでいた。

 世界をつなぐ電信網を独自に持つのもイギリスだけだった。

 商船保有量も、ダントツで世界一だった。

 船舶保有量では第三位の日本が猛追していたが、それでも1945年時点で三倍近い優位を持っていた。

 パックス・ブリタニカを作り上げた力による金融力は、依然として世界一位だった。

 

 工業生産力では、アメリカ、ドイツに次ぐ地位に落ちていたし、新興の日本からは強い追い上げを受けていたが、英連邦全体で見れば依然としてドイツに匹敵するだけの各種生産高を有していた。

 先端技術力も、多くの分野で最先端を走っている。

 

 つまり、世界を背負うのは、世界経済の三割以上を占める経済大国のアメリカではなく、覇権国家であるイギリスの役割だった。

 少なくとも、イギリスの中枢を占める人の多くがそう考えていた。

 

 だからこそ、軍縮会議や国連再編にも力を割いた。

 もう一度「グレート・ウォー」以前に世界を戻すことが、イギリスによる秩序の構築、「パックス・ブリタニカ」には必要だったからだ。

 

 しかし以前とは少し違っていた。

 イギリスが主に外交を展開するのは、再編成された国際連盟での活動が多くなっていた。

 加えて、イギリスが世界の覇権を維持したければ、経済ではアメリカとヨーロッパ各国との関係強化が必要で、世界の治安維持となると列強全ての協力が必要だった。

 

 しかしイギリスの覇権には陰りが強まっていたし、イギリスに抑えられた形の各国の不満も徐々に大きくなっていた。

 


 世界は依然として植民地経済、つまりは保護貿易の世界の中にあったが、必然的に「持てる国」と「持たざる国」が生まれる。

 

 「持てる国」とは、植民地、資源、市場を持つ国の事だ。

 20世紀に入って以後、列強間の争いは常に植民地、資源、市場が原因していた。

 「グレート・ウォー」で「持たざる国」ドイツが「持てる国」に挑戦したのも、イタリアがファッショ化してエチオピアに攻め込んだのも、日本が中華地域を独り占めにしようとしたのも、全ての原因は一つだった。

 

 そして「持てる国」と「持たざる国」の間にいたのが、アメリカだった。

 アメリカは国内に豊富な資源があり、移民・開拓の国のため内需による市場規模は世界一を誇る。

 国内人口も多かった。

 しかし余りにも過剰に整備された生産基盤に対して、市場は余りにも小さかった。

 それが世界恐慌の原因の一つだったわけだ。

 

 そしてアメリカが市場を求めた先の一つが中華地域であり、日本との間に激しい摩擦が発生した。

 アメリカが長らく満州国を認めなかったのも、日米間の経済摩擦が原因だった。

 経済問題がなければ、有色人種同士が何をしようとも気にもしなかっただろう。

 

 しかし、日本が起こした「日中紛争」は、多少なりとも世界のガス抜きになった。

 大規模な戦争が起きたことで各列強も多少は現実を直視する気になり、日本も多少なりとも大人しくなった。

 それが1945年頃の状況だった。

 

 だが根本的な問題は、何も変わっていなかった。

 

 確かに日本は、中華民国を屈服させ満州国を国際的に認めさせたので多少気分を良くしていたが、反面奢りが強くなっていた。

 満州国を認めると言わねば、軍縮会議に来たかも怪しいと見られていた。

 ドイツもグレート・ウォーの負債を払い終えて、前に向かいつつあった。

 

 しかしイギリス、フランスなどの植民地を持つヨーロッパ各国は、「日中紛争」の戦争特需に多少あやかった以外、何一つ変化はなかった。

 アメリカも同様だ。

 

 イタリアが疲れ果てた末に国際復帰のため大人しくなったのが、違いと言えば違いだ。

 ドイツの変化は、世界的には特に何の変化ももたらしていない。

 停滞の続くロシアが多少慌てた程度だった。

 

 「日中紛争」は確かに一つの切っ掛けとはなったが、所詮は局地紛争に過ぎなかったのだ。

 それをイギリスが巧く利用したため、国際的に意味のある戦争に見えたし、実際世界は多少なりともまともな方向に向くことが出来たと言えるだろう。

 


 そして「日中紛争」終結と、その後の軍縮会議、国連再編を経た世界が再び動き始めていく。

 


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