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!!!!!下  作者: 七瀬
第四章 非細工
8/12

俺の好きな唇




「………れ?俊喜?」


どこからか声が聞こえたけど無視。すると、体が揺さぶられる。


「俊喜?こんな所で寝てたら風邪引くよ?」


「……あ?」


「俊喜、どうしたの、俊喜、」


こんなに眠いのに誰だよ、と思いながら目を開く。何度か瞬きすると視界がはっきりして、目の前にサリナがいた。


「俊喜?おはよう?」


なんでサリナがいるんだ、と思いながら体を起こすと、すっかり夜が明けて静まり返ったいつもの地元の街。近くにあった看板を見ると、裏ビデオのショップだった。


サリナが大丈夫?なんて言って、俺のドカジャンの背中を叩いて汚れを落としてくれる。まだ覚醒しない頭で辺りを見渡すと、ホストクラブの付近だった。


そこまで見て、やっと記憶が戻ってきた。確か姫華を帰してから、俺と同様にベロンベロンになった時夫と二人で帰っている最中に帰るのが面倒になって時夫にバイバイと言ってそのまま寝たんだ。


時夫と別れた所で記憶が途切れているから、多分そうなんだろう。


地べたに胡座をかく俺の前にしゃがんで俺の様子を伺ってくるサリナはスッピンで薄ピンクのルームウェアにムートンコートを羽織っていた。スッピンでもサリナが判別可能なのは、サリナの化粧がナチュラルだからだ。


「……サリナ、なんでここにいるの」


そう言った俺の声はガサガサで、喉も心なしか痛い。2月に路上で寝た俺が馬鹿だった。路上で寝る程に酔っ払ったのは確か中3が最後で、久しぶりに体が痛くなっていた。


酷い声、と言ったサリナは持っていたコンビニ袋の中を漁りながら口を開く。


「水買いに来てコンビニから出てきたら俊喜がいたの、」


「あー、マジか」


唾を飲み込んで咳をして、あ、と声を出してみても声は変わらない。酒で焼けたのか、それとも風邪を引いたのか。


サリナは俺の前髪を捲って額に額を当ててきた。至近距離で交わる視線、サリナは姫華のように黒いカラコンは入れていなかったけど、真知ほど瞳は茶色くない。


サリナは俺から額を離して、水の入ったペットボトルの蓋を開ける。


「熱はないみたい。駄目だよ?こんな所で寝ちゃ」


「うん」


頷いた俺は、サリナが差し出してきたペットボトルを受け取った。それを飲み込むと冷たい水が喉に染みて痛い。


少しだけ飲んでサリナにペットボトルを渡すと、サリナは蓋を閉めた。目を擦る俺の髪を撫でて笑う。


「寝起きの俊喜って子供みたいで可愛いね。前から変わってないんだ?」


「……それ褒めてんの?」


「褒めてるよ?家に連れて帰りたくなる」


なんだよそれ。サリナの手を自分から離して、溜め息をついた。四つ年上のサリナにとっちゃ、元彼の俺でも弟みたいなものなのかもしれない。


俺はずっと何かを左手に握り締めていて、そのままだった。悴んだ左手を無理矢理開くと、手の中には結婚指輪。


こんなの握り締めたって、真知は迎えに来てくれねーよ。酔った自分がこんな情けない事をしていた事に幻滅しながら、結婚指輪を嵌めた。


何回も外したり付けたり、俺は馬鹿か。外したくないなら一生外さなきゃいいのに、ホストに女の影は御法度で、外したくなくても外さなきゃいけなくなる。


再び溜め息をつくと、サリナが俺の顔を覗き込んできた。


「俊喜、お酒の匂い凄いよ?そんなに飲んだの?」


「うん、ベロンベロンに酔っ払うまで飲んだ」


店のシャッターに背を預けると、小さく金属音がした。もう朝で空は青い。サリナはコンビニの袋の中にペットボトルを入れながら視線だけで俺を捉える。


「俊喜が酔うなんて珍しいね、どうしたの?奥さんと何かあったの?」


「……なんもねーよ」


「本当に?」


真意を確認するかのような問いかけに、本当、と事実を言う。何もない。真知との間には何もない。俺が一方的に悪いことをして罪悪感を抱いているだけだ。


サリナは口を尖らせて俺から目を逸らす。


「なぁんだ、奥さんとうまくいってないなら良かったのに」


「縁起でもねーこと言うんじゃねーよ」


サリナの頭を軽く叩くと、サリナは上目遣いで見つめてくる。


「隙あらば奥さんから俊喜奪おうと思ってるもん」


「馬鹿じゃん。別に俺、サリナに追いかけられる程いい男じゃねーし」


謙遜しないの、と言うサリナの言葉を聞き流して、ポケットからケータイを取り出した。電源を消したままだったから画面は真っ黒で、電源をつける。


何となく腕時計を見ると、時間は7時ちょっと過ぎ。7時か、もうこんな時間、……待て。


「7時!?」


いきなり怒鳴った俺に、サリナの肩が揺れるのが視界に入った。


嘘だ、時計壊れた?いや、そんな筈はない。ケータイの画面を見てもやっぱり7時で、慌てて立ち上がった。


俺を見上げるサリナは驚いたように目を見開いていたけど、俺の頭は時間でいっぱいだった。とりあえず、帰らないと。


「サリナ、水ありがとな!起こしてくれてありがと!」


「え、うん!」


サリナの返事を聞いて、家まで走り出した。固い地面で寝たせいで首も肩も腰も悲鳴を上げていたけど、家に帰らなきゃいけない。


真知はいつも7時にアラームをかけている筈だけど、絶対に起きていない筈だ。真知を起こさなきゃいけないし、飯も作らなきゃいけないし、風呂にも入らないといけない。


今日だって当たり前に仕事があるし、いつもなら家にいる時間だ。俺は何やってんだ。


クッションも何も入っていない足にはとことん不親切な安全靴は走るのには向いていないけど走るしかなかった。切れる息と一緒に喉も痛いけど、なるべく早く家に着きたい。


歩いて三分の自宅アパートにはすぐに着いて、中トロのキーホルダーに付いた鍵で家を開ける。部屋の中は静まり返っていて、慌てて安全靴を脱いで部屋に上がった。


リビングを抜けて、閉められた寝室のドアを開けると、ベッドで真知が寝ている。この低血圧女、俺がいないとどうしようもないじゃねーか。


「真知!朝!起きろ!」


「…ん?」


「真知、寝坊だから!早く起きろ!」


中々起きない真知の体を揺さぶると、真知が目を開く。茶色い目が見えて、やっと起きたと思って一息ついた瞬間、真知に引き寄せられてベッドに倒れ込んだ。


「真知?」


「……としき、おさけくさい」


耳元で聞こえるいつもの台詞が、心底いとおしかった。俺が求める女の声は多分こいつの声だけで、俺が求める日常は多分、こんな些細な事だ。


こんな些細なことが、俺の至上だ。


時間が過ぎてると分かっていても、真知の事を振り払えない。俺は真知を振り払える程の勇気がない。


「うん、ごめん今帰ってきた、」


「こえひどい」


「外で寝てた」


真知の髪を撫でると、真知が俺の頭を抱き締める力を強める。


「としき、どこ行ってたの、」


「っ、」


「どこにもいっちゃだめ」


もうどこにも行かないと言えたなら、どれだけ幸せだろう。こんなに辛いなら、監禁された方がマシだ。


「としきは、わたしのでしょ?」


「……そうだよ、俺はお前のだ」


こんな呪縛は、いつかの俺が真知に求めても手に入らなかったもので、俺は今その幸せを噛み締めてるのに、なのに、また別のものを掴みたいと思っている。


真知に独占欲を植え付けた次は、別のものを真知に植え付けたい。俺の強行手段とも言える荒療治は、俺の欲望で願望。


滲みそうになる視界を、無理矢理正常にする。真知の細い体を掛け布団の上から抱き締めて起こして、真知から体を離した。


目を擦る真知の細い手首を掴むと凸凹した感触がして、左手首だった事を無言で俺に知らせた。


俺の好きな女の左手首は、悲しい感触がする。


真知はやっと意識がはっきりしたのか、俺を見つめてくる。時間過ぎてるから起きような、と俺が言うと、真知は小さく頷いた。


頭を撫でてから真知に背中を向ける、と。


「俊喜っ、」


真知の声が飛んできて振り返った。真知はベッドに座ったまま俺を見上げていて、視線が絡まった瞬間に目を泳がせ始める。


「…どうした?」


言葉を催促するように首を傾げると真知は俯いた。


「……なんでも、ありません、」


「そうか?今風呂入ってすぐ飯作ってやるから、準備しとけよ?」


「はい、」


どこか腑に落ちなかったけど、今は時間がなかった。帰ってきたらじっくり聞けばいいと思い、浴室に向かう。


歩きながらドカジャンを脱いでリビングに置いた。作業着の上着を脱いでTシャツを脱ぐと、鎖骨の下にくっきりとキスマークがついている。姫華の仕業だと知っているから余計苛立った。ヤった訳でもないのにこんなの付けられるなんて最悪。


さっさと風呂に入って朝飯を作って、真知をいつも通り送る。真知はやけに俺にくっついてきたけど、姫華とは違って全然嫌じゃなかった。これが感情があるものとないものの違いなんだと思う。


繋いだ手をポケットに入れただけで、心が温かくなった。俺に出来るのはたったこれだけだけど、皮膚と皮膚が触れ合っているだけで安心した。


好きな人間の体温を感じるだけで満たされてしまう俺は、間違いなく単純な人間だ。



何故だか、今日の真知は素直だった。実家のドアの前で手を離そうとしたら、抱き付かれた。


特に何も言わない真知を抱き締め返すと、真知は抱き付く腕の力を強める。真知の力は弱いから全く痛くも痒くもないけど、もしかしたらここまで強く抱き締められたのは初めてだったかもしれない。


でも真知はすぐに離れて、俺は無性に寂しくなった。お気をつけて、と言われてしまったら仕事に行かない訳にはいかず、仕事場に向かう。


事務所に着くと既に時夫がいた。さすがに何日も欠勤する事は許されなかったようで、親方に引き摺られてきたんだと思う。地面に横たわってぐったりする時夫の上に座ると、時夫が呻き声を上げた。


「ちょ、やめて…」


「お前家で寝たんだろ?」


外で寝たのに俺はピンピンしている。時夫は俺の声に苦笑いした。


「つーか俊喜、何その声、」


「外で寝たら喉やられた」


治らない声は自分でも耳障りで何度か咳をしても治る気配はない。俺の脚を軽く叩く時夫から離れて立ち上がると、時夫が起き上がった。


「馬鹿じゃん、あれから寝たんだ?」


「寝たっぽい、通りかかったサリナに起こされた」


「サリナさんさすが」


と、言いながら首を鳴らす時夫は、仕事なんて出来ないとぼやく。毎晩浴びるように酒を飲んで昼間は毎日肉体労働を繰り返す俺の体はボロボロだったけど、体よりも精神力の方が勝っていた。


「なぁ、」


座ったままの時夫の声の方に顔を向けると、時夫は俺を見上げていた。俺の顔をじっと見つめてくる時夫に若干引いたけど目は逸らさない。すると時夫が口を開いた。


「結婚するとそんなに金かかんの?」


「は?なんで?全然だけど」


真知はそんなに食わないし、金はあまりかかっていない方だと思う。別にアパートだって家賃安めだし生活は苦しい訳じゃない。時夫の疑問に首を傾げると、時夫はじゃあ、と続ける。


「なんで夜もやって昼間も働いてんの?俺ずっとおかしいと思ってたんだけど、なんで?お前まっちに惚れてんじゃん、なのになんで一人にすんの?」


まさか馬鹿な時夫にこんな事を思われていたとは思わなかった。それは実に的を射ていて、時夫から目を逸らす。


誰にもバレなければいいと、知られたくないと思っていたから、返事が見付からない。時夫が立ち上がったのが気配で分かった。


時夫に肩を掴まれて、仕方なく時夫を見た。一変して真剣な表情をする時夫が言う。


「お前なんでそんな頑張ってんの?おかしくない?なんかあんの?言ってみろよ、俺馬鹿だけどちゃんと聞くから」


「……お前何マジになってんだよ、そんな深刻な事じゃねーよ、」


「俊喜、はぐらかすなよ。お前っていつもそうじゃん、俺らの話は聞く癖に自分のこと何も話してくれねーじゃん!だからお前刺されたりしたんじゃねーの?違う?」


刺された時は不本意で、勝手に一人で清春を探ってた事は事実だけど、あれは巻き込みたくなかったから言わなかっただけだ。


そう言いたいけど、時夫の視線は俺が何を弁解しても聞き入れなさそうで、口を閉ざした。


「俺らつるんで何年だよ?生まれてからずっと一緒にいんのに、お前絶対弱音吐かねーんだもん、おかしいじゃん」


「別に普通に弱音吐いてるし、」


「吐いてねーよ!親父さんが死んだ時だって普通にしやがってよ!自分が一番きついときに限って黙ってんだろお前は!」


怒鳴った時夫に、心の奥底に閉じ込めた俺を掴まれた気がした。話したら楽になる事は知っていた。でも口を閉ざしたのはいつも俺で、時夫達はいつも俺を待ってくれていた。


時夫に胸ぐらを掴まれて、時夫の右手の拳が飛んでくる。避けられたけど避けなかったのは、俺は今殴られても文句を言えない立場の人間だからだ。


重い拳が左頬に食い込んで、少しだけよろけた。口の中に広がる血の味に、口の中が切れた事を知る。


「ちょっ、何やってんすか!」


その声と一緒に聖が駆け寄ってきた。大きく息を吐いた時夫は事務所の中に入っていく。いつもならキレて殴り返す所だけど、俺にそんな資格はない。


顔を上げて口の端を触ると血は出ていないようだった。でも口の中に少し溜まった血が嫌で地面に吐き出すと、コンクリートに唾液混じりの赤が貼り付く。


「どうしたんですか、喧嘩したんですか、」


俺の腕を掴む聖は恐る恐る聞いてきた。俺がキレそうだと思っているんだろうが、そんな事はない。


聖を見て肩を叩くと、眉を下げる聖の顔に笑った。何こいつ心配してるんだ。短気同士、俺と時夫の殴り合いの喧嘩なんて中学の頃はほぼ毎日あったのに。


「いい年こいて喧嘩なんてするかよ、説教されただけだ」


「…説教?」


「そう、愛に溢れる説教。お前も覚えとけ、怒られるうちが華らしいよ?」


聖から手を離して、時夫に続いて事務所に入った。現場に行く為に準備する先輩達に挨拶しながら、ヘルメットを掴む時夫を視界に入れる。


こういうの、苦手なんだけど。でも今回は俺が悪かったから仕方ない。時夫の隣に立って、ヘルメットを掴んだ。


「俺の勝手で、金がいる用事があるだけだから、お前が想像してるようなきついときな訳じゃねーから」


時夫の横顔にそう事実だけを投げ掛けると、時夫が俺を見た。眉を下げた時夫の顔が聖に似ていて、目を逸らす。


事実だけど、詳しい事は言いたくなかった。時夫がまた待ってくれると期待する俺は自己中心的過ぎる。でも、甘えられるのは一緒にいた時間が下手したらお袋よりも長いからだ。


「………心配してくれてアリガトウゴザイマシタ」


ぼそりと呟くように言うと、時夫が視界の隅で頷いたのが見えた。


「……俺も殴ってごめん」


「いいよ、別に」


だいぶ拳は重かったけど、だいぶ痛いけど、時夫の愛だと思えばまあまあ痛くなかった。毎日こんな愛を貰うのは御免だけど。


いきなり俺の腕を気持ち悪く撫でてきた時夫に苦笑いすると、気持ち悪い上目遣いをされた。飲んだ酒を今ここで吐瀉物に変えられそうなくらいに気持ち悪い。


「ごめんね俊喜、痛かったよねぇ?」


気持ち悪い裏声に本格的に吐き気を催した。気持ち悪い以外に形容詞が見付からない時夫の全体的なムードに、吐き気を堪えてなるべく冷たい目で時夫を見る。


「お前それ何キャラ?」


「サチコが俊喜の彼女になってドメスティックバイオレンスを繰り返して極めつけに言う台詞系キャラ」


「具体的過ぎるけど意味不明」


最終的に意味が伝わってこないそれに鼻で笑うと、時夫が頬を膨らませた。一言で元通りって中々ない。だから言葉は汚いけど、綺麗だったりする。


今日で六連勤を終えて、真知を迎えに行く。姫華からの電話はなくて、ホスト五日目の今日は来なければいいと心底思った。


真知は少しだけ腫れた俺の顔にすぐに気付いてどうしたのかと聞いてきたけど、適当に大丈夫だと言ってはぐらかした。


説教されて殴られました、と好きな女に言える奴が居たら俺は全力で尊敬する。俺は無理だ。


家に帰って飯を作って、二人で食う。顔は少し腫れてるけど出勤しない訳にはいかず、俺は着替えて食器をキッチンに置く真知の背中に投げ掛けた。


「真知、ごめん。今日も飲んでくる」


振り返った真知が俺を見上げる。茶色い目と視線が絡むとどうしても嘘を吐けない気がして、気付かれない程度に視線を逸らした。


「……誰と、ですか?」


「鉄也」


「鶴巻さんですか、」


「うん、毎日わりぃな。じゃあ行ってくるから、変な奴来ても鍵開けたりすんじゃねーぞ?」


真知の頭を軽く撫でてから玄関でブーツに脚を入れると、後ろからスタジャンが引っ張られた。反射的にそっちを見ると、真知が俺の着たスタジャンの裾を小さく摘まんでいる。


「…どうした?」


俺を一瞬だけ見た真知の目が潤んでいて、心臓が嫌な音を立てて鳴った。


「…お酒は喉に悪いと聞きました。喉をもっと悪くされてしまうので、お酒は飲まない方が宜しいんじゃないでしょうか」


「あー、うん、大丈夫。今日はそんなに飲まねーから」


真知の潤んだ目が頭から離れなくて、言葉をしどろもどろにさせる。確かに俺の声はガサガサで一日働いたせいか朝よりも悪化していた。


すると、真知が俺の背中に額を預けてきた。


「行かないでください」


今にも消えそうな声が、鼓膜を突き破るように脳に刺さってきた気がする。


「寂しいから、行かないでください」


どうしても好きだと思った女にこんな事を言われて、泣きたくならない奴はいない。引き留められてるのに、真知を優先出来ない。


毎晩帰ってこなかったら、寂しいと思うのは俺だって同じだ。でも真知がそれを口にするのは奇跡に近いのに、俺の欲しい言葉だったのに、苦しくて辛い。


引き留められても俺は行くしかない。誰かに無理矢理させられた訳ではなく、自分で決めた事だから、やらなきゃいけない。


「お願い俊喜、行かないで、」


俺が敬語じゃない真知に弱いのを知ってか知らずか、涙声で切羽詰まったような真知の台詞は俺の意志を揺るがせる。


どうして、俺がやらなければならない事の代償はいつも真知なんだろう。菊地の時だってそうだった。俺は真知が一番大事なのに、大事だと思ってるのに、優先してやれない。


真知の手が前に回ってきて、俺のスタジャンの脇を掴む。その手に光る結婚指輪はきっと俺が付けてやってから一度も外されていない。


俺が幸せなのも苦しいのも、罪悪感を抱くのも、全部この女に惚れたせいだ。


喉を競り上がってくる熱さも、目の奥が痛いのも、全部この女が好きだからだ。


思いを抱えれば抱えるほど言葉に出来なくなって、行動に溢れるそれは煩わしくて仕方がないけど嫌いじゃない。俺はこの女に惚れた自分が嫌いじゃないのに、今の自分が過去最高に嫌いだ。


震えそうになる息を抑えて、笑う。


「やけに素直じゃん、どうした?」


俺の声は案外いつも真知をからかう時と同じ声色で、真知は俺のスタジャンを掴む力を強めた。その手を上から握ると、結婚指輪が重なって小さく小さく金属音が鳴る。


「っ、だっ、だって、」


反論しそうな真知の言葉を遮るように、真知を自分から離して向き合った。真知が俯くから顔を上げさせると、白い頬は涙で濡れている。


また、泣かせたのは俺だ。心の中で自分を責めながら笑った。そうじゃないと、真知に全部を話してしまいそうになる。


金がいるからホストをしてること、金の使い道、全部自分の中にしまって置いたものが溢れ出して止まらなくなりそうで、でもそんな事を言ったら、真知は絶対に怒るから、言わない。


嘘をついても、知られたくない。嘘に喜怒哀楽も感情も形容詞もクソもないけど、これは苦しいけど優しい嘘な筈だった。


最初は、そうだった。でもいつから、真知を欺く為だけのものになったんだろう。


「明日俺もお前も仕事休みだし、明日は一日中構ってやるから、な?」


「だって、」


「もう泣くなよ、」


両手で濡れた頬を拭っても真知の泣き止まない。溢れる真知の涙はどこまでも純粋で綺麗なのに、俺は欲にばかり塗れていた。


真知を泣き止ませようと唇に唇を寄せたけど、真知を汚しそうでキスなんて出来ない。


口のすぐ傍の頬にキスをして、それに呆然とする真知の隙を狙って家を出た。鍵を閉めたら俺の囲いの中に真知を閉じ込めたような気がして苦しかった。


こうして置いてきぼりにして閉じ込めて、俺から逃げるなと言う方がおかしくて間違っている。それでも逃がしたくない俺は狡い。


狡いんだよ。俺が死ぬならあいつを他の男に渡してやっても仕方がないと思えるかもしれないけど、俺が生きるならあいつの隣にいるのは俺じゃないと嫌だ。


あいつの最初も最後も俺が全部欲しいのに、俺は最後だけしかくれてやれないのに、俺が最後にキスしたのは姫華だ。


あいつの自由を無くして閉じ込めて、俺は好き勝手やって、我が儘も甚だしい。


ホストクラブに着いて準備を終えても、脳裏の真知は消えない。あんな事を言われて嬉しくない筈がないのに、苦しい。


ロッカー室で爆睡する時夫を見ながら結婚指輪を外すと、ポケットに押し込んだ。こんな苦しい状態が後一週間以上続くと思うと死にそうだ。


全く眠くならなくて、ケータイを開いてWikipediaの洗脳のページを見る。自主的に真知を思い出す俺は自分で自分を苦しめたいのかもしれない。


いや、そうじゃないと駄目だった。清春と菊地に苦しめと言った以上、俺が罪から逃れる訳にはいかなかった。


もう暗記してるのに、とぼんやりと画面を眺めていると、突然ロッカー室のドアが開いた。オーナーかと思い視線を向けると、何故か中野先輩がいた。


「お疲れ様です」


「え、誰?」


いつもの言葉ににこやかにそう返されてしまったのは、俺が別人になっているからで、俺の声がガサガサだからだ。


苦笑いする中野先輩のクロムハーツのネックレスを視界に入れつつ、俊喜です、と言うと、嘘!と叫ばれた。


「俊喜?なんかいつもに増してチャラくなってない?」


駆け寄ってきた中野先輩に肩を掴まれて、小さく頭を下げる。いつもに増してチャラいって、俺はいつもチャラく見えるのか?黒髪で好青年ヘアーなのにおかしい。


「ホストなんで、」


「あーそっか、つーか声おかしくね?」


言われると思っていたそれに事情を説明すると、馬鹿だね、と言われた。



「中野先輩はなんでここに来たんですか?」


ずっと思っていた事を聞くと、中野先輩は手にしていたレザーのバッグを抱えて隣の椅子に腰を降ろす。


「それがさ、今度でかいイベやるんだけど、今までで最大規模な訳。ついてる会社に提供は勿論頼んでんだけど、ちょっと資金足りなくてさ。竜ちゃんにそれ言ったらホストあるよーって言われて資金稼ぎに来た」


「そうなんですか、」


羽振りはいいようだけど、イベントのオーガナイズも楽じゃないらしい。


「穂香に言ったら何それ!ってキレられちゃって最悪だったけど一応許し貰ったからさ」


溜め息をつく中野先輩を見て絶望を覚えた。中野先輩のようなチャラ男でも彼女の許可を貰ってから来てるのに、俺は奥さんの許可さえ貰っていない。


ただでさえ沈んでいた気分がどんどん沈んでいく。理由は言わなくても許可くらい貰った方が良かったのかもしれない。


準備を始める中野先輩に店からレンタルできる服の場所を教えていると、再びロッカー室のドアが開いた。今度こそオーナーだと思って見ると、何故か幸成がいる。


短髪を爽やか風にセットした爽やか幸成(26歳独身、本名は知らないし興味ない)は、俺を睨んできた。なんか怖いと思いながらも、俺にガンを飛ばすほどの元気はない。


「マキ、ちょっと来い」


日サロで焼いたのか綺麗な小麦色の肌に爽やか幸成の青いカラコンが入った目が浮かぶ。


「え、何この修羅場的ムード」


中野先輩がふざけて漏らしたその言葉に大丈夫ですと言って、ロッカー室を出ていった爽やか幸成についていった。


爽やか幸成はロッカー室のドアのすぐ側の壁に背中を付けて立っている。隣同士に立つのには爽やか幸成の香水の匂いが苦手すぎる(ムスク)から、広めの廊下の向かい側の壁に立った。


「姫華は俺の客だった、人の客取ってんじゃねーよ」


爽やか幸成は予想通りの言葉を口にする。ホストのドラマとかでこういうのあるけど、本当にある事なのか。


でもそんな事を言われたってどうしようもない。別に俺は姫華に何かを言った訳じゃなく、全ては姫華がやった事に過ぎないのだから。俺は全部受け身だった。


「別に俺が姫華に指名してくれって頼んだ訳じゃないんで、俺に言われても困るんですけど。それに俺は二週間だけの契約なんで、もう少し経ったら幸成さんの所に戻ると思いますけど」


事実と当たり前だけを告げたのに、爽やか幸成が俺を見る視線は強くなった。


「お前俺に、お前のおこぼれやらせようと思ってんのか、」


……何こいつ。姫華を返せって言いたいんじゃなかったのか?


「あの、」


「黙れよ!」


爽やか幸成の爽やかとは言えない怒鳴り声と一緒に胸ぐらを掴まれた。するとすぐに拳が飛んできて、だからホストは嫌だったんだと心底思った。避ける隙もなくぶつかる拳に、壁と頭をぶつける。


朝時夫に殴られた頬を再び殴られて痛さが倍増したけど、時夫の拳よりは重くない。


そう思った時、理性が途切れた音がした。俺が悪い訳じゃないのに殴られて、黙っていられるはずもない。堪え続けた自分と姫華への苛立ちが爆発した。


再び幸成が拳を握った時、俺は幸成の腹に思いっきり蹴りを入れた。幸成は反対側の壁にぶつかってから崩れ落ちたけど、その胸ぐらを掴む。


真知に対する罪悪感も、姫華に対する苛立ちも、握った拳に無意識のうちに込めていた。咳き込む幸成の頬にぶつけようと拳を振り上げると、腕がガッチリ掴まれて殴れない。


掴まれた腕の先を見ると中野先輩がいた。一瞬で正気を取り戻して黙って拳を下ろす。


「俊喜、いつからタイムスリップしたの、」


降ってくる中野先輩の呆れた声に、幸成の胸ぐらから手を離した。


「そんな楽しそうに笑って人を殴るなんて知られたら、嫁さんに嫌われるよ」


自分が笑っていた事に全く気付かなかった。俺は、何をやってるんだろう。


「……すいません」


「また鑑別行く事になったらどうすんの?もう沢田も黙っててくれないよ?」


最近ずっと情けない俺は、中野先輩に立たせて貰って立ち上がった。咳を繰り返す幸成に殴られた頬は痛くて、何だか気が抜けてしまう。


中野先輩は幸成の前にしゃがみこんで首を傾げた。


「貴方のお名前知らないんだけど、この子ほとんどの場合で殴られるとキレちゃうの。一旦ぷっちんすると手に負えなくなっちゃう子だから、もう殴っちゃ駄目だよ?」


俺の知っている先輩の中で一番のインテリの中野先輩は俺の事さえ分析しているらしい。返事をしない幸成を放って、俺は中野先輩に引っ張られてロッカー室に戻った。


寝ていた筈の時夫は起きていて、こっちを見ている。


「どしたの俊喜、すげー音聞こえたけど」


緑色の目で瞬きを繰り返す時夫に苦く笑った。俺が起こしたのかもしれない。


「起こしたならごめん」


「いや、いいけど、」


そう言った時夫は中野先輩に気付いて挨拶したけど、中野先輩はまた誰?と言っていた。人がここまで変われると厄介な事ばかりだ。


鏡を見ると、さっきよりも若干顔が酷くなっている。明日には変色すると思うと、明日の出勤は本格的に無理そうだ。


いいのか悪いのか、中野先輩と時夫が話している中で一人溜め息を溢すと、ロッカー室のドアが開いた。


今度は誰だと思いながら見ると、オーナーのおっさんだった。俺の腕を掴んで来るから、仕方なくジャケットを持ってついていく。


オーナーは振り返って俺に微笑みかけてくる。キモい。


「姫華来たから宜しくね?今日もじゃんじゃん稼いじゃって!」


テンションの高いオーナーに引きながらもフロアに出た。俺はいつからかこのホストクラブの稼ぎに随分と貢献するようになったようだ。


ジャケットも着るのが億劫で入口まで姫華を迎えに行くと、姫華は俺を見た瞬間に嬉しそうに口角を上げる。恐ろしい程のスピードで俺の腕に腕を絡めてきた姫華がいつもの如く悪魔に見えた。


なんで毎日この女来るんだよ。仕事しろよ。心の中で姫華に少し説教したけど、仕事を放って男に金を落としに来る姫華の躾をしたのは池谷だから、池谷を殴ってやりたいような不思議な感情に苛まれた。


池谷、今俺、お前の娘の扱いに困ってるんですけど。


腕を振り払うのも面倒でそのままにしておく。いつの間にか俺の定位置のようになったVIP席に姫華を先に座らせてから腰を降ろした。


姫華は近くにいた黒服にピンドンを注文していて、馬鹿の一つ覚えのようにピンドンばかり飲むのはどうしてなのかと少しだけ考えたけど、時間の無駄だからやめた。別に俺に損は無いし、頼ませた訳でもないから放っておく。



姫華は俺にベッタリとくっついてくる。慣れたけど不快感は否めなかった。ジャスミンノワールが嗅覚を刺激しまくって仕方がない。


姫華は俺の顔を覗き込んでくる。その人工的な黒目がちの目が潤んでいたけど、真知のものとは比べ物にならなかった。


「マキ、ちょっと顔腫れてる?大丈夫?」


「あー、大丈夫」


そう返すと、姫華が目を見開いた。


「どうしたのその声!」


「なんか喉おかしくなった」


「えー、可愛い!人間っぽい!」


……人間っぽいって、なんだよ。俺は普通に人間で地球人だけど。顔同士の距離がやけに近いから目を逸らすと、姫華に頬を撫でられた。


「マキ、カラコン入れてるだけなのにお人形さんみたいだもん」


これは口説かれてると思っていいんだろうか。俺も確かに真知の事を人形みたいな女だと思うけど、男に対してその台詞はアリなんだろうか。


黒目と白目の境目がやけにくっきりとしている目を至近距離で見ていたら気分が悪くなってきて、姫華から逃げるようにソファーの背凭れに背を預ける。


でも、大胆すぎる姫華にそんな逃げは通用しなかったようで、堂々と膝の上に向かい合わせになるように跨がれて座られた。


短めの丈のモスグリーンのワンピースから剥き出しになった生足は、真知よりも多少肉がついている。あいつが細過ぎるだけだから、姫華も細い方だけど。


いちいち構うのも面倒で放置していると、姫華の手が俺の着ているスーツのパンツのベルトを外しにかかる。ホストクラブは酒を飲むところでこんな事をする為の店じゃない筈だ。とっさにその手を掴むと、姫華と目が合った。


「どこ触ろうとしてんの」


俺が放った声は自分でも驚くほど冷めていた。姫華は俺から目を逸らして、チャックの上を撫でる。そんな事をされても、物理的快楽より苛立ちの方が勝って、更に頭に血が上るだけだった。


変態かよ、と思いながらその手を無理矢理掴むと、姫華と唇が重なった。いや、重ねられたという方が正しい。姫華を離そうと背中に腕を回して肩を掴んで引っ張っても離れない。


それどころか、距離を詰められて余計に離れなくなってしまう。首に腕を回されて固定されて、唇の隙間から姫華の舌が入ってきた。


シャツの胸元から手を突っ込まれて肌を撫でられる。やけにしっとりとした手が這う感覚が気持ち悪い。


離そうとしても離れなくて、初めて女に犯されそうで怖くなった。それと同時に、俺が求めるものとの相違点が腐るほど頭に浮かんでくる。


違う。頭に過るものも感触も何もかも、全部違う。


真知はもっと手が乾燥してて、積極的に俺に触ってきたりしない。あいつはもっと、こっちが泣きたくなるくらい、恐る恐る触ってくる。


真知は普段薬用のリップクリームくらいしか塗ってないから、キスしてもこんなにベタベタしない。真知の舌はもっと薄くて温度が熱い。真知のキスはもっと下手くそで、もっとたどたどしい。


俺が好きな唇は、こんな唇じゃない。吐いた後だって寝起きだって、どんな時も四六時中好きなのは、真知の唇だ。俺は、あいつがいい。あいつじゃなきゃ、嫌だ。


女には使わないような力で強引に唇を離すと、姫華と俺の口の間が唾液の糸で繋がる。それもすぐに途切れて、姫華が潤んだ目で俺を見つめた。


姫華が指で俺の唇を撫でるから、その手を掴んで離す。


「こういうの、やめようぜ」


「なんで?」


「俺とお前、ただのホストと客だろ?」


諭すように言うと、姫華が露骨に悲しそうな顔をした。そんな姫華を生き物だと思うのは、いつも無表情の女を見ているからだ。


「マキ、そんなまともな事言うの?」


呟くような言葉に馬鹿にされた気がした。俺じゃなくて、まともに見えない俺と結婚した真知が。最初に逃げられなかった俺が悪かっただけだ。真知は何も悪くない。


「まともだけど、俺。彼女でもない女とこういう事するのは間違ってると思う」


姫華の目を見つめて言った。もうやめさせなきゃいけない。エスカレートしてこれ以上されたら、俺はもう真知の側に居られなくなる。それだけはどうしても嫌だ。


姫華は一度視線を泳がせてから俺を再び見る。


「じゃあ、あたしが彼女になればいいの?」


「無理」


即答した。その途端姫華は俺の胸ぐらを掴んで揺らしてくる。


「なんで?この世界で生きていくつもりだから無理ってまた言うの?いいよ、あたしマキの事くらい食べさせて行けるよ?ホストしなくたって、マキの事不自由させたりしないっ」


見当違いな事を言う姫華の腕を掴んで揺れを止めながら思わず怒鳴った。


「そういう事じゃねーよ!」


「じゃあなんでっ?」


姫華の金切り声にフロアが静まり返る。


何を思っているのか分からないけど、姫華の目から大粒の涙が溢れた。でも、どうでもいい。俺は俺で、マキも俺で、俺が好きな女はこの世で一人しかいない。


完全に別人になるなんて、無理な話。心の奥底にいる奴を忘れる事も出来なければ、忘れようとも思えない。


俺の中で核のように居座る女を、俺はやっぱりどろどろに甘やかしてやりたくて、口を開いた。


「俺、大事な女がいる」


姫華が目を見開いた時、いきなりフロアに謝罪の声が響いた。


「俊喜さんすいません!」


鉄也の声に、姫華を強引に自分の上から退かして声がした方を見ると、ホストクラブには不似合いな見慣れた女三人と目が合った。


ナミとタエと沙也加。ナミとタエがこっちに向かって走ってくる。


俺の目の前のテーブルの上に堂々と登った二人に睨まれて、なんでこんな所にいるのか全く分からない。


後からついてきた腹の大きな沙也加がテーブルの前で立ち止まったと思ったら、タエの強烈なビンタが頬にぶつかった。


「あんた別人みたいだけど俊喜だよね?」


ナミの言葉に答えるのも忘れて呆然と三人を眺めていると、頬がじわりと痛み出す。しかも都合が悪く時夫と幸成に殴られた後の左頬で、熱い。


次の瞬間、ナミの手によって、テーブルに予め置いてあった水を頭からかけられた。元々つけ心地がいいとは言えないウィッグの毛がチクチクと地肌を刺すように痒くなる。


「な、なにこれ、」


姫華の声が隣から聞こえたけど、俺は急に頭が冷やされて訳が分からなくなっていた。ウィッグを外して自分の髪を掻くと、地毛まで濡れていた。


前髪を掻き上げてナミとタエを見ると、二人の冷たい視線が突き刺さって痛い。


「俊喜君、真知置いてこんな所で何やってんの?」


今まで聞いた事がないほどの沙也加の鋭い声に視線を泳がせるしかない。別のテーブルについていた時夫が慌てて吹っ飛んできて、タエの腕を掴む。


「待て、これには理由があって!別に俊喜だって好きでやってた訳じゃなくて!ほら、あの竜さんから頼まれてっ」


「竜さんがどうとか関係ない。今あたしらは俊喜と話してんの。時夫は黙ってて」


時夫の言葉を一蹴したタエは、俺を睨んできた。



だが俺を一度見て、目を閉じて溜め息をついてから落ち着いたように話始める。


「真知がここ何日かずっと元気なくて、でも今日比べ物にならないくらい元気無かったの。ずっと心配だったから聞いたら、あんたが毎日飲み歩いてて帰ってこないって、」


「は?帰ってこない?」


「あんたは黙ってて」


姫華の問いはナミの声で途切れた。俺はナミもタエも沙也加も見れなくて、俯く。


「そしたらあんたが今日の朝、女の匂いさせて帰ってきたって言ってたけど、こういう事だったわけ?」


タエの言葉にようやく思い出した。そうだ、今日は道で寝ててギリギリに帰ったから、風呂に入る前に真知を起こしたんだ。だから、女の匂いがついたままだった。


だから真知は、俺が家を出てくる時にぐずったんだ。


なんで俺は、馬鹿なんだろう。隠蔽工作は全部きっちりやらないと意味がない。タエは再び溜め息をついて話し出す。


「真知、今まで迷惑かけたから俊喜の気持ちが離れたのかもしれないって、他に好きな人が出来たのかもしれないって、泣いてたよ」


「んな訳、」


「そう、あんたに限ってそんな事はないってあたしらだって分かってた。だから真知に行かせたくないから引き留めろって言ったの。あんたは真知にとことん弱いから、真知が言ったら絶対に行かないと思ってたから」


全部が合致した。確かに俺は真知に引き留められた。行かないでって引き留められた。なのに、とタエが続ける。


「さっきなんか心配になって電話かけたら、行っちゃったって、真知泣いてたけど。だから真知ん所行こうと思ってナミと沙也加と向かってたら、ここの店の前で鉄也が掃除してて。あんた真知に鉄也と飲んでくるって言ったでしょ?だからおかしいと思って店入ってきたら案の定コレ」


俺は自分がした事の罪の重さをやっと理解した。真知が泣いてる。多分今も、俺が閉じ込めたあの家で泣いてる。


ポケットにしまった結婚指輪を指に嵌めたら、真知に強いった残酷な事柄の数々に押し潰されそうで、吐き気がした。


「あんた真知泣かせてどうすんの?あんた真知の事好きなんでしょ?だから結婚したんでしょ?なのになんでこんな事やってんの?あんたそんなに金欲しいの!?」


「…欲しいけど」


顔を上げてタエを見ると、タエは俺を睨んで眉間にシワを寄せる。


「なんで?真知泣いてんのにっ?意味分かんないんだけど!」


意味分かんないのはこっちの台詞だ。あんな女の理解できるかよ。理解なんてサッパリ出来ない。笑う理由も条件も俺は知らない。でも、好きになったから仕方ない。


どれだけ不気味で気持ち悪くて笑わない女でも、好きになったから理解しようと、したいと思って当たり前だ。理解できなくても好きなんだから、仕方ない。


責められても文句を言えない事をしたのは理解してた。でも、金が欲しいと思って何が悪いんだ。


懺悔とか、後悔とか、自分に対しての怒りとか、情けない俺の感情が渦巻く隙間にあるのは、じいさんから貰ったアルバムで。


「…お前らだってどうせ気付いてる癖に、」


俺の声は何故だか怒りが籠っていて、自分が怒っている事に初めて気付いた。だけど発した言葉を止めるだけの余裕が、俺には残されていなかった。


「時夫も、ナミもタエも沙也加も鉄也も、どうせ気付いてんだろ?」


「何が、」


「真知が笑わない事に気付いてんだろって聞いてんだよ」


時夫の疑問に返してやると全員が一気に表情を変えるから、気付いていたんだろう。気付いてたとしても言葉にしたりしない奴らなのは十分分かっていた。長い時間、真知と一緒にいて気付かない方がおかしいんだ。


もう顔を上げている事は出来なくて、俯いた。


「実は真知、自分が笑えない事にも気付いてなかったりすんだけど、まあ、俺と会う前に色々あって、頭おかしくなってんだ」


洗脳だとは言えなかった。まだ口にするのは怖かった。でも俺の言葉に、ナミが何それ、と震えた声を上げたけど、返事は返せない。俺にはまだ勇気がない。


小さく、笑った。そうでもしないと泣きそうだった。


「で、そんな真知の夢は死ぬ事でした。でもそんな夢、俺絶対に認めないし」


脳裏に焼き付いて消えないのは、じいさんから貰ったアルバムの1ページ。


「だから俺は、真知が描けた死ぬ事以外の最後の夢を最後の夢って事にしたんだけど、でもそれって幼稚園の頃まで遡らないといけない訳、」


力強く描かれていた文字がずっと貼り付いて消えないのは、真知が笑っていたからだ。幼稚園のアルバムに書いてあった真知の夢は、真知が描く事を許された最後の夢だ。


男なら、どれだけ金がかかっても女を裏切っても、女の望みくらい叶えてやりたいと思って当たり前だ。でも、そんなの言い訳にしか過ぎなかった。


死にたいと思っていた真知の望みを消した俺は、もっと幸せな真知の望みを叶えてやりたかった。真知の望みを叶えてやる事で真知を俺の未来に繋ぎ止めようとした。真知の死以外の夢を欲しかったのは俺だ。


どうしても、どうしても、真知に側にいてほしかったのは、俺だ。これからの人生にあいつがいないと嫌だった。


誰にも言わないつもりだった。でも、もう限界だった。隠した理由が口から溢れる。


「幼稚園児の頃の真知は『きれいなはなよめさん』になりたかったんだって。だから金が必要だろーが。結婚式やんだよ」


俺からどうしても離れてくれなかったのは、俺がどうしても金が欲しかったのは、真知の最後の夢を叶えてやりたかったからだ。


貯金はある。でもアパートの頭金を払った後の貯金じゃまだ足りない。別に急いでた訳でもなくて、結婚式をやるのはいつでも良かった。


でもホストをやって完全歩合制で給料が入るなんて話がきたら飲まない訳がない。


俺は座ったまま頭を下げた。


「方法を間違えました。俺が悪かったです。ごめんなさい。俺がこの事知ってるって真知は知らないから、真知には言わないでください」


分かっていた、筈だった。手段を間違えた事は自覚してたから真知に許可を貰った方が良かったのかもしれない。だけど、どうしてと問われた時の言い訳が馬鹿な俺には分からなくて、こんな風になるしかなかった。


「ごめん俊喜、叩いたりしてごめんね」


上から降ってくるタエの声が涙声で、頭を上げた。元々目の回りが黒いタエの流す涙はグレーだった。ナミも沙也加も時夫も鉄也も泣いていて、俺の周りにいる人間の感受性の豊かさは訳が分からない。


「でもね俊喜、真知はあんたが浮気してるんじゃないかって事より、あんたが毎晩飲み歩いてるのに仕事に行ってるから、体壊すんじゃないかって心配してたんだよ」


心臓が鷲掴みにされるというのは、こういう瞬間の事だと実感した。タエの涙混じりの声が伝える真知の本音は俺にどこまでも甘いけど、でも、あいつはやっぱり優しかった。


あいつは優しすぎる。それとは対称的に、俺は最低すぎる。


俺をじっと見てくる姫華にごめん、と言った。


「騙してたって思われるかもしれねーけど、俺結婚してんだよ」


「は?」


「それにマル暴の池谷警部補とは結構長い付き合いだ。さすがに娘だって事は最初は知らなかったけど」


姫華が何それ、と言う怒りに震える声は、時夫と鉄也の叫び声に掻き消される。


「池谷の娘!?全然似てないっすね!」


「嘘!?池谷の娘キャバ嬢!?レベル高くね!?」


姫華は最低!と叫んでバッグを掴んで立ち上がった。長いソファーから出ようとした姫華の前に立ったのは、竜さんだった。いつの間に入ってきたのだろうか。


「お客さん、お代は払って行ってね?」


笑いながら代金を催促する竜さんに、姫華は眉間にシワを寄せた。


「つけといてっ!」


そう言って竜さんを押し退けて去っていく姫華をもう二度と見なくて済むのかと思うと、溜め息が出る。なんだか妙にすっきりした。


「俊喜、そういう事なら最初から言ってくれればこっちでちょっと金出してあげても良かったのに、馬鹿だね」


「すいません、」


竜さんの声に軽く頭を下げてから顔を上げる。


さっきは気付かなかったけど、ミニスカで網タイツを穿いたナミのパンツがテーブルの上にしゃがみこんでいる事が原因で見えていて、ナミの脚を軽く叩いた。


「パンツ見えてんだよ馬鹿」


「水かけてごめんね俊喜」


「それはいいから足閉じろよ。お前のパンツなんて見たくねーんだよ」


そう笑うとナミに頭を叩かれた。俺は今悪い事を言っただろうか。事実しか言っていない筈だけど。


わりと大きな騒ぎを起こしてしまったけど、店は普通に営業を再開した。どんな店だと思ったけど、これで客がいなくなったりして店が潰れても責任は取れないから安心した。


俺は結局今日でホストを辞める事になった。給料はしっかり振り込んでくれるらしいから安心した。


お母さん沙也加に頑張ったねと言われて、悟に言われているような錯覚に陥ったけど、沙也加のスッピンは悟とは似ていない。まあ、化粧してても似てないけど。


鉄也と時夫は期間が終わるまでホストを続けるらしく、それぞれ仕事に戻っていく。ナミとタエは出会いカフェの仕事に、沙也加も家に帰っていった。


俺が帰る準備をしようとロッカー室に戻ると、そこには爆睡する中野先輩がいて、竜さんが叩き起こす。中野先輩は騒ぎに全く気付かなかったようで、その上仕事の事も忘れていたらしく、慌ててフロアに出ていった。


さっさと着替えてホストクラブを出ると、外が妙に寒く感じる。小走りで家に向かうけど、どこか体が重い。


道で寝た時の疲れが今頃出てきたのかもしれない。左頬が痛くて気分も悪いけど、俺の頭には真知にどう説明しようかという事でいっぱいだった。


あいつは俺を許してくれるだろうか。家の鍵を開けて中に入ると、リビングに真知がいるのが見えた。静かに鍵を閉めてブーツを脱いで部屋に上がる。


真知はテーブルに突っ伏していて、肩は規則正しく上下している。真知の隣に胡座をかいて座ると、真知が寝ている事が分かった。


まるで、三ヵ月前だ。真知に離婚届を渡されて土下座された時も、真知は寝ていた。


真知は忠犬なんだと思う。俺が待てと言ったら待つし、来いと言ったら何時間かけても来る。


こんな女を一人にして、俺は何をやってたんだろう。


「ごめんな、真知」


俺の言葉は簡単に消えていく。真知のつむじを何となく眺めていて、こんな所で寝かせたら風邪引くな、とふと思った。


「真知、風邪引くから起きろ、」


真知の頭を撫でながら言うと、真知が急に起きたのか顔を上げた。朝もこれだけ寝起きが良ければいいのに、と少し思ったけど、真知は俺を見て目を見開く。


なんだろうと思ったけど、とりあえず、ただいま、と言った。真知は俺の顔に手を伸ばして、恐る恐る触れる。若干痛みが走るのは左頬だからで、だから真知が驚いたのかと納得した。


真知は俺を見上げて口を開く。


「お顔、どうされたんですか?」


「殴られました」


そう言うと、真知が辺りを見渡して突然立ち上がろうと腰を上げたから、慌てて手首を掴んで引き留めた。


「どうした?」


「手当て、」


「いいよ、自業自得だから」


「でも、」


「いいから、俺の話聞いて。謝らせて」


真知はそれでようやく俺が家を出ていく時にした事を思い出したのか、もう一度正座する。


泣く資格もないのに泣きそうになるのは、真知が俺には勿体無い程優しい女だからだ。俺はさっき真知に酷い事をしたのに、真知はそれを忘れて俺の傷を心配する。


なんでこんな女が、俺を好きでいてくれるんだろう。


「ごめんな、真知。俺、お前に嘘ついてた」


案の定、真知は俯く。


「飲みに行ってたなんて嘘で、竜さんに頼まれてホストクラブでホストとして働いてた」


「……ほすと?」


「…えっと、女に酒注いで話したりするっつーか、ホステスとかキャバ嬢の男バージョンってか…水商売、」


顔を上げた真知にそう言うと、真知は再び俯いた。掴んだままの真知の手首は、服の上からでも細くて折れそう。


「浮気じゃないけど、女といた事は事実だから、嘘ついててごめんなさい」


頭を下げると、真知が小さく言った。


「お酒の摂りすぎは体に悪いです」


「うん」


「貴方は未成年です」


「うん」


なんで、俺の体の事ばかり心配するんだろう。真知は馬鹿な女だ。自分がどう思ったかなんて事も言わないし、俺を責めない。真知はとことん俺に甘い。


真知の穿いた細いデニムに、真知の涙が落ちた。


「……寂しかったです」


呟かれた言葉は、さっきの俺が振り払ってしまった言葉だった。胸の奥の、心の先の何かが掴まれて、思わず真知を抱き締めた。


胡座をやめてスペースを開けて更に引き寄せて、距離を無くす。真知の匂いがして、頭に頬を寄せた。


「うん、ごめんな。もう行かないから」


「女性の匂いがしますっ」


真知が肩を押して離そうとしてくるのを許さず、更に力を込めた。勝手に一人にして離れたのは俺なのに、もう一人にしたくない。もう、離れたくない。


「ごめんな、」


「馬鹿っ」


俺の首に顔を埋めた真知は、着たままだった俺のスタジャンの肩を掴んだ。真知の頭を撫でて、目を閉じた。寂しくさせたくない奴を大事な奴だって言うとか、誰かが言ってたじゃねーか。俺はなんで忘れてたんだ。


寂しくさせたくない。だって今まで真知は一人で生きてきたのに、俺がまたその環境を作るなんて、最低だ。


ナミやタエや沙也加をマジギレさせる程にあの強烈な女軍団から愛されている真知を、俺だって好きだから、あいつらよりももっと好きだから、もう絶対に一人にしない。



遅すぎる決心は、俺の頭の悪さの象徴とも言えた。真知と体を離して顔を覗き込むと真知は泣いていて、喉の奥が熱くなる。


濡れる頬を拭うと、真知の茶色い目を見つめた。涙で濡れた下睫毛が下瞼に張り付いているのを取って、頬を撫でる。


でも俺は我が儘で、それ以上を求めていた。


「キスしてもいいですか、真知さん」


いつもは聞かずに問答無用でするのに、姫華とキスした後の唇でそんな事は出来ない。真知は途端に目を泳がせる。


「……何故わざわざ聞くんですか、私が拒否すると思っていらっしゃるんですか」


拒否しないんだ、と思ったけど、汚い口で触れる訳にはいかなかった。言いたくないけど、結婚式の事以外は隠したくないから言うしかない。


「俺、客の女にキスされた」


そう言った瞬間、真知の目は俺の唇を捉えた。


「…それは、何回ですか?」


「分かんない、だから、」


一度言葉を切ると、真知が俺の目を見る。それを確認してから、再び口を開いた。


「だから、消毒して?」


真知は俺の言葉に立ち上がろうとするから引き留めた。きっと、イソジンでも取りに行こうとしたんだと思う。真知は大人しく俺の前に座り直したから、真知の顔を覗き込んだ。


「違う、真知の唇で消毒して」


「…………私で消毒?」


「そう、俺、汚くなっちったんだけど、最後は絶対真知がいいから」


我が儘だけど、最後は真知がいい。明日どこかで事故に遭って死ぬかもしれないのに、死ぬ前に最後に触れた唇が真知じゃないのは嫌だ。


真知の赤い唇を見てから、目を見た。


「だから、真知も一緒に汚れてくれる?って聞いてんの」


茶色い目に溶かされる。首を撫でると、ネックレスのチェーンの感触がした。


「真知、俺で汚れてくれる?」


俺の言葉で、真知の視線は目から唇に移った。躊躇う真知の手が肩に置かれて、唇が近付く。真知の唇が唇に触れて泣きたくなったのは、俺が求めていたものだからだ。


引き寄せて抱き締めると、唇が深く交わる。口を開くと、真知の舌が恐る恐る入ってきた。


たどたどしく動く舌は、俺が好きなもの。下手くそなキスだって、相手が真知ならどうでもいい。俺はこんなキスが好きだ。


真知の髪を撫でると、真知の舌が歯で切れた頬の内側を舐めて、痛みが走る。


「ん、」


思わず声が出ると、真知が弾かれたように離れた。私悪い事をしてしまいましたか、と聞いてくる真知の頬は赤くて、それに苦く笑う。


「口の中切れてるから痛かった」


「ごめんなさい」


「いいよ、痛くても我慢するからキスな、ちゃんと舌突っ込めよ?」


そう言うと、真知は一瞬視線を泳がせてから再び唇を重ねてくる。遠慮がちに舌が動くから、刺激するように舌を擦ると真知の手に力がこもる。


ただそれだけなのに、感情があると可愛いと思ってしまうから人間は怖い。


真知は俺が痛い所を避けてくれているみたいだけどやっぱり痛かった。でも真知が頑張ってると分かっているから言わないし言えないし、言う気もない。


すると再び唇が離れて、目を開いた。顔を赤くする真知は俺の頬を撫でてくる。


「口の中がいつもより熱いです」


「興奮してるからじゃね?」


「目がいつもより色っぽいです、」


「欲情してるからじゃないっすか?」


この女、人に何を言わせちゃってんの。待てなくて唇を寄せると、駄目、と言われた。なんだよ、と仕方なく目を合わせると、真知が手の甲を頬に当てて来る。


「熱、があるかもしれません」


体温計、と呟いて立ち上がろうとするから、真知を抱き締めた。


「俊喜君寂しくなるから離れんなよ」


「っ、そんな事を仰られても熱を計らないと駄目ですっ」


「なんで、やだ」


離そうとする真知を腕と足で閉じ込めると、真知が大人しくなった。やっぱり首が熱いです、と俺の首を触る真知の手がいつもより冷たく感じる。


熱なんて、何年ぶりだろう。馬鹿は風邪を引かないというのは事実で、俺は長い間元気だった筈だ。


風邪移すかな、と頭に過るけど衝動は止められなくて、体を離して唇を寄せると口を真知の手で覆われた。


仕方なく真知の額に額を当てる。真知と目を合わせると真知の視線が泳いだ。眼球舐めたい。紳士の俺が家出して意味不明な変態が飛び出すのは、具合が悪いからという事にしておく。


「やはり熱いです、お熱があります。睡眠不足と不摂生は体に悪いんですよ」


「いや、そんなんじゃなくて道で寝てたからだと思います」


「え、」


固まった真知を抱き締めて、目を閉じる。


真知の手は俺の首で止まったままで、真知の冷たい手が俺の体温で暖まっていくのを感じながら口を開いた。


「酔っ払って道で寝たんだよ、今日の朝。起きたら青空、ウケる」


「全然面白くありません、馬鹿」


「酔っ払って人の口噛んだの誰だよ、お前にだけは言われたくねーな。お前可愛い過ぎんだよ馬鹿」


髪を掴んで耳にキスすると真知の肩が揺れる。そんな反応されたら止められるものも止められなくなると、真知は分かってやっているんだろうか。


だとしたら本当の小悪魔だ。


「ちょ、駄目です。寝てください」


「嫌です」


「っ、もう、」


真知は俺に抱き締められたままテーブルの上にあったケータイを掴む。それをじっと眺めていると、真知が少し操作してからケータイを耳に当てた。


「誰に電話かけるんですか、真知さん」


「お母さんです」


「なんで?やめてくんない?風邪引いてる時にお袋の顔見るともっと具合悪くなるわ」


と言うと、真知に少し睨まれた。全然怖くない。事実なんですけど悪いんですか。俺よりお袋が好きなんですか。虚しくなるからやめてくれませんか。と心の中で言ったけど当然真知には聞こえていない。


「あ、もしもし、夜分遅くに申し訳ございません、真知です。俊喜が酔って道で寝たとかでお熱を出してしまったのですが、」


えー馬鹿だねあいつ!という馬鹿でかいお袋の声が電話をぶち抜いて俺まで届いた。俺ここにいるんだけど。聞こえてるんだけど、何あのババア。グレるぞ。


もうお袋の声を聞きたくなくて真知の肩に頭を乗せて、目を閉じた。真知とお袋はまだ何かを話していたけど、問答無用で真知の体を抱き締める。


お袋の声が聞こえてくると悪い事をしてる気になるのはどうしてだろう。


「はい、申し訳ございません、ありがとうございます。失礼します」


真知はそう言って電話を切った。あんなババアに丁寧にしてどうするんだと思ったけど、真知からしたら姑だった。あんな金髪の姑でさえも味方に付けた真知の恐ろしさは半端じゃなかった。


「明日の朝、お母さんが来てくれます。なので寝てください」


「…なんでお袋が出張る訳?」


「……私は人に料理が作れませんので」


真知の言葉に寂しくなる。だから抱き締める力を強めて、もう絶対に何日も家を空けたりしないと強く誓った。




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