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!!!!!下  作者: 七瀬
第四章 非細工
7/12

カラコンとキャバ嬢




翌日の朝、俺はずっとストレートバーベルを付けさせていた真知のピアスを、じいさんから貰ったリングピアスに変えてやった。真知に頼んで俺の耳にも入れて貰って、朝は二人で家を出た。


真知の右耳と俺の左耳で同じピアスがついている。ユニセックスものだけど男物にしか見えないそれは、ホストとして自分が夜に家を開ける間の真知の浮気防止の予防線。


そんな姑息な手段を使う俺はどう考えても狡くて、余裕のない奴だ。


夕方に土木の仕事を終えて真知を実家まで迎えに行き、飯を作って二人で食って、俺はホストクラブに向かった。


時夫と飲みに行くと真知に嘘をついて、俺はこれからホストをする。ガリガリの癖に武闘派のホストには絶対になりたくないと思っていたのに、俺は簡単にそれになってしまった。


金がいくら入ってくるのかは分からない。でも、金が入ってくる機会を逃す訳にはいかなかった。


妙な葛藤を抱えたまま、ホストクラブのロッカー室で茶髪のウィッグを被る。大きな鏡の中にいる自分だけ、昔に戻ったみたいだ。


どんどん沸き上がってくる罪悪感を取り払うように隣でワックスをネチョネチョと弄る時夫の頭を思いっきり叩いた。


俺達は昼間の仕事もしているからと、出勤時間をずらして貰っている。時夫と二人きりのロッカー室には、時夫の頭を叩いた音がやけに響いた。


頭を押さえた時夫が俺に吠える。


「痛い!何すんの!」


「お前何ネチョネチョしてんだよ、早く髪やれよ」


「俺、こういうの苦手だから俊喜待ち」


「なら早く言えよ」


不器用な時夫は料理から髪のセットまで苦手だ。仕方なく時夫を椅子に座らせて、ワックスを手に取った。


ホストの崩れる事のないセットの為なのか、ハードワックスだった。スーパーハードのそれを伸ばして時夫の金髪をセットしていく。


時夫は鏡の中の自分を真剣な表情で見ていて、正直引いた。そんな長時間自分の顔を見ていられる事の素晴らしさを俺は知りたくない。


「ねぇ俊喜、俺ってイケメン?」


「なんだっけそれ、口裂け女?」


「ちゃうわ。俺ってイケメンなの?ホストになれるくらい?」


「知らねーよ」


ずっと昔から知っていると顔が見慣れているからか、整っているのかそうでないのかの判別が出来なくなる。


それに、ホストはイケメンばかりという訳ではなく、話が出来ればいいのだ。


昨日縮こまっていた幸成だって、そこまでイケメンではないけどナンバーツーだった。結局はいくら女の話を聞けるのかが重要なんだと思う。


俺はお袋の説教が長すぎて半分も聞いていないくらいの面倒臭がりだから、ホストには向いていないだろう。ヘルプで軽く入ってる事しか出来なさそうだ。


鏡の中の時夫の髪を見ていると、時夫と目が合った。


「俊喜、なんかめっちゃホストっぽい感じにして!」


「筋盛り?俺専門外。つーか俺はお前のヘアメイクじゃねーんだけど」


えー、と口を尖らせる時夫の顔がウザい。それ以外に形容詞が見付からない。適当に盛って終わらせようとすると、時夫が襟足ハネさせて、なんて注文をつけてくる。


「お前さぁ、」


「いいじゃん!俊喜お願い!」


溜め息を一つついて、仕方なく台の上にあったストレートアイロンをコードの先のオスをコンセントに差した。


ホスト特有なのか何だか知らないけど、店から借りた黒いシャツに妙な光沢がある。元々ラフな格好しかしない俺には、その光沢に違和感があった。


時夫が着ているのは薄いピンクのシャツで、例に漏れず妙な光沢入り。ここから選んでね、とオーナーのおっさんに言われたラックの中にはこんなのしかなかった。


ツヤツヤしやがって、風呂上がりの真知が化粧水塗った後の肌みたいじゃねーか。妙に頭にちらつく真知を消したいのに、光沢のせいで消せない。


溜め息をつきながら温度のロックがかかったアイロンを手に取って、時夫の髪を変えていく。


「俊喜ってアイロン持ってたっけ?」


時夫の声に、襟足から目を逸らした。


「持ってないし、自分に使った事ねーよ。中学の卒業式の時に学校で久人にセット頼まれたと思ったら、ナミが寝坊したとかで俺がセット頼まれたじゃん。化粧するから髪やって、とか言ってさ」


「あー、あったね、そんなの」


「そう、で、その時ナミの髪の毛ストレートにしまくってたらなんか慣れた」


なんで男の俺がセットしなきゃならなかったのかはサッパリ分からない。順応早いな、と言う時夫は言葉の意味が分かって言っているのかも、サッパリ分からない。



襟足をハネさせたら全体のバランスが悪い気がして適当にサイドもハネさせていると、時夫が奇声を上げ始める。うるさいなこいつ。


「俊喜やば!俺がどんどんイケメンに!」


「あー、そうだなイケメンだなー」


いちいち否定するのが面倒で棒読みで言ったけど、テンションが上がっているらしい時夫にそれは伝わらなかったようだ。


「一家に一台緒方俊喜!合コンの時は俺の髪セットして!」


「やだよ。つーか、一家に一台ってなんだよ。一人って言えよ馬鹿」


前髪まできっちりセットして、再びワックスを揉みこんで形を作る。別に俺はウィッグだから時間がかからないのに、どうして時夫にこんなに時間をかけなければならないのか。


こんなもんでいいや、と時夫の髪から手を離すと、時夫が再び奇声を上げる。俺のテンションは罪悪感でどんどん下がっていくのに対し、時夫のテンションは上がりまくっている。


なんか物凄く殴ってやりたい。


「俊喜、土木作業員やめて美容師になれば?」


「そこまで才能ねーし」


それに、職を離れる訳にはいかない。生活がかかってるし、金だって必要だ。


俺イケメン!と騒ぎ立ててケータイで自撮りを開始した時夫を尻目に、アイロンの電源を消した。誰かと一緒に映るならまだしも、自分一人の写真なんてどう考えても要らないだろ。


満足するまで撮ったのか、時夫はケータイを閉じた。


「俊喜もったいねーな、そんなゴッドハンド持ってんのに」


「お前ゴッドハンドの意味分かってる?」


「ゴッドなハンド」


「そのままじゃねーか」


時夫の馬鹿さに、俺の突っ込みが疲れ果てていた。溜め息をついていると、時夫が奇声を上げる。


「んだよ!うっせーよ!」


「カラコン!さっきおっさんから貰ったカラコン!」


「なぁせめてオーナーってつけろよ!おっさん可哀想だろーが!」


俺の怒鳴り声を尽く無視した時夫が掴んだのはカラコンの箱だった。なんかそんなのが渡された気がする。


カラコンが付けたいと騒ぐ時夫と二人で気持ち悪く狭い水道で手を洗うと、鏡の前の椅子に座って絶望した。


俺達二人、視力が良すぎてコンタクトレンズなんて目に突っ込んだ事ねーよ…。



勉強し過ぎて視力が悪くなったという奴とは反対で、勉強しなさすぎて視力がいいという最悪の理由が付いている俺らだった。


箱から新品のカラコンを取り出したのはいいけど、目の中にぶちこむ勇気がない。


顔を引き吊らせながら時夫を見ると、時夫も同じような顔をしていた。


「……時夫、もうカラコンなんて…つけなくてよくね?」


「いや、俺…付けてみたいな……つーか俊喜は付けないとやばくね?バレるじゃん…」


時夫の言葉に、仕方がないと思うしかなかった。カラコン付けないと駄目だ。バレる。


ああでもないこうでもないと時夫と話し合った結果、お互いにカラコンを目にぶち込み合うという事で落ち着いた。時夫はグリーンがいいらしく、そのケースを開ける。


何だか発色がいいそれは、とてつもなく恐ろしく見えた。女がカラコンを入れているのが普通だと思っていた俺なのに、急に尊敬の気持ちを覚える。


長い付け爪を付けていた元カノが人差し指の第二関節にカラコンを乗せて目に入れていたのを覚えているけど、どうしたらあんな神業ができるのか不明だ。あの根性は計り知れない。


人差し指の腹に一つを乗せて、小さく息をついた。これ付けたらもう無敵。そう自分に言い聞かせてから、時夫を見る。


「よし、やるぞ」


「うん」


「時夫、じっとしてろよ!これから目に異物突っ込むんだからな!」


「うん!」


左手の人差し指と親指で時夫の右目を精一杯広げて、右手の人差し指に乗ったカラコンを静かに入れた。手を離すと、時夫が何度か瞬きする。


片目だけグリーンで、発色良すぎて怖い。気合が失われないうちに、ともう一つを左目に入れると、別人の時夫が完成した。


鏡と向き合う時夫は、何故だか自分に酔いしれていた。俺のカラコンを早く入れろ。


「時夫!次俺!」


時夫の思考をぶった切るように怒鳴ると、時夫が肩を揺らした。


「分かったよ!」


時夫がグリーンがいいというから、俺は余りのヘーゼルだ。先に選ばせてやるという紳士の俺は、どこまでも紳士だった。男に紳士になっても仕方がないのに、どうして俺は男にばかり紳士になってしまうのだろうか。


カラコンを入れられる俺以上にビビる時夫になんとかカラコンを両目に入れさせて、鏡を見ると驚いた。


別人だった。


まるで別人になった俺と時夫がフロアに出ると、思っていたよりも人が来ていた。経営が危ないのならもっと人が少ないのかと思っていたけど、そうでもない。


昨日と同じようにキラキラしやがるチャラついた店内には、男と交互に女がいる。無意味に出る止まらない溜め息は、俺の罪悪感を増幅させ続けた。


あの中に混じったら、真知の事を裏切る事になる。ここでじっとしてたら時給発生しないのか?完全歩合制だから無理か。


そう諦めた時、時夫の腹が鳴った。時夫を見ると、何故だか優しげに笑われた。キモい。


「……腹減った…」


「店にいるお姉様に奢って貰え」


そう言いながら壁に寄り掛かると、時夫がそっか、と納得したように頷く。


「でもさ、メニューにラーメンとかあるかな?今めっちゃラーメンの気分やねんけど」


何故関西弁?と思ったけど、あえてスルーした。それ以前に、なんでホストクラブでラーメンを食べなきゃならないんだ。色気が無さすぎるだろ。


「ねーだろ。フルーツ盛りで我慢しろ」


「えー、フルーツって糖分多いから食べ過ぎたら太るとか聞いた」


口を尖らせて俺を見る時夫の目がグリーンで怖い。別にフルーツで腹いっぱいにしろと言っている訳ではないのに勘違いしているらしい。


すると、見慣れた顔の黒服が前を通り過ぎようとして、慌ててその腕を掴んだ。黒服は鉄也で、俺を見て首を傾げるから、本当に別人になれているようだ。


自分を指差して口を開く。


「俺、俊喜」


「え、」


「こっち時夫」


時夫を指差すと、鉄也は俺と時夫を交互に見てから目を見開いて、土下座でもするかのような勢いで頭を下げた。


「お疲れ様です!」


お疲れ、と言いながら肩を叩くと、鉄也が顔を上げる。別人になるって凄い事だけど、知ってる奴に気付かれないって結構寂しい事だ。


「お前なんでここにいんの?」


そう聞くと、鉄也は周りを軽く見渡してから苦笑いする。


「いや、ネカフェの給料が安いって清春に言ってたんですよ。そしたら竜さんにまで話行ってたみたいで、給料払うから黒服やらないか、って言われまして」


「あー、マジか。保護観中なんだから警察に見付からないように気を付けろよ」


「勿論っす!」


俺の言葉に元気よく返事をした鉄也は、じゃあ先に行きます、とフロアに戻っていった。


俺も周りにバレないようにしないと、と再び溜め息をつく。噂が出たら一気に広まるから、それだけはどうしても避けたい。


でもそれでも、俺には金が必要だ。しがない土木作業員の欲しいものは、意外と遠くてでかい。


「マキ君、聖夜君、」


マキか。いつかそんな偽名使ったな、と顔を上げると、オーナーのおっさんがいた。名前は聞いていないから知らない。


「マキ君、」


俺の顔を見ながらにこやかに言ったオーナーに、俺の源氏名だった事を思い出す。そういえば、さっき源氏名を何にするかと聞かれてそう答えたんだ。


俺は特に特徴的なニックネームもなければ、今までの人生で偽名を使った事なんて一度しかない。思い浮かんだのは前にワルサーの時に使った『マキ』だけで、無意識にそう答えてしまった。


自分で自分の罪悪感が膨らむ材料を作ってしまう俺は、やっぱり馬鹿だった。


オーナーは俺と時夫に名刺の束を差し出す。


「これ、名刺。一応作っておいたから、よろしくね」


「うっす、」


それを時夫と受け取った。


時夫の源氏名は『聖夜』。サチコの彼氏のセイヤ君から取ったらしい。どうやら時夫の中で八木のサチコへの片思い事件を引き摺っているようで、セイヤ君の名前を使ってしまったんだと思う。


セイヤ君の名前の漢字は分からないから、クリスマスになった。夜って漢字がつくと一気にホストっぽくなるのはどうしてなんだろうか。


名刺を見ると、黒地に金で店の名前と『マキ』の文字。こうして見ると男なんだか女なんだか分からなくて、ホストなのかキャバ嬢なのかも危うく思える。


俺は自分が名刺を使う時が来るとは思わなかった。まず、名刺を持つような職業に就けるとは思っていなかったし、名刺という言葉だけでインテリに聞こえる。


大学というだけでインテリだと思う俺は、どこまでもただの馬鹿だった。ホストでも名刺を持てるのなら、全然インテリじゃない。


夢が壊れた気がした。いたいけな少年の心を打ち砕いたホスト、許しがたし。心の中でナレーションしてみたけど全然元気にはなれなかった。


カラコンのせいだかなんだか知らないけど、左目が物凄く痒いのだ。そのせいで俺の元気度と戦闘力は50%くらい下がっていて、それに罪悪感80%を加えるとマイナス30%の戦闘力しかない。


ゼロを下回る程の、未だかつて経験した事がない怠さは半端じゃなかった。痒いと思ってもカラコンが怖くて掻けないし、最悪の気分。


マイナス30%の戦闘力でこれから完全歩合制で働こうというのだから(未経験の仕事)、俺の貧乏人根性は半端じゃない。怠さ以上に、自分の貧乏人根性が恐ろしい。


オーナーのおっさんの池谷にも勝るとも劣らないメタボっ腹を見ながら、目の痒さを堪える。オーナーのおっさんが店内をキョロキョロと見回したと思ったら、小さく手を上げた。


突然俺の方を見たおっさんは、笑う。


「マキ君、早速ヘルプ入ってみようか?」


「え、はい」


頷くと、おっさんに苦笑いされた。なんだ?ヘルプに入ろうって言ったのそっちだろクソが。なんだか妙に苛々する。


「マキ君、一応ケータイの電源は切っておいてね?それで……結婚指輪、外そうか、」


言いにくそうにおっさんが言って、俺は結婚指輪を外していなかった事にようやく気が付いた。


ケータイの電源を消そうとポケットから取り出したケータイを開くと、画面には真知とのプリクラがある。真知の顔を見ないようにしながら電源を消して、ポケットにしまい込んだ。


左手の結婚指輪に手をかけたら、やっぱり躊躇いの気持ちが生まれる。真知につけてもらってから、一度も外した事がなかった。血だらけの手の真知が震えながら付けた結婚指輪を外そうなんて、思った事もなかった。


でも、頭に浮かぶ物を消すことは出来なくて。ごめん真知、そう心の中で呟く。右手の親指と人差し指に力を込めて、結婚指輪を初めて外した。


ポケットの中に無理矢理押し込んで、おっさんを見る。おっさんはある席を指差した。


「あそこの席の、姫華さん。六本木のナンバーワンキャバ嬢で、幸成の一番の客」


店の一番奥の広いテーブルには、姫華だとかいう女と幸成がいた。明らかに周りの席とは違うそこは、VIP席とかそんな感じの所なんだろうと思う。


「幸成は次の客が来てそろそろ席を外すから、ヘルプに入って」


よろしくね、と肩を叩かれて、仕方なく白っぽいチャラついたフロアに出た。なんで素人にそんなでかい客任せるかな、と小さく息をついて、席に向かう。


俺じゃなくて時夫でも良くね、と思ったけど、時夫は俺以上にボケてるから駄目なんだと一瞬で察知した。


ダラダラ歩く俺を追い越して先にVIP席の前に跪いた黒服鉄也が幸成に何かを言うと、幸成は姫華に何かを言って席を立つ。


こっちに向かって歩いてくる幸成と目が合ったと思ったら逸らされてしまった。竜さんの知り合いだから恐ろしい奴だと思われているのだろうか。そんな事はないのに。


鉄也に笑顔を向けられて、それに小さく頷く。面倒だけど完全歩合制、俺は姫華の座るソファーの前で跪いた。


「マキです、よろしくお願いします」


「あれー、新人さん?よろしくね」


妙に高い姫華の声に顔を上げると、姫華と目が合う。大きな黒いカラコンを入れた妙に涙目に見える目をした、結構可愛い女だった。


失礼します、と言いながらソファーに座って、姫華に名刺を差し出した。


それを受け取る姫華の爪には薄いピンクのネイルがされていて、一つだけついたストーンが光っている。こんな金がかかってる女と一対一になるのは久々だった。


姫華が差し出してきた名刺は目がチカチカする程ピンク色で、濃いピンクの背景に薄いピンクで『姫華』と書かれていた。おい、色逆じゃねーか?見辛いんですけど。


名刺から視線を上げた姫華が首を傾げて笑う。


「マキ君か、いくつ?」


「18です、」


「えー、若い!あたしハタチ」


俺ってカラコン入れてると年相応に見えるのか。その事実になんだか悲しくなってきた。だが、仕事中。


「俺、今日がホストデビューなんで、姫華さんが初めてのお客様です」


適当に作り笑いを浮かべてそう言うと、姫華がそうなんだぁ、と言う。過るのは、高校時代に真知が俺の嘘の笑顔を見破った時の言葉。居座る真知は、消えてくれない。


私服なのか、細身の黒いワンピースを着ている姫華が突然俺の顔を覗き込んできた。


その瞬間に香ってきたのは香水の匂い。確かブルガリのジャスミンノワール。真知の匂いとは、違う。


そこまで濃い化粧をしていない姫華と視線が絡まる。黒いカラコンの目はやっぱり潤んでいるように見えた。


真面目な顔をして、姫華が口を開く。


「綺麗な目してるねぇ、」


……カラコンだけど。俺は純日本人だから本当は目真っ黒だけど。ヘーゼルなんてお洒落な名前の色はしてないけど。


「どこのカラコンか分かる?あたしもそれ欲しいな」


「いや、ちょっと…」


カラコンの名前までは把握していないと伝えると、姫華が自分の左目を指差した。


「目痛くない?赤くなってるよ?」


「あー、今日初めてカラコン付けたんで、」


「そっかぁ、あ、あたし目薬持ってるよ?」


俺から突然離れた姫華は、傍らに置いてあったバレンシアガのバッグからポーチを取り出す。その中から目薬が出てきて、姫華は俺の方を向いた。


「上向いて?」


「は?」


思わず素が出てきてしまったけど、姫華はそんな俺に気付いていない。俺の上に股がってきた姫華に少々引いてソファーの背凭れに背を預けつつ、膝立ちの姫華を見上げた。


「目薬、容器が睫毛につくとよくないから、あたしがさしてあげる」


「あー、どうも」


そういう事か、と上を向くと、視界に姫華の顔が入ってくる。姫華の長い髪が耳に触れて嫌な感じがした。姫華に故意に目を開かされて両目に目薬をさして貰って瞬きしていても、姫華は退かない。なんだ、この女。


「マキ君かっこいいよね、」


「え、」


「肌綺麗だし、綺麗な二重だし、全体的に整ってるよね?女の子に困った事ないでしょ?」


……いや、現在進行形で女に困ってるんですけど。誰かこの女退かせよ。内心そう思いながらも苦笑いすると、姫華の指が唇に触れた。


「ちゅー、しよっか?」


「は!?ちょっ、」


抵抗する隙もなく、姫華の唇が重なる。慌てて姫華の肩を掴むと、呆気なく離れた。


「グロス付いちゃった」


俺の唇を指で拭いながら笑う姫華が、悪魔に見えた。呆然とするしかない俺から退いた姫華から目を逸らすと、通りがかりか何かだったのか、鉄也が目を見開いて俺を見ている。


一部始終を、見られたかもしれない。これは不可抗力で、抵抗出来なかっただけだと鉄也に弁解しようと口を開いた時、姫華がソファーから身を乗り出して、テーブルに頬杖をついた。


「ねぇ、ピンドンよろしく」


姫華の声で、明らかに鉄也に向かって紡がれたそれに、鉄也が慌てて我に返ったように聞き返す。


「え?」


「だから、ピンドン」


訳の分からない事を言い出す姫華の腕を掴むと、姫華は俺を見て笑った。


「幸成からマキに指名変えるね?」


指名変えるって、何それ。


姫華から目を逸らせずにいると、姫華は鉄也を見てもう一度言った。


「マキにピンドン、よろしく」


最愛の女とたった一回のキスで結婚した俺に、たった一回のキスでピンドンを平気で頼むような客がついた。


俺の唇の値段、いくらだよ。鉄也がどこかにすっ飛んでいくのを、姫華に腕を絡められた俺は呆然と見ているしか出来なかった。


姫華は俺の肩に頭を預け始めるし、これ、どうなってんの?なんかおかしくない?俺初日から指名されたって事?ピンドンいくら?


疑問ばかりが浮かぶけど、目の前に広がる光景をどうにかする事なんて出来ず、遠くの方でババアの客の席にいる時夫が目を見開いて俺を見ている事しか理解できない。


ホストによるコールが始まり、ピンドンが運ばれて来たりして、訳の分からない出来事に苦笑いする事しか出来なかった。


遠くの方から幸成に睨まれてるし、姫華は俺から離れようとしないし、俺の頭にはぐるぐると真知が回っていて、初日から真知を裏切ってしまった事への罪悪感が更に膨れる。


ホストはまだしも、キスは駄目だろ。どう考えても浮気だろ。浮気じゃなくて、これは不倫だ。


でも気持ちは伴っていない。そんな苦し紛れ過ぎる言い訳ばかりが頭を苛むけど、姫華にピンドンを勧められて飲む俺はきっと、金に執着する駄目な男なんだと思う。


この調子で二週間稼いだら、給料はいくらになるんだろう。浅はかな感情は、数値に左右される。


人生で初めて飲んだピンドンは、何故だか味がしなかった。ピンドンは原価はそこまで高くないと聞いた事があるけど、俺が今までに飲んだ酒の中で一番高い事は確かだ。でも、美味いのか不味いのかすら分からなくて、やけ酒のように飲んだ。


俺は俺じゃない。俺は緒方俊喜じゃなくて、俺は緒方真知という名前の奥さんがいる緒方俊喜じゃなく、ただのホストのマキだ。


外見だけじゃなくて、中身も別人になればいいだけだ。さっき姫華とキスしたのは、俺じゃない。ホストのマキだ。


浴びるように酒を飲んだけど、虚しい事に全く酔えなかった。まだ消化もしていない真知との晩飯の隙間に押し込むように酒を流し込んでも、全く酔えない。


高い酒を飲む事よりも、姫華にベタベタ触られる事よりも、俺の適当な料理を食べて美味しいと言う真知を見る事の方が、俺にとっては何よりも重要だった。


数値化される世界は、どこまでも数値化にしか過ぎない。


それを分かっていたのに、選択を間違えた。


朝の3時、俺と同じペースで酒を飲んで酔っ払った姫華は俺をどこかに連れ出そうとしたけど、それには応じなかった。タクシーに押し込んで姫華を帰すと、俺は一気に現実に戻った気がする。


時夫と鉄也になんであんな事になったのか、と問い質されても何も言えない。キスされた、そしたら指名されて、ピンドン頼んでくれた。その事実に対して俺はどこまでも受け身。


全部姫華がやったことで、俺は何もしていない。


店の掃除をして、着替えてから時夫と鉄也と三人でそれぞれの家に帰った。まだ時間は朝の5時で、静かに家のドアを開けて風呂に入って、朝飯の支度をする。


飯を炊いて、適当に冷蔵庫に入っていたもので野菜炒めを作って、味噌汁まで作ったけど、眠くならなかった。


朝の7時でニュースが始まるのと同時に、寝室でアラームがでかい音を立てて鳴り始める。すぐに止まったそれは、真知が無意識に止めた事を俺に知らせていた。


一緒に住み初めてから、真知は一度も自力で起きた事がない。寝室のドアを開いてベッドに近寄ると、俺は途端に泣きたくなった。


真知は、俺の枕で寝ていた。俺が飲みに行って夜に家を空ける時はいつもそうだった。可愛くて仕方がないと思うのはいつもの事なのに、今は苦しくて仕方がない。


こんなに好きだと思う女がいるのに、俺は他の女に愛想振り撒いて何やってるんだ。


でも、見つめた自分の左手の薬指に絡まる指輪の責任は、俺が果たさなきゃいけなかった。どうしても、それが俺の単なる欲望で、願望でしかないと分かっていても、遂行したい。


ベッドの傍らに座り込んで、寝顔は幼く見える真知の髪を撫でて、いつものようにキスしようとした。だけど、真知から香る俺と同じシャンプーの匂いが、それを躊躇わせる。酔っていないとはいえ、俺からは異常な程の酒の匂いがした。


飲んで帰ってきて真知を起こそうとキスすると、目覚めた真知がいつもお酒臭いと言ってくる。それでさえも幸せで好きだったのに、俺の唇は、真知の唇に触れていい程綺麗なものじゃなかった。


今までキスした人数は何人だとか、確かな事は覚えていない。でも、真知と初めてキスしてから、俺は真知以外の人間とキスなんてしなかった。



なのに、俺の唇は姫華にキスされた唇になった。俺しか知らない真知の唇に、俺の唇は不似合い過ぎて、汚すぎる。


「……真知、起きろ」


真知の肩を揺らすと、薄く目を開けた真知の腕が俺に向かって伸びてくる。それは俺の首に回されて、抵抗なんてする気のない俺は簡単に引き寄せられた。


ベッドに横になる真知の肩に顎がぶつかる。髪に絡まる指が冷たいのは、真知が末端冷え症だからだと最近知った。


耳には真知の呼吸の音が届く。抱き締め返すことが出来ないのは、真知があまりにも、好きすぎるからだ。


「真知?朝だ」


「ん?……しらない」


いつもは小悪魔の癖に朝だけは女王様になる真知は、俺の頭を抱き締める力を強める。


「としき、」


「ん?」


「おさけくさい、です」


舌っ足らずの声が耳に響いて、無性に死にたくなった。


真知は、俺を許してくれるだろうか。他の女の匂いがする俺を嫌いだと言う真知は、他の女とキスした俺を、許してくれるだろうか。


許すとか許さないとか、そんな次元の問題じゃない。俺は言えない。絶対に言えない。


許して貰えなかったら、嫌だ。真知と離れるのが、心底嫌だ。だけど、ホストは辞められない。金が貰えるなら、辞めたくない。


再び聞こえてきた寝息に、真知の耳に向かって声を出す。


「真知、起きろ、」


「としきだまれ」


「何キャラ、それ」


「ん?………」


返事を寄越さない真知の耳に噛み付くと、真知の肩が揺れた。腕の力が抜けた事に便乗して体を離すと、真知が目覚めたのか目を白黒とさせている。


「おはよ」


「お、おはようございます」


「朝飯出来てるから、早く起きろ」


俺に噛まれた耳を押さえる真知の頭を撫でて、寝室を出た。


いつもの朝なのに、いつもの朝じゃない。俺は真知と暮らし始めてから、初めて、キスをしないで真知を起こした。


心が冷える。真知が足りない。でも、触れられない。


俺は実家まで真知を送って、普段通りに土木の仕事を始める。


時夫はシフトが入っていたが休んでいた。時夫の親父さんである親方は時夫に怒っていたけど、仕方がない事だと思う。昨日だって普通に仕事をしてから一晩中酒を飲んでいたんだから、仕事に来れないのは当然だ。


聖には散々酒臭いと言われたけど、返す言葉はなかった。増幅する罪悪感は俺のテンションを下げさせて、昼休憩に入る頃には聖にビビられて話し掛けられなくなった。


自業自得、だ。俺の逆鱗に触れないように明らかに気を遣ってくれているだろう聖に笑ってやる事も出来ず、聖と二人で入った牛丼屋でも溜め息を繰り返し、俺が溜め息をつく度に聖が肩を揺らす。


完全にビビられていたけど、言葉を発するのも疲れる。水を飲みながら死にそうになっていると、ケータイのバイブが鳴った。


こんな時に誰だよ、と思いながらケータイを開くと知らない番号が表示されている。誰かがケータイ替えたとかそんな事かもしれない。通話に切り替えて、電話に出た。


「あい、誰?」


「もしもし?寝てた?」


女の声。今どうにもならない自己嫌悪に陥って最悪の気分なのに誰だよクソ。無言でいると、もう忘れちゃったの、と電話の向こうで女が言う。


「あたし、姫華。朝まで一緒だったでしょ?」


……悪魔がケータイにまで降臨したんですけど。怖いんだけど。なんで?


「……なんでケータイの番号知ってるんですか?」


真顔のまま精一杯の優しげな声を出すと、隣の聖が水を溢した。すいません、なんて叫んだ聖が水を布巾で拭き始める。


「あれ?外なの?」


「まあ、外です。あの、番号はなんで?」


「だって名刺に書いてあったよ?」


姫華の声に笑うしかなかった。オーナーのおっさんの仕業だ。確かにおっさんとは連絡先を交換したし、名刺を作ったのはおっさんだ。


俺が結婚してるって知ってるくせに、義理も人情もない奴じゃねーか。おっさん、今日会ったら一発だけ思いっきり殴ってやる。


「……あの、何か用事ですか?」


ストレートに早く切れと言いたい所だったけど堪えてそう言った。


「……用事なかったら、電話しちゃ駄目なの?」


……すいません。用事が無くても電話してきていいのはこの世に真知だけしかいません。あいつはかけてきてくれないけど。



どう返していいものか。俺のボキャブラリーでは言葉が思い浮かばなくて黙り込むと、姫華の溜め息が耳に届いた。


「マキ狡いなぁ」


どこが狡いんですか。俺はあんたに対して狡い事はしてない。間違いなく、真知には狡いと言われても仕方がないことを繰り返しているけど、姫華には言われたくない。


「でも用事はちゃんとあるんだよ?今日、六本木のうちの店、来れないかな?」


「なんで?」


「今日は仕事あって、そっち行けないから、」


……なんで毎日会う必要がある訳?俺、キャバクラ行く程金ないし、キャバクラ行ってまた真知を裏切るくらいなら、海で漂流する方がマシ。


「すいません。昨日入ったばかりなので、休めません」


「オーナーとかに言ってみても駄目?」


「俺、この世界で生きていきたいと思ってるので、初めが肝心じゃないですか。上京してから間もないし、あんまり土地勘無くて」


真っ赤な嘘を吐いてみた。そっかぁ、と残念そうな声を出す姫華に今日は会わなくて済むらしい。そう思うと、やけに心がスッキリした気がする。


じゃあまたお店で待ってます、と社交辞令を吐いて電話を切った。気がついたら聖はトイレに行っていたようで、トイレから戻って来た。


スッキリした気がしただけで、心は重いまま。聖と二人で牛丼屋を出ると、現場に戻って午後の仕事をした。寒いからか全く眠くならなくて、キッチリ仕事をしてから真知を迎えに行き、家まで送る。


飯を作って真知と二人で食って、俺は早々と着替えてデニムのケツポケットに財布を突っ込んだ。不思議そうな顔をする真知に、今日は鉄也と飲んでくると行って、家を出た。


俺、最低。そう思っても、ホストクラブに向かう足を止める事なんて出来ない。


またウィッグを被って、元気に出勤してきた時夫の髪をセットしてから昨日と同じように立っていると、眠くなってきた。


立ちながら寝そうになる俺を、時夫が揺さぶってくる。


「俊喜、今日普通に仕事行った?」


「……行った」


「眠い?」


「……うん、」


一回ロッカー室で寝てこいよ、と時夫が俺に言った時、オーナーがすっ飛んで来た。またヘルプとかそんなのかもしれない。



「マキ君、姫華来たから!」


あれ、今日仕事で来ないとか言ってなかったっけ、とぼんやりと思う俺の腕をオーナーが引っ張って半ば引き摺られるように歩いていると、鉄也に連れられた姫華がいた。


俺を見て、姫華は恥ずかしそうに笑う。


「会いたくて…来ちゃった」


……誰かこの悪魔をどうにかしてください。そんな叫びは誰にも聞こえなかったのか、俺は姫華に腕を組まれてVIP席に再びつくことになった。


ソファーに座ると眠気が増してくるもので、俺は売り上げとかどうでもいいから早く姫華を帰そうと思い、強めの酒を作って姫華の前に置いた。


「……今日仕事じゃなかったのか、」


眠すぎてタメ口になってしまったけどどうでもいい。眠いから姫華早く帰れ。テーブルに頬杖をつくと、姫華は俺を上目遣いで見る。真知程の破壊力はなかった。


「だから、会いたくて。仕事休んで来ちゃったの」


「……あー、そうなの、か、」


「うん、」


姫華が何かを話始めたけど、俺の耳には全く入ってこない。姫華の上目遣いを見たせいか、頭の中には真知の上目遣いが浮かんでいて、それが更に眠気を連れてくる。


触れられないからこそ、頭に浮かぶ真知を消したくない。このままずっと、真知がいればいい。真知が、夢の中の俺を逃がさなかった理由がやっと分かった気がした。


夢の中には真知がいるのに、その隙間から入ってくる姫華の声が煩わしい。あいつの声はもっと落ち着いてて、煩くない。大体、あいつは騒いだりしない。


うとうとしながら、夢の中の真知の洗濯板みたいな左腕を掴んだけど、そこに悲しい感触はない。真知じゃない、嫌だ。そう思って手を離すと、手を握られた。


真知の指はもっと細くて冷たくて、乾燥してる。これは真知の手じゃない。妙な不快感を感じても睡魔に逆らう事は不可能で、俺はそれに従った。


真知がいい。理由は分からない。でも好きだから、あいつがいい。


真知が遠い。見える背中が寂しそうで、抱き締めてやりたい。追いかけても追いかけても、あいつとの距離が縮まらない。


逃げるなって何度も言ったのに、あいつは俺からすり抜けて逃げようとする。俺を掴んで離さない癖に拒否するから、あの女は狡い。


追いかけてその手を掴んで、引き寄せた。でも真知が振り返った瞬間、姫華の顔になる。一気に鳥肌が立って目を開くと、目の前には姫華がいた。


俺の手は姫華の手首を掴んでいる。俺を見下げる姫華に、自分の置かれた状況を瞬時に理解した。姫華が俺を見下ろしていて、俺の頭の下には姫華の脚。膝枕、されてた。


慌てて手を離して起き上がろうとすると、姫華の手で膝に戻された。それを見ていると、姫華が笑う。


「他のホストだったら怒っちゃうけど、マキは別」


「……は?」


「眠いなら寝てていいよ?」


おやすみ、と頭を撫でられる。姫華は俺を膝に乗せて当然のように酒を飲んでいて、なんだか無性に、真知に会いたくなった。


この膝枕が真知の物ではない事はもう分かっていて、分かっているのに全然違うと思ってしまう。


菊地に刺された時だけしか体験した事がない真知の膝枕。意識が朦朧としていたのにも関わらず、比較対象があるとハッキリと思い出せるのはどうしてなんだろう。


真知の膝枕はもっと低かった。それは真知の脚が細いからで、真知の涙が顔に落ちてくる。今落ちてくるのは、姫華が持つグラスについた水滴くらいで、涙なんて綺麗なものは落ちてこない。


真知とは、違う。比べるのは確実に間違っていたし、姫華に最低な事をしていると自覚していても、真知が消えない。消せない。


賑わう店内は、俺からは見えなかった。天井が白くて、それさえも真知の肌と同じ色だと思ってしまう俺は、相当頭がおかしくなっていた。


でも自分で選んだこの仕事を途中放棄する事は不可能。とりあえず姫華の膝から起き上がって時計を見ると、もう午前2時になっていた。


「……ごめん、寝て、」


そう言うと、姫華は俺の腕を撫でて目を細める。


「全然いいよ?マキ寝顔可愛いんだもん」


なんかお世辞をぶちかまされたけど、スルーしてテーブルの上にあった酒を飲み込んだ。店内の空調が効いているせいか、喉が渇いて仕方がない。


「でも膝枕っていいよね、女の子が唯一、男の子を支配してるって感じに浸れるでしょ?」


反射的に姫華を見ると、姫華に腕を絡められた。


「女の子にも征服欲ってあるんだよ」


その瞬間、俺は罪悪感に苛まれて、小さく息を吐き出した。



真知と姫華が俺を膝枕した時の状況が全く違う事に気付いて、真知に申し訳なくなる。


真知は菊地に刺された血塗れの俺が膝の上で弱っていくのを見ていた。俺が膝の上で寝ていた訳ではなく、死にそうになっていたのだ。


他の女の膝の上でのうのうと寝てしまった俺を、俺はぶん殴ってやりたかった。氷が溶けて薄くなった酒を流し込むと、喉が熱くなる。でも、俺に泣く資格はない。


それから一時間、昨日酔っ払って払えなかった分の精算まで済ませた姫華を店の外まで送る。ほろ酔いの姫華は俺にぴったりと貼り付いて離れなくて、なかなかタクシーに乗らない。


「姫華、」


いつの間にか完全にタメ口になっていたけど、姫華は気にしていないようだ。大きく開いた俺のシャツの胸元に手を突っ込んでくる姫華は俺にキスの催促をしてきたけど、それとなく拒否する。


欲剥き出しの大胆な女って、怖い。好きな女ならいいんだけど、好きでもない女にされると面倒臭くなる。


「マキ、連れて帰って?」


「……また今度な」


絶対連れて帰る気ないけど、とりあえず言った。姫華の髪をあやすように仕方なく撫でていると、遠くの方から蛍光グリーンのウインドブレーカーが歩いてくるのが視界に入る。


げ、池谷だ。そう思ったけど、俺はウィッグとカラコンで別人になっている。気付かれる事は無いだろうと思った時、池谷と目が合った。


何故だか目を見開いた池谷がこっちに向かって歩いてくる。やばい、バレたか?池谷から慌てて目を逸らして姫華の体を離そうとしても、姫華は俺に更に引っ付いてくる。


「マキ、やぁだ、離さないでっ」


「姫華、そろそろ帰った方が、」


「じゃあマキも一緒に帰ろうよっ」


首に顔を埋めてくる姫華を引き剥がそうとしても離れない。なんだよこいつ。


「姫子!」


聞き慣れた池谷の怒鳴り声が紡いだのは、俺の名前ではなく女の名前だった。姫華は弾かれたように俺から離れて、声の方を見る。


「……お父さん」


「…は?」


俺がそう聞き返した時、池谷が姫華の腕を掴んだ。


「姫子!お前こんな所で何やってるんだ!」


「やめてよっ!お父さんには関係ないっ!」


……は?池谷がお父さん?池谷が姫華のお父さん?


姫華が池谷の腕を振り払っているのを苦笑いで見ていると、池谷が姫華をタクシーに無理矢理押し込んでドアを閉めた。


タクシーの運転手は酔った人間に慣れているのか、すぐにタクシーが走り出した。嵐のような出来事に呆然としていると、池谷が俺に頭を下げる。


「うちの娘が申し訳なかった。客だから無理矢理は出来ないんだろうが、帰らなかったら強引にタクシーに乗せて貰って構わない。仕事中に迷惑をかけて申し訳なかった」


「え、いや、大丈夫…っす、」


池谷は頭を上げて夜の街に消えていった。この街で長いことマル暴として刑事をしている池谷は、ホストの事を尊重してくれるらしい。


池谷に頭を下げられた経験なんてなかった俺は、池谷のセンスの悪いウインドブレーカーを着た背中を眺めている事しか出来なかった。


そういえば、池谷の娘、キャバ嬢だとか言ってたっけ。姫華が娘だったのか。全然似てなくて勘づく事さえ不可能だった。池谷の奥さんどんな顔してるんだ。


突然変異を信じるしかない親子の容姿の違いに溜め息をつきながら、店内に戻った。


それから店の掃除をしてから家に帰って飯を作って、真知を起こして仕事に行く。昨日と同じ日を過ごす。


姫華からの電話がなかった事が唯一の救いだった。何も考えないように無心で仕事をする俺に聖はビビっている様子。


時夫は今日も仕事には来なかった。クソヤローだ。


また真知に飯を作って、時夫と飲むと言って家を出る。三日連続で飲みに行く事なんて無かったから、真知は少しだけ寂しそうな顔をした。


愛されてると分かっているからこそ、辛かった。キスしたいのに出来なくて、目を見たいのに見れなくなってしまう。好きだから遠く感じて、自分の汚れを自覚してしまう。


自分が真知と比べたら汚い人間だということは、重々承知の上だった。だけど、ここまで実感する事は今までなかった。


金を稼ぐ理由が口から溢れそうになるのを堪えて、飲み込む。俺の欲望と願望は、最大限に膨れ上がっていて、それに比例して罪悪感まで増えていく。


その夜、姫華は店に来なかった。その代わりに時夫とヘルプについたババアの席で俺は散々飲まされたけど、全く酔えなかった。酒が強くなりすぎたのかもしれない。いや、酔いよりも罪悪感が勝って、駄目だったのかもしれない。


求めるものは近いのに遠くて、当たり前が当たり前じゃなくなる。俺は間違いなく欲深くて、それを見破られないようにするのが精一杯で、言葉には到底表せないような感情に苛まれて、呼吸も出来ない。


適当に口に出来るなら楽だった。でもそんなの絶対に無理だから、自分の中にだけしまって、誰にも言いたくなくて、それに触れるのも嫌になる。


自分で自分の中のものに触れただけで、皮膚を突き破って出てくるかもしれないと思ってしまう程に膨れ上がっていた。


皮膚の下はすぐにそれ。責任なんて言ったら自己中心的過ぎると、責任転嫁にしか過ぎないと知っていても、それ以外の言葉は見付からない。


たまたま重なった昼間の六連勤と二週間のホストの仕事。ホストを始めてから仕事に来ない時夫と違って、俺は六連勤五日目も普通に出勤して仕事をして、ホスト四日目に突入した。


真知と実家でまかないを食って、真知を家に送る。真知にはまた嘘をついた。真知は渋々頷いてくれて、俺は着替えもせずに家を出た。


ホストクラブで準備を終えると、ヘルプに入る前に寝ておけと時夫に言われてロッカー室で眠りにつく。


だが、オーナーに叩き起こされて起きる羽目になったのは寝てから30分後のことで、仕方なくジャケットを掴んでフロアに出ると、昨日見なかった悪魔が俺に向かって微笑んでいた。


「マキ!」


最悪。内心ではそう思っていても口には出せなかった。遠慮なんて言葉を姫華は知らないのか、無言で突っ立った俺に腕を絡めてきて強引にVIP席まで歩き出す。


「一昨日はごめんね?父親煩くて」


「…あー、いや、大丈夫…」


眠すぎて瞼が重く、いつ目を閉じてもおかしくない状態の俺に姫華が頬を膨らませる。この女に池谷の染色体が入っているとは信じがたかったけど事実は事実。


姫華とソファーに座って姫華をさっさと酔わせる為に一昨日よりも強めに酒を作ってやろうと意気込んでグラスを取ろうとした俺の手を姫華が掴む。


「ねーえ!ピンドン!」


どこかにいる黒服に放った姫華の髪は、今日はストレートだった。

03


相変わらずのジャスミンノワールの匂いに、眠らないように瞬きを繰り返していると、姫華に顔を覗き込まれる。


「マキ、今日も眠いの?」


「……いや、違う」


「寝てもいいよ?膝貸してあげる」


「……いや、いい」


今日は絶対に寝ない。これ以上罪悪感を増やしたくない。そう思っている最中にもピンドンのコールが始まる。


俺はテーブルに頬杖をつきながらそれを遠くに聞いていた。眠くて仕方ないし、とりあえず眠らない事に専念しなくてはならない。


昼間の仕事の疲れと昨日の夜の疲れが抜けなくて、ずっと飲んでいるから酒の匂いが消えない。いつもなら、ホストなんてしてなければ、真知を抱き締めてベッドで寝ると疲れなんて簡単に取れるのに。


俺の腕にウザいくらい貼り付いてくる姫華が離れたと思ったら、姫華はピンドンの入ったグラスを持って俺の隣に戻ってくる。


睡魔と戦う俺とは対称的に元気そうな姫華はよく眠れているのだろう。まあ、夜も仕事しながら昼間も仕事をしている奴なんて俺くらいだと思うけど。


「マキ、口開いて?あーん、って」


ソファーの上に膝立ちになった姫華を見上げて大人しくそれに従って口を開いた。なんで俺、こんな女に従順になってるんだろう。


頭の隅で自問自答しつつ、ぼんやりと姫華を見上げたまま口を開いていると、姫華がグラスに口を付けて、俺の後頭部に手を回してくる。


その次の瞬間、姫華と唇が重なって、冷たい酒が口の中に入ってきた。入りきらなかった酒が口の端から溢れて、その冷たさにはっきりと目が覚める。


リップノイズを立てて唇が離れて、姫華が笑う。


「あたしの膝の上で寝ないなら、寝ちゃ駄目」


再び落ちてきた唇に、もう逆らわなかった。どうでも良かった。キスなんて減るもんじゃない。したければ勝手にすればいい。


俺なんて、もうどうなってもいい。唇が離れて、姫華は俺の肩に頭を預けてくる。まるで街中で堂々とイチャイチャするカップルのように滑稽に思えた。


自業自得の癖にやけになった俺は、いつもに増して酒を飲んだ。ベロンベロンに酔っ払ったら全てを忘れられる気がした。キスで罪悪感を覚えた俺を忘れたい。


ベロンベロンに酔っ払ったけど、罪悪感は心の奥底で燻っていた。自分から仕掛ける事はないけど、姫華には何度もキスされたような気がする。




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