巨乳嗜好の本当は片思い
時夫と聖と一緒にヘルメットを戻すと、聖が突然時計を見て慌て出す。
「ああっ!俺、今日彼女と待ち合わせしてましたっ!忘れてたっ!」
作業着から慌ててケータイを取り出す聖を見ながら、壁に寄りかかった。聖の彼女、なんて名前だったっけ。
「なんだっけ?ユカリじゃなくて、えっと…」
「由佳子ですっ」
「ああ、それそれ。由佳子」
最近由佳子という彼女が出来た聖は、由佳子にゾッコンだった。昼飯の度に電話するほど二人の仲は熱いらしい。
真知、俺に電話してこい。遠くを見ながらそう思ったけどまだ俺に遠慮しているらしい真知は用事がない限り電話なんかかけてこない。まあ、一緒に住んでるから電話する必要もないんだけど。
仕事復帰を果たして早三週間。最初は鈍った体に鞭を打ちながらの仕事だったけど、もう慣れてきた。
時夫は聖が由佳子にメールしているのを涙目で見ていた。前の合コンのサキちゃんには本気になれなかったらしい。一晩で終わったとかなんとか。
ケータイから目を離した聖が口を開いた。
「あ、つーかお二人に聞きたかったんですけど、結構いいラブホ知りません!?」
「うーわ、来たよ肉体関係」
溜め息混じりにそう言うと、聖がなんすかその言い方、と目を見開く。
「由佳子と初めての泊まりなんです」
デレデレと笑う聖を蹴ってやりたくなった。なんかムカつく。そんなどす黒い気持ちを抑えて、ポケットに手を突っ込んだ。
「由佳子いくつだっけ?」
「タメです、高一!俊喜さん達と同じ高校ですよ!なんか友達ん家泊まりに行くって親に言ってるみたいで、」
「健全系女子高生じゃん」
健全系女子高生がなんでこんな紫頭に引っ掛かるかな。健全系女子高生をラブホに連れ込もうとしている聖に紳士の笑みを浮かべると、ひっ!と怯えられた。なんでだ。
時夫が俺の肩をまあまあ、と言いながら叩いてくる。お前は俺の何を知ってるんだ。
「俺、風呂がなんかブクブクしてる所が一番オススメ」
時夫が笑いながら言った、言葉を知らない説明の下手くそさに苦笑いした。
「時夫、それジャグジーな。でもあそこ超旧式でパネルじゃねーからやめとけ」
「いやいや、俊喜時代遅れだな?あそことっくにパネルになりましたけど」
「マジで言ってる?」
マジマジ、と頷く時夫に、自分の時代遅れ感を悟った。そういえば、俺が最後にラブホに行ったのなんてもう一年も前の話だ。
時夫が聖にラブホの名前を教えていて、自分の老化を実感した。
何度目か分からない程に思ったそれから意識を反らすように聖の顔から目を逸らすと、聖のケータイの画面が目に入った。
「……聖、画面赤くね?」
なんかプルプルしたハートに埋め尽くされた画面を指差すと、聖が見ないでくださいよぉ、と笑う。画面が赤すぎて文字がなんて書いてあるのかは分からないし分かりたくもないけど、目がチカチカして視界から排除した。
「由佳子ハート好きなんですって!」
「へー、由佳子ハート好きなんだ?じゃあ今日の下着ハート柄じゃね?」
時夫がにっこり笑いながら言うと、聖がマジっすか、なんて言い出す。
「ハート柄とか燃えねーだろ普通に」
事実だけを吐き捨てると、時夫が真剣な表情で俺を見た。
「俊喜……なんでそんな冷めてんの」
「めっちゃ燃えますよ!ハート柄だけにハートが!」
聖は上手く言ったと思っているんだろうが全然上手くないし面白くないし、浮き足立ちすぎてなんか物凄く殴ってやりたい。
一つ溜め息をついて、聖に語りかける。
「最初から下着とか予想するなんて悪趣味な事やめろって俺は言いたいんですわ。由佳子ベージュだったらどうすんだ。お前顔に出るタイプだから明らかに落胆して由佳子を悲しませるだけだろーが」
「さすが俊喜!優男だわー」
「紳士と言え」
早くメール送れよ、と聖に言うと、聖は真っ赤なメールを光の速さで送信した。あんなメール、俺なら受け取りたくない。
だけど可愛い後輩だからと思い、聖の肩に手を乗せた。
「頑張れ。ちゃんと避妊しろよ?持ってるか?」
「あ……」
「持ってねーのかよ!」
俺が思わず怒鳴ると、聖がすいません!と言う。
「今日は俺、俊喜のお袋さんとこで飯食ってく。帰ろ」
「うん」
ドカジャンのポケットに手を突っ込みながら時夫と二人で事務所の人間に挨拶しながら、事務所を出る。
2月の冷たい空気に白い息が浮かんだ。もう外は暗くて、一日の終わりを感じる。
ふと、時夫を見ながら口を開いた。
「久人と悟、暇してるらしいな。俺んとこ毎日電話かかってくるんだけど」
「俺んとこもかかってくる。自由登校だろ?いいよな」
昔からつるんでた四人の中で高校を卒業したのは二人だけという結果になったけど、昔から考えるといい結果だとも思う。
段々腹が大きくなってくる沙也加を養っていく為に、悟は亮平と同じ所の塗装の仕事に就くらしい。悟の家はまあまあ裕福だから働かなくてもやっていけそうだけど、悟は意外と真面目な奴だった。
「あ、つーか久人で思い出した!一昨日八木ちゃんと飲んだんだけど、」
「うん」
「八木ちゃん酔っ払っちゃって、衝撃の事実が発覚した」
足を止めた時夫と一緒に足を止めると、時夫が遠くを見て言った。
「八木ちゃん、実はサチコの事好きだったんだって…」
「……マジ?でもあいつ微乳派とか言ってなかったっけ?」
「嘘らしいよ。ほら、サチコに彼氏が出来た手前言えなかったんだって」
時夫の言葉に、俺はプードル八木の頭を撫でてやりたくなった。俺、サチコの恋愛相談のって、セイヤ君とくっ付けちまったじゃねーか。なんて最悪な事をしたんだ。
言ってくれれば八木の株を上げるような事したのに…。
「やべー俺、超泣きたい」
「俊喜のせいじゃねーって!八木ちゃんが言わなかったのが悪い」
「いや、…八木に悪い事した、俺」
項垂れる俺は、時夫に無理矢理引っ張られて歩き出した。そういえば、この前の合コンの時もおっぱいの子がいいとかなんとか言ってたみたいだし、明らかに巨乳のサチコを引きずってんじゃねーか。
俺の肩を叩いた時夫が我が物顔で言う。
「まあ俊喜、気にすんなって!八木ちゃんの人生これから!山あり谷間あり!」
「山あり谷あり、な」
言葉間違えてんだよ、お前。
少し軽蔑の目で見ると、時夫がなにその目、と続ける。
「ま、これから聖と由佳子にも何が起こるかわかんねーだろ!それと一緒!」
「お前どんな最悪な結末期待してんの?」
苦笑いで聞くと、時夫が胸の前で両手を振った。身ぶり手振りが激しい。
「してないしてない。なんか眩しくてぶっ壊したくなるだけ」
「お前いつからそんな歪んだ人間になったんだ」
「ちょっと眼鏡かけたインテリの淫乱な女が見付かったら正常に戻るから連れてきて」
「人任せかよ」
鼻で笑いながら言うと、時夫が仕方ないよね、と腕を組んだ。
「まっちみたいなインテリ美人を自主的に捕まえた俊喜ハンターには、色んなインテリがかかると見た」
「何俊喜ハンターって。ダサいからやめてくんない?ネーミングセンスどうにかしてくんない?つーか俺に引っ掛かったインテリなんて真知だけだし」
突然時夫が大声で歌い出して頭を叩くと、ハンターハンターの主題歌、と真顔で主張してくる。主題歌はいいから、いきなり歌わないで欲しい。
俊喜は厳しいんだからもう、と気持ち悪い裏声を出した時夫が煙草に火を付けると、煙が辺りに漂う。
「なぁ俊喜、前の一橋の時のインテリメガネ、『noiseless』から出てきた所見たって、清春言ってた」
声を抑えて時夫が言ったそれに、足元を見下げた。安全靴の爪先についた固まった泥が街灯に照らされて目立つ。
清春か、と思い、時夫に視線を移した。
「清春って昼間ふらついてんの?」
「いや、組の仕事ちょっとやってるっぽい」
「あー、組からアパートも用意されたんだっけな」
タマさんから聞いたそれを言うと、時夫が頷いた。矢崎組がどれだけバックについていようが、ただで部屋用意する程優しい組じゃない。そんな組だったら、ここまで勢力を拡大できるはずがない。
時夫が辺りを見回しながら口を開く。
「池谷からもう話来てるだろ?一橋の幹部が消えたって」
「まあ聞いてるけど」
「気を付けろよ、俊喜」
真面目な顔で時夫が言って、なんだか笑いたくなった。なんで皆、こんな真剣になっているんだ。
「お前、池谷予備軍?同じ事言ってんじゃねーよ」
「ふざけてねーからな、俺。またお前が刺されたりするかもしれねーと思って言ってんだ」
少し声を荒げた時夫から目を逸らした。
「あー、池谷には次こそ消されるかもって言われた。でもそんなの気にしてたって仕方ねーだろ。死にたくねーからって外に出ないで生きる訳にはいかねーんだから」
結局、そういう事。この世の中には、人殺しと呼ばれる奴らが沢山いて、ファンタジーみたいな話だけど雇われた殺し屋がいるのも事実。
ヤクザが拳銃を持って歩いているのかは聞いた事がないし聞きたいとも思わないけど、俺は火薬の匂いがするタマさんに会った事があるから、弾ぶちまけてるのはきっと嘘じゃない。
もしかしたら街ですれ違う人間が快楽殺人犯かもしれなくて、ヤクザかもしれないこんな世の中で、気を付けろと言われたって仕方がない。
死にたくないのは山々だけど、ほとぼりが冷めるまで家の中に引きこもっていたら飯が食えなくなってしまう。
時夫が俺の前に出てきて、俺の行く先を阻む。
「俊喜、お前な、もっと考えろよ?」
「大丈夫だよ、シュンが年少ぶちこまれたくらいで逆上するような連中じゃねーから」
「だからってな、前みたいな事が起こらないなんて確証はねーんだぞ」
「時夫落ち着けよ。大丈夫だろ、つけられてる気配もねーし」
「そうだけど、っうおあっ!」
いきなり奇声を上げた時夫に目を見開くと、時夫が俺の視界から消えた。何?神隠し?イリュージョン?もしかして時夫ってそんな感じの奴だった訳?
次会ったら、サイン貰っとこ。そう思った時、下から時夫の声がした。なんだ、イリュージョンじゃねーのかよ。
「俊喜!ちょ!」
声の方を見下げると、呻き声を上げるメタボなおっさんの下敷きになっている時夫がいた。このおっさんが飛んできたから、時夫が急に俺の視界から消えたって訳か。
しゃがみ込むと、おっさんは時夫の存在に気付く事なく腹を押さえている。まさかの虫垂炎ですか?紳士な俺は心配になっておっさんの腕を掴んだ。
「おっさん、どうした大丈夫?」
おっさんは俺の言葉に返事をする余裕もないのか、呻き声を上げているだけだ。病状を言えよ。病院連れてってやるから。
おっさんの下にいた時夫が俺のドカジャンを掴んできて、時夫に目を向けた。
「俊喜!おっさんはいいからまず時夫君を助けよう!」
「いや、おっさんめっちゃ苦しそうだし、おいおっさん、腹いてーの?」
おっさんを軽く揺さぶっても、おっさんは脂汗をかいているだけで応答してくれない。グレるぞ。
「俊喜ー!このメタボリックなおっさんに下敷きにされた俺の方が苦しいー!」
「時夫!俺、今おっさんと話してる」
「おっさんと話す前に俺を助けてよー!」
そう時夫が言った時、突然おっさんが視界から消えた。今度こそイリュージョン?そう思っておっさんが消えた方を見上げると、黒髪パーマで笑うドS若頭がいた。
広域指定暴力団劉仁会矢崎組若頭の竜さんは、やっぱりヤクザには見えないのに、おっさんの胸ぐらを掴んで笑っている。
「俊喜、時夫、お疲れ」
「何やってるんですか」
苦笑いで聞くと、竜さんの後ろから顔を出したタマさんと目が合った。タマさんは親指で後ろを指差す。その先を見ると、ここらじゃ有名なホストクラブがあった。
「あそこのオーナーのおっさんだ」
タマさんが平然と言ったそれから、おっさんが呻く理由がサッパリ理解出来ない。おっさんは竜さんを見てごめんなさいと繰り返していて、何だか厄介な事が起きているという事だけは分かる。
そして俺は、竜さんの側近のポチさんがいない事に気付いたけど、この前インフルにかかったと直々に何故か電話がかかってきたのを思い出した。ヤクザもウイルスには勝てない。
酷く怯えているおっさんとは対称的に、竜さんは笑っていた。目が笑っていないように見えるのは俺だけじゃない筈だ。
起き上がった時夫に何故だか抱き付かれて最悪なシーンになっている。何だかヤバい空気が漂うヤクザを見ながら、男に抱き付かれているなんて最悪以外の何物でもない。
「竜さん酷いっすよ!俺目掛けておっさん投げましたよね!?」
「いや、おっさんが時夫に吸い込まれていくみたいな感じ」
耳元で時夫の声が聞こえる事に不快感を否めないけど、時夫の背中を撫でた。俺ってやっぱり紳士。
冷酷非道な竜さんはおっさんの腹に見るからに重そうな蹴りを入れた。おっさんは道路に伸びて苦しんでいる。あ、虫垂炎じゃなかったのか。
しゃがみこんでおっさんの腹に拳を思いっきり落とした竜さんが俺を見て笑った。俺が殴られる訳でもないのに鳥肌が立った。
「あそこのホストクラブ、うちがみかじめ取ってるんだけど、なんか経営がどうのとか言って払わないんだよね」
「引き抜きっ、引き抜きにあって店が回らな、」
「そんなの俺からしたらどうでもいいの。払ってよ、みかじめ。何ヵ月分滞納してんの?こっちだって待ってやったけど払わないから俺が出張ったって分かってるよね?」
どこまでも冷静な竜さんに必死になるおっさんが酷く滑稽だった。俺はヤクザに誘われたけど、絶対にヤクザにはなれなさそうだ。
「とりあえずサツ来る前に店に入った方が良くないすか?」
苦笑いで店を指差すと、竜さんがそうだね、と言って立ち上がる。タマさんがおっさんの着たワイシャツの首根っこを引っ付かんで引き摺るのを見ていたら、おっさんがどうしようもなく可哀想に思えた。
おっさん、ドンマイ。心の中でそう呟きながら時夫の背中を再び撫でた時、竜さんが突然振り返った。
「俊喜と時夫もおいで」
……先輩の命令に背けるだけの度胸は俺にはなく、時夫と二人で立ち上がって、竜さんの背中を追い掛けた。
ホストクラブのドアを潜ると、ホストが異常に自分の美しい容姿(別にそうでもないような気がするけど)に浸っているような個人写真がズラリと並んでいた。
その奥には妙にきらびやかな店内が目に入る。ホストクラブに定休日があるのかどうかは分からないけど、何故だか客と思われる女は一人もいない。
代わりにホストがしんみりとした様子で客席に座っていて、タマさんはオーナーをそこに放り投げた。怖いよ、ヤクザ怖いよ。
スーツの連中の中に、ドカジャン作業着の時夫と俺は明らかに場違いで、この異様な空気も恐ろしく感じた。
高いみかじめ料を払っていなかった結果がこれらしい。竜さんは白いソファーに座って、にっこりと笑った。竜さんがホストになればナンバーワンになれる事は確実だろう。
「引き抜きだっけ?どこの店?」
竜さんの言葉に、タマさんが店の名前を告げた。それは最近出来たばかりのホストクラブの名前で、竜さんはふーん、と興味が無さそうに頷いて口を開く。
「あそこのみかじめ取ってるのもうちだよね?身内で争ってどうすんの?死ぬの?」
オーナーのおっさんは涙目だった。威厳もクソもない。
「タマ、あっちまさか坂城の息かかってないよね?」
「それはない。一人スパイで潜らせてるが情報は入ってきてないぞ」
「ふーん、なら、身内同士での潰し合い?」
やめてよそんなの、と竜さんが懐から煙草を出して火を付ける。
坂城興業の事は一応危険だと思っているということを初めて知った。まあ、一回抗争もあって組長が撃たれたとなれば、敵視し続けるのも当たり前なのかもしれない。
「もうこうなったらさ、オーナー。全部俺に話してみよっか?意地とかプライドとか、そんなの本当に必要ないよ?そんなのがまだあるなら消すよ?」
「そ、それは、」
「こっちも暇じゃないのに出張ってやってんだからさ、やめてくださいとか死にたくないとかそんな意思表示はどうでもいいから早く吐けよ」
竜さんが本気モードに入ったのか、更に愉しげに笑う。俺はそれを見ながら壁に寄りかかった。
ホストの人数は十人いるかいないか。黒服も少ないし、経営破綻に陥りそうなのだろうか。こういう世界って、大変そう。
時夫は俺の耳元で腹が減ったと小声で繰り返している。それで気付いたのは、今日の朝飯で冷蔵庫の中が漬物しかなくなった事だ。帰りに材料を買って帰らなければならない。
すると、タマさんが俺達に近寄ってきて、スーツのポケットから黒糖の温泉まんじゅう二つ取り出して、一つずつ俺達に手渡した。
「これでも食ってろ」
そう言ってタマさんは竜さんの近くに戻っていくけど、なんでこんな可愛い食べ物を持っているのかは謎。タマさんのスキンヘッドに似たそれを到底食べられそうにないと思ったけど、時夫は平然と食い始めた。
一口食った時夫が俺を見て目を輝かせる。聖に似てると思ったけど、聖が時夫に似ているだけかもしれない。
「なぁ、こしあんだよ!マジうめーよ!俊喜こしあん派だろ?多分超好き」
「マジか」
こしあんの誘惑に負けて、温泉まんじゅうのフィルムを剥いた。一口食って溜め息が出る。超美味い。
滑らかすぎるこしあんに時夫と二人でニヤニヤしていると、オーナーのおっさんが静かに話始めた。
ここの不動のナンバーワンだったホスト、恵哉が独立したいと言ってきたのは一年前の事。オーナーはそれに賛同して、箱探しやら何やら全て手伝ったそうだ。
元々このホストクラブには、ナンバーワンの恵哉とナンバーツーの幸成(今はふて腐れながらも竜さんが怖いのか縮こまってソファーに座っている)に派閥があり、恵哉の派閥の人間は恵哉が独立した後に幸成の下につくのを嫌がっていた。
だが恵哉はそれを放置して、一ヶ月前にホストクラブをオープンさせる。恵哉の独立話が持ち上がってから縺れていた派閥間の関係は更に悪くなり、争いが激化し始め、恵哉派の人間が次々と恵哉のホストクラブに移籍し始めた、らしい。
「…それって引き抜きじゃなくて、ただのオーナーの力不足じゃね?」
俺が思わず言った台詞に、竜さんがこっちを見た。
「さすが俊喜、その通りだね。引き抜きとか言ったらちょっとかっこ良く聞こえるからそう言ったのかな?オーナー?」
大体派閥とか馬鹿っぽい、なんて竜さんは笑いながら言ったけど、……竜さん。
竜さんが作っていた派閥に俺らが入っていた事を忘れてませんか。俺らの中学の卒業式の後に警察署で解散式やったの忘れてませんか。
あれ、貴方の派閥ですよね。そんな突っ込みが頭に浮かんだけど口にする事は出来なかった。言ったら何をされるか分からない。
きっと竜さんは年齢的な意味で言った、という事で自己完結させた。
縮こまる幸成は確実に成人しているだろうが、竜さんがまだ19だということを知らないんだろう。あの得体の知れない貫禄は、年下だとは思わせてくれなさそうだ。
大体タマさんだって、舎弟頭をやっているけどまだハタチだ。タマさんは小学生の頃に矢崎組の現組長に拾われたとかなんとかで、中学卒業と同時にヤクザになったけど、実際は竜さんより一つ年上。腕っぷしだけで舎弟頭まで上り詰めた恐ろしい人。
ずっと竜さんの側近をやっていたからタメ口だけど、上下関係は存在する。恐ろしいタマさんを超えるのは、生まれながらにしてヤクザの竜さん。珍しく世襲性をとる矢崎組組長の長男。考えただけでも恐ろしさは半端じゃない。
オーナーは半泣きで、おっさんの半泣きの顔なんて見れたもんじゃなかった。
「すいませんっ、みかじめはっ、みかじめは必ず払いますんでっ、」
「今払って」
「それはっ」
「無理なんだ?」
白いソファーに臆する事なく足を乗せた竜さんは、膝を抱えて遠くを見る。
「このご時世、こっちもそっちの事気にしてられる程優しくいられないんだよね」
脅迫でもするように竜さんはそう言ったけど、オーナーに灰皿を要求した。
「オーナー、灰皿ちょうだい」
「え、あ、」
慌てて灰皿を掴んだオーナーが竜さんの前のテーブルに灰皿を置いたけど、竜さんは動かない。
「馬鹿、手で灰を受け取れって言ってんだよ」
笑いながら当たり前のように言った竜さんが怖い。おずおずと両手を差し出したオーナーの手の上に、竜さんは煙草の灰を落とした。
熱いとオーナーが叫ぶのを尻目に、口に煙草を銜えた竜さんはケータイを取り出して耳に当てた。
「あ、もしもしハニー?今日はそっち行くから……うん、シチューがいいなー、……ニンジン?自分で買えよ。………しょうがないなー買ってってあげる、」
……いきなり彼女に電話し始めたんですけど。この人には緊張感というものが欠如している。
「うん、10時には行く……え、そんなに俺に早く会いたいの?………会いたいって言えよ、……シチューが仕上がらない?知らねーよ俺。……あ、ニンジンが?マジかーじゃあ今から行くね?」
稼ぎより彼女選んだよこの人。今から行くとか言っちゃってるよ。彼女どんな人だよ。普通に電話を切った竜さんは、何事もなかったかのように笑う。
オーナーを穴が空くほど見てから、俺と時夫を見た。
「二人ともこっちおいで」
温泉まんじゅうを手に持ったまま時夫と顔を見合わせて、竜さんの前に立った。時夫は最後の一口の温泉まんじゅうを口に入れて、俺のドカジャンのポケットにフィルムのゴミを突っ込んでくる。
それを取り出して、負けじと時夫のドカジャンのポケットに入れてやった。
「おい時夫、ふざけんな」
「俊喜こそふざけんな」
「いやお前がふざけんな」
「お前の方がふざけんな」
「二人ともちょっと黙る」
竜さんの声に小さくすいません、と言った声が時夫と被った。それですらゴミの恨みで苛々する。二人でガンを飛ばし合っていると、立ち上がった竜さんに肩を掴まれた。
「二人とも、ホストやってみようか?」
竜さんの台詞に苦笑いすると、時夫が俺の腕を強く掴んで叫ぶ。
「え、ホスト連続殺人事件!?」
「変換が間違ってるだろお前…」
冷静過ぎる程に紳士の俺が指摘すると、時夫は、そっか、とあっさり納得したように俺から手を離した。
なんで竜さんが俺達に『ホスト殺ってみようか』なんて言わなきゃならないんだ。なんで連続殺人事件になるんだ。どう考えてもおかしいだろ。
「こっちはみかじめ貰えればいいから、給料は歩合制できっちり払うよ?」
「給料!?いくらっすか!?」
食い付いたのは時夫で、俺はそれを横目で見る。ホストに成りすまして金を稼いで店の収入を増やせば、何ヵ月分も滞納したみかじめが払われる、というシステムだと思われる。
でも、俺と時夫がやる意味が分からない。よっぽどホストに向いていそうな竜さんがやればいい話なんじゃないだろうか。まあ、矢崎組の若頭がホストなんてやってたらそれもそれで問題だけど。
「完全歩合制。100稼いだら…80?」
「マジですか」
報酬八割、か。ピンドンって一本いくらだったっけ、なんて思い出している俺の視界に、竜さんの顔が入ってくる。
「期間は二週間、俊喜はまっちいるし、真面目な女の子ってそういうの嫌がるじゃん?俺のハニーも真面目だから嫌がるんだよねー」
竜さんのハニー、真面目なんだ。新事実の発覚は何だか意外だった。タマさんとポチさんしか知らないらしい竜さんの彼女は真面目な女なのか。
「だから無理にとは言わないけど、お小遣い程度は稼げるよ?」
80万が、お小遣い。ヤクザの金銭感覚は恐ろしい。俺の貯金額を余裕で上回ってるんだけど。
「時夫は決定ね、俊喜、どうする?」
竜さんの言葉に、少し考えた。奥さんいるのにホストをするのは如何なものか。でも、80万も入って来るのなら、悪くないかもしれない。
頭に過るのは、じいさんの言葉。
『男には、女との約束を破ってでも、女を泣かせても、やらなきゃいけない事があったりするもんだ』
俺の頭にずっと居座り続けているのは、じいさんから託されたアルバム。
これは、裏切りになるんだろうか。真知を信用させようとする俺に、真知への嘘はご法度だった。
でも。
「いや、やります」
俺の言葉に、竜さんが目を見開く。
「本当にいいの?」
「はい、大丈夫っす。どうにか誤魔化すんで」
ホストは浮気じゃない。裏切りにはならない。そう言い聞かせて、俺は苦く笑うしかなかった。
時夫と二人でホストクラブを出ると、時夫が俺の顔を覗き込んでくる。
「俊喜、大丈夫な訳?竜さんもさすがに強引じゃなかったじゃん、いいの?」
心配するように眉を下げる時夫の頭を軽く叩いた。
「別に金稼ぐだけなんだから、浮気じゃねーし。他の女とどうこうする訳じゃねーんだからいいだろ」
「いや、でもさ、」
「いいんだよ。この話はもう終わり。真知の前でこの話はナシな」
渋々頷いた時夫から、目を逸らした。照らす明かりはいつも通り。いつも通りの地元の街。
どこからが浮気になるのか、分からない。ボーダーラインは個人差がある。真知のボーダーラインは、どこだろう。
俺は真知を仕事の時は送り迎えして、自由にさせているのは沙也加達と遊ぶ時くらいだ。真知のケータイの電話帳に時夫達や俺の後輩の名前がある事も知ってるけど、皆俺に許可を取ってから真知に連絡先を聞く。
真知が一人で出歩く時は買い出しの時くらいで、後は誰かと一緒にいる事になる。真知を取り囲む『誰か』は、俺が真知と結婚していると知っている人間だけだから、俺を経由することなく男と出会う事は不可能。
浮気する余裕を一切与えない癖に好き勝手やってる俺は、多分狡い人間だ。
でも、バレなきゃいい。半分やけになっていてる事は自覚していたけど、そんな俺の心の中が周りにバレなければいいと思った。
人が腹の中で何を考えているのかなんて、誰にも分からない。
実家のドアを時夫と潜ると、いつものように真知がいた。
「お帰りなさい、あ、藤枝さんこんばんは」
「う、うん、こんばんは!」
時夫は少し吃りつつ、平静を装っている。俺は真知の頭に手を置いて、ただいまと言った。
小さい頭は俺の手で簡単に動く。可愛い、なんてどこからか沸き上がってくる感情に、真知の髪を乱すように撫でた。
「ちょ、」
顔を真っ赤にする真知から手を離して、客席にいる常連客に挨拶する。真知の熱い頬を引っ張って笑うと、真知は恥ずかしそうに視線を泳がせた。
こんな些細な事で、俺は十分幸せだった。でも、俺はいつだって貪欲で、それ以上を求めていた。
行き過ぎた欲望の捌け口を、手を伸ばしても指先を掠め続ける俺の一番欲しいものを、俺は今度こそ掴みにかかった。
翌日から、俺の二重生活がスタートした。




