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!!!!!下  作者: 七瀬
第四章 非細工
5/12

初めてへの衝撃と後輩




年が明けてから早一週間。俺はある情報を掴んで、警察署に訪れた。暇すぎるから、警察署の前に立っている若い警官に極限まで顔を近付けて言う。


「池谷警部補、居ます?」


にっこりと笑った俺から後退りした警官は、俺の姿を上から下まで見た。なんだ、視姦か?そう思った俺は正真正銘思春期のガキだった。


「……出頭か?それなら今、」


「ヤクザじゃねーし出頭じゃねーし真面目な好青年だし、こっちが事情聴取する立場だったりする」


「……違法薬物取締法違犯の容疑で逮捕する」


「なんでいきなりドラッグジャンキーになっちゃってんの俺。クスリやった事ないんだけど。検挙して上に行きたいのも分かるけど、冤罪は駄目だろ」


苦笑いでそう返して、勝手に警察署に入った。駄目だ、あの若い警官。ボケてばっかりで全然駄目。俺は漫才をしたくて話しかけた訳じゃないのに、なんて奴だ。ちゃんと仕事をしてほしい。


いや、でも、あの若い警官と初対面だったのに結構ノリが合ってたな。警官がボケで俺がツッコミで、もうお笑い芸人が組めるかもしれない。


休職中の土木作業員(後三日で休職期間が終わる)と警官のコンビとか結構面白い。これで一発売れたら、めっちゃ金入ってくるじゃねーか。思わず警官をお笑いの世界に誘おうと思ったが、戻るのが面倒だからやめた。


池谷のデスクはもう分かっている。階段を颯爽と上っていると、中にうじゃうじゃといる警察官に見られたけど、そんな事は気にしない。


階段を上り終えて池谷のデスクを見ると、池谷が黒い豚カレーうどんのカップを抱えて啜っている所だった。真知と温かい飯を食う俺とは違ってインスタントものばかり食べてるから、あんなメタボになっちまうんだ。


俺はまだ年齢的には若いからいくら食っても太らないけど、おっさんになったら注意しないといけない。


「池谷くぅーん!」


気持ち悪い裏声で叫ぶと、池谷が俺の方を見た。途端に眉間にシワを寄せられて、目を逸らされる。シャイだな池谷と見当違いな事を思いつつ、池谷のデスクの傍にあるソファーに腰かけた。


池谷を見ると、池谷は苛立ったようにカップを机に置いた。


「なんだ、お前。朝っぱらから」


「池谷、正式に離婚したんだ?」


俺の言葉に、池谷の動きが止まる。あ、マジなんだ、と俺は聞いた事を後悔した。


「……なんでお前、そんな事を知ってるんだ」


「地元ネットワーク。中野先輩が池谷が奥さんらしき人と区役所から出てくるの見たって。で、俺が事情聴取係」


中野先輩から連絡が来たのは昨日の夜。真知と二人で飯を食っている時にかかってきて、その話を聞いた。


後輩だと何でも使われちゃうから困り者だ。俺は暇人というレッテルを貼られて事情聴取に駆り出されてしまったのだ。


「中野か…、お前ら手を組んで俺を痛め付けに来たのか」


「違う違う。事実と違う噂が流れたら池谷が可哀想だと思っての親切な紳士の心だよ」


「広める気満々じゃねーか」


溜め息混じりにそう言った池谷の髪は相変わらずハゲ散らかっていた。そういえば、年が明けてから会うのは初めてだ。


「池谷、あけおめことよろ」


「今更言うか?それにお前になんてことよろしてほしくねーよ」


「酷くね?礼儀だろ、これは」


大人なのに新年の挨拶もしないでどうするんだ。これだから池谷は、と自分でも意味の分からない文句をつけたけど、池谷は依然として疲れきった表情をしていた。


俺を横目で見て、何度目か分からない溜め息を吐き出した池谷は口を開く。


「残念ながら俺は喪中だ。嫁さんという名の人間がこの世から居なくなったからな」


「なんか空気悪くなるからやめてくんない?言っとくけど俺はラブラブだから」


池谷に紳士の笑みを見せると、池谷が俺から視線を逸らした。真知がやる事と同じだけど、池谷がやるとどうも気持ち悪く見えるのはどうしてなんだろう。


池谷がおっさんだからという事で納得させると、池谷は再び溜め息をつく。幸せが逃げる。俺に飛び火したらどうしてくれるんだ。


「知ってるよ。お前の噂は聞きたくなくても入ってきちまう。嫁さんと手繋いで出没するらしいじゃねーか」


「なんでそんな不審者みたいに言うんだよ」


「俺にとっちゃお前は不審者だ」


「池谷最悪」


俺にとっての池谷の方が不審者だと言うのに、池谷は自分の事を棚に上げている気がする。神棚的な所まで上げてる気がする。


池谷のセンスの悪い蛍光グリーンのウインドブレーカーは、池谷の座る椅子の背凭れにかけられていた。物持ちがいいのはいい事だけど、そんなセンスの悪いものをずっと着ている池谷の精神を疑う。


まあ、人の好みはそれぞれで、俺には関係のない事なんだけど、あまりにも池谷が冬になるとそれを着るものだから、池谷が歩いているとすぐに分かるのだ。


だから俺は、池谷に補導されたことがほとんどない。まあ池谷は少年課の人間じゃないから、俺の事は補導する必要がなかっただけなのかもしれないけど。


「ま、池谷。池谷の第二の人生を彩るのは間違いなく俺だから、とりあえずご祝儀寄越せ」


「恐喝で引っ張るぞ」


「なるべく早めにお願いします」


池谷の言葉を聞こえないふりをしてスルーして、ご祝儀の催促を進める。というか、誰からもご祝儀貰ってないんだけど。あれって結婚式とかやらないと貰えない訳?


「お前耳悪くなったか?ガキの頃からクラブになんて溜まってるから耳悪くなるんだぞ」


そう見当違いな事を言いつつ、池谷が派手な音を立ててスープを啜った。もっと上品に食えないのか?真知を見習え。あいつはほとんど音なんか立てないで飯食うんだぞ。


恐ろしい程上品な真知を毎日見ているせいか、池谷が物凄く下品に見えた。俺も池谷とそんなに変わらないという事は確かだ。それが悲しい。


だがそれを悟られない為に、俺は頭の中を会話に戻した。


「最近行ってねーし」


「最近とかじゃない。お前いくつの時からクラブに出入りしてたと思ってるんだ」


「そんなのいちいち覚えてる筈ねーだろ。忘れた」


「13からだろーが」


よくもまあそんな昔の話を覚えているものだ。俺は老化によるものなのか、そんな事は忘れてしまった。自分が池谷より老けていると思うと悲しい。


「沢田が変なガキがいるとか言い出したと思ったら矢崎組の事務所出入りしてやがって。あの頃はお前がてっきりヤクザに就職するかと思ってたぞ」


誰がヤクザに就職するか。再びスープを啜る池谷が作る雑音が耳につく。誰か真知の可愛い声とか俺の頭に再生してくれませんか。なんか俺の頭に再生されるのって、悟の朗読ばっかりなんだけど。


「無理無理。俺ヤクザこえーもん。チキンだから無理」


「俊喜、お前は人間だぞ」


「池谷頭大丈夫?」


チキンは別に鶏肉って意味で言った訳じゃないのに、池谷は何かを履き違えているらしい。


俺はもうそろそろ池谷とお笑いコンビを組んだ方がいいのかもしれない。


新婚の土木作業員と離婚直後のマル暴刑事。意外といけそうな予感がするけど池谷のウインドブレーカーが目立ち過ぎるからやめておく。


「時の流れってのは…早いな」


「なんで傷心?ハートブレイクしてんの?」


いきなり遠くを見るような目をした池谷に苦笑いすると、睨み付けられた。


「うるさい。男にはたまに振り返る事が必要なんだよ」


「すいません池谷警部補、俺も男」


俺の言葉が聞こえているのかいないのか、池谷は遠くを見るような目をした。湯呑みに入った緑茶を飲み込んで一息ついた池谷は、昔と比べておっさんになったと思う。


俺からしたら、前からおっさんだけど。


「結婚して、子どもが生まれて、幸せだった」


「あれ、池谷ガキいたの?」


「お前の二つ上の娘がいる」


池谷に娘がいたとは初耳だ。へー、と俺が言うと、池谷は項垂れた。


「どれだけの愛情を注いだって、子どもはいつか旅立って親の言葉も聞き入れなくなる。それがなんだかなぁ、辛いよ」


ハートブレイク池谷の情けない声がじわりと心に突き刺さる。ハートブレイクし過ぎな池谷のキャラは変わっていた。


「何、娘そんな非行に走ったの?」


「そんな訳じゃない。ただキャバ嬢になっただけだ」


「マジ!?」


「大学まで行かせてやったのに中退しやがるし、それでキャバクラだ。なんてこった…」


池谷の娘がキャバ嬢かよ。どんなキャバ嬢だよ全く。どうも池谷の女バージョンの顔でしか想像できなくて、苦笑いしてしまう。


「え、どこの店でキャバ嬢やってんの?」


池谷の娘が見てみたいと思ってそう言うと、池谷が教えるか!と声を荒げる。うるさい。


「お前になんて教えたら広まるだろうしお前絶対に行くだろ!」


「行くよ普通に。見たいし。」


「馬鹿者!未成年の癖にお前は生意気なんだ!嫁さん貰ったんだからもっとマシな人間になれ!」


いや俺、十分マシな人間だろ。とりあえず池谷が離婚したという事実確認は済んだから、と、俺はソファーから立ち上がった。


「じゃ、池谷。確認は済んだからきっちり中野先輩に報告しとくわ」


笑いながらそう言うと、池谷が俺の腕をガッチリと掴んだ。


「やめろ本気でやめろ。中野になんて言ったらすぐ広まるじゃねーか」


「中野先輩に見られた池谷が悪い」


御愁傷様、池谷。俺だって本当は池谷が離婚したなんて悲しい噂は流したくないけど、俺が清春達の先輩なのと同じで、俺だって中野先輩達の後輩なんだ。


先輩には逆らえないだろ。この地域はそうやって成り立ってきてるんだから。


「今更どうこうしたって、もう竜さんとポチさんとタマさんには話行ってると思うけど」


「だろうな、……会いたくねーな。最悪だ」


「頑張れ池谷。ご祝儀待ってるからな」


池谷の手を払って歩き出そうとすると、池谷の手の力が強まった。


「何?もう中野先輩知ってるから情報は止めらんねーぞ」


「そんな事は承知の上だ」


「じゃあなんだよ」


池谷がゆっくりと立ち上がって、周りを見渡すと、俺を見る。


「ワルサーっつったな、坂城興業御用達のクスリの売人。本名は秋元浩平っつーらしい」


「それが?」


「秋元、暫くムショから出てこれなくなった。まあ、前のもあっての再犯だから、今度こそ早々には出てこれねーぞ」


「ふーん」


そんなの、言われなくたって分かっていた。誰だって分かる事を言う池谷は、俺をいつかの真剣な目で見つめてくる。


「それと、一橋シュン。あいつは前とはうって変わって真面目に年少でやってるらしい。早く出てこれるかもな」


「あっそ、何が言いたい訳?」


回りくどい池谷に痺れを切らしてそう言うと、池谷が俺から手を離して、懐に手を突っ込む。そこから出てきたのは煙草の箱で、一本取り出すと火を付けて、煙草を吸い始めた。


煙を吐き出した池谷が、再び俺を見る。


「一橋派に入ってた連合軍の幹部だと思われるガキ共がな、この街から…いや、表からか、姿消しやがったらしい。なんか知ってるか?」


「知らねーよ。興味ないし、よそ者の情報なんて流れる訳ねーだろーが」


知る筈がない。何だかんだ派閥を勝手に作り上げられたとはいえ、俺はあいつらに興味はなかったのだ。


別の場所から来たと思われる一橋派にいた人間の事が、噂で流れる訳がない。この近辺は、そういう冷たい街だった。


池谷から視線を逸らして帰ろうとすると、池谷に言葉で引き留められて、足を止める。


「お前、二人の人間をムショにぶちこんだって自覚あるか?」


「………」


「お前の情報で二人もムショにぶちこんだんだ。お前がどこから情報を仕入れたのかは知らんが、お前が最終的な鉄槌を下した事に間違いはない」


背中にぶつかる池谷の声に、俺は何も言わなかった。池谷が息を吐き出した音が耳に伝わって、辺りは煙草の煙に包まれる。


「なぁ、正義が必ずしも勝つとは限らないって事を、お前は知ってるか?」


「知ってる」


『度胸があれば生きていける程、世の中綺麗じゃねーぞ』なんて、ワルサーも言っていた。俺に度胸はないけど、世の中が綺麗じゃない事なんて誰かに言われなくたって知っている。


正義が必ずしも勝つとは限らない。正義が正義である為には悪が必要不可欠で、正義が正義として存在すること自体、正しい事だとは言い難い。


「お前には色々世話になったが、お前はもう、ただの元ヤンのガキにはなれねーんだぞ?そこら辺にいるガキとは訳が違うってこと、自覚しろ」


「誰が元ヤンだよ。ふざけんな」


俺は生まれながらにして好青年だ。元ヤンなんて言われても困る。止めていた足を再び動かそうとする、と。


「俊喜、」


池谷に呼び止められて、振り返った。


「気を付けろ」


「は?」


「嫁さんとこれからも一緒に生きたいと思ってるなら、嫁さんを一人にしたくないと心底思うだけの感情がお前にあるなら、気を付けろよ」


池谷の濁った目を、じっと見つめた。


「お前、味方に矢崎の奴等がついてるから安心してるのかもしれねーけどな、今度こそ消されるかもしれない」


「………」


「気を付けろ。生きたいと思ってるなら、自分の身は自分で守れよ、緒方俊喜」


多分、池谷にフルネームで呼ばれたのは、初めてだった。苦く笑った池谷は、デスクに浅く腰掛ける。重たそうなメタボの腹が、ベルトの上に乗っかって窮屈そうだ。


「世話かけさせる暴れん坊の方が可愛いげがあるってよく言うだろ?俺だって沢田だって、お前の事は可愛がってんだ。お前が居なくなったら、涙こぼしちまうかもしれねー」


「誰がテメーなんかより先に死ぬか。俺は真知と天寿を全うするって約束してんだ」


池谷にそう笑うと、なら良かったと、池谷が目を瞑った。



「死んでたまるかよ」


放っておいたらいつ死んじまうか分からないような女を残して逝ける筈がない。呟いた声をそのままに、歩き出した。


妙に暖かい警察署を出ると、さっきの警官がまだ立っていた。池谷や沢田に好かれていたとは思わなかったけど、あんなおっさんだけど、人から好かれる事は、悪い事じゃない。


青すぎる空、警察署の中の温度と外の温度のギャップに、慌ててスタジャンのポケットに手を突っ込むと、車に向かって走った。


暇の最高潮にいる俺は、仕方なく実家の駐車場に車を停めて、実家のドアを開けた。すると、聞き慣れた後輩の声が聞こえる。


「岩田超頭良いじゃん!」


「いえ、それほどでも…」


中を覗くと、亮平と鉄也と要と清春、それに岩田がいた。同い年でここまで人種が違うのは驚くけど、盛り上がっている様子。


何故俺ん家を溜まり場にするんだ。ファミレス行けよ。そう思いつつ後ろ手にドアを閉めると、要が俺に気付いて立ち上がった。


「おはようございます!お疲れ様です!」


「おう、お疲れ」


なんだか馬鹿でかい要の声に耳がキンキンした。皆が口々に挨拶してきてそれに適当に相槌を打ちながら店内を見渡したけど、人はいない。ああ、今は昼前の一番客が少ない時間だ。


清春が席を立って、真ん中の椅子を勧めて来るからそこに座る。左隣には清春、右隣には要、目の前に岩田、その両隣を亮平と鉄也が固めていた。


「俊喜さんどこ行ってたんですか?真知さん心配してましたよ」


清春がそう言って、俺は真知に出歩くのを心配されていた事を思い出した。尾行されてる話をしてから、真知はやけに心配性になったから、話さなければ良かった。


まあ、真知が可愛いから、お節介も嬉しいんだけど。


俺は厨房の奥に向かって叫んだ。


「おい真知!俺帰ってきた!ただいま!」


「嘘です」


「……清春ちゃん?表出るか?」


「すいませんでした」


清春が苦笑いで謝ってきたから、表に出る話は無しにした。全く、俺をおちょくるなんて清春は生意気だ。清春じゃなかったら即鼻フックの刑に処している。


「いや、中野先輩にパシられて警察署行ってた」


話を元に戻すと、鉄也が目を見開く。


「ああ、池谷の離婚騒動ですか!」


「それそれ。事情聴取係、俺」


「お疲れ様です、で、事実だったんですか」


要の言葉に苦笑いして、頷いた。


「超事実。ハートブレイクしてた」


頬杖をつきながらそう言うと、作業着姿の亮平が首を傾げる。


「すいません俊喜さん、ハートブレイクってなんですか?」


「あ、ごめん頭良くて。傷心って意味」


俺は馬鹿な亮平にインテリ風を吹かした。俺も馬鹿だけど、それを超える馬鹿がいると少し頭が良くなれたような気分になれるから、この世ってうまくできてる。


ハートブレイク…?傷心…?と首を傾げ続ける亮平が口を開いた。


「すいません、傷心ってなんですか」


「亮平、お前論外」


俺が亮平から目を逸らした途端、岩田が立ち上がった。


「鵜原君!チェッカーズの名曲を知らないんですか!?」


「岩田、うるさい」


「すいません、」


一瞬荒ぶった岩田は、大人しく座った。サラサラヘアーは健在だった。天使の輪が出来ている。


岩田から目を離して、つーかお前仕事だろ、仕事行けよ、と亮平に言うと、亮平が苦く笑う。


「いや、今日オフです。パチンコで負けすぎて服売ったら仕事着しかなくなりました」


「お前救いようのない馬鹿だな。ギャンブルなんかやんじゃねーよ」


「馬鹿ってひどいっすよ!俊喜さんパチンコやりませんもんね、俺はどうせ馬鹿ですよ!」


何故かすね始めた亮平の口を尖らせるふて腐れた表情の気持ち悪さに少々吐き気を催したけど、あえてスルーした。丸無視した。これが一番キツイ事だ。教えてやるよりも自分で気づける筈。


「UFOキャッチャーもしなくなったからな俺。中三でパチンコもスロットもUFOキャッチャーも、全てを悟って卒業した」


「何を悟ったんですか」


「金無駄になることはやめようって感じ」


遠くを見ながら当時の事を思い出した。パチンコで三万負けて、パチンコ屋の前で絶望した中三の頃の俺の視界には滲む十円玉。辛すぎた緒方俊喜はこんなに貧乏性になりました。


「それ気付いただけじゃないっすか」


「清春、表出っか?」


「すいませんでした」


懲りずに俺に突っ込みを入れる清春は今度こそ頭を下げて謝った。謝るくらいなら言わないでよ!と心の中でぶりっ子の俺が言って、自分で吐き気を催した。最悪。


吐き気を催しながらも立ち直った俺は、久しぶりに見た後輩の勢揃いに少し感極まった。老けすぎて涙腺が緩んでいるのかもしれない。


亮平と鉄也は少年院にいたし、清春は整形して潜ってたし、要は普通に高校生をやっていた。中学の頃は当たり前に四人で一緒にいる所ばかり見ていたのに、亮平と鉄也が少年院に入ってからバラバラだった四人が揃うのを見ると、親心か何なのか嬉しくなる。


それに学校のトイレでアレしてた岩田も含むと、世の中は不思議だと思わざるを得ない。


ファミレスで溜まれと少しだけ思った俺がいたけど、皆金だして飯食ってるし、可愛い後輩だし、少しうるさくてもいいやなんて紳士の俺が顔を覗かせた。


今気付けば、要は何やら数学のプリントみたいなものをテーブルに出していた。宿題だろうか。そういえば、入ってきたときに岩田が頭がいいとかなんとか言っていた気がする。


俺の視線に気付いたのか、要が口を開いた。


「俊喜さん!俺、単位は足りてるのに頭が悪すぎて留年の危機に!」


「マジ?お前馬鹿じゃん」


若干涙目の要に笑いが出てしまう。それって一番危険なパターンじゃねーか。苦笑いした鉄也が、言う。


「俊喜さん、留年したんですよね?忘れてません?」


「自分に都合の悪い事は忘れた方がいいと思います、まる」


鉄也まで清春と同類になってしまった事に少しだけ悲壮感を覚える。都合が悪すぎるけど、留年した事は忘れていない。


だって、留年した記憶は真知と一緒にある。忘れられる筈もなければ、忘れようとも思えない。


「留年したくないなら課題やれって…でも分かんなくてぇっ!岩田が考えてくれてるんすよぉっ」


要の目に溜まる涙の量がみるみるうちに増してくる事に若干引きつつ、俺は親のような台詞を放った。


「……いい友達を持って良かったな、要」


それ以外言える事がねーだろ。


「はいっ!プライスレスっす!」


元気よく言った要に、亮平と鉄也が首を傾げた。


「ごめん要、プライスレスって何?」


「お前ら横文字を勉強してこいよ」


俺が呆れながらそう放つと、横文字…?と二人は首を傾げる。駄目だこいつら。少年院に入ってなかったとしても馬鹿すぎて高校は行けなかっただろう。


「あ、お帰りなさい」


聞こえた声に振り返ると、厨房から真知が出てきた。


「ただいま」


そう言うと、真知は水の入ったペットボトルを持ってこっちに来る。要のコップの中の水が無くなっていたようで、それに水を足した。


「あ、ごめん真知さん」


「いいえ」


真知が小さく頭を下げるのを、亮平と鉄也が顔を緩めながら見ていた。やめろ。


「真知さん!この答え教えて」


要がプリントを持ち上げて真知に突き出した。それを受け取った真知が、一瞬眺めてから何かを喋り出す。それに顔色を変えたのは岩田だけで、俺は真知が何か呪文を言い始めたのかと思った、が。


「答えです」


どうぞ、と要にプリントを差し出した真知に、絶句。暗算で解いたよこの子。怖い。


「え、あ、真知さん?」


「一つずつ言った方が良かったですね。最初から言います」


慌ててシャーペンを握った要に、真知が一つずつ答えを言っていく。英語できる上に数学もできんの、真知。鈍臭いっていう欠点があるだけだった訳?


苦笑いしながら清春を見ると、清春も同じような顔をしていた。


「真知さん何者なんですか」


「俺が未だかつて見たことがない鈍臭いインテリ女」


「真知さん超怖いんですけど」


「俺も怖い。震える」


俺に似合わない家柄で育った真知は、頭でさえも俺と似合っていない。似ていなさすぎるけど、夫婦って似ると言うし、もう既に似てきている部分があるし、俺は頭が良くなれたりするのだろうか。


いや、もうそれは遺伝子の問題で無理なのかもしれない。


軽く絶望を覚えながら、ケータイを取り出して中野先輩にメールした。池谷の事情聴取が終わった事を遅ればせながら報告する。


その時ふと頭に過ったのは、清春が富田紗英に会いに行った事だった。


「清春、」


「はい」


昔とは違うけど大分見慣れた好青年顔をじっと見ると、なんすか、と言われた。


「お前さ、富田紗英に会いに行ったんだろ?毎日会ってんの?」


「はい、一応毎日」


清春が毎日同じ女に会いに行くなんて、毎日竜巻が起こっても仕方がないくらいの非常事態だと思う。


好きになった女によって、男って少なからず変わっていくものだ。暴れん坊だった悟が沙也加と付き合って大人しくなったし、女を追いかける事を知らなかった清春が追いかける。


泣かなかった俺が、真知と結婚してからよく泣くようになったのも、それに該当する。


変わっていく事は、悪い事じゃない。変わらない事なんてきっと不可能で、いい方向に変われるかそうでないかが、重要なだけだ。


でも大事なのは結果で、どんな方向に行ってしまったとしても最後に自分が納得できる場所に立てるのなら、いい経験として残る、のかもしれない。


「どうせ言わなかったんだろ、自分が清春だってこと」


もう二度と会うつもりはないと、清春が言っていた事を思い出してそう言うと、清春が笑った。その顔がやけに悲しそうで、見ていられない。


「チャラ男気取ってキャラ変えてるんすよ、だから絶対気付かれねーと思います」


「馬鹿お前、そんな事してどうすんだよ」


「忘れた方がいいんですよ、俺の事なんか」


微かに、微かに揺れた清春の声に、俺は清春の腕を掴んで立ち上がった。


「真知、ちょっと出てくる」


「はい」


真知の返事を聞いて、清春を連れて半ば強引に店を出た。中野先輩にメールを送信してケータイを閉じると、清春を見る。


清春は俯いていて、何とも言えなかった。弱っている清春を、俺は初めて見たかもしれない。


後輩だけど、強いやつだと思っていた。それは喧嘩とか目に見える事ではなく、内面的な意味で、だ。


でも、何かの拍子でそれが崩れそうだと思った事もある。弱い事は、悪い事じゃない。


「清春、富田紗英がお前を忘れるはずねーだろ。忘れらんねーよ、俺だって富田紗英の立場にいたら、忘れねー」


「そうっすね、」


「お前の事に口出しする権利なんて俺にはねーけど、話くらいは聞いてやっから。何回でも聞いてやるから、」


菊地にも、言った台詞だった。人前で弱音なんて吐けない。だけど人知れず抱えられるのはたまったもんじゃなくて、俺は、できる事なら、話を聞いてやりたいと思う。


人に話すだけで軽くなる事が、きっとある。


しゃがみこんだ清春を追うようにしゃがみこむと、清春が呟くように言った。


「紗英の中に、俺がちらついて、」


「うん、」


「俺が清春だって、言いたくねーのに、言っちまいそうになる」


人は、自分に苦しめられるのかもしれない。自分の中にある記憶に、苦しめられる。


人を殺すときの気分って、どんな気分なんだろう。そんな事は知りたくないけど、もしかしたら、それに苦しめられる事だってあるのかもしれない。


「なぁ、清春。この事、俺が口出しする事じゃねーし、お前が決める事なんだよ。富田紗英の事も、お前の将来の事も、お前が決めんだ」


苦しむしかないんだ。それだけの事をやらかしたのなら、自分でどうにか決めないといけない。人生で一番辛いのは、自分で決める事だ。


責任転嫁は一切できない、後悔したって自分のせい。でも自分の意志でやったなら、後悔さえも飲み込めない。


「悪いな、清春。苦しめよ」


俯く清春の頭を、軽く叩く。


「苦しむしかねーんだ。言っとくけど、俺だって苦しんでるからな」


「……っ、」


「苦しいのはお前だけじゃねーから」


菊地も俺も、清春と同じように苦しい。俺は、清春と菊地の両方の事を知ってるから、どちらかの立場に傾く事は出来ない。だからこそ、苦しい。


肯定出来ない事を、肯定しそうになってしまう。これは情に流されてはいけないことで、自分で決めろと俺は言ったけど、殺人は絶対に肯定してはいけない。


俺が肯定したら、二人は一生、罪を償う気にはならない。俺が肯定したら、真知をあんな風にした奴等を許した事になる。


でも、自分と同じ境遇にいる人間がいるってだけで、少しだけ救われる所がある。


人間って、知らず知らずのうちに誰かと自分を比べている所がある。そういう所があるからこそ、人って捨てたもんじゃない。


清春が大きく息をついて、顔を上げた。


「俊喜さんって、やっぱ半端じゃねーよ」


「なんだそれ」


「俺、俊喜さんの後輩で良かったです」


「お前は何デレてんだ。デレる相手間違ってんだよ」


鼻で笑いながらそう言って、俺は道路を走る車を見た。


「俺もお前が後輩で良かったよ」


止めてやれなくてごめん。そんな事はもう、言えなかった。俺の後悔は、自分勝手過ぎたんだ。


夜11時過ぎ。昔のアイドルが歌いながら踊っているテレビが流れる中で、風呂上がりの俺はケータイを耳に当てていた。


「一人目が、クール系肉食女子のサキちゃん。舌長い感じ」


電話の向こうから聞こえる久人の弾む声に若干引きながら、仕方なく続きを待つ。


「で、二人目がフリフリビッチの琴音ちゃん」


「ああ、じゃあもう琴音で良くね?」


「なんで!?根拠は!?まだいるよ!?」


「お前フリフリビッチ好きじゃん、よって今日のお持ち帰りは琴音に決定」


懲りずに合コンを繰り返す久人から電話がかかってきたのは10分前の事だ。髪の毛を早々と乾かして、つまらないテレビのチャンネルを変えていると、ケータイのバイブが鳴った。


なんだかストライクな女が多くてお持ち帰りに困っているらしい。わざわざ電話をかけて寄越すなと思ったけど、切らない俺は正真正銘の紳士だった。


え、でもガバガバだったら嫌だ、なんて願望を吐き出す久人は多分トイレにいる。どうでもいいけど、さっき聞いた合コンの面子を思い出した。


久人と時夫と、中学の時の同級生のマツ、それから何故か八木。


どうせ合コンで出会ったってヤり捨てするくせに、そんなに慎重に選ぶ意味が分からない。半ば呆れを感じながら、口を開く。


「つーか、悩むなら時夫に先選ばせてやれよ。あいつ本気の女欲しいんだろ?」


「いや、今日の夜は今日の夜。気持ちよさは女の子にかかってんの」


別に聞きたくもない生々しさに、うんざりして言った。


「お前ってマジで最低な奴だな」


女に対してそんな事しか思ってないって失礼にも程があるだろ。電話の向こうはお持ち帰りパラダイスらしいけど、俺はお持ち帰りしたって何も出来ない生殺し状態が何ヵ月も続いている。


俺に我慢をさせ続ける女は風呂。真知じゃなかったらちゃっとヤっちゃうのに、真知だとそうはいかない。俺の本気具合は自分でも引く。


うるさい、と言いつつ機嫌の良さそうな久人を思いっきりぶん殴ってやりたい気分になったが、溜め息混じりに聞いた。


「つーか、八木とかマツとかはなんて言ってんの?」


「マツはもう眠いから帰りたいって。八木はおっぱいの亜矢ちゃん。時夫はサキちゃんがいいって」


マツ、眠いってなんだよ。


マツの自由さに苦笑いした。合コン来といて眠いって……寝てから行けよ。


「マツ論外だろ。で、おっぱいの亜矢ちゃんって何?誰それ」


「おっぱいでかい子」


「そのまんまじゃねーか、他に特徴ねーのかよ」


「うーん、おっぱい?」


「あー、それしかねーんだ」


顔は可愛くないんですね、分かりました。久人はブスとか言わないけど残酷すぎる。だったらブスって言ってやった方がいい気がする。まあ、本物のブスにブスとは言えないけど。


「とりあえず、時夫がサキちゃんでいいじゃん、お前は琴音で、八木がおっぱい」


「だねー、そうするわ」


いや、待て。マツが眠くて帰りたいって言ってるなら一人余るじゃねーか。


「久人、一人余ってんだろ」


「ああ、肉な子?」


久人が興味が無さそうに放ったそれに、俺は女に生まれ変わっても久人と合コンは絶対にしたくないと思った。


大体、合コンで一人余るって最悪のパターンだ。女に恥かかせるなよ。折角出張ってきてるんだから、どうにかしろよ。


と、俺は思ったけど、合コンしてたのなんて中三までで、合コンの事をよく覚えていないのが本当の所。年月は記憶を薄れさせる。


「いい方どうにかなんねーかな、それ。どうすんの、余るじゃん」


「適当にマツに、」


「お前最低!肉な子もマツも可哀想じゃねーか!」


思わず怒鳴ると、久人がえー、と続ける。


「じゃあ俊喜が肉な子引き取りに来てよ」


「無理。俺、真知いるし」


久人には見えない紳士の笑みを浮かべて言うと、結婚指輪を見た。そうです、俺には真知がいるんです。肉な子、ごめん。


「そうやってすぐ新婚振りかざすんだから全く!まっちが好きだからってそれはない!怒っちゃうからねぇ、プンプン!」


「お前それ誰キャラ?」


「なんかえっと…ああ、サチコちゃんだっけ?おっさんの彼氏がいる子」


「あー、サチコね、あれおっさんじゃなくて俺らの一個上だし」


「マジで言ってる!?怖!!」


マジ、と久人に言った時、風呂場から悲鳴が聞こえた。風呂場にいるのは真知で、俺は慌てて立ち上がる。


「ごめん久人、一回切るわ、」


「え!ちょ、」


久人の言葉を聞かずに電話を切ると、風呂場に向かった。なんだよ、悲鳴って何?虫でも出たか?いや、結構綺麗なアパートの筈で、結構綺麗にしてるつもりなんだけど。


真知って見た目からして虫とか苦手そうだし。


「おい真知、どうした?虫?」


曇りガラスの扉に向かって話かけた。開けるのはさすがにまずい。ぼんやりと浮かぶ肌色が妙にエロい。なんだこれ、最悪じゃねーか。生殺しにも程があるじゃねーか。なんだこの小悪魔女。そんなに俺を翻弄したいんですか。


真知は無言のままで、洗面台に寄り掛かりながら名前を呼ぶ。


「真知?」


「……ち、血が…」


風呂場特有の響く声が耳に届いて、首を傾げた。血?


「何?カミソリでも使ってた?怪我したのか?」


「い、いえ、な、何もしてないのに…血が…」


何もしてないのに血が出るってどういう事だよ。原因を考えてみたけど、思い浮かばない。


「何?どこから出た?鼻血?」


「………か、」


「か?」


「……下半身…から……です……」


なんだか真知の声は絶望に満ち溢れていた。何もしてないのに下半身から出る血?と考えて、俺はようやく気付いた。


「真知、それ生理じゃね?」


「え、せいり?」


真知が何故だか意味が分かっていなさそうで、こんな事言いたくないんだけど、と思いながら渋々口を開く。


「アソコから血出たんだろ?生理だろそれ」


「え、な、」


その時、俺はある事に気が付いた。ギョッとしつつ慌ててトイレのドアを開けて、棚を開いたけど、ない。


年頃の女が住む家に必ずある、生理用品がない。なんで俺は今まで気付かなかったんだ。


ちょっと待て、真知は今17だ。17で、生理用品がないって、おかしい。


もしかして、真知、まだ生理来てなかったのか?


「………買ってくる」


「え?」


「買ってくるから、大人しく待ってろ!変な奴来ても家にあげたりすんじゃねーぞ!」


そう怒鳴って、ケータイをスウェットのポケットに突っ込みながら慌てて寝室でスタジャンを着て財布を掴むと、玄関でブーツを突っ掛ける。


中トロ付きの鍵をひっ掴んで家を出ると、鍵を閉めて走り出した。



とりあえず、走るのをやめてケータイを取り出した。こんな事を聞くなんて絶対に嫌だけど、生まれた時からずっと近くにいた女といえばお袋だけで、お袋に電話をかける。


発信音が続いて、早く出ろお袋!まさか美容の為とかどうのって言ってもう寝た訳じゃねーよな?寝てたら俺、誰に聞けばいいんだ?


電話帳の中にいる女を思い浮かべたけど、さすがにそんな事は聞けない。


すると、発信音が途切れた。やっと出たよ。


「何?今何時だと思ってんの!!」


「なんで怒鳴るんだよ!少しでいいから話聞いてマジで」


「え?何?早くしてくんない?今パックしてるから口動かしたくない」


パックとかどうでもいいわ!なんだそれ!と思ったけど、言わなかった。


「ごめんお袋、俺、今から息子としても男としても最低な事聞くけど黙って答えて」


「何?」


「お袋、初めて生理来たのいつ?」


……言ってしまった。だけどもう戻れない。俺とお袋の間に未だかつてない程の冷たい静寂が漂った。


「……13の時だよ」


「だよな?やっぱりそれくらいが普通だよな?なんで?俺、なんか今めっちゃテンパっててなんか、」


「落ち着きな!どうしたの?」


お袋の声に大きく息を吐くと、絶望にも似た気持ちで事情を説明した。なんだか死にたくなった。生理が来ていなかった真知を襲おうとした前科があって、なんて事をしたんだと、その場に倒れてしまいたくなった。


とぼとぼと歩く俺に、お袋が溜め息をついた。


「……そういうのはね、個人差もあるし、環境にもよるの」


「マジで?」


「まっちがいた環境を考えると、今まで来なくても仕方がなかったのかもしれないね。生理来る暇もなかったんじゃないの?心に余裕が一切無かったんだから」


そうか、と、納得してしまった。俺は女は当たり前に生理が来るものだと思っていたけど、そんな簡単な事ではなかったらしい。


「でも良かったじゃない?ちゃんと来たなら、まっちが少し落ち着いた証拠なんじゃないの?」


「うん、良かったけど、さ、」


ガキとか云々の前に、まずガキが出来ない体だった事が、真知にそれだけの余裕がなかった事が、少しだけ悲しくて。あいつのいた場所を思うと、泣きそうになるのはどうしてなんだろう。


熱くなる喉が、情けない。俺はやっぱり、無力で、気付いてやる事しか出来ない。でも、俺といた事で真知に余裕が出来たのなら、よかったと思う。


「で?今あんた外にいんの?」


「そう、……買いに出てきた」


言いたくなくても言うしかない。ドラッグストアはもうすぐだ。


「分かった。じゃあ、赤飯も買ってきなさい」


「なんで!?」


「めでたい事だからに決まってんでしょ!?これからまっちの所にはあたしが行くから、あんたは生理用品買って赤飯買ってなに食わぬ顔して帰ってくんの!分かったね!!」


「……はい」


いつもならクソババアとか言う所だけど、お袋が物凄く頼もしく感じて素直に返事をしてしまった。電話を切ってケータイをポケットに入れると、溜め息をついた。


ドラッグストアまで後少し。行きたいのか行きたくないのかもよく分からない。その後赤飯、と下を向くと、前から歩いてきた人と肩がぶつかった。


それに足を止めて顔を上げると、ギョッとした。夜でも目立つ赤い髪、久人だ。


「俊喜、どうした?迎えに来てくれたの!?」


「いや、来てねーし。俺は初めてのお使い的な感じでここにいるし」


久人の隣にはさっき言ってたフリフリビッチの琴音だと思われる女がいて、その後ろに時夫とマツと八木と女数人が一緒にいた。


ていうか、世間狭すぎないか?俺が目指すドラッグストアの手前にある、この前真知が合コンしたカラオケから出てきたと思われる久人達に苦笑いする。


「じゃ、俺、忙しいから」


と久人に言うと、時夫に肩を掴まれた。


「ちょ、俊喜!これから二次会すんの!女の子も追加なんだけど、来ない?」


「誰が行くか馬鹿」


悩みすぎた久人が二次会まで引っ張ることにしたという事を察した。時夫の手をやんわりと振り払うって俺は歩き出したけど、久人が俺の横についてくる。


「俊喜待てって!まっちと喧嘩した?」


「してねーし。してたとしても俺が折れるから長引かねーし」


「そうなの!?まっちヤバ!」


「うんそう真知マジヤバい。だからついてくんな」


そう言って、いつの間にか久人にがっちりと掴まれていた腕を振りほどいた。



ドラッグストアに入ろうとした時、後ろから俊喜、なんて時夫の声と気配がして、思わず回し蹴りをかます。


「ついてくんなっていってんだろーが!」


切羽詰まりすぎた俺が放った蹴りは時夫に直撃したらしく、時夫が道路に倒れ込んだ。


「あっ、ごめん時夫」


遅ればせながら時夫に謝ると、時夫が起き上がった。目を白黒させた時夫はあまり衝撃を受けていないようで、時夫が着ていたドカジャンに手を合わせたい気分になる。


「え、今俺、悪いことしたっけ?」


「してない、全然してない。マジでごめんなさい」


悪いことをしたことに間違いはないから素直に謝ると、時夫に両方の肩を掴まれて顔を覗き込まれた。近い。


「なんか俊喜おかしくない?どうした?クスリでもやった?俺、心配になるけど普通に」


「いや、なんか俺テンパってて…ごめんな時夫、わざとじゃねーから」


本当に申し訳なくて時夫に謝ると、時夫はそうか、と逆上することもなく俺から手を離した。時夫は喧嘩っ早いから突っ掛かって来るかと思ったけど、俺のただならぬ様子を察してくれたらしく、引き下がってくれた。


「俺の事は大丈夫だから、お前らは二次会楽しんでこいよ」


苦し紛れにそう言うと、怪訝そうな表情をする時夫が渋々と頷いてくれた。八木が緒方アウトロー!と叫ぶ声が聞こえたが、無視。


大体、アウトローって何なんだよ。意味が分からないんだよ。アウト、外。ロー、低い。外低い?なんだよそれ。


チラチラと俺を確認しながら去っていく男女八人組をドラッグストアの前で見送って、溜め息をつきながらドラッグストアにやっとの事で入った。


男が生理用品買いに来るって…どうよ?少し女に見えたりしないだろうか、と思ったけど、無理だった。背が180超えてたら、無理だ。日本人の女子バレーボールの選手には180超えもいるだろうが、男と女じゃ体型が違うしまず無理だ。


女って180超えてても細いから不思議だ。


今まで自分の背がここまで伸びた事を悲しく思うことはなかったけど、悲しく思った。もっと背が低ければ良かった。そう思ってももう遅い。


なるべく自然に、と周りをキョロキョロ見渡す事なく生理用品のコーナーに来たが、棚を見て絶句した。


……種類…多くね?白眼を剥きそうになるのをなんとか堪えて、元カノの家に転がっていたと記憶しているのと似たものをとりあえず平然と掴んだ。多い日用、なにそれ。怖い。


その瞬間、俺は人生で感じた事のない程の、メイド喫茶に行った時とは比べ物にならない程の孤独感と疎外感を感じた。


俺、こんな所で生理用品とか見て、ただの変態じゃねーか。どうすんだよこれ、誰も婿に貰ってくれなさそうじゃねーか。あ、俺もう結婚してた。


小さく息をついて、俺は覚悟を決めた。よし、会計しよう。


あえてカモフラージュとして他のものは手に取らなかった。こういう時こそ、堂々としてるべきだ。大体、俺は悪いことをしてる訳ではない。


生理って大事じゃねーか、男にとっても大事だよ、うん。そう無理矢理自分を納得させたけど、レジの付近に差し掛かって発狂したくなった。


店員、女じゃねーか!


今更どうこう言っても仕方がない。平静を装ってレジに生理用品を置くと、店員が何度も俺を見てきたけど、気にしないふりをした。


金を払ってドラッグストアを出ると、急に疲労感が襲ってくる。三年分くらいの精神力を使ったような気分で、倒れそうだった。


生理用品が入った黒い袋を下げた俺は、コンビニで赤飯のおにぎりを買って家に帰る。


家のドアを開けるとすぐに真知がいて、真知が俺に土下座でもする勢いで頭を下げてきた。


「本当に申し訳ございませんでした!」


「いや、いいよ」


俺は、やっぱりこの女に甘い。声を聞いただけで、もうどうでもよくなってしまう。


「ごめんなさい、」


「いいって、これは仕方ねーし。頭上げろよ」


と言うと、真っ赤な顔をした真知が一瞬顔を上げて、俯く。


「もう気にすんな、でも次からは自分で買いに行けよ?」


「はい、申し訳ございませんでした」


「うん、まあ、……おめでとう」


頭を撫でてやりながらブーツを脱いでいると、すっぴんのお袋がリビングから顔を出した。怖い。


「あんた、ちゃんと買ってこれたの?」


「買ってきたし。プライドを捨てて」


リビングのテーブルの上に黒い袋を置くと、お袋が中身を確認する。


俺についてきた真知が再び頭を下げた。


「もういいっていってんだろ、落ち着け馬鹿」


真知をコタツに入れてからコタツに入ると、すっぴんのお袋が袋から顔を上げる。


「よく分かったね、あんた」


「……まあな。とんだ羞恥プレイだ」


吐き捨てるように言うと、お袋は真知をだらしない顔で見る。


「よかったねーまっち!ちゃんと買ってきたよ」


「お前ら二人俺をいじめてそんな楽しい訳?悪趣味過ぎるだろ」


スタジャンを脱ぐと、真知が再びごめんなさいと言う。でも俺の顔を一切見ない真知は、相当恥ずかしいんだと思う。俺も真知にデリカシーがないことを聞いたからなんか嫌だ。恥ずかしい。


いつものピンク色のスウェットを着たお袋がそのまま外を歩いてきたのかと思ったら死にたくなったけど、誰も見ていなかったことを祈るしかない。


するとお袋が、途端に大きな声を上げた。


「なんだよ、うるせーな」


「俊喜!あんた赤飯って言っておにぎり買ってくんの!?馬鹿じゃないの!?」


「うるせーな、コンビニにそれしかなかったんだよ」


袋から出した赤飯のおにぎりをテーブルに置いたお袋は、真知を見た。


「こんなの嫌だよねーまっち!」


「黙れクソババア」


「なんだとクソガキ」


睨み合いで冷戦状態に入った俺とお袋の意識を遮ったのは、真知だった。真知はお袋の手からおにぎりを取って、握り締める。


「嬉しいです、ありがとうございます」


「まっち!あんまり俊喜の事甘やかしちゃ駄目!カカア天下くらいの方がいいの!」


何の指導をしてんだクソババアと思いながらお袋を見ると、お袋に冷たい目を向けられた。グレるぞ。


「いいんです、亭主関白で大丈夫です」


俯きながらそう言った真知に苦笑いした。亭主関白って、なんだ?お袋に聞こうと思ったけど、馬鹿にされそうだからやめた。


「お母さんも俊喜も、夜分遅くに申し訳ございませんでした」


「いいのいいの!俊喜の事はもっとパシりに使ってやって!」


どこまでも真知を擁護するお袋に文句を言う気にもなれない俺は、真知を甘やかしているんだと思う。


ただ、俺は池谷よりも地元ネットワークをナメていた。次の日から、『緒方俊喜が生理用品を買っていた』という噂が流れてしまう事になるのを、その時の俺は知らない。




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