合コンとアルコール
あれ、ここ、カラオケだよな?その筈だ。俺は自分で自分を納得させたけど、この異様な空気感がそれを阻止する。なんと言葉にしていいのか、分からない。
暗い部屋の中、音痴の悟が沙也加の目を見つめながら歌うのは、森田童子の『ぼくたちの失敗』。
いや、その歌って歌が上手い人しか歌っちゃいけない代物じゃね?どう考えてもおかしくね?それでなんで沙也加、うっとりしてんの?
言葉に表現できない程下手くそで音痴な悟の歌声に真面目な顔をしていられるだけでも凄いのに、酔いしれるような顔をする今日はスッピンじゃない沙也加に少しばかり尊敬の気持ちを抱いた。
悟は自分で音痴だと気付いていない。下手くそ過ぎて、誰も本当の事を言えなかったのだ。今まで俺も言えなかった。でも気持ち良さそうに歌う悟に、俺はそろそろ本当の事を言った方がいい気がした。
悟と出会ったのは保育所の頃。もう15年も前の事で、悟が音痴な事をその頃から俺は知っていたけど、悟がいつか自ら気付いてくれる筈だと信じていた。
この件は重たすぎて一切話した事はないけど、きっと時夫も久人もそう信じていたと思う。だが、それはもう絶対に見る事の出来ない未来だと分かった。
満足げに悟がマイクを置いて、沙也加が歓声を上げる。
「悟、さすがっ!」
……ゴメンナサイ、誰かこのバカップルをどうにかしてください。そう求めても誰も来てくれない。バカップルと俺だけしかいないこのカラオケの一室は俺に疎外感を感じさせるのに持ってこいな場所だった。
「つーか、なんでその曲なの?」
苦笑いでそう言うと、悟と沙也加が同じように顔をきょとんとさせて俺を見た。二人は顔を見合わせてから、俺を再び視界に入れる。
「胎教だよ?」
沙也加が言ったそれに、絶句。おい待て、胎教で『ぼくたちの失敗』聴かせるのか?悟は平然とした表情…いや、達成感に満ち溢れた顔を俺に向けた。
「産婦人科の先生がいい曲を沢山聴かせてあげてくださいって言ってたから、ね?」
「ね?」
……待て、もう一度言うが胎教で『ぼくたちの失敗』を聴かせるのか?いや、確かにいい曲だとは思う。でも、悟の歌声だと音痴過ぎて朗読みたいに聞こえるから胎教じゃないし、まずは歌にしてみようよ。
「でもこれって、なんか教師と生徒の恋愛のドラマで使われてた曲だし…あの、」
「『私が先生を守ってあげるっ!』」
「モノマネ求めてねーし!!」
悟の汚い裏声で再現された台詞に思わず突っ込むと、モノマネしてほしかったんじゃないの?と沙也加が言う。誰がそんな汚い裏声に守ってもらいたいと思うかよ。
「『私が先生を守ってあげるっ!』」
「悟、とりあえず黙れ」
「私が俊喜を守ってあげるっ!」
「やめろ守るなどっか行ってくれ頼むよマジでもうその裏声聞きたくないしトラウマになりそうなんだよ本当怖い今日眠れない頭から離れなくて羊が一匹的なムードで数えちゃったりしてもう頭の中で無限にループして動悸激しくなったりとかして息切れする!」
「わー、俊喜君肺活量凄いね」
「うん自分でも驚いた」
笑う沙也加にそう返して、俺は心がゲッソリとした。この二人をチョイスしてしまった自分が悪いのは重々承知の上だが、さっきからマイクを離さない悟にはウンザリする。
アンパンマンの歌を歌ったり、金八先生の主題歌だったり、極めつけには『ぼくたちの失敗』だ。さっきから悟が歌いすぎるからどうもおかしいとは思っていたけど、胎教だったのか。
いや、でも悟に任せないで沙也加が歌えばいいのに。沙也加は歌が上手かった気がするのに、どうして悟の音痴を指摘してあげないんだ。もしかしたら気付いていないのか?
……恋って、盲目だな。怖い。
沙也加の腹の中にいるガキの歌のセンスは、どちらに似るのだろうか。沙也加に似てくれる事を切実に願った。
カラオケの画面に映る宣伝が切り替わる。次は氷川きよしだ。どうして歌が上手い奴しか歌っちゃいけない代物の曲をあえて選曲するのだろうか。
全然しっとりした曲調ではないのに、悟は再び沙也加の目を見つめて歌い始めた。いや、朗読を開始した。ゆっくりと瞬きをする沙也加の付け睫が風を切るように上下する。
人の扱いって、難しい。どうして俺がこのバカップルとカラオケに来る羽目になったのか。悟の朗読が繰り返される現実から逃避するように、俺は数時間前の出来事を思い出した。
一つだけ確実に言えるのは、真知が世界を知る事に協力してしまうクソみたいな俺がとんでもなく馬鹿だということだ。
真知をいつも通り実家まで送った俺は、お袋に会う前にさっさと悟と沙也加の住むアパートに訪れた。沙也加はもう高校を辞めたし、悟は冬休みだから、暇潰しには持ってこいの二人だった。
コタツに三人で入って、沙也加が臭い屁をこくという凄まじい事態が起こったけど、悟はなんら気にする様子はなく、剥いたミカンを沙也加に食べさせていた。
真知が屁をこく所を見たことがない俺は反応に困ったけど、俺と真知とは比べ物にならない程に付き合いの長い二人には特に気にする事ではなかったようだ。俺は二人を見ながらハッピーターンを食らう。
年末ムードたっぷりの昼間のワイドショーがやっている中で、俺はいつものように悟の持っていたF1の速報の雑誌をペラペラと捲っていた。二人の間に流れる空気が熱すぎて、熱風を四六時中浴びせられているような拷問的な空間だけど、雑誌はそれを少し和らげてくれる。
すると、誰かが訪ねてきた。俊喜出てきて、と悟にパシられて仕方なく玄関を開けると、ナミとタエが滑り込むようにして部屋に入ってくる。
寒いと言いながらブーツを脱ぎ捨てた二人は慌ててコタツに潜った。若干狭くなったコタツに俺が再び潜った時、タエが俺の肩を尋常じゃない様子で揺すってきた。
「俊喜!」
「あ!?んだよ揺らすな!」
タエを引き剥がすと、ナミが俺の肩を掴んで来る。何だ、この鬱陶しい二人組は。ナミの事も自分から離すと、タエが俺の目の前にケータイの画面を突き出した。近い。
少し離れて画面を見ると、ナミとタエと真知と知らない清楚系な女二人が写ったプリクラがある。皆キメ顔なのに真知だけ変顔という不思議過ぎるプリクラだったけど、頭のおかしい俺は真知を可愛いと思ってしまう。
「今日この五人で遊ぶの」
タエの言葉に、知ってる、と返した。昨日の夜に真知から聞いた。明日は仕事が早く終わるのでナミさん達と遊んできます、と。
この五人で遊ぶのか。何だかアンバランスな五人組だと思っていると、ナミが別のプリクラを見せてくる。
前に制服で遊びに行った時、女だけでプリクラを撮ってくると言って撮ったプリクラだと思われる。中学の制服のセーラー服を着たナミとタエ、高校の制服を着た真知が三人で写っていた。
だらりと顔を緩めたナミは堪えきれないといった感じで口を開く。
「これ、可愛くない?真知」
「真知が超可愛いのは毎日見てるから知ってるけど」
平然とそう返すと、タエが迫ってきた。俺の右手を両手で握ったタエは、付け睫をバサバサさせながら真剣な顔をする。
「俊喜、一生のお願い」
「……何だよ、近いしなんか怖いんだけど」
「真知を合コンに参加させる事を許して」
「は!?」
思わず大きい声を出してしまうと、タエとナミが揃ってお願い、と叫んだ。
「現役京大生との、エリートとの合コンなの!あたし達の将来めっちゃかかってんの!」
「だからってなんで真知を連れていくんだよ!お前らで勝手に行けよ!」
「駄目なの!真知がいないと駄目なの!」
「なんで?」
懇願するタエにそう冷静に言うと、ナミとタエが静かに話始めた。
事の始まりは三ヶ月前の事らしい。ナミはプロフィールサイトでプロフィールを公開していた。そこに、現役京大生のまー君から書き込みがあったそうだ。プロフィールの顔写真を見るとなんとイケメン。
ナミはそれからまー君とメールでやり取りをするようになった。まー君は超かっこよくてメールまでかっこいい(どういうメールをかっこいいというのか俺には分からないけど)らしい。
些細な悩みも聞いてくれるまー君に惚れたナミは、毎日のようにメールをした。多い時は一日百件。どうやったらそんなにメールのやり取りが出来るようになるんだ。
年越しは実家で過ごすとまー君が言ってきたのは一週間前の事。まー君の地元はこっちだそうだ。
「『だから会わないか?こっちも友達何人か連れていくから、前にナミちゃんが送ってきてくれたプリクラに一緒に写ってた友達の真知ちゃんも連れてきてよ!約束ね。』」
ナミのケータイの画面に映った文章を読んで、苦笑いした。ナミは俺を上目遣いで見てきて、お願い俊喜、と甘えた声を出す。なんかウザい。
「ナミ、お前には悪いけど、まー君さ、完全に真知狙いだろ」
「やっぱりそう思う?」
肩を落としたナミに、呆れて言った。
「やっぱりじゃなくて、文面からそうとしか考えられないだろ。なんで真知名指しなんだよ。お前まー君に真知が人妻だって言ったのかよ」
ナミが言いづらそうに視線を泳がせる。
「…言ってない。真知ちゃんに彼氏いるのかって聞かれたから、いないって答えちゃった」
その言葉に、大きな溜め息が出る。ケータイを置いて、テーブルに頬杖をついた。なんでそんなまー君に期待させるような事をするのかが分からない。
「なんでそこでいるって言わねーんだよ」
「だって俊喜は真知の旦那じゃん」
「ああ、お気遣いドーモ」
ふて腐れたように言うと、ナミが口を尖らせた。ナミの言ってる事は正しいけど、誰も真知が結婚してるなんて思わないだろう。年齢が年齢だし、彼氏がいないなんて言ったら、男がいないと思われても仕方がない。
腕を引っ張られて、タエを見るしかなくなる。
「で、現役東大生のイケメン連れてきてくれるんだって!」
「だから真知を合コンに、ってか?無理に決まってんだろ馬鹿。あいつ鈍臭いから簡単にお持ち帰りされて食われちまうだろーが」
酒を飲ませた事がないから強いのか弱いのかサッパリ分からないけど、元々真知は鈍臭いから簡単に連れていかれそうだ。
もう八ヶ月以上も我慢してる俺が食う前に他の男に食われたらどうしてくれるんだ。俺は傷心の旅に出なければいけなくなる。
タエが顔の前で手を合わせた。
「お願い!一生のお願い!」
「絶対やだ」
「俊喜が真知に本気だって分かってるから聞いてんの!今までの女だったら内緒で連れていってたし!」
「お前、俺の元カノを合コンに連れてってたの!?」
タエにそう言うと、タエが平然と頷いた。なんて女だ、人の彼女を合コンに連れていくとは恐ろしい。まあ、もう別れたからどうでもいいけど。
「俊喜にバレたら嫉妬してくれるかなぁ、なんて彼女達の期待をまんまと裏切りまくって、じゃ、別れよ、って言ってたじゃん、前は!」
「昔は昔、今は今。誰が合コンに勝手に行く女に嫉妬するかよ。馬鹿馬鹿しい。そういう人の気持ち試そうとするめんどくせー女嫌いなんだよ」
ナミにそう返したけど、真知、史上最高に面倒臭い女なんだけどな、と少し思った。面倒臭い女が世界一嫌いだったのに、突然変異だろうか。
「それに、真知って合コンもナンパも知らないじゃん!それってどうなの!?」
「いいよ知らなくて。あいつは一生俺の傍で清らかに鈍臭いながらも素晴らしく生きるんだよ」
「ねぇそれ真知を貶してるのかのろけてるのかどっち?」
「俺も分かんない」
何それ、とナミに軽蔑の目を向けられた。その目をされる意味が全く分からない。コタツの上のケースの中に入ったハッピーターンを取ろうとすると、沙也加にケースを引っ張られて、手が宙を切った。
沙也加に目を向けると、スッピンの沙也加がにっこりと笑っている。
「俊喜君、真知が他の男に取られちゃうんじゃないかって不安なんだ?」
「は?」
沙也加は俺の言葉を無視してケースの中に入っていた最後の一つのハッピーターンの袋を開けた。俺のハッピーターンが…!
沙也加の口の中に入っていくハッピーターンに心の中で叫んだ。俺が食う筈だったハッピーターン!別にスナック菓子好きじゃないけど猛烈に食べたくなる時があるじゃん!今それ!
咀嚼する沙也加に白眼を剥きそうになった。俺のハッピーターンがご臨終した。
沙也加の口に挟まったままだったハッピーターンの半分を取って口に入れた悟が、ハッピーターンの粉がついた指を俺に見せてきた。嫌がらせだ。
ハッピーターンを汚くクチャクチャと口の中身を見せながら食べる悟が、愉しそうに笑った。
「俊喜、自分に自信ないから、まっちに合コン行って欲しくないんだ?まっちが知らない事教えてあげたいとか思わないんだ?」
思わず固まってしまったのは、図星を突かれたような気がしたからだ。悟、怖い。
「怖いの?まっちが他の男にぐらついちゃうのを見るのが怖いの?なら尚更、今のうちに抵抗力つけておかないと駄目だよ?」
「……ソーデスネ」
「知らない事を教えてあげたいって思えるくらい余裕ないと、俊喜、男が廃るよ。色男台無し。女泣かせの俊喜はどこに行ったの?」
色男とか、女泣かせとか、突っ込みたい所はいくつもあるけど、知らない事を知らないままで居させるという事は、良くない気がする。
知らなくていい事と知っておいた方がいい事があるのは確かで、俺にとって合コンは前者だ。でも、お持ち帰りされると決まった訳じゃ、ない。
「お願い俊喜、きっちり真知が口説かれないように見張っとくし、酒だって飲ませない!会場はカラオケだから隣の部屋とかで張っててもいい!だから真知を合コンに連れていく事を許して」
ナミの懇願に、俺は仕方なく覚悟を決めた。
「分かった。でも隣の部屋で張り込む」
「俊喜君どんだけ余裕ないの」
「沙也加黙れ」
じゃああたし化粧する、と何故か沙也加はメイクを始め、悟は風呂に入り始めた。一人でカラオケにいるのも暇だからいいと思った俺が馬鹿だった事を知るのは、僅か数時間後の事だ。
タエからカラオケの部屋が何号室か連絡を貰ってからカラオケに入り、無理矢理隣の部屋を取って、この様。
そして今、俺は目の前に置いてあったウーロン茶を飲み込んだ。とてもじゃないけど歌う気になれないし、まず悟がマイクを離さないからどうにもできない。
二人が見ていないのをいい事に、俺は会話を聞くために壁に耳をつけた。だが、隣の部屋からは何も聞こえない。カラオケは防音加工がされている。
聞こえないのも無理はないけど、防音加工のせいでホテル代わりに使う奴もいるのが事実。恐ろしい。それにホテル代も出さない男に股開いちゃう女の頭の悪さも言葉に出来ない。
防犯カメラで見られてますよ。きっと今俺がいるこのカラオケにもそんな馬鹿どもがいる事だろう。そんな事を思いながら壁から耳を離した。暇だ。
悟と沙也加はまだ見つめあっていて、うんざりした。もう嫌だ、この二人馬鹿すぎて嫌だ。
二人が放置するポテトを無心に食べていると、突然部屋のドアが開いた。悟の朗読も止まり、反射的にそっちを見ると、ナミが立っていた。
慌てた様子で俺の腕を掴んだナミにソファーから立ち上がらせられる。
「ごめん俊喜!」
「……何?」
俺の声は思っていたよりも疲れ切っていた。隣の部屋で真知がどんな風に過ごしているのか考えながらバカップルのイチャイチャの餌食になり、酷い朗読を聴かされていた俺の精神は尽く削がれていたらしい。
ナミに腕を引かれて部屋を出ると、ナミが酷い顔をして俺を見た。具体的にどれだけナミの顔が酷いのかは、言葉に出来ない。
「真知が酒飲んだ、」
「なぁ、見張ってろって言ったじゃん」
「ごめんって!まー君が勝手に飲ませちゃったみたいで、真知、酔っぱらってる」
なんて事だ。
こんな疲れ切っているというのに最悪の事態が発生した。ナミが隣の部屋のドアを開けた途端、真知の声が聞こえる。
「俊喜はやさしいのっ!それでねぇ、肌がモチモチなのっ」
どうやらまるっきり人格が崩壊しているらしい。ナミの後ろから顔を出すと、さっき俺がいた部屋とは比べ物にならない程の広い部屋に数人の男女がいた。その片隅で真知が地べたに座っている。
その隣には、タエが座っていて、俺を見て苦く笑う。真知を挟むように、タエの反対側にはチノパンの爽やか系の男が座っていた。多分、まー君だろう。
「真知ちゃん、俊喜って誰?」
「わたしの好きなひと」
何いってんのあの子。そういう事は俺の前で言おう。なんか恥ずかしいんですけど。
そう思う俺が部屋に入ってきた事に気付かないまー君は真知に夢中なようだ。
「へー、でも俊喜やめて俺にしときなよ」
まー君図々しい。何あれ、最悪。まー君がウザすぎて真知の前にしゃがみ込むと、まー君が俺に気付いた様子。
だけど俺はそれを放置して、首まで真っ赤にした真知の顔を覗き込んだ。
「何お前、男の前で酔っぱらったりしてんの馬鹿じゃん」
「あー、俊喜、」
無表情で目を潤ませた真知は軽く凶器で、紳士の俺が逃走しそうになるのを心の中で慌てて引き留める。顔を離すと、真知が俺を見上げてゆっくりと瞬きしてきてそれから目を逸らした。
真知の左手の薬指には当たり前のように結婚指輪が絡まっている。それなのに口説こうとするなんて、まー君はどんな神経をしてるんだ。
まー君を見ると、まー君が視線を泳がせる。それにキレ気味だったが笑った。
「こいつに酒飲ませたのまー君?」
「え、あ、はい、」
飲ませるだけ飲ませて酔わせてお持ち帰りしよう、ってか?まー君の思惑なのか、このカラオケはラブホの通りに近い。
でもそれより、なんで敬語?まー君より俺の方が確実に年下なのに、俺はそんなに老けて見えるのだろうか。それに更に頭にきた。
「こいつが未成年だって分かってるよな?まあ、俺も未成年なんだけど」
「え、あ、あ、うん」
敬語を直したまー君。
真知が俊喜俊喜と俺を連呼する声が聞こえたけど、俺はまー君に無表情で言った。
「俺、真知の好きな人じゃなくて、真知の旦那だから」
「え、」
「人妻は口説いちゃ駄目だろ。よくAVとかで人妻ものとかあるけど、憧れは抱いちゃ駄目だって」
鼻で笑ってまー君から目を離すと、真知が何度も俺を呼ぶ。
「俊喜俊喜」
「お前ちょっとうるさい」
「大好き、俊喜」
潤んだ目に真っ直ぐに見つめられて放たれた台詞に、馬鹿みたいに心臓が鳴った。それを悟られないように、平然と真知の口の中に中指を突っ込んで、言葉を封じる。
「お前は可愛いなぁ」
笑いながらそう言うと、真知の顔が更に赤くなった。自分が先に言った癖に照れるなんて可愛い女。
キョロキョロと動き回る茶色い目と一緒に口の中に突っ込んだ中指で上顎を弄ると、真知の肩が反応する。真知が上顎が尋常じゃなく弱い。ペットみたい。
笑う俺を見るタエが顔を歪めていた。
「なんかウザいくらい俊喜がデレててキモい」
「ごめんな幸せで」
いいんじゃないの、なんて言ったタエは妙に嬉しそうに笑っていた。なんだこいつ。タエはたまにお袋二世に見える時があるけど俺の事を息子だとでも思っているのだろうか。
付き合いは長いけど、こんなギャルがお袋だったら確実にグレる。タエから視線を逸らして真知をぼんやりと眺めた。
真知は俺の指を舐めるでもなく、ただ俺に口の中を弄られているだけで、本格的にペットだった。
口の中がいつもより熱いとふと真知の舌を指で撫でた瞬間、真知の手によって指が引き抜かれた。
その次の瞬間、真知が、俺が真知の口の中に突っ込んだ中指を拭い始めた。パーカーの袖で、必死に中指を擦る。もう二度と見たくないと思っていた光景だった。
最近真知に抵抗されなくなって、忘れかけていた心が冷える感覚に、鳥肌が立つ。
「真知、」
真知がどこかに、いや、俺の知らない真知の過去へ帰っていってしまうような気がして名前を呼ぶと、真知が俺を見上げた。
その目は、いつか見た血走った目。背筋が凍るほど、悲しい目。抱き締めてやりたいと思う俺を拒む目。
その目から、視線が逸らせなかった。こんな目は、俺をより一層引きずり込んでいく。どうしようもなく俺を突き放そうとしている目なのに、俺は真知が好きだと、実感してしまう。
こんな変で不気味な女を好きな俺は、物好きだ。間違いなく、こんな女に本気になった俺は頭がおかしい。
その時、真知に突然押し倒されて、唇を拭われた。前のこびりついた汚れを取る手付きのそれに、昔の真知の記憶が駆け巡る。
床に激突した頭が悲鳴を上げていたけど、真知の手首を掴むことで頭がいっぱいだった。
でも、俺以上に、本当におかしいのは、真知をこんな風にした人間だ。
真知の手首を掴んで唇から手を離させると、腹筋だけで起き上がって真知を壁に縫い付けるように押さえた。
「やだっ!離してよっ!」
「無理、お前今、自分が何したかわかってんのか」
真知の豹変ぶりに、タエが目を見開いているのが視界に入ったけど、弁解する事は出来なかった。真知が俺を離そうと必死に抵抗してくるけど、真知の力は俺には敵わない。
「俊喜っ、お願い離してっ」
「んなこと言ったって無理に決まってんだろ!お前な、」
「移るよっ!移るからっ!き、っん、」
考えるよりも、早かった。『菌』と言おうとした真知の唇を唇で封じて、真知の言葉は俺の中に飲まれていく。怖かった。もう、真知の口から『菌』と聞くのが、怖かった。
タエが隣にいるとか、まー君が凝視してるとか、きっと後ろからナミが見てるとか、そんな事はどうでもよかった。気にする余裕もなかった。
半ば無理矢理、真知の口の中に舌を捩じ込んだ。その途端に舌がアルコールの味に包まれて、真知とキスしてると疑いたくなる。
酔っ払うと本音が出るって、事実だ。何度もそれを実感したけど、ここまで実感した事はない。
最近真知が落ち着いていたから、安心していた俺がいた。でも、短期間で消えてくれる程易しいものじゃなくて、俺にも真知にも、親切にしてくれないのが、洗脳だった。
逃げ回る真知の舌を捕らえた瞬間、下唇の端に痛みが走る。とっさに唇を離すと、じわりと血の味が広がって、ついに噛み付かれたと舌打ちをした。
俺を見る真知の唇から覗く白い歯に、俺の血が付いていた。抵抗を止めない真知を手懐けられたら、どれだけ楽だろう。
ただ手を繋いで、くだらない事で笑い合って、たまにキスして、俺が望んでるのはそれだけで、でも、そんなの、まだまだ遠い夢でしかない。
「俊喜、真知、どうしたの?」
タエの言葉に、小さく笑った。そうでもしないと、飛び越えられないもの達に泣いてしまいそうだった。
卒業アルバムの自分の写真を黒く塗り潰した真知が、描く事が不可能だった真知の将来の夢が、俺の心臓を抉るように貫いて、苦しい。
こんな事なら、俺は真知の中に生まれたかった。真知が、自分自身の苦しみを自分自身の中の別の誰かに託せる多重人格者になれていたとして、真知の苦しみを全部背負う、真知の作り上げた真知の中の人間として生まれたかった。
例え、俺が真知に触れられないとしても、俺は真知の逃げ場所として生まれたかった。
「こうなると戦争だから、もう見んな」
タエにそれだけ返して、鉄の味がする自分の唇を舐めた。目の前の真知は涙をボロボロと溢していて、いつかの真知が過る。
こんな女、好きすぎてどうにかなりそうだ。
「噛み付くなんていい根性してんじゃねーか」
「っ、ごめんなさっ、離して、」
「もっと泣いたら許してやるよ、泣けよ、」
そう言った俺の腕を、タエが掴む。
「俊喜、何いってんの、」
「勝手に泣けばいいんだよ、真知なんか」
責めてる癖に、俺の声は掠れていて、泣きそうだった。それに、タエの手が俺から離れた。
俺は真知を泣かせたくない。
でも、夜だったり、朝だったり、真知の背中を見た瞬間だったり、キスしてる最中だったり、真知と指を絡めた瞬間だったり、ほんのふとした瞬間に、妙な加虐心に苛まれる事がある。
俺はたまに、どうしようもなく真知を泣かせたくなる。真知の涙を枯らそうと思う事がある。
真知の一生分の涙が枯れれば、真知は笑うしかなくなるような気がする。大事に思えば思うほど、俺の心の奥底から真知を泣かせたいという変な欲望が一瞬大きく膨らんでは消えていく。
でも今日は、消えてくれなかった。
「なぁ、お前自分の事傷付けて楽しいか?真知、お前もう忘れろ。全部なかった事にしちまえよ」
抉られる心臓と反比例して、真知の腕から力が抜けていく。
逃げられないんだ、結局。俺も真知も、真知の過去から逃げられないし、お互いからも逃げられない。
だからもう、結局一緒にいるしかない。
「忘れられねーなら、俺の事信じろよ」
アルコールの熱に浮かされた目から零れ落ちる涙の味は、知りたくない。俺が涙の味を覚えたら、もう二度と、真知が笑わないような気がして、怖い。
「証明してやるから、俺が絶対に証明してやるから、今すぐじゃなくてもいいから、俺が死ぬ直前でもいいから、」
「俊喜、」
「信じろよ、頼むから」
恥とか外聞とか、プライドを捨ててまでの懇願が、真知に届くかどうかなんて分からなかった。でも、俺を好きだと言う真知なら、それを受け入れてくれると、信じた。
肝心な事はいつだって、真知に託すしかない。俺が無理強いした事は沢山あるけど、最後に頷いて俺を受け入れるのは、いつも真知だ。
完全に力の抜けた真知の手首から手を離すと、真知が俺のチェックシャツの胸元を掴んだ。その手が震えている事に気が付いたけど、抱き締める事で誤魔化した。
真知の頭に顎を乗せて、タエに笑う。
「緒方家の愛の劇場」
「何それ、」
タエは半泣きで、いつの間にか横にいたナミは泣いていた。なんで泣くんだと二人の感受性の豊かさに軽く疑問を覚えつつ、まー君を見た。
呆然とするまー君は、写真と正常な状態の真知と今のギャップに驚いているんだろう。
「まー君、俺こいつと結婚してるし、こいつ俺の事大好きなんだって、だから黙って諦めて」
まー君に笑いながらそう言うと、まー君が苦笑いした。
多分、普通の人生を歩いてきた人間なんてこの世に一人もいない。並の人生なんてどこにもなくて、十人の人間がいたら十人分の人生がある。
それを受け入れられなければ、多分、一緒になんていられない。それが好きな誰かを作り上げたものなら、どんな苦しい現実も、愛でるしかない。
泣き疲れたのか、俺に抱き締められたまま熟睡に入った子供のような真知をおぶって、家に帰った。外はすっかり、夜になっていた。
ナミとタエは、あれだけ行きたがっていた合コンを容易く放って、俺についてきた。悟と沙也加も、気分が変わったなんて言って、ついてくる。
俺に何も聞かない女三人は、真知の背中を撫でていた。
何故だか悟が気持ち悪く俺にぴったりと張り付くように隣にいて、気持ち悪過ぎて素直にそれを言葉にすると。
ごめんね、泣いてもいいよ、と悟が言った。
悟が何に対して謝っているのか、何故俺に泣いてもいいと言ったのか、分からない。でも、その言葉に、押し込めていた涙が目に膜を張った。
悔しかった。心底、悔しかった。真知が笑う条件を俺は知らなくて、知る事ができなくて、悔しい。
真知の笑顔を引き出せるのは、真知の両親しかいないようで、絶望に似たものが、俺を泣かせる。
無理矢理視界をはっきりさせて、馬鹿じゃん、と一言、悟に言った。
夢の中に逃避した真知の手が無意識に俺の服を掴んで、それがどうしようもなく、俺を情けなくさせる。真知は俺を必要としてくれているのに、俺だって真知が必要なのに、どうしてやる事も、出来ない。
悟が勝手に俺のスタジャンのポケットに手を入れ始めて、それに何も言えなかった。多分、女に本気になった事がある悟には、俺が考えている事が分かったんだろう。
好きって思いだけは簡単に膨らんでいく。どんな困難な事がそこに投げ込まれても、簡単に飲み込んで、気持ちばかりが膨らむ。
でも、その分苦しくなる。それを悟は、俺よりも前に経験していた。親父になった悟は、俺の思いを簡単に掬う程、でかい男になっていた。
細い身体に似合わない程の重い過去を抱えた真知を、俺は飲み込んでやれるのだろうか。飲み込んで、乗り越えて、真知がただの『俺の好きな女』になる日は、来るのだろうか。
今はまだ、『俺の好きな気持ち悪い不気味な面倒臭い女』の真知だけど、俺は真知が苦しいものとしての記憶から消した過去を、どれだけの時間をかけても、どうにかして乗り越えたいと思った。
何度も思ってるのに、どうにもならない。せりあがってくる苦しみに呼吸が遮られそうで、その隙間から、俺はなんとか息をした。
真知をベッドに寝かせると、ナミとタエと沙也加が、真知の寝顔に大好きだと呟いて、俺はそれに、泣きそうになった。
悟が便乗して、俺も俊喜大好きだから、と気持ち悪い事を言ったけど、俺は、喉が熱くなるのをじわじわと感じていた。
皆が帰っていった後、俺は少しだけ泣いた。最近泣きすぎな俺は、真知の泣き虫が移ったのかもしれない。夫婦が似るって、怖い。
俺とお袋とじいさん以外にも、真知を好きだと言う人間は沢山いる。真知はそれに、ちゃんと気付いているだろうか。
真知の指に指を絡めると、真知がそれを握り返してくる。こんな事だけで馬鹿な俺は簡単に幸せに浸れるのに、貪欲に幸せばかり求めていた。
俺の幸せの基準の中心には、いつの間にか、真知がいた。
リビングしか明かりをつけていない暗がりで少し寝そうになっていると、真知が起き上がった。
「あ、起きた?記憶あるか?」
そう言った俺の声は眠気で掠れていた。眉間にシワを寄せた真知が、口を手で覆う。
なんだ、今頃自分のしでかした事の大きさに気付いたのか?この馬鹿女。すっかり血が固まった下唇の端を舐めると、凸凹としている。
「っ、う、」
真知から聞こえてきたその声に、一気に目が覚めた。慌てて立ち上がると、真知の顔を覗き込む。
「気持ちわりーか?吐きそう?」
涙目の真知が、何度も頷く。大体、最初から飲み過ぎなんだよ。ゴミ箱を取ろうとすると、真知から苦しそうな声が聞こえてきた。
「…、う、」
顔面蒼白になった真知は、相当気持ち悪いらしい。掴もうとしたゴミ箱の中身は生憎いっぱいで、俺は真知の手に自分の手を重ねた。
「ここで吐いちまえ、楽になるから、」
「…うっ、いや、」
「出さないと苦しいままだぞ?」
「いや、だっ、…う、」
真知が吐かない理由は、多分、俺に見られたくないからだ。正直、人の吐いたものを見る事なんて、中学の頃から仲間や後輩が吐いたのを見るしかなかった(酒が強い俺はいつも処理係だった)し、高校の時居酒屋でバイトしてたし、慣れてるから気にならないんだけど。
でも、俺も真知の目の前で吐くのには、抵抗がある。
「ちょっと待て、今洗面所連れてってやる」
真知を抱き上げて、洗面所に向かう。手間がかかる女だと思いながらも、心底可愛いと思う俺は馬鹿だった。
「無理だったらここで吐いてもいいから」
「うっ、…や、だ、」
「はいはい、」
洗面所の洗面台の前に真知を降ろすと、真知がトイレの電気をつけて駆け込んで行く。
最後まで閉める余裕さえなかったのか、中途半端に閉じられたドアから、目を逸らした。
どれだけの量の酒を飲んだのかは定かではないが、見た目からして酒は弱そうだし、弱かったのかもしれない。
毎回酔っ払って本音が飛び出して暴れられたら、俺の身が持たない。その度に俺は苦しくなって泣くしかなくなるのなら、真知が酔うまで酒を飲ませる事は二度としたくないと思う。
酒を飲ませた事がなかった俺が悪かった。事前に調べておくべきだったのかもしれない。
小さく溜め息をつくと、真知の苦しそうな呻き声が耳をつく。好きな女の苦しそうな声なんて、聞きたくない。こっちまで苦しくなってくる。
気配からして、真知はまだ吐いていない。酒に慣れていないし上手く吐けないのかもしれないと思うと、俺はいてもたってもいられなくなって、真知に無断でトイレのドアを開けた。
便器を抱えて座り込む真知の横にしゃがみこむと、真知が髪の隙間から俺を見る。
「っ、やだ、」
「何が?」
微かに見えた涙目に、真知が嫌がる意味を知っているのに、惚けて見せる。背中を擦ると、真知の手が俺の胸を押した。
「…来な、でっ、」
「やだ、」
「見ら、たく、な、」
「お前の事情とか知らねーもん」
背中を擦るのをやめて、後ろから抱き締めるように髪を掻き上げてやると、真知が前を向く。真知の目から生理的な涙が溢れるのを横から見て、真知の耳に口を当てた。
「大好き、真知」
「…っ、」
「もう嫌いになってやんねーかんな」
そう言いながら、真知の口に中指を突っ込んだ。不可抗力の真知の、狭い喉の方に近い舌の付け根を押すと、真知が便器に向き直る。
指を抜くと、真知が全てを便器に戻した。背中を擦ってやると、アルコール混じりの嘔吐物の匂いがトイレ中に広がった事を感じる。
トイレットペーパーを引っ張って適当に切って、便器を抱えて呆然とする真知の口を拭った。
「お疲れ。ちょっと酒強くなれるかもな」
真知の口を拭ったトイレットペーパーを便器に捨てて、立ち上がる。洗面台の上に置かれたコップを取ると、そこに水を入れて、真知に手渡した。
「口ゆすげ、気持ちわりーだろ」
真知は依然として呆気に取られているようで、俺は黙ってコップを真知の口に付けて水を含ませてやる。
吐かせてやって、餌付けみたいに水をやってやる俺は、自分が思っていた以上に紳士だったのかもしれない。
真知は俺に促されるままに口をゆすぐ。真知が便器に水を吐き出したのを確認して、嘔吐物を見ないようにしながらトイレの水を流した。
真知が見られたくない事を知っていたから、見なかった。洗面所で軽く手を洗っていると、トイレから真知が出てきて、足早にリビングの方に消えていく。
手をタオルで拭ってからその後を追うと、リビングに真知の姿はなかった。寝室を覗くと、隅の方で体育座りをした真知の背中が見えた。ちっこい背中が、更に小さく見える。
「真知?」
膝に顔を埋める真知の横に胡座をかいて座ると、その頭を撫でた。細い髪が指に絡まって切れそうで怖い。
「酒はほどほどにしような」
「ごめんなさい、」
「いいから、限度ってのを覚え、」
「こんな事までさせてしまってごめんなさい」
今にも消えそうな真知の声に、別にいいよ、と言った。
「も、やだ」
「何が?」
「戻したもの、見られてしまって、もう、いや」
こう言われそうだと思っていたけど、本当に言うのか。縮こまる真知は小さかった。真知の頭に頭を乗せると、真知の肩が一瞬揺れる。
「あんなの、狡いです」
「何が?」
「あんな、好きだなんて言って意識を逸らすなんて、狡いです」
「狡くねーよ、事実だし」
あれで意識が俺に移ったのか。ただ言っただけなのに、真知には結構な威力があったらしい。
「てか、見てねーし、俺」
「見たもん、絶対」
「絶対見てねーし。飲み過ぎて戻した事より、酔っ払って俺の口噛んだ事のが怒ってるけど」
吐いた事から意識を逸らさせるようにそう言って頭を離すと、真知が俺を見た。潤んだ目に飲み込まれそうで、笑う。
それに視線を泳がせた真知が、ポツリと言った。
「痛い、ですか?」
「超痛い」
嘘、痛かったのは最初だけで、今はあんまり痛くない。周りがじわじわと熱を持ってるというか、そんな風に感じる。
「ごめんなさい、」
「いいけど、実は全然怒ってないし」
そう言った俺に、真知がぼろりと涙を溢した。また泣いたよ、どれだけ泣いたら気が済むんだ、この女。
俺にゆっくりと手を伸ばしてきた真知が、恐る恐る俺の口の傷に触った。冷たい指先に、心がどろどろに溶けていきそうだった。
手を掴んで顔を近付けると、真知が顔を引く。
「なんだよ」
「…吐いた後だから、嫌です」
「いいよ、口ゆすいだし」
真知の首に手を回すと、真知が肩を押してくる。潤んだ目の真知の抵抗は、やけに俺を煽るようで。
「やだ、んっ」
有無を言わさずに唇を重ねた。もう、どうでもよかった。吐いた後とか、どうでもいい。ただ、キスの相手が真知なら、それだけで良かったのだ。
さすがに真知に嫌がられるだろうと思って、舌は入れなかった。何度も角度を変えると、最初は肩を押して離そうとしていた真知が、俺の首もとに手を置く。
幸せと痛みのギャップが、半端じゃない。実感する度に入れ替わる両極端なそれは、俺を苦しめ続ける。
洗脳が消えるまで、一体どれだけの時間がかかるんだろう。途方もない長い時間を待っている事は、俺には出来ない。でも、一分先の時間をどうにかしようと足掻く事くらいは、できる。
次の日、大晦日なのに仕事の真知を実家まで送り届けてから、俺は四ヶ月ぶりに親父の墓へ訪れた。最後に来たのは去年の8月の親父の命日で、真知とお袋と来たのが最後だった。
コンビニで買ってきたショートホープに、百円ライターで火を付ける。それを供え物の傍らに置くと、風がないせいか漂うように煙草の煙が宙を舞った。
それをぼんやりと見ながら、新しい煙草を口に銜えて火を付けた。一口目を吐き出した時に香る苦さを堪えて、二口目を肺まで入れた。
少し青みがかった副流煙に比べて、俺が肺から吐き出した二酸化炭素混じりの煙は少し黄色がかっているように見える。
「親父、親父はなんでお袋だったんだよ」
投げ掛けた言葉の返事はないけど、俺は続けた。
「あんなババアのどこが良かったんだよ。気強くて最悪じゃねーか」
墓石は笑いもしないし、泣きもしない。当然、言葉もない。
「嫌いを飲み込むほど好きだなんて、いつか頭おかしくなりそうなんだ、俺」
なんで、俺は真知で、真知は俺なんだろう。それはお袋が親父を、親父がお袋を選んだ事も、不思議で。
誰にも分からないいい所があるから、一緒にいる。そんな事を悟が言っていたのを聞いた事があるけど、お袋にそれがあったのかどうかも謎だし、真知から見た俺にそれがあるのかも、謎のままだ。
「親父、俺、どうすればいいと思う?」
返事が返ってくるんじゃないか、なんて少しだけ変な期待をしながら、煙草の灰を落とす。
「返事くらいしてくれよ」
結局俺に教えるのは、人殺しと盗みとクスリは駄目って事だけらしい。仕方ないと思いながら、俺は三口目を吸い込んで、吐きながら、ぼんやりと口にした。
「俺、あいつを幸せにしたいんだけど」
幸せだって、真知は言った。言ったけど、どうしようもなく、俺はそれを笑顔で言って欲しかった。
笑って、幸せだって、言って欲しかった。俺が欲しい未来が遠くて、どの方向に行けばそれに辿り着けるのかも分からずに、毎日必死になるしかない。
それが、不確か過ぎて、怖くなる。
「……いいや、また来る」
煙草の箱を供えて、俺は四口目の煙草を吐き出しながら墓を出た。死人に口なし、何かを話してくれる訳もない。
俺だったら絶対に無理だと思う女代表のお袋を好きになった頭のおかしい親父に、変な女を好きになる事についてのご教授を願おうと思ったけど、無理だった。
短いショートホープの火種は、すぐにフィルターに近付く。五口目を吸い込んで、通りかかったコンビニの前にある灰皿に煙草を落とすと、中に溜めてある水と火種がジュッと音を立てた。
その時、俺は背後から視線を感じた。だが、気配が近くでない事だけは確かだ。
どこかに後ろが確認できるようなミラーはないかと目だけで確認したけど、そんなものはなかった。
誰だ?そう思いながら歩き出しても、感じる視線がなくなる事はない。
誰だ?知ってる奴か?いや、俺の知り合いに後を付け回すようなシャイな奴はいない。皆俺に気付いたらすぐに話し掛けてくる奴らばかりの筈だ。
振り返って確認するのも悪くないけど、俺だって、命は惜しい。
尾行に気付いてないふりをするよりも、尾行に気付いて相手を突き止めるよりも。
尾行している人間に俺が尾行に気付いたと知らせつつ、撒く事の方が先だ。
それならきっと、何事もなく尾行をやめる、筈。報復なんて、御免だ。
助走を付ける事なく、一気に走り出した。視線さえもそれについてくる。距離がどのくらいかなんて分からないが、追い掛けてきているのは確かだ。
道路にあったミラーで背後を確認したけど、そこには何も映らない。
「あー、もう超ダルいっ」
路地裏に駆け込んで、走りながら着ていたマウンテンパーカーを脱いだ。紫色だったそれをひっくり返すと、迷彩柄が出てくる。
今日、リバーシブルのこれを着ていたのが、不幸中の幸いだった。被っていたキャップはどうにも出来ないから、慌てて着たマウンテンパーカーのフードを被って、人通りの多い道に出た。
追っ手は、尾行に気付いた俺が家に向かう反対の方向に行くだろうと踏んで、わざわざ家へ向かう方向へ歩き始める。
迷彩柄のマウンテンパーカーのファスナーを閉めると、上がった息を抑えるように呼吸した。最悪。誰だ?何の理由があって、俺を追いかけるんだ。
「あー!」
でかい、どこかで聞いた事がある女の声が聞こえてそっちを見ると、最近全然会わなかった中学の同級生のユナがいた。
「と、」
名前を呼ぼうとしたユナの口を慌てて手で塞いで、ユナの肩に手を回して強引に歩き始めた。良かった、さっき連れていなかった女を連れていたら、多分俺に気付かない筈だし、これで何とかなりそうだ。
ユナが目を見開きながら俺を見るから、それに小さい声で言った。
「今は名前呼ぶなよ」
この人通りの多さじゃ、もう視線は感じなかったけど、予防線だ。ユナが付け睫で風を切るように瞬きしながら頷いて、俺に寄りかかってきた。なんだ、こいつ。
「ねー、結婚したんじゃなかったの?」
「普通にしたけど」
「何?離婚寸前?」
「な訳あるかよ、超ラブラブだし」
さっきユナの口を塞いだ手に、不快感を及ぼす程のグロスがついているのが分かった。ユナのグロスも剥げていたけど、それは気にしていないようだ。
巻かれたピンクブラウンのロングの髪から、香水の匂いが漂う。一緒に住むようになってから俺に気を使ってあまり線香をあげなくなった真知の、俺と同じシャンプーの匂いに慣れていたせいか、ユナの匂いが物凄く強烈に感じた。
上目遣いで俺を見るユナの目には大きすぎる茶色いカラコン。白目があんまり見えなくて怖い。背後からの視線はもう、完全になくなった。
「こんな事されたらマジ惚れる。好きになっちゃうよ?」
「やめろ」
即答しながらユナから手を離すと、ユナが口を尖らせる。
「いいじゃん、バツイチでいいから結婚して!」
「マジ無理。俺の戸籍にバツなんてつく筈がねーだろ」
ユナを精一杯の冷めた目で見ると、ユナが俺のマウンテンパーカーを掴んだ。
「思わせ振りな態度酷い!」
「肩組んだだけで思わせ振りだと思う方が酷い!」
ユナの話し方を真似して裏声を出すと、ユナが何故か嬉しそうに笑った。
「何してもかっこいいね」
「そりゃドーモ」
褒め言葉は素直に受け取っておいた。視線がなくなった今、もう正直ユナはどうでもいいんだけど、ユナは俺の後を付いてくる。
「こんなに早く結婚するなんて勿体ないよ!奥さん一個下なんでしょ?」
「まあ、そんな感じ」
どうでもいいんだけど、強引に引っ張ってきたユナを追い払う事は出来なかった。常識的に考えて、そんな自己中心的な奴にはなれなかった俺、プライスレス。
「超美人だって聞いたけどマジ?」
「超マジ。俺意外と奥さん大好きだから俺の事は諦めてください」
「いや、好きになりそうだっただけで好きじゃねーし」
「マジかありがとう」
バッサリと俺に物を言うユナに少しだけガラスのハートが傷付いたりしたけど、ここで会ったのがユナで良かった。元カノの中の誰かだったら絶対面倒な事になっていた。
俺から手を離したユナが、手を上げる。
「じゃ、あたし仕事行くし!」
「あれ、高校辞めたのか?」
ユナは、通信制の高校に通うタエやナミと違って全日制に通っていたと思っていたんだけど。
「情報遅くない?今はショップ店員」
「へー、頑張れ」
「うん、今度奥さんと来てよ!下着屋だし!俊喜好みの下着めっちゃあるよ!」
なんで下着屋に真知と行かなきゃいけないんだ。
前に元カノに付き合わされた事だけでもう懲り懲りだ。あの独特の空気に耐えられそうにない。
思い出し溜め息をつきつつ、ユナを見た。
「お前俺の好み知ってんのかよ」
「えー、なんかエロいやつ?」
「こんな適当な店員の店なんて絶対行かねーわ」
当たり前の事を言うと、えー、酷い、と言うユナが、あ、と目を見開く。
「赤でエロいの!」
「何それ」
「あ、やっぱり黒か!黒がいいんだ?黒でめっちゃエロいの!」
「もう俺の好みとかよくね?」
なんでエロいのから離れてくれないんだ?どう考えてもおかしいし大体下着って殆どエロくね?どれだけ大雑把なんだよこいつ。
「まあ、いいや!」
「そんなに俺の下着の好みに執着してないなら聞くなよ!」
「じゃあね!またね!」
ユナは俺の言葉をスルーして笑顔で颯爽と去っていった。なんだあいつ、まるで嵐だ。人の下着の好みの候補を出すだけ出しといて放置とは恐ろしい女だ。心の中で生まれたての小鹿のような俺が震えながら倒れた。
尾行ももうないようだし、と家に向かって歩き始めた。もう走れる程に元気なのに、俺の仕事復帰は後10日も先の事だ。暇だ。暇すぎるけど尾行されるのは御免だ。
シュンと菊地の事が終わったと思ったら、またなんだか面倒な事になってきた。そんな事に手を回せる程、俺の頭に余裕はない。
溜め息をつきながら家までの道のりをゆっくりと歩いた。まだ朝の街にいる人間は、皆どこかに向かって、目的を持って歩いている。俺だって家に帰るという目的はあるけど、暇すぎる癖に頭の中がいっぱいで、吐き気がした。
その日の夜、俺はいつものように真知を迎えに行った。その後、何故が時夫、久人、悟、沙也加、ナミ、タエの六人が来た。
真知の事情は話していない。話せない。でも、あの真知を見ても、何も聞かないでいてくれる事が有り難かった。
俺の実家で、真知とお袋を含めた九人で年越しそばを食った。皆が笑っていて真知も少し楽しそうで、なんだかやけに幸せな年越しだった。
いや、多分、俺の人生の中で一番幸せな年越しだった。
悟と沙也加は酒が飲めないから先に帰っていって、ナミとタエと久人と時夫はベロンベロンに酔っ払って、酔い潰れてテーブルで寝た。
お袋は美容とかどうとか言って早く寝て、なんだか眠れないらしい真知に付き合って、俺も起きていた。
実家のリビングで真知と二人並んでテレビを観ていた。年越しの特番がやっている。それをぼんやりと眺めていると、真知が顔を覗き込んで来た。
「どうした?」
「眠くありませんか?先にお休みになられても、」
「大丈夫」
頭が冴えていて、眠れる気がしなかった。真知が顔の距離を離すのが名残惜しくて、俺は真知の手を引っ張って引き留める。
すると真知は、俺を見た。
「ずっと、思っていたのですが」
「何?」
俺が首を傾げると、真知が俯く。真知のつむじを見ながら待っていると、真知が顔を上げた。
「今日、女性と会われましたか?」
「は?」
何故だか真知は、涙を堪えるように眉間にシワを寄せた。なんで泣きそうになってんの、この子。
「女性の匂いがしますっ」
「お前の匂いじゃね?」
「違いますっ、香水の匂い、」
そこまで言われて、ようやくユナと会った事を思い出した。確かにユナ、香水きつかった気がするし、匂いが移ったのかもしれない。
「真知が疑うような関係じゃねーから。中学の頃の女友達に偶然会って、」
「会っただけでは匂いは移りません」
インテリやばい。浮気した訳じゃないけど、もし浮気したら絶対に言い逃れ出来ない。絶対しないけど。
ついに涙を溢した泣き虫女を無茶苦茶に抱き締めてやりたいほど可愛いと思った俺は、正真正銘の馬鹿だった。俺は嫉妬させるのが好きな変態なのかもしれない。
「…なんか誰かに尾行されてるっぽくて、逃げてた時にたまたまユナに会って、カモフラージュの為に肩組んだだけ、なんですけど」
俺が事実だけを言うと、真知が顔を上げた。そのまま、俺の体をベタベタと触り出す。
「どうした?」
「お怪我は!?」
「ないない、撒いたし」
と言うと、真知が俺から離れた。俺の浮気疑惑より俺の体の方が大事なんですか。可愛いからやめろ。
「貴方はどうしてそんな危険な目にばかり遭われるのですか」
「分かんない。生まれながらの紳士だからじゃね?」
「意味が分かりません」
「すいません。でも、撒いたしもう大丈夫」
多分でしかないけど、もう大丈夫なような気がする。
誰に付けられていたのか少し気になるけど、この際どうでもいい。
そんな事よりも、真知が遠い事の方が気に食わない。意外と俺はベタベタするのが好きだったのかもしれない。
「真知、なんか遠くない?」
「遠くありません」
「もっとこっち来いよ」
「お風呂に入ってきてください」
なんでツンツンするんだ?今は二人なのに、真知が俺を遠ざけようと風呂場の方を指差す。
「他の女性の匂いがする貴方なんて嫌いです」
「そこまで言うか、」
苦笑いでそう言うと真知に顔を背けられて、俺は本格的に寂しくなってしまった。なんで俺がこんなに振り回されなきゃならないんだ。
女の言動に一喜一憂するなんて、俺じゃない。そう分かっていたけど、俺はそんな自分が嫌いじゃなかった。
相手が真知だから、嫌じゃない。
独占欲丸出しの真知の体を抱き寄せて、隙間なく抱き締める。真知の首に顔を埋めると、安心した。
俺の女の匂いは、やっぱり安心する。
「俊喜っ」
「消して」
「何を、」
「真知がユナの匂い消して」
細い体との隙間を更に無くすと、真知が背中に手を回してきた。
『菌が移るから離せ』なんて愛情表現より、こっちの方が暖かかった。やっぱり俺は、この方がいい。
「私は、貴方に甘いです」
「なにそれ」
「貴方の温度に弱いんです。何も文句を言えなくなってしまいます」
真知の消えそうな声が、鼓膜を揺らす。テレビの音なんかよりよっぽど小さい声なのに、俺の耳にはそれしか入らなかった。
真知の指が髪を梳いて、鳥肌が立った。もっと簡単に、真知が俺に触ればいいのに。
「じゃあもっと甘やかせよ。俺も甘やかしてやるから」
「俊喜、」
「まずは真知さんに接吻を要求してみる」
真知と体を離すと、顔を覗き込んで笑った。真知が視線を泳がせて距離を取ろうとしてくる。甘やかせよ、馬鹿。
「な、何故貴方からしないのですかっ」
そんな言い方をする真知は、別に俺からならいつでもキスしてもいいと言っている事と同じだということに気付いているのだろうか。
いつだって振り回されてるのは俺だ。
「気分」
それ以上が許されないなら、キスくらい腐る程したって文句は言われない筈だ。なら、俺からだけのキスじゃ物足りない。
真知の真っ赤な顔に笑いを堪えるように目を伏せると、真知の唇が瞼に降ってきた。すぐに離れたそれに瞼を上げると、真知が下唇を噛み締める。
キスする場所に意味があるとか、前に久人が言っていたのを思い出したけど、瞼はなんだっただろう。
まず、キスしろと言って瞼にしてくる真知は、どれだけ恥ずかしがってるんだ。もう、数え切れない程してるのに、真知はいつ俺に慣れるんだろう。
真知が噛み締める下唇が気になって、顎を引っ張ってやる事で取ってやると、下唇に軽く歯の痕が付いていた。
「あーあ、痕付いてるよ。馬鹿。噛むのは俺の口だけにしとけ」
「っ、お、怒っているのですか」
「怒ってないし。ただ真知が俺に噛み付く根性があった事に感動してる」
赤い唇についた痕を消すように撫でながら、口を開いた。
「いくらでも噛み付いてこいよ。全部受け入れてやるから」
そんな簡単な事は、いくらでもしてやる。真知の唇を左右から引っ張って、痕を消した。俺のものに勝手に傷付けるな、なんて思うのは、俺の心がどろどろになった証拠のようなものだった。
絶対、逃がしてやらない。俺が意地でも、真知を幸せにする。
今更になって、俺は初めて気付いた。俺が真知と結婚したのは、幸せにしたかったからで、俺を真知のものにしたかった事に変わりはないけど、でも、真知となら不幸でも良かったからなんだ。
不幸でも、こいつがいればいいと思った。現に未だに乗り越えられない洗脳があるけど、苦しいけど、真知がいない事と比べたら、全然平気だった。
「俺、真知限定で追いかける男だから、絶対逃がしてやんねーけど」
顎から手を離して目を見ると、視線が絡まった。
本当の意味での『目が合う』ってきっとこういう事で、タイミングってこういう事で、俺も真知も多分、同じ事を考えていた。
潤んだ茶色い目に映るのは、俺。俺の目に映っているのも、真知だけだった。
動いた瞬間も、きっと同じ。俺が真知を引き寄せた訳でもなく、真知が俺を引き寄せた訳でもない。二人が同時に、同じ距離だけ動いた。
重なった唇は、綺麗に二人の中心。
どちらともなく、なんてキスを、俺達は初めて体験した。




