表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
!!!!!下  作者: 七瀬
第四章 非細工
2/12

回る寿司は当たり前





「……俺、紗英に会ってきます」


「そうか、」


俺は何となく分かっていた。清春が富田紗英に会いに行く日に、今日を選ぶ事を。


記念日とか言ったら、俺も清春も最低だけど、忘れられない日って、確実にある。


「俊喜さん、本当にありがとうございます」


「何を言ってんだ、お前。それはお前が決めた事だろ?俺は何もしてない」


そう言った俺を横で見つめる女に小さく笑うと、女は慌てて俺から目を逸らした。あーあ、寂しい。


清春が小さく笑い声を上げてから言った。


「俊喜さんはそう言うと思ってました」


「バカヤロー、事実だろうが」


「俊喜さんって何で出来てんすか?」


この質問に、どう答えるべきか。一瞬迷って、俺は女と繋いだ手を軽く引っ張って引き寄せた。


顔を上げた女の茶色い目を見て、笑う。


「真知への愛で出来てる」


目を見開いた真知に自分の顔がニヤニヤと緩むのが分かった。清春が笑う声がケータイから聞こえて俺の鼓膜を揺らす。


「いや、マジごちそうさまです」


「……頼む、馬鹿っぽいからなんか突っ込んで」


白い息と一緒に出た声の情けなさと言ったら言葉に出来ない。真知が顔を赤くして仕切りに視線を泳がせて、距離を取ろうとしてくる。


「じゃあ、紗英に会ってきます」


「ちょ!清春君!?リュウジ君!?」


「失礼します」


ガチャ切りされた後の音の虚しさは大嫌いだ。あいつ、絶対俺の事ナメてやがる。少々苛立ちを感じながら、ケータイを閉じてスタジャンのポケットに突っ込んだ。


真知が逃げようとするのを許さず、顔を覗き込んで、言う。


「照れた?」


一日に何回言っているのか分からないそれに、真知は顔を背けた。顔を近付けていたものだから、茶色い髪の毛が勢いよく顔に当たる。痛いんですけど。


少しふて腐れた俺がその場にしゃがみ込んだ時、目の前に黒いベンツが滑り込んできた。衝撃も少なそうに緩やかに止まったそれの運転席からスーツ姿の男が出てきて、後部座席を開ける。


そこから出てきた、蝶ネクタイに背広の、明らかに一張羅に身を包んできたと思われる元総理大臣のじいさんに思わず吹き出した。


「ブッ、」


俺が震えているのに気が付いたのか、じいさんはわざとらしく咳払いをする。



じいさんは俺を睨むように見つめてきた。その視線がうざったくて真知を見上げたけど、無表情に変化はない。


黒いベンツは闇に溶けるように滑って消えていく。俺は立ち上がりながら、じいさんへの文句を口にした。


「……さみーんだよ、クソジジイ。待ち合わせの時間に遅れてんだけど」


「…ヒーローは最後に登場するんだ、貴様はそんな常識も知らんのか」


「黙れ。誰がテメーみたいなのをヒーローにするか」


俺がそう言ったにも関わらず、じいさんは酷く表情を固くして真知を見て頭を下げる。


「奥さんこんばんは。俊喜君の友人の万作です」


万作って言うんだ、このじいさん。名前を知らなかった事に今更気付いた。真知もじいさんに頭を下げた。


「俊喜がいつもお世話になっております、妻の真知です」


真知がそう平然と返した事に、俺は少しだけ悲しくなった。もしかしたら、と思ってはいたけど、本当に真知が祖父を忘れているとは思っていなかったのだ。


いつもなら夫婦っぽいとちょっとテンションが上がったりする真知の台詞にも、心が沈みそうになった。


前に会ったのは十年前、なんて言っていたじいさんを見ると、泣きそうな顔で笑った。じいさんは、真知と会えただけで十分なのかもしれない。


空気が重たくなる前に、と俺は真知と繋いだ手を引っ張って真知に頭を上げさせた。


「とりあえず、中入ろうぜ。寒いし」


一応年功序列を気にする俺は、店の扉を開いてじいさんを先に中に入れてやる。店員の馬鹿でかい声が聞こえて、店員の女が入り口に飛んできた。


女の質問に俺が適当に答えている横で、じいさんと真知は物珍しそうに店内を見渡している。なんだこいつら。


『…………寿司が食べたいんだが、』


そう元総理大臣のじいさんから電話がかかってきたのは、昨日の夜中の事だ。ちょうど真知が映画の再放送を見終わってから風呂に入っていた時。


俺はじいさんに、真知に会いたいならそう言えよ、と言った。だがじいさんはむきになったように、私は寿司が食べたいだけだ!奢れ!と電話口で貧乏人に怒鳴って来やがったのだ。


素直じゃないじいさん。でもじいさんが今日真知に会いたかった理由も少しだけ分かる。


だって今日、クリスマスイブ。なんで聖なる夜、清春曰く『性なる夜』らしいなんかエロいこの夜に、奥さんの祖父と三人で飯を食わなきゃならないのか。


まあ、真知に会ってくれと最初に頼んだのは俺だから、それに文句なんて言わないけど。


三人でボックス席に着く。真知の前に座って生唾を何度も飲み込んでいるじいさんとは対称的に、真知は回る寿司をじっと眺めていた。


視線に気付かない鈍感小悪魔。俺が三人分の茶を用意していると、真知が衝撃的な一言を口にした。全ての謎は、そこで解ける。


「……お寿司が……回っています」


「は!?」


思わず聞き返してしまった。真知が肩を揺らして俺を見る。


「え、ごめん待って…回転寿司……知らねーの?」


「え?」


真知が聞き返してきて、俺は真剣に考えた。スイカバーもかき氷も知らなかった女が確かに中トロが好きだと言っていたのを見た事がある。


なのに、なんで寿司屋を知らないんだ…?そこまで思って、俺は漸く気が付いた。


世の中には、回らない寿司屋が存在する。俺のような庶民が入る寿司屋は回る寿司屋だけど、金持ちは回らない寿司屋に入るのだ。


そうだった。真知、元お嬢様じゃん。


「…これからはずっと……回る寿司屋に来るから……覚えとけよ…?」


苦し紛れにそう言った俺に真知は首を傾げたけど、頷いた。怖い、身分の差、怖いよ。心の中で生まれたての小鹿のような俺が震えた。


だけど、真知は思った以上に楽しそうだった。タッチパネルと戯れる元お嬢様を微笑ましく見つめていたのは俺だけではなく、じいさんも同じように見つめていた。


たまたま目が合って、あろうことか二人同時に咳払いをしてしまうという失態を犯したが、真知は美味しいですとサーモンを食っている。


俺はじいさんが物凄い勢いでレールから寿司の皿を取るのを見ながらホタテを食った。じいさんは一張羅に身を包んでくる程の気合でここに来たようだが、じいさんは真知をチラチラ見ながら食べていて、飯が喉を通らないようだ。


「まっ、真知さんは…いつもは何を?」


軽く吃ったじいさんに大丈夫か、と視線を送ったが、じいさんは瞬きを繰り返していて酷く緊張した様子。俺の視線に気付かない。


真知は箸を置いて口を隠しながら咀嚼して飲み込んだ。たまに俺は真知を別世界の人間だと思う事がある。ナミやタエが食べ物を飲み込む前に話しているのを頻繁に見ていたからか、真知のしつけられたマナーが目立つのだ。


「昼間は彼のご実家の定食屋さんを手伝っております。」


「そ、そうですか。お、おおお姑さんとの仲はっ、いかがかな?」


「はい?」


吃り過ぎのじいさんの台詞をよく聞き取れなかったようだ。真知が首を傾げて聞き返すと、じいさんは焦ったように茶を飲み込んで、大きく息を吐いた。おい、マジでこいつ大丈夫か?


「よ、嫁姑問題というのが…ね?あるし…」


「ご心配には及びません。お母さんには大変よくしていただいております」


「そ、そう、なら、良かった…」


安心したようにじいさんが肩を撫で下ろす。


「大変恐縮ですが、実の娘のように、可愛がっていただいております」


真知がそう言って、なんだか泣きそうになった。お袋はただの口うるさいクソババアなのに、真知が言うと物凄くいい奴のように聞こえる。真知、あんまりあのババアにお世辞言うなと言いたかったが、じいさんがあまりにも祖父の顔で笑うから、言えなかった。


抱き締めてやる事が出来なかったと、じいさんは前に言った。それをするためだけに、元総理大臣のじいさんにはどれだけの事がついて回るのか、庶民の俺には分からない。


じいさんの懺悔が頭を過って、慌てて茶を飲み込んだ。真知に、じいさんはお前の祖父だと言いそうになったからだ。


世界で一番優しくて、世界で一番悲しい飯。苦しくて、真知に言ってやりたかった。お前の事を愛してる奴が、目の前にいると、言ってやりたかった。


じいさんは真知の言葉に一喜一憂するように表情を変える。それがまるで、好きな女を見ている男のように思えた。遠い遠い昔に途切れてしまった二人を繋いだ俺だけど、何かをする事は出来なかった。


じいさんがあまりにも幸せそうに笑うから、息が詰まって仕方がなかったのだ。喉が熱くて、泣きそうだった。真知に心底、思い出してほしいと思った。


じいさんは洗脳で忘れられた訳じゃなく、年月に忘れられただけ。真知が消してしまったのは多分、誰かに言われた言葉だけで、それ以外はきっと覚えている。


だからこそ、悲しくて苦しい。


じいさんは真知に色んな事を聞いていた。友達の話、昨日観たテレビの話、昨日の俺が作った飯、最近寒いね、なんて他愛のない事ばかりだ。


真知はそれに全て律儀に答えていた。


菊地に会った後から毎日沙也加が昼飯を食いに来る事、沙也加の腹を撫でさせてもらった事、ナミとタエとカラオケに行った事、俺の飯が美味いなんてお世辞まで言っていたが、どれも全部俺が知っている日常の事。


それを知らないじいさんは、頷きながらそれを聞いている。好きな誰かの何でもない日常を知っているという事は、俺が分からなかっただけでとんでもなく幸せな事なんじゃないだろうか。


真知は俺に聞かれなくても、毎晩話してくれるのだ。今日誰と会ってどんな話をして、と。


俺は真知がそれを話しているとき、言いようがない程に幸せを感じるのだ。それで、泣きそうになる。


高校生をやっていた頃、真知は俺に自分の事をほとんど話さなかった。多分それは、話すべき事がなかったからなんだと今になって思う。


何でもない、誰かと関わった日常の話。真知が俺に話すのは、真知にとって日常が何でもないものじゃないからだ。


ずっと誰かと関わって生きてきた俺には分からなかったけど、真知の毎日は真知にとっては奇跡なんだ。


命が重たくて重たくて仕方がなかったと言った真知が少しでも生きるのが楽しいと思ってくれていたら、俺はそれだけで幸せだった。馬鹿で青臭い俺の、どうしようもない幸せ。


真知は笑ったりしないけど、楽しそうだった。俺は多分、じいさんと同じように顔がだらしなく緩んでいると思うが、それをやめようとは思わなかった。


どこにでもある回転寿司屋、どこにでもある日常の話。どこにでもある幸せを掴むのは、きっと何よりも難しい。


話に夢中になりすぎたらしいじいさんの高そうなウイングシャツに醤油が跳ねていて、俺は地味にそのウイングシャツの値段を考えたりしたが、考えない方が良さそうだったからやめた。


俺の『高い』とじいさんの『高い』の違いは目に見えている。そのじいさんに飯を奢っているのは『高い』の基準が低い俺だという事は理不尽以外の何物でもない。


じいさんが〆の茶碗蒸しを食ったのは、店に入ってから二時間後の事だ。じいさんの顔は幸せに満ちていた。


少しだけ、悲しそうだったけど。


俺がレジで支払いをしていると、じいさんと真知はご馳走さまですと口々に言ってくる。少食の真知と緊張して飯が喉を通らなかったじいさんと三人だったから、そこまで高くつかなかった。


時夫達と飯を食って奢るよりもよっぽど安い。樋口一葉を出しても余裕で野口英世が二人戻ってきた。


釣りを財布に戻しながら、二人を見た。


「俺、便所行ってから出るから、先に二人で外出てて」


「はい」


真知が頷いたのを確認して、便所に向かった。別に用が足したかった訳じゃない。水入らずの時間というのも少なからず必要だろう。


真知が覚えていなくても、じいさんは真知を覚えている。少しだけでも二人にしてやった方がいい。俺はやっぱり紳士だったけど、いつも紳士になる相手が男だという事に関しては、損をしている。俺の欠点なのかもしれない。


じいさんに気を遣ったと悟られない為に、すぐに便所を出た。出口を出る時にたまたま中年のサラリーマン風のおっさん二人組が入ってきて足を止める。


遠慮も常識もクソもないおっさん二人組が俺を押し退けるように入ってきて、仕方なく二人組を通してからドアを出ると、さっき真知と俺が二人で立っていた場所に、じいさんと真知が立っていた。


二人に近寄ろうとしたけど、真知が何かを話していたからやめた。耳を澄ますと、真知の小さい声が微かに聞こえる。


「おじいさん、私を覚えておいでですか?」


その真知の言葉に、じいさんが勢いよく顔を上げる。俺は無意識に二人に気付かれないように、静かに後ろ手にドアを閉めた。


真知は、じいさんを忘れていた訳じゃなかったらしい。


「……覚えて、いたのか?」


じいさんの声が少し震えていて、耳を塞ぎたくなった。こっちまで、泣きそうになってくる。


「忘れる筈がありません」


「なら、なんで、知らないふりなんて、」


じいさんの台詞は、俺の頭に浮かんでいたものと同じだった。真知はじいさんを真っ直ぐに見て、言った。


「あの場で言っても良かったのです。私を覚えているのか聞いても良かったのです。ですが、彼がおじいさんと私の関係をご存じないご様子でしたので、言いませんでした」


彼って、俺か?なんで、俺?真知の口から吐かれる白い息が真っ黒い空にぼんやりと浮かんで消える。遠くの方から歩いてきた妙なカップルの煩い声に会話が掻き消されそうで、呼吸を詰めて、更に耳を澄ませた。


「もし仮に、おじいさんが私を覚えていないと仰ったとしたら、彼が……俊喜が、おじいさんを怒ります」


「怒る?」


じいさんが首を傾げたのと一緒に、俺も首を傾げた。なんで、また俺?俺はそんなに短気な野郎だと思われていたのだろうか。


ちょっと沈みそうになった俺に突き刺さったのは、真知の言葉だった。


「そうです。彼は優しい人ですから」


真知からしたら、俺は優しい人だったのか。何故だか俺は泣きたくなった。真知は、ですので、と続ける。


「おじいさんが私を覚えていないなんて仰ったとしたら、彼はおじいさんに激怒して、店内を破壊する恐れがあります」


俺ってどんな乱暴者!?そんな奴!?俺って実はそんな奴だった訳!?てかそれ、全然優しい人に繋がってなくね?出かけていた涙が一瞬にして引っ込んだ。


「……あいつはそんなに乱暴者なのか?」


じいさんが勘違いしたじゃん!違う、断じて違う。俺はもっと穏やか!そう信じていたいだけだけど!!心の中で叫んでいると、真知が首を横に振った。


「『真知は覚えてるのになんでお前は覚えてないんだ』ときっと彼は仰います」


真知は俺が思っている以上に俺を知っているのかもしれない。多分俺は、その通りの行動を取るだろうから。


じいさんが真知の言葉に小さく笑った。


「……知ってるよ」


「はい?」


真知が首を傾げる。


「あいつに私の事は話してあるから、あいつは知ってる。二度と真知に会わないつもりだった私に、あいつは『俺の知り合いのジジイって事でいいから会ってくれ』と頭を下げてきたんだ」


「……頭を、下げた?」


「ああ、札付きの悪だとか聞いていたが、あいつは変わった奴だな」


『札付きの悪』って、有り得ない。俺は普通に真面目に高校生やっていたんだけど。苦笑いしていると、じいさんが真知に土下座でもするような勢いで頭を下げた。


「すまないな、真知。会いに来てやれなくて、……すまない」


じいさんの肩が微かに震えている。


「すまない、本当に、本当にっ」


真知が無言でじいさんの肩を擦った。真知は、今じいさんに何を言っても、じいさんの気持ちが軽くなる訳じゃない事を分かっていたんだろう。


「私は今、幸せなんです」


真知のたった一言が、大きかった。


「彼と一緒に暮らして、お母さんが笑ってくれて、私には勿体無い程のお友達が沢山います」


「そうか、」


「私、人生の中で今が一番幸せです」


喉が熱くて、目が熱い。あの女は、男を泣かせる天才だと思う。じいさんと俺は、あの女に泣かされた。滲む視界を瞬きで誤魔化して、俺は笑って今店から出てきたふりをして、じいさんの肩を叩いた。その肩は、苦しそうに震えていた。


その瞬間、真知が弾かれたように顔を上げる。


「真知、何じいさん泣かしてんだよ」


「え?」


「お前、意外とSだな」


えす?と真知が首を傾げたのとほぼ同時、俺達の前に黒いベンツが滑り込んできた。やけに滑らかな動きに、何かのドラマで運転手がコップの水が溢れないように運転する練習をした、なんて言っていたのを思い出す。


じいさんは懐から出したハンカチで涙を拭っていた。俺は今日も紳士の癖にハンカチを忘れたのにも関わらず、じいさんはハンカチを持っているという事実に気が遠くなりそう。


出掛ける前に、自分でパーカーのフロントポケットに入れてきたものに気付いた瞬間、ベンツから二時間前と同じ男が出てきた。


すぐに後部座席のドアを開けるのかと思ったら、男は車のトランクを開ける。


まさか…そこにじいさんを…?と思った俺はきっと正真正銘の馬鹿だ。男はトランクから大きな紙袋と小さな紙袋を取り出した。


涙を拭いたじいさんはそれを受け取って、小さな紙袋を真知に、大きな紙袋を俺に渡してくる。


「クリスマスプレゼントだ。言っておくが、俊喜のはついでだ。それに金は使ってないからな」


「俺の扱いがぞんざい過ぎるだろ」


やけに重い紙袋に苦笑いしながら、真知がどうすればいいのか分からないとでも言うように持った紙袋を見た。


俺が一年前に真知に誕生日にあげたネックレスと同じブランドの紙袋。じいさんの趣味は信じられない程良かった。


真知は紙袋とじいさんを交互に見る。


「あの、おじいさん、」


「いいんだ。安いが気持ちだから受け取ってくれ。そこ、好きなんだろ?」


いや、好きなのは俺です。真知にお下がりをあげただけです。それに俺にとっちゃ安くないです。とじいさんに突っ込もうと思ったがやめた。文句言われそう。


「え、でも、あの、」


「じいさんがいいっていってんだから受け取っとけ。良かったな真知」


真知の頭を軽く撫でてやると、真知が渋々頷いた。俺が渡された紙袋の中を見ると、何かのアルバムのようなものが四冊入っている。なんだ、これ。


考えようとする前に、と俺はパーカーのフロントポケットから紙袋を取り出した。


「ケチなじいさんとは違って俺はちゃんと金出したんだかんな」


そう言いながら、首を傾げるじいさんに薄い袋を差し出す。ブランド名が入った小さい四角のそれを、じいさんは受け取った。


「……これは?」


「泣くんじゃねーかと思って買っといた」


今日の昼間にブラブラしてて買ったハンカチは不要だったみたいだけど、俺が持っているのには高級品過ぎる。クリスマスなんて事は全く考えていなかったけど、プレゼントって事でいいだろう。


じいさんは再び目を潤めた。


「……不良の男の孫ってのも、悪くないな」


「だろ?」


「有り難く受け取っておく」


きっと、じいさんはこのブランドのハンカチなんて腐る程持っているだろう。でも、じいさんはやけに大事そうにそれを懐に入れた。


俺は祖父母を知らない。親父とお袋の両親は小さい頃に死んだとか離婚とかで散り散りで、会った事もない。


だから祖父なんてものは持った事がなかった。妙に遠いやつが祖父になった気もするけど、悪くない。全然、悪くない。


「三倍で返せよ」


照れ隠しにそう言うと、じいさんが途端に俺の腕を引っ張ってきた。抵抗する隙もなくそれに従うと、じいさんがぼそりと俺の耳元で言った。


「お前を見極めた上での判断だ。紙袋の中身は、私にとってもお前にとっても三倍以上の代物だ。お前に託すぞ」


「は?」


「いいか?真知には絶対に見せるな。見せたら駄目だ。分かったな?」


小声なのに、理由も知らないのに、じいさんの声は俺に頷かせる程の能力を持っている。これが昔、国を動かした奴の能力なのかなんなのかは分からないけど、やけに真剣な声だった。


俺が頷いたのを確認したじいさんは、俺の腕を離す。俺を見るじいさんの目は強かった。ヤクザとはまた違う眼光に、黙ってじいさんの言葉に従う事にした。


真知を見るじいさんは一変して、だらけた顔で笑う。


「真知、また今度な」


「はい」


真知が頷いたのを嬉しそうに見たじいさんに、男が後部座席のドアを開けた。良くできた人間って、こういう人間の事をいうのかもしれない。


じいさんはベンツに乗り込んだ。悔しいけど似合ってる。俺もあんな格好をしたらベンツが似合うようになるのだろうか。俺から駄々漏れするビンボー臭は消えそうにない。


「またな、じいさん」


「おう、」


運転手の男に頭を下げられたと思ったら、男は車に乗り込んだ。左ハンドルで颯爽と車を走らせて行ってしまう。じいさんは真知を見ながら最後まで笑っていた。


真知が俺のスタジャンの裾を軽く引っ張ってきてそっちを見ると、真知は俺を見上げている。


「……知っていたのですか、」


「何が?」


「おじいさんと、私の事、」


段々尻窄みになる真知の声は掠れていた。茶色い目が潤まないか真剣に見ていると目を逸らされる。


返事をしない俺に痺れを切らしたのか、真知が控えめにスタジャンを掴む手を揺らした。


「あー、まあ、」


「なら、何故最初に仰ってくれなかったのですか?」


「……なんとなく?」


お前に自らじいさんを思い出して欲しかった、なんて本音は言えなかった。なんか恥ずかしい。


真知は俯いて、小さな声で言った。


「…貴方を嫌いになれる方法を教えてください」


絶句。 真知が自主的にデレた。強烈な破壊力を持つそれに、俺は真知のつむじを見ている事しか出来ない。それって半分、告白じゃねーか。


何、この可愛い生物。頭おかしいだろ。俺も頭おかしいけど、寿司屋の前で俺を口説く真知もおかしい。


「……何可愛い事言ってんの真知さん」


真知は俺の言葉に小さく肩を揺らす。スタジャンから手を離した真知の手を掴むと、いつものように指を絡めた。


「もう落ちてるやつ口説き落としてどうすんだよ」


「っ、た、単なる予防線ですっ」


……予防線、って。この女そんなのも用意しようとしてんのか。俺を引き摺り込もうとするなんて、恐ろしい女だ。突き放すように言うくせに素直過ぎる。


「予防線張るくらい俺の事好きなの?」


「ち、ちがいます」


「じゃあなんだよ」


「……嫌いじゃないだけですっ」


距離を取ろうとする真知を許さず、ポケットに手を突っ込んだ。


嫌いじゃないだけで予防線張るか?意外と俺に夢中じゃねーか。可愛いからやめろ。


真知の手にある紙袋が目に入って、ふと時計を見た。まだ時間は7時半過ぎで、店はやっている筈。


「…欲しいものとかねーの?」


「金品等を要求しているわけではありませんっ」


「いや、違うし。クリスマスプレゼント買ってやるよ」


慌てて頭を上げた真知は、異常な程に首を横に振る。遠心力で首取れそう。金品等を要求って、どんな解釈だ。


「先日スニーカーも買って頂きましたっその上誕生日もっ」


「それはそれ、これはこれ」


「わ、私、貴方に大層なものは買っていませんっ」


「え、俺に買ったの!?」


「あ、」


しまった、とでもいうように真知が視線を泳がせ始める。何こいつ、信じられないんですけど。何こそこそ隠れてやっちゃってんの?


ふと、真知がこの前ナミとタエとカラオケに行った日、真知は俺が好きな男物のブランドの袋を持って帰ってきてた事を思い出した。聞いたら服を貰ったがどうのと言っていたけど、もしかしてあれか?


いや、この子おかしい。この子可愛すぎておかしいんですけど。


「べっ、別にっナミさんとタエさんが買うべきだと仰ったので!」


「三人で行ったのか?」


「だって!一人で男性もののお店に入るのには勇気がっ」


俺を見上げてそう言った真知の顔は赤い。テンパって気付いていないだろうが、ナミとタエに言われてから行動した訳じゃないのは、明らかだ。


もしかしたら俺が知らないところで、一人で何回も店に入ろうとしていたのかもしれない。最終的にナミとタエに付き合ってもらったと言っているのと同じだと、こいつは気づいていないだろうけど。


真知は今更自分の顔が赤い事に気が付いたのか、俯いた。


「で、ですから、駄目ですっ」


「なんで?尚更買うし」


「いえ、本当にいいんですっ」


駄目だ。こうなると頑固女は絶対に首を縦には振らない。


「じゃあ、真知、じいさんから何貰ったのか見てみろよ」


俺は意識を逸らす作戦に出た。真知は俺を一度見て小さく頷くと、名残惜しそうに俺の手を離す。そんな手の離し方をされると、こっちが離したくなくなる。


真知は袋の中から箱を取り出した。それを開けるとケースが入っていて、それを開く。


「あ、」


「ピアスじゃん」


じいさんは真知がネックレスをしていた事を知っていたのか、黒い石の入ったリングピアスが入っていた。ここのピアスは一個売りなのに一対で入っている所が、あのじいさんの気の利いたところなんだろう。


でも。


「真知、ピアスホールねーよな」


「あ、そう、ですね」


「じいさん残念だな」


じいさんのセンスがいいのは十分分かった。ネックレスを付けているのは遠くから見ても分かるけど、髪の毛に隠れた真知の耳を確認するのは不可能だった訳だ。


真知が付けるネックレスを見た奴は、大体それが俺の趣味だと分かっていて、俺の独占欲だと勘違いする。でも、じいさんは真知が少しごつめのアクセサリーを好むと思っていたみたいだ。


「で、欲しいものねーの?」


ピアスをじっと見ていた真知が俺の声に顔を上げる。


「俊喜はピアスホールがありますよね?」


「え?ああ、あるけど」


「左耳に三つありますよね?それはどのようにして開けたのですか?」


意外と俺の事見てたんだ、なんて思いながら、平然と言った。


「普通に自分で開けた。ニードルでブスッと」


「にーどる?」


「うん、なんかめっちゃ先尖ってるやつ」


そうですか、と言いながら真知はケースを閉じて箱を戻すと、袋にそれを入れた。まさか、この女自分でピアスを開けようとしてるのか?


「…やめとけ。皮膚科とかスタジオとか行ってさ、プロに開けてもらえよ?自分でやるのはやめとけよ?俺連れてってやるし、タエとかタトゥー入ってるからきっとピアススタジオとかいいとこ知ってるだろうし」


な?と真知の顔を覗き込むと、真知と目が合った。その瞬間、嫌だと思う。この女の耳に穴を開ける奴が男だったらと思うと、いや、女でも嫌だった。


ピアスを付けたい真知には申し訳ないけど、ピアスホールなんて開けて欲しくない。


「やっぱ、開けるのやめとけ」


「え?」


「痛いし、な?俺、お前が痛いの嫌だし」


嘘だ。勝手な俺の独占欲だ。散々自分の腕を切ってきた真知に、自分で開けろとは言えないし、かといって他の人間に開けてもらうのも嫌だ。


もうこれ以上、傷なんて要らない。じいさんには悪いけど、俺は嫌だ。


真知の手を握り直して、何でもないように笑った。俯く真知は残念がっているかもしれない。


「で?欲しいものは?」


「……ピアスホール、です。それがクリスマスプレゼントがいいです」


「…あの…真知さん?今の話聞いてた?」


頑固だよ。また頑固出たよ。苦笑いするしかない俺に、真知が顔を上げた。


「俊喜が、私のピアスを開けてください」


「は!?」


まさかの俺?意味が分からない。真剣な顔で言う真知に半ば呆れを感じる。確かに俺が開けるなら俺も文句はないけど、でも。


「だから、痛いって、」


「貴方にならいくら痛みを与えられても構いません」


その言葉に、俺の中の燃えちゃいけない所が燃えそうになった。真剣な顔をして爆弾発言をした真知の視線に耐えられなくて、視線を逸らす。


駄目だ、真知はもしかしたら素面じゃないのかもしれない。今日は一段とおかしい。


「なぁ、お前それマジで言ってる?」


「マジです」


人のピアスを開けた事があるかないかと言ったら、ある。自分以外にも、悟や時夫、元カノくらいになら開けた事がある。でも、重みが全然違う。同じ人間なのに、違う。


どうするべきか、なんて頭の中でぐるぐると回っていた。真知に無理だと言っても、真知は頑固だから譲らないだろう。


無言の俺を真知がじっと見ているのが分かる。視線を感じる。さっきの言葉の破壊力がまだ効いている中でのその視線はきつい。


何が、俺になら痛くされてもいい、だよ。人の寿命を縮めるのもいい加減にして欲しい。


「……俊喜、」


そんな懇願するような声を出されたら、更にどうしていいのか分からなくなる。俺と絡まった手に力を込めてくる真知を見ると、真知と視線が絡まった。


真知の茶色い目を見ると、余計にピアスなんて無理だと思う。でも、俺も今まで色んな事を真知に強制してきたのを思い出した。


強制ばっかりして自由を無くしたら、窮屈だ。


男は度胸。俺は大きく深呼吸して、口を開いた。


「分かった」


ピアスを開けるのなんて三年振りくらいだけど大丈夫だろうか。俺は途方もない不安に苛まれた。


まさか、こんな事になるなんて、今日の朝起きた時には思っていなかった。


あれからニードルと消しゴムとストレートバーベルを買って帰ってきて、俺は冷静になる為に風呂に入ったけどさっぱり冷静にはなれなかった。


真知から渡されたプレゼントの中身はロゴ入りのパーカーで、値段は多分一万円くらいだ。今思い出せばそれは、ショップからカタログが届いた時に俺が少し欲しいと思っていたやつで、真知はそれを覚えていたらしい。


パーカーを広げて、途方に暮れた。このパーカーは一万。真知のピアスホールを開けるのには二千円もかからない。なんだか物凄くあいつに甘やかされているような気がするのは、俺だけか?


テレビから流れる笑い声でさえも、なんだか頭にくる。俺をヒモって言いたいの?違う、食費も光熱費も家賃も全部俺が払って、あいつを養ってるつもりだ。ただ休職中ってだけだ!と自分に自分で言い聞かせた。


真知、センスいいよな、なんてぼんやりと頭に浮かぶ。風呂場から聞こえるシャワーの音は無視。清春は『性なる夜』なんて言っていたが、俺にそれは程遠い。


パーカーをいつもよりも丁寧に畳んで胡座をかいた膝の上に乗せると、テーブルに置いてある現実と向き合う。


溢れそうになる溜め息を飲み込みながら、ニードルを手に取った。自分が使うとなると全く怖くもなかったのに、今じゃ凶器のように思える。もしかしたら菊地に刺されたせいで先端恐怖症になったのかもしれない。


転がる軟膏を掴んで、項垂れた。これから真知の耳に、穴を開ける。たったそれだけの事なのに、どうしてこんなに俺は冷静じゃいられないんだ。


ピアスを開けたら暫く耳に攻撃は仕掛けられない事を思い出して、何だか寂しい気分になる。


口はバイ菌だらけらしいから、開けたてのピアスホールを舐めるなんて事は出来ない。それが真知なら尚更で、俺が舐めたせいで真知の耳が化膿でもしたら俺はどこかに放浪の旅に出るしかなくなる。


責任重大、だろ。真知が風呂に入ってからすぐにクローゼットに押し込んだ、じいさんから貰った袋の中身だって気になっているというのに、俺はあのじいさんのせいでこんなにも追い詰められている。


さっき拝借してきた真知のコットンに消毒液を染み込ませて、買ってきた消しゴムの表面を消毒していくだけで、倒れそうだった。


真知が風呂から出てきた頃、俺は疲労感に包まれていた。濡れた髪をタオルで拭いていた真知は項垂れる俺を見て首を傾げる。


爆弾発言女は俺にどれだけ痛くされてもいいらしい。そんな事言われると色々したくなるだろ、と頭を抱えると、真知が俺の髪を拭いてくれた。


優しいじゃねーかやめてくれ。今優しくされたら泣きたくなるだろーが!


「…如何されましたか?」


「何でもねーよ」


真知を見ると、改めて風呂上がりの真知の凶器具合を突き付けられた。仕方ない、と俺は体を起こして気合いを入れた。


「ヨシッ!」


いきなりのでかい声に真知が肩を揺らす。すいませんね、なんか。パーカーを袋の上に置くと、正座する真知に向き合った。


まだ濡れている髪をタオルで拭いてやると、綺麗な耳が見えて、申し訳なくなる。でもそれ以上に気になっていたのは、ニードルを買う時の真知の言葉だ。


一つでいいんです、と真知は言った。


「なあ、本当に一つでいいの?」


「はい、いいんです」


「ピアス二つ入ってんのに?」


「はい」


別に真知がいいなら、いいんだけど。タオルを首にかけてやると、テーブルに転がっていた真知のピンを取った。


「右と左、どっちがいい?」


真知の目を見て言うと、真知は躊躇うように口を開く。


「貴方の、好きな方で、」


「その破壊力抜群な台詞どこで覚えてきたの」


「破壊?」


真知は俺の言葉の意味が分からないといった顔をした。分からないで言ってるなんて、この子怖いよ。


あんまり風呂上がりの真知を見ていると紳士な俺が家出するから、黙って真知の右耳にかかる髪をピンで留める。


「右ですか?」


「うん、左は俺が舐める」


「なっ、」


ただでさえ風呂上がりで上気していた頬を更に赤くした真知から目を逸らす。俺は左耳の方が舐めやすいというか、左耳を舐める癖があるらしいから、都合がいい方がいい。


真知の右側に回って、消毒液を染み込ませたコットンで耳朶を拭う。まさか、軟骨を開けてくださいなんて事は言わないだろう。ロブだと俺は信じてる。


トラガスでお願いしますなんて言われたらとりあえず発狂する。元カノに一度開けた事があるけど、あそこを開けるのには苦労したから、もう二度と開けたくない。


真知はやっぱり耳が弱いのか肩を揺らした。そういう反応やめてください。


「ロブでいいんだよな?」


「ロブ?」


「えっと、耳朶」


「あ、はい」


お願いします、と言った真知は、深呼吸をしてから目を閉じた。ごめんなさい、まだ聞かなきゃいけない事があるんですけど、真知さん。


「真知、どこら辺に開ける?」


「はい?」


「開ける位置。色々付けたいなら中央のがいいよ。下の方だと重いの付けたら千切れるかもしんねーし、」


「……千切れ、る?」


真知が目を見開いて俺を見て、俺は自分で無意識に言った台詞に心の中で笑った。『千切れる』にビビって、やっぱりやめると言ってくれれば最高だ。


「そう千切れたりするから、あの、」


「中央でお願いします」


嘘!?マジで開ける訳!?動揺を隠しきれなかったけど、仕方なくニードルの袋を開けた。


「今準備するから、具体的な位置どこがいいか決めて」


冷静を装いつつ鏡を手渡すと、軟膏のチューブの蓋を開ける。中から出てくる黄色い軟膏でニードルの穴を埋めて、周りにも塗った。


開けたくないって、俺、本当に真知の開けるの怖いって。そう思っていると、真知が鏡を置いた。


「……よく…分かりませんから、貴方が決めてください」


「え?」


「私は中央ならどこでも構いません」


目を瞑って覚悟を決めたらしい真知に、俺も覚悟を決めざるを得なかった。


失敗しないように軽くマーキングして、消しゴムを掴んだ。もう、やるしかない。


「真知、ちょっと痛いけど、失敗したくないから絶対に動くなよ?」


「はい」


「なるべく早く済ますから、我慢して」


「はい」


深呼吸して、耳朶の裏側に消しゴムを当てると、ニードルを持ち直す。ピアッサーなら色々誤魔化してガシャンといけるけど、ニードルはそれが出来ないから不便だ。


でも正直、絶対ニードルの方が痛くないから安全策だとは、思う。真知の白い耳を眺めて、言った。


「真知、行くぞ」


「はい」


意を決して、マーキングした場所にニードルをぐっと刺すと、真知が目をぎゅっと瞑った。


真知の眉間に寄るシワに、俺は無意識に叫ぶ。


「真知ごめん真知ごめん真知ごめん!」


それでも指先に力は込めたままだ。真知の白かった耳が赤くなるのが居たたまれないけど、仕方がない。最後にぷつっと小さく音がして、遠慮なくニードルを押し込んだ。


消しゴムにはしっかりニードルが刺さっていて、ニードルを固定しながら消しゴムを外す。真知の耳朶に貫通したニードルは、しっかり真っ直ぐに入っていた。


よかった、失敗しなかった。安堵の息を吐くと、真知が目を開ける。少し涙目なのが、心に痛い。


「貫通したから、これからピアス接続するから待って」


そう言うと、真知が頷いた。買ってきたストレートバーベルを消毒してニードルの穴に接続する。そのまま押し込むと、ピアスがはまった。


ネジにボールを嵌めて、仕事は漸く終わった。真知の肩に額を乗せながら、鏡を見せる。


「どうっすか?我ながら綺麗に開いたと思うんだけど」


「はい、ありがとうございます」


その声に、俺は真知を抱き締めた。


「俺が怖かったんだけど」


「申し訳ございません」


真知が俺の腕を撫でるから、やけに安心する。いい匂いする、なんて変態っぽい事を思いながら、真知の手を握った。


「多分安定は早いと思うけど、それまではまだこのピアス付けとけよ?」


「はい」


真知の耳を見ると赤くなっていて、それに浮かぶサージカルステンレスの四ミリボールが真知の耳じゃないみたいだった。見慣れないそれも、俺はいつか見慣れるんだろうか。


少し余裕のあるシャフトを確認して、真知から離れると、髪に付けていたピンを外してやる。


「もう一つはいつ開けんの?」


俺はそれまでにまた覚悟を決めなきゃならない。そう思って聞いたけど、真知は首を横に振った。


「一つでいいんです。最初から一つだと決めてましたので」


「そうなの?でも両方開いてると色々付けられて便利じゃね?」


俺が開けるとか開けないとかは別として、客観的意見だ。女ものは一対になってるものが多いから、最低一つずつ開いていた方が便利だ。


「いえ、おじいさんから貰ったピアスしか付けません」


「あ、マジ?」


「だから、あの、」


口ごもる真知は視線を泳がせてから、俺を見る。


「ん?何?」


「ですから、あの、えっと、」


「うん、」


「もう一つは、貴方が付けてください」


もう一つって、じいさんから貰ったピアスのもう片方って事か?解釈するのに時間がかかっていると、真知が顔を真っ赤にして言った。


「う、浮気防止ですっ」


いや、浮気防止とかいう以前に結婚指輪をきっちり付けてるから浮気もクソもない。それに、あのデザインはユニセックスものだけど男っぽいから、真知の浮気防止にしかならないような、気がする。


でもこいつ、なんなの?真知は頬に手を当てて顔を隠している。


「ペアにしたいならそう言えばいいと思う」


「違いますっ」


素直なのか素直じゃないのか、さっぱり分からない。真知の前に回ると、自然と顔が緩んでくる。


「お前、いつからそんなに独占欲強くなったの?」


「…っ、」


「まあ、俺はそれを待ってたんだけどな?あんまり可愛い事ばっかり言うと食うかんな」


ゆっくりと顔を上げた真知の目と目が合って笑うと、真知がぎこちなく歯を見せた。それを見た途端、目頭が熱くなる。


今の真知にできる最大限の笑顔だった。多分、真知はそれで笑えていると思っている。笑おうと思って俺に笑ってくれたんだと、思った。


「独占欲が許されて嬉しいっすか?」


からかうように発した声が、ほんの少しだけ揺れていた。真知がそれに気が付いたのか首を傾げる。駄目だ。俺が泣きそうになっている事がバレたら、真知が笑えていない事に気付かれる。


俺は真知のネックレスに指を引っ掻けて引き寄せると、その唇に食らい付いた。


真知から洩れた声も放置して、絡ませた指でネックレスを伝って首に手を回す。真知は俺の両肩に手を付いた。中々、真知もキスに慣れたと思う。


キスに夢中になっている最中に突然人が変わったように突き飛ばされる事がなくなっただけ、有難い。


俺の頭の中に浮かんでいるのは、さっきの真知の顔。これから少しずつでもあんな顔を見せて貰えるなら、何でも許してやれる気がした。




評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ