守護妖精メル・ランス
ユメコはドアを開け、倒れるように部屋に入った。ソファにぐったりと座り、しばらく息をつく。
今日も一日、仕事ガンバった。ガンバったアタシ。偉い。誰もほめてくれないけど。
ずるずると背もたれをすべって、横になってしまう。目をつむりそうになり、いけない、メイクを落とさないと、と見開いたが、だんだんにまぶたがさがってきて閉じてしまう。
……。
夫が亡くなり、生前よりくれぐれも、と頼まれていた、義姉の見舞いに来たところだ。その施設は、東京から電車で一時間半、タクシーで二十分ほどのところにあった。東京から二時間程度で、こんな山深くなるとは――。別に驚くようなことでもないのかもしれないが、着いたときには意外に思ってしまった。
初夏の日差しのまぶしい、草いきれのなか、周囲になにもないなかぽつんと建っている施設が、近代的で清潔な建物だったのも予想外だった。建築後せいぜい十年といったところか。もっと打ちっぱなしの、じめじめとして暗く、寒々しいコンクリート建築を想像していたのだ。
建物の内部ももちろん、明るいがなおかつ落ち着いた色合いで、清潔できれいだった。清潔できれいな待合室でしばらく待っていると、白衣を着た男がやってきた。
……。
ユメコは目を開き、がば、と体を起こした。鏡台のまえに座り、化粧を落とす。洗面台で顔を洗い、仕上げに保水水を顔につける。
この香り。
パジャマに着替えて、またソファでくつろぐ。
匂うか匂わないかの微かな香り。
彼が現れた。
「おかえり」
白い歯、さわやかな笑み。コットンの白いシャツにブルージーン。だらしない着崩しが、かえってさわやかさを増している。
「ランスくん」
本名は知らない。だがどう見ても日本人、すくなくともアジア人の彼に、こんな西洋風の名前がついているとは思えないが、当人がそう呼んでくれ、と言っているからそう呼んでいる。フルネームはメル・ランスだそうだ。
「今日も一日、がんばったね」
年齢は十代後半くらいだろうか。
「さっき、誰もほめてくれないなんて言ってたけど、ひどいな、ぼくのこと忘れてるなんて」
もちろんユメコよりもずっと年下だが、出会った最初から敬語なんか使ったことがない。
「ランスくん、あたしのことほめてくれたことなんてあった?」
「そっか、いつも偉いと思っていたけど、ゴメン、口に出しては言ってなかったかも」
そう言って彼は手を伸ばし、ユメコの頭をなでた。「いい子、いい子。ユメコ、偉い」
頭をなでていた手が顔をすべり、頬におりてきて、そのまま今度は軽く頬をなでた。
「うん、肌もいいよ。いつも苦労してるなんて、とても信じられない」
ああ、キスされるんだ。ユメコは目を閉じた。
「共感覚というものがあります。黒く印字された数字にカラフルに色がついて見えたり、料理を味わっていると音楽が聞こえてきたり、といった、認識が知覚に影響を与える、もしくは五感のある感覚が違う感覚に影響をおよぼしたり、そういう方々が現実に存在します。お聞きになられたこともあるのではないでしょうか」
「ええと……そうですね……素敵なお料理を食べたときに、オーケストラの素晴らしい演奏が響き渡った、なんていう表現を聞いたことがあるような……」
「まさにそういったことが、比喩としてではなく実際に――といってもその人の頭のなかでのことですが――『共感覚』の持ち主には起こってしまうのです」
「はあ、比喩ではなく」
「むしろ、ひょっとしたら共感覚の持ち主が自分の感覚をそのまま表現したのが、おもしろい比喩として定着してしまったのかもしれませんね。いや、話がそれましたが、これは神経のある種の混線が原因であるといわれています」
「混線ですか」
「電話で話していて、ほかの回線の通話が漏れ聞こえてくることです。なにかのはずみで二本の電話線が接触してしまうことが原因です。これは古い方式の交換機での話で、デジタル交換方式では原理的に起こらないので、現在ではもうない現象ですが。失礼ながら奥様くらいの年代ではご経験があるのではないでしょうか」
「ええ、子供のころに、友達と電話しているときに、まったく違う、誰かが会話している声が聞こえてきたことがあります。たしかに友達と『混線してるね』と言って笑いあった記憶がありますね」
「それが人間の神経で生じていると想像してみてください。最初の例でいいますと、ある数字を見て、視覚神経がそれを脳に伝えます。脳のなかの、色を認識する部分と混線を起こし、数字に着色されてしまう」
「はあ」
「これは余談になってしまうかもしれませんが、もともと色というのは、ほとんど脳の補正作用によって着けられるものなのです。つまりどういうことかというと、視覚神経のなかで色を感知できるのは、中心部分だけで、もし目で見たままを映したとしたら、視界の真ん中へんだけに色がついて見えて、その周りは灰色になるはずなのです」
「そうなんですか」
「さらに脱線すると、眼球の奥の、網膜に視神経がつながる部分は真っ黒になるはずなのです。いわゆる盲点というやつです。ところが人間が認知する視界は、盲点もなく、視界の限り色がついて見えます。これは脳が視覚神経から受け取った情報を加工して、すなわち補正して意識に渡してやっているからなのです」
「はい」
「だから、黒色で印字された活字に色がついて見えたとしてもそれほど不自然ということでもないのです」
「なるほど」
「おいしい料理を食べる、味覚神経がそれを脳に伝えます。そのとき、聴覚神経と混線を起こし、その人には素晴らしい料理とともに素晴らしい音楽が聞こえてくるのです。こういう感覚を持つひとは、実は意外に多いのです」
しかし、いつまで待っても唇に、ランスくんの唇の感触は訪れないのだった。ユメコはそっと目を開いた。ランスくんは目のまえにいた。さっきと同じ体勢のまま、さっきと同じ微笑みを浮かべている。
「イマジナリーフレンドをご存じでしょうか」
「いまじ……?」
「イマジナリーフレンド。『想像上の友達』と直訳されます。小さな子供が、ひとり遊びをしているときに、誰かといっしょに遊んでいるかのように、話しかけたり返事をしたり、という光景をご覧になったことがあると思います」
「ああ、そういえば」
「その、見えない友達のことをイマジナリーフレンドと呼びます。たいていは遅くとも学校に通うようになるころには消えてしまいます」
「ええ、たしかに。うちの娘もそんな感じでした」
「ランスくん、わたしが眠るまで、どこにもいかないでね」
「うん、だいじょうぶ。ユメコとずっと一緒にいるよ」
「あのかたの場合ですと、嗅覚と、視覚聴覚触覚が交錯した共感覚なのでしょう。同時に想像力も刺激をうけるようでね。保水水のにおいをかぐと、イマジナリーフレンドが出現するのです」
「はい」
「その頭のなかの友達は、若くてハンサムな男性で、疲れて帰宅した彼女をなぐさめ、はげまします。ひょっとしたら子供のころのイマジナリーフレンドの、成長した姿なのかもしれません」
「はい」
「毎日朝早くから夜遅くまで働いて、そのストレスのために発症……いえ、そのようなものが出現したのだと考えられます」
「はい……」
「強いストレスのもと、疲れている自分を癒してほしい、なぐさめてほしい、はげましてほしい。誰かに。という願望と、小さいころのイマジナリーフレンドと共感覚が結びついて、メル・ランスという少年を生み出した」
「……」
「彼女は、そのままランス少年といる世界に引き込まれてしまい、こちらには戻ってこられなくなりました」
「……」
「彼女は毎日、忙しかったころの生活のなかにとらえられています。家に戻ってきて、ソファに倒れこみ、ひと息ついて、化粧を落として、保水水をつける。そして出現したランス少年と会話をする。これを毎日ずっと、繰り返しているのです」
ばたばたしていたのでふた月も経ってしまったが、やっと義姉をたずねることができた。これから義姉の生きている限り、面倒をみなければならない。もし自分が先に死ぬようなことになれば、娘に託すことになる。
老婆は、きれいで清潔だがどこか殺風景な、鏡のない部屋でひとり芝居を続けている。
〈了〉