貴女は美しく冷たい
数日前に、嗚咽が込み上げてトイレに駆け込んだ。
すると便器に吐き出されたのは、消化され掛けの食べ物でも、胃液でもなく、青紫の花だった。
***
「……顔色、悪いわ」
保健室にいたのは保健医ではなく、同じクラスの女の子だった。
同性でも見蕩れてしまうほどに綺麗なその人は、黒縁眼鏡の奥から私をじっと見つめる。
細い白魚のような指先が、私の頬を掠めた。
文崎さん、下の名前で呼ぶ人は皆無なので割愛するが、渾名は文ちゃんで通っているので、実は私もこっそりと文さん、なんて呼んでいる。
そんなことを露ほども知らない文さんは、形のいい眉を僅かに寄せて、私の顎を引き上げた。
突然のことに目を白黒させる私を置いてきぼりに、隈は出来てないけれど、なんて呟いている。
暫く私の顔を見つめた文さんは、するりと指先を落とし、回転椅子から立ち上がった。
ひらりと揺れるスカートは、同じ物なのに何故か新品のように綺麗だ。
のんびりとした足取りでデスクの上から体温計を抜き取った文さんは、それを私に差し出しながら「取り敢えず計ってくれるかしら」と言った。
素直に受け取り、電源を点ける。
Yシャツ襟元から体温計を入れようとすれば、保健室の利用者台帳に私の名前を書いてくれている文さんが視界に移り、揺れた。
肌は青白いままなのに、体の中の熱だけが溢れ出したような気がして、頭を振る。
デスクの方では、書き終えたらしい文さんが、私の名前の漢字にミスがないか問い掛けてくるので、覗き込ませてもらう。
綺麗な几帳面な字が並んでいた。
例えるならば、ボールペン字講座などで、見本として出されるような字。
私の名前を、漢字まで知っていてくれたんだ、と妙な感動を覚えながら頷く。
満足そうに閉じられたその台帳、文さんの書いた私の名前が欲しい。
「文ちゃーん、プリン買ってきたんだけど。一緒に食べない?」
ノックもなしにスライドされた扉と、入り込んできた声に、私も文さんも視線を向ける。
廊下と保健室の境界線に立っていたのは、やはり同じクラスの女の子だ。
ふわふわの髪を胸元まで伸ばし、サイドで柔らかく結い上げたその女の子は、一瞬だけ私を見て直ぐに瞬きと同時に逸らした。
文さんの幼馴染みの作間さんだ。
文さん同様に名前で呼ばれることがなく、そもそもフルネームを知っている人自体少ないと思われる。
渾名は作ちゃんで、文さんも作と呼んでいた。
現に目の前でも、突然現れた作間さん相手に「作、ノックしなさい」と言っている。
叱られたことを大して気にしてもいなさそうな作間さんは、無表情のまま肩を竦めた。
その手には購買の白い味気ないビニール袋がぶら下がっており、作間さんが動く度にガサガサと音を立てる。
「何でも良いけどプリン……」
「ちょっと待ってなさいよ」
小首を傾げる作間さんは可愛らしい。
ふわふわの髪が動きに合わせて小刻みに揺れ、全体的に細く儚い雰囲気があった。
お人形みたい、いつしか仲のいい女の子がそう称していたことを思い出し、成程と頷く。
的確過ぎる感想だった。
ほとんど表情が変わることがないが、確かにお人形のように整ってはいるのだ。
逆に言えば、その表情の変化の薄さも、お人形のよう、なのかも知れないが。
ぼんやりと素早い会話のキャッチボールをしている二人を眺めていると、布の奥でピピピッと体温計が鳴った。
襟元に手を入れて抜き出せば、三十六度九分、微妙に平熱を上回っている。
小さな表示画面を見ていると、文さんが横から手を伸ばしてそれを攫っていってしまう。
表示された数字を見て、小さく唸った後に、少し寝て行ったらどうかしら、と言われてしまった。
疑問符の付いていない言葉は、まるで私に拒否権が存在しないようだ。
現に、保健室にある二つのベッドのうち、奥の方のベッドを点検している。
薄い毛布を捲り、ほら、と呼び寄せる文さん。
ちらりと見上げた作間さんの顔に表情はなく、手持ち無沙汰なのか、体が小さく揺れていた。
それを尻目に黒い革張りのソファーから腰を上げ、ベッドへと歩み寄る私。
さぁさぁ、と押しやられ、保健医にはちゃんと伝えておくから寝てなさいと言われてしまう。
「……あの、ありがとう」
ございました、と続きそうになった言葉を飲み込む。
同い年だし、なんて言い訳はきっと文さんには聞こえないだろうから、小さく笑ってみた。
すると、一瞬大きく目を見開いた文さんは、綺麗な笑みを浮かべて、私の頬を撫でる。
形を確かめるように、丸く、まぁるく、撫でた。
心地良い体温が頬を滑り、サラサラとした指先が離れていく。
お腹の辺りから湧き出す熱は、今にも体外へと吐き出されそうだ。
そんなことは知らない文さんは、ゆっくり休んで、という気遣いの言葉を投げて真っ白なカーテンを引いた。
返事をする間もなかったが、私は小さな衣擦れを立てながら体を横たえる。
カーテンの奥からは、静かな透明度の高い声が聞こえてきた。
「文ちゃんは酷いね」という抑揚のない声に続き「……何のことかしら」と沈黙を含んだ答え。
お昼過ぎの日差しは、保健室を明るくし、温もりを与えてくれる。
ゆらゆらと早速船を漕ぎ始める私の意識だが、何故か聴覚は良く働いていた。
「分かっててやってるんだもん。誰にでも優しいのは、誰に対しても冷たいんだよ」
「あら、私は特に作に優しく甘いつもりよ」
「……甘やかされてるけど決して優しくは、いや、良いけど。でも、酷だね」
ガサリ、ビニール袋の音がした。
それから会話が途切れてなくなり、沈黙が保健室を包み込む。
喉が焼けるように熱かった。
今すぐ眠れるはずだったのに、睡魔と同時に熱が襲い、小さく息を呑む。
ガサガサ、ビニール袋の音に混ざって、二つ分の足音が聞こえる。
ぺたぺた、ガラリ、保健室の扉を開けて出て行く音が聞こえた瞬間に、視界が青紫に染まった。
文さんに触れられた頬が熱を持って、ジンジンと熱い。
それを冷やすように流れた雫は、青紫の花に落ちて消えた。
確かに酷だ、文さんも、作間さんも。