第5話
写真の『ミカちゃん』は山田さんの息子夫婦の娘らしい。
当時この辺では幼い子供に声を掛けている不審者が相次いで目撃されていた。保護者や警察が見回りを強化したけれど、その不審者が捕まる事は無かった。
そんな中、両親と一緒にショッピングモールへ出掛けた『ミカちゃん』は居なくなってしまったそうだ。初めは迷子になったのかと思い迷子センターへ行ったが見つからず、警察に通報して連れ去られたとし、誘拐事件として取り上げられたらしい。
犯人からの要求は無く、手掛かりも無い為に捜査は難航した。連れ去られてから数ヶ月が経ってしまい捜査は打ち切りかと思われた矢先に、不審者として捕まっていた男が犯人だったと言う顛末だ。
だが、精神を病んでいた犯人の供述は一貫性が無くこのアパートへ辿り着くまでには時間が掛かってしまったそうだ。
部屋へ踏み込むと誰もが絶句した。床一面の赤黒い血痕と、黒い布から覗く肉が腐り悪臭を放ちながらも放置されたままの人間だった小さな塊。何十件もの事件に関わってきた鑑識の人も気分が悪くなるほど酷い有様だったらしい。
壁には爪で引っ掻いた様な跡が残されており、壁紙がボロボロになっていた様だ。
「見つかったのは、この間みたいな大雨の日でねぇ……」
山田さんの悲しそうな自分を責めているかの様な顔をしているのが印象的だった。近くに居ながら気づく事ができなかったと悔い、すぐに気づいていればと自身を責めているのだろうか……。
「犯人は、あいつは孫を『ミカちゃん』なんて呼んで……私の、孫は美鈴だよ! それを……っ」
「え……」
「み、みすずちゃん?」
「この子は美しい鈴と書いて美鈴って呼ぶんだ。私がつけた名前でねぇ」
懐かしむ様に写真の美鈴ちゃんを指先で撫でて愛しそうに見つめる山田さんに犯人のその後を聞くと、結局は犯人が何故美鈴ちゃんを連れ去って『ミカちゃん』と呼んでいたのかは分からず、看守が交代する時の僅かな時間に独房の中で服を首に巻き付け喉を掻きむしりながら自殺したらしい。
息子夫婦は美鈴ちゃんの変わり果てた姿にショックを受け、奥さんは泣き暮らし食べ物も喉を通らずに痩せ細って亡くなり、息子さんは奥さんの介護をしながら鬱病を発症して奥さんが亡くなった次の日に追いかける様に亡くなったそうだ。
家族を次々と亡くし独り取り残された山田さんを支えてくれたのが、裏野ハイツの大家さんだったみたいだ。
「大家さんが居なかったら、きっと私は今頃生きちゃいないだろうねぇ」
「そんな……」
「……話が長くなったね。そろそろ、ケイくんを迎えに行く時間だろう?」
時計を見れば、確かに迎えの時間が迫っておりお礼の言葉を残してその場を後にした。
+ + +
ケイを迎えに行き、自宅へ戻るとますます雨脚が強くなりいつかの豪雨の様になっていた。でも、あの時の様にただ怖いだけではない。
ケイを寝かしつけてから、山田さんから聞いた話を手帳へまとめていると先に眠る夫がうなされている事に気づく。嫌な夢でも見ているのだろうか?
「一哉さん……一哉さん」
「ぅ……ん……っ?」
「うなされていたから起こしちゃった」
「あ、あぁ。ありがとう」
額に髪の毛がピタッとつくのが不快なのか、髪を搔き上げ“まだ寝てなかったの”と手元を覗き込んできた。
「山田さんから聞いた話をまとめようと思って……」
「あんな事があったなんて考えられないな」
「えぇ。山田さん、ケイにすごく良くしてくれるのよ。その理由が全てではないだろうけど、きっと重ねて見ていたのね」
「そうだな……」
同意してくれた夫に目をやると、腕を組みながら頷いている。ふと寂しさが私を包み、夫へ手を伸ばそうとした時だった。
ドドォォォォン!
一瞬辺りが強く光ったかと思うと鼓膜を突き刺す様な雷鳴が轟き、暗闇に呑まれた。余りにも大きな音だった為、反射的に近くに居た一哉さんへ抱きついてしまった。
「っ、大丈夫か?」
「え、えぇ。ビックリした……。近くに落ちたのかしら」
「あの大きさの音だとそうだろうな……。懐中電灯は何処へしまった?」
「確か、テレビの下の……」
前に使ってから分かりやすい所にある方が良いと、しまった場所を手探りで探すが見つからない。
「一哉さん移動させた?」
「いや、俺は懐中電灯なんて使わないぞ?」
「ケイがやったのかしら……?」
ガタンッ!
それは、寝室の方から聞こえてきた。シンと静まり返る部屋の中でその音だけが大きく響くと、いつかのあの日を彷彿とさせて体が震えてくる。
「か、ずやさん」
「いずみはそこで待ってろ」
「や、だめ……っ!」
私の制止の声も聞かず、腕を振りほどくと離れて行ってしまう。その場に座り込んで震える自分の体を抱き締めた。
どれくらいそうしていただろう。一向に一哉さんが戻ってくる気配がないので、立ち上がり意を決して寝室へ向かおとすると“うわぁぁぁぁ”と悲鳴が聞こえた。
「一哉さ……」
カリカリ……カリカリ……
雨音に混じりカリカリと掻く音がする。立ち上がり、寝室へと急いで向かった。
+ + +
『きづ、いて』
カリカリ……カリカリ……
寝室の中央で夫が座り込んでいる。駆け寄ろうとしたら、小さいが掠れた声で確かに聞こえた。ゴロゴロと雷が鳴るたびにカーテンの隙間から部屋の中が照らされ、夫とその近くに蹲る影が見えた
「ひぃ……っ」
美鈴ちゃんだと分かっていながらも、恐怖は拭えずに短い悲鳴が口をついて出た。部屋の中央から動かない夫が見え心配になるが、口から出たのは夫への言葉ではなく『ミカちゃん』に対してだった。私は影に話しかけていたのだ。
「『ミカ、ちゃん』……?」
『……みかちゃんはいいこに、してないと……みかちゃんは……』
喉はカラカラに乾いている。美鈴ちゃんとは言わずに『ミカちゃん』と呼んでしまった。ブツブツと夢の中の様に同じ言葉を繰り返して呟いている。
「ミカ……美鈴ちゃん」
私がそう呼んだ時だ。ブツブツと言っていた呟きは止み、影が大きく揺れた。
「美鈴ちゃん……。もう、もう苦しまないで良いのよ。貴方は美鈴。『ミカちゃん』じゃないの」
暗闇の中をヒタヒタと何かの足音と息遣いが近づいてくる。恐怖に支配されそうになるが、絞り出す様に言葉を続けた。
「私は貴方のママじゃない。でも、貴方に天へ還って欲しいと思う」
『…………、…………』
「美鈴ちゃん、もう解放されて……!」
何かを言っているが聞き取れない。けれど、私は心の底からの想いを綴る。お願い、もうこんな所へ縛られないでと願いを込め目を瞑った。
やがて気配は目の前に感じ、恐らく手を伸ばせば触れられるという所まで近づいていただろう。
「美鈴……。こんな所に居たのかい?」
「え、山田さ……ん……?」
『……、……!』
「一人でよく頑張ったねぇ。ばぁばとこれからはずっと一緒に居ようねぇ」
だが、居るはずのない山田さんの声に驚き目を開けた。目を、開けたと思った。
「……い、……み」
「ん……?」
「まま!」
ケイと夫の呼ぶ声で目が覚めた。実際には意識を失っていたみたいだ。
「大丈夫か?」
「一哉さんこそ……っ」
「まま……、どこか、いたいの?」
ケイにそう言われ、私は頬を伝う涙に気づく。わだかまりも不快感も恐怖も、全てを押し流して行くように止め処なく溢れる涙に身を任せて泣いていた。
私が最後に見た光景は、嬉しそうに笑う山田さんと手を繋ぎ白いワンピースの裾をはためかせ歩いていく可愛らしい女の子だ。
それが、本当に山田さんと美鈴ちゃんだったのかは分からない。けれど、私は二人だと信じている。
篠突く雨に降り籠る
その先には
燦々と輝く太陽が笑っていたーーーー
了