第4話
カリカリと壁を掻く音がする。ブツブツ呟いているみたいだが、小さすぎて何を言っているのか聞こえなかった。もう、日に日に痩せていった女の子の精神も限界だろう……。胸が苦しくて出ない涙が目を刺すように痛い。
ザーザーと大きな音を立てて雨が降っている夜の事だった。男が扉を閉め忘れたのか、女の子が意を決して部屋を出ようとすると、タイミング悪く男が帰ってきてしまった。
「何出ようとしてんだよぉ!」
「ごめんなさ、やめ……っが」
「あぁ、逃げ様とするそんな足はもう要らないよね?」
いつの日かの気味の悪い笑みを浮かべ、女の子の髪を掴むと腹を蹴り足を捻じ曲げた。悲鳴と笑い声が耳にこびりつく。男は“うるせえなぁ”と悪態を吐きそのまま女の子の口に布を押し込むと、反対側の足も同じように捻じ曲げる。
「抵抗する手も要らないよな?」
“止めて止めて止めて! もう、もう止めてっ!!”
必死に叫ぶが私の声は届かない。骨の折れる音とくぐもった悲鳴と。私の精神までおかしくなりそうだ。
手足をありえない方向に曲げられた女の子は床へ転がされ呻いている。何を思ったのか男が立ち上がり部屋を出て行く事にホッとするが、扉口に立つ男が鈍色を携え無表情のまま女の子へ幽鬼のごとくゆっくりと近づいていく姿を目にして戦慄した。
「お前が悪い……。キミが悪い」
“止めて、”
「キミがボクを、お前が俺を、独りにしようとするからだあぁぁぁぁぁ!!」
“止めてぇっ!!”
大きく振りかぶりその先端を女の子の身体へ沈める。何度も繰り返される行為に白かったワンピースは赤く染まり、女の子はピクリとも動かなくなった。それでも男は繰り返した。
何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度もなんどもーーーー
辺り一面に血が飛び散り、男は返り血を浴びて赤く染まっていく。ハッとした様に男が動きを止めると宝物を抱える様に穏やかな笑みを浮かべ女の子を抱き締めた。
「あぁ、ここに居たんだね……ボクのミカちゃん」
ゾワリと悪寒がした。この男は最初から狂っていたのだ。こんな、こんな男の為に幼い命が失われてしまったなんて考えたくもない。不意に時計が目に入り、時刻は午前二時を指している。そして一気に景色が暗転していった。
+ + +
目を覚ますと白い天井が私を見下ろしている。首を横へ向ければ夫が私の手を握り締めてベッドのふちで眠っていた。反対側の腕には点滴の針が刺さっており、あまり動かすことができない。
「か、ずやさん」
「ん……。いずみ?」
「一哉さん、私どうして……?」
「いずみーっ!」
もう一度私の名前を呼ぶとしっかり抱き締めて泣いている。ちょうど看護師さんが点滴の様子を見に来たので恥ずかしかったが、大の男が大泣きしていては苦笑するしかない。
「落ち着いた?」
「あ、あぁ。いずみがもう目を覚まさないんじゃないかって、思ったら……ぐず」
「ほら、泣かないで」
説明しているうちにまた感情が高ぶってしまったようだ。枕に巻いてあったタオルを取って、夫の顔を拭いてあげる。看護師さんが主治医の先生に連絡した様で、幾つか質問をされて何も支障がなければ帰れるとの事だった。
どうやら私は夫と会話している間に倒れて病院へ運ばれたが、何処にも異常がないにも関わらず目を覚まさなかったらしい。あれから四日ほど経つと聞いて驚いた。
「いずみ、何かあったんだろう?」
「一哉さん……」
「眠っている間、ずっとうなされていたよ。……俺には言えない事?」
「うぅん、実は……」
私の手帳を読みながら、夫は茶化すことなく真剣に話を聞いてくれた。初めからこうして話しておけば良かったのかもしれない。
「そうか……。退院したらさ、山田さんに話を聞きに行こう」
「えぇ。きっと『ミカちゃん』もそれを望んでいる様な気がするのよ」
「俺も一緒に行く」
「でも、一哉さん仕事……」
「直属の上司がこんな時ぐらい休めって有給押し付けられたから大丈夫」
頭を掻きながら笑う所を見ると、相当無理をしたんだろう。目にはクマができ、いつもは整えている髪も寝癖がついているし髭も伸びっぱなしだ。心なしか、少し痩せた様にも見える。ハイネックの服もヨレヨレだった。
胸に込み上げるものが溢れ、今度は私が泣いてしまった。あの夢の余韻で冷え切った心がじわりじわりと温かくなっていくのを感じながら。
病院で検査を何度か受け、問題ない様なので退院する事になった。ケイにはまだ会っていない。私が退院するまでは実家に預かってもらった。
「ほら、ケイ。ママだよ」
「ケイくん」
「まま〜っ! うわ〜ん」
私の姿を見ると夫の後ろへ隠れてしまい、こちらの様子を窺うだけで来なかった。笑顔でおいでとしゃがんで手を広げれば、泣きながら飛び込む様に抱き付いてきた。本当に、ケイは夫そっくりだ。
それからタクシーへ乗り込むとしばらくはベッタリと私から離れず、あんなにパパ、パパと言っていたのが嘘の様だとガッカリしている。
退院のお祝いにと久しぶりに三人で外食をして帰ってきた。一週間ぶりの我が家だけど緊張してしまう。私の緊張が伝わったのかぎゅっと手を強く握ってくれた。ケイもずるいと反対の手を握り締める。
「ただいま」
「おかえり、いずみ」
「まま、おかえり!」
玄関へ入りリビングを見渡す。内装は変わっているが、あの夢はきっとこのアパートでの出来事なんだろうと気づいてしまった。おそらくこの部屋の……。
だから、だろうか? 私は寝室へ入る事が出来なかった。寝る時はリビングに布団を敷いて私がリビングで寝るならと夫とケイも一緒に眠り、その日は何も起こらずにグッスリと休む事ができた。
+ + +
ケイを幼稚園へ送った後、夫と二人で山田さんのお宅へ伺った。退院した事を喜んでくれて快く迎え入れてくれた。
「急に夫婦で押し掛けてしまって、すみません」
「良いんだよ。気にしないでおくれ。菊池さんの顔が見れて安心したよ」
お茶を用意してくれている間に、リビングに飾られている写真を見るが『ミカちゃん』の写真は無く、ほとんどが友人と笑う山田さんの物だった。
「えっと、前に写真を届けた事を覚えてますか?」
「…………あぁ。覚えてるよ」
「あの写真をもう一度見せてもらえませんか?」
「どうして急にそんな……」
「お願いします、山田さん」
写真の話題になった途端、顔から表情が抜け落ちたかの様に無表情になった。訝しむ山田さんに夫も頭を下げお願いをしてくれる。すると諦めた様に溜め息を吐いた山田さんが写真を差し出してくれて、私は震えそうになる指先を押さえながら受け取った。
「っ、やっぱり……『ミカちゃん』だわ」
「間違いないのか?」
「どっ、どう、して菊池さんがそれを……!?」
驚きのあまり、こぼれ落ちそうなほど目を見開いた山田さんが声を荒げて聞いてくる。夫と視線が絡むと頷き合い、私はここ数週間の話を順を追って全部話した。最初は疑心暗鬼だったが、話が進むにつれて体を震わせ両手をギュッと握り込んでいるのが見えた。
「……そ、う。あの子が……っ。あ、んな目にあって、……まだ……!」
話を聞き終わる頃には山田さんの瞳に涙が溜まり、一筋流れると堰を切ったように溢れ出た。血の繋がらない私でさえあんなに胸を抉られる様な出来事なのだ。身内ならその思いは計り知れないだろう。
山田さんが落ち着いて話せる様になるまで待っていると窓の外はまた、強い雨が降ってくる。
「……みっともない所を見せてしまってすまないねぇ」
「いえ、そんな事はないです。辛い記憶を思い出させてしまってすみません」
一言謝ると、山田さんは重たい口をゆっくり開いて『ミカちゃん』が亡くなった時に何があったのかを話し始めた。