第3話
夜になるとまた雨がザーザー降ってきた。この様子では今夜も降り通しなのだろう。交通機関が麻痺してしまうのでは無いかと心配になる。明日こそは夫に帰ってきてもらいたい。もう私一人では、頭がパンクしてしまいそうだ。
「まま〜?」
「どうしたの、ケイくん」
「つかれたの〜? だいじょぶ?」
心配そうに覗き込んでくるケイの頭を撫で、“大丈夫よ”と無理やりにでも笑えば安心した様に笑った。駄目だ、私がしっかりしなくて誰がこの子を守るのだ。
弱気になったら駄目だと思うが、一度植え付けられた恐怖はジワジワと私の心を蝕む様に拡がっていった。
「ケイくん」
「なに〜?」
「昨日の夜の事、覚えてる?」
「きのう〜?」
「そう。夜中起きてテレビ見てたの覚えてない?」
何かあったかなと、首を傾げて考えている。返ってくる答えは“ぼくちゃんとねてたよ〜?”だった。どうやら覚えていないみたいだ。これ以上ケイに聞いても分からないだろう。聞き出す事は諦めて今日も二人で寝る事にした。
「じゃぁ、お布団敷いてもう寝ようか」
「うん〜。ままも一緒?」
「一緒だよ〜っと。あ、待て〜っ」
「やだ〜っ」
ケイを抱き締めようとするが、ひらりとかわされてしまった。クスクス楽しそうに笑うケイを追いかけてリビングをグルグル回ると、寝室へ逃げ込んだ。そっと近づこうと思いゆっくり忍び足で寝室へ行き、真っ暗な寝室の電気を点けると自分の物とは思えないほどの悲鳴を上げた。
「きゃぁぁぁぁ!?」
まるで床一面に赤黒いペンキを撒き散らした様に汚く、その中心にはケイがこちらを背に腕をだらりとして立っていた。真っ白だった壁には『きづいて』と瑞々しく赤い文字で書かれ、文字に沿って赤い雫が重力に逆らわず下へ垂れていった。
腰を抜かしてしまったけれど、ケイの様子を確かめようと必死に手足を動かした。やっとの思いで辿り着くとグルリと身体を回転させ、抱きついてくる。
「ケ……」
『た す け て』
ケイと呼ぼうとして掠れた女の子の声が耳元で聞こえると同時に、意識がプツリと途切れて暗転したーー
私は真っ暗な闇の中に立っている。何処が壁で何処が天井かは分からないほどの暗闇に。
“ここは……?”
声に出したと思ったが、声にはならずに虚空へ消えていった。しばらくそうして佇んでいると、目を開けていられないほどの眩しい光に包まれ次の瞬間、何処かの部屋の中にいた。
手も足も首さえ動かない。視線だけは動かす事ができ、見回すと何となく見覚えがある部屋だった。窓は閉め切っているのか薄暗く、ベッドがポツンと置いてあるだけで生活感がまるで感じられなかった。
「まま、どこっ……ぱぱぁっ……」
「今日から君の家は此処だよ〜?」
「いやっ……おうち、かえりたいっ」
「僕が居るんだからママもパパも必要ないんだよ?」
ニヤニヤとした気味の悪い笑みを貼り付けた男が、小さな女の子の頭を撫でている。女の子は必死に親を探し、女の子が泣けば身体を叩き暴力を振るい、優しく頭を撫でたかと思えば、今度は言葉の暴力で言う事を聞かせていった。
私は幾日かそうして男と女の子を同じ場所から眺めている。どうやら壁と一体化しているみたいだった。声を出そうとしても出す事はできずにただ見ているだけ。
一緒にご飯を食べ、着せ替えをして寝て……。男は女の子を支配しながら家族ごっこをして遊んでいる様にしか見えなかった。
子供が人形遊びやおままごとをして遊ぶ様に、自分の思う通りにいかなければ癇癪を起こし、白いワンピースから覗く腕や脚には無数の痣が残るぐらい女の子に暴力を振う。その後には必ず優しく頭を撫でて部屋を出ていく。
男が居なくなると、床に転がった女の子がゆっくり起き上がり私の位置から反対側の壁をブツブツ小さい声で呟きカリカリと掻いている。
「まま……、ぱぱ……どこ」
「みかちゃんはいいこに……して、なきゃ」
「ままおむかえにきて」
「いたいのはいや……いたいのはいや」
「まま、ぱぱ……ばぁば」
『た す け て』
「……い、……み!」
「んっ……」
「いずみ、どうした? 大丈夫か!?」
誰かの呼ぶ声に意識が浮上して目を開けると、ずっと会いたかった夫が私の身体を抱き上げ心配そうに顔を覗き込んでいた。
「か、ずやさん……?」
「布団も敷かずにどうした?」
「っ!」
その一言で完全に頭が起きると辺りを見回す。最初からそこには何も無かったと言わんばかりに壁の文字も床の赤黒い色も何もかもがキレイに無くなっていた。あれは何だったんだろう。現実だったのか夢だったのかすら分からない。夢……、そうだ。私は夢を見ていた。あれはーーーー
私は飛び上がる様に起きると夢の内容を忘れないうちに急いで手帳へ書き殴った。
「お、おい、いずみ?」
「ケイっ、ケイは!?」
「今朝、俺が幼稚園まで送って行ったよ」
夫の声で我に返りケイの様子を聞いたが、変わった所は何もなく私が起きないと心配していたらしい。
「も、もうそんな時間……?」
「あぁ。始発で帰ってきて良かったよ。電話は繋がらないし、寝ているかと思えば床に倒れてるし、病院行くか?」
「うぅん、疲れてるだけだから大丈夫よ」
「無理しないでくれよ?」
眉をハの字に下げると、ぎゅっと抱き締めてくれた。夫の温もりがこんなにも心強いなんて、思いもしなかった。
抱き締められた時に夫の首の辺りに薄っすら赤い筋が見え爪で引っ掻いたのかと聞いたが、痒くて掻いたのかもしれないと言っていた。
「そう言えば、昨日の電話を切る前にいずみの後ろから女の子の笑い声が聞こえたけど友達か誰か来てたのか?」
「え?」
「楽しそうだったから安心したんだけど……」
昨日、夫から電話がきた頃はこの家に一人だった。女の子なんて居るはずがない。
「だ、れも来ていないわよ?」
「おかしいな、確かに聞こえたんだけど……」
「貴方の電話、途中からノイズが入って切れたのよ?」
「電波良い所で話したからそんなはずはないぞ?」
「っ、そんな……つぅ」
「おい、いずみ!?」
夫と話しているうちにどんどん気分が悪くなっていき、意識が朦朧として夫の呼ぶ声を最後に気を失った。
気がついた時には、前に見た部屋の中で女の子を見下ろしていた。夢の続きだろうか……。女の子はベッドへ寝転がっている。身体を動かすのも辛いのか身動ぎすらしない。上下する胸の動きだけで生きていると分かった。部屋の扉が開き、男が声を投げつける。
「おい、お前の飯だ」
「っ、は、い」
「早くしろよ、おせぇなぁ。汚すなよ」
「ごめん、なさい」
動きが鈍い女の子に鋭い一言を言い放ちコンビニで買ったと思われるパンを投げつけると、サッサと扉を閉めて行ってしまった。随分男の態度が変わった様だ。女の子の顔を見れば、頬が赤く腫れている。顔にだけは手を出さなかった男がどうしたことだろうか。
「…………い」
パンを拾い、口に入れようとするとポロポロとパン屑が落ちた。
「おこられる、おこられるおこられるおこられる」
「だめだめだめだめだめだめ」
「いたいのはいやっ、いたいのはいやいたいのはいやいたいのはいや」
床へ落ちたパン屑をキレイに拾い集め、同じ言葉を繰り返した。男が入ってきて女の子が立ち上がると、拾いこぼしたパン屑が床へ落ちた。それを見た瞬間、男が女の子を容赦なく殴る。
「汚すなって言ったよなぁ? そんな事も守れねぇのかよ、お前はよぉ!」
「ごめ、ごめんなさ……!」
“止めて!”
私の言葉は届かない。謝る女の子がグッタリすると男は立ち上がり出て行った。どうしてこの子がこんな目に合わなくてはいけないのか。まだ三歳ぐらいの子供によくもこれだけ酷い仕打ちができるものだと理不尽すぎる男に怒りを覚えた。
声を押し殺し肩を震わせながら女の子は静かに泣いている。誰か、誰か女の子を助けてあげて。あの男から救ってあげて。そう願わずにはいられなかった。
その願いは無情にも男の手によってあっけなく終止符をうたれた。