第1話
会社員の夫と三歳になる息子の三人で裏野ハイツに移り住み、梅雨の終わりに差し掛かり間もなく夏到来という、過ごしやすいような暑いような微妙に蒸し蒸しする季節の出来事だった。
今でも思い出すだけで背筋がゾクリとする。本当にこんな事が現実に起きて、自分自身に降りかかるだなんて思いもしなかったーーーー
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昨夜から大雨になり、その勢いは増していくばかりだ。風も強くなってきてまるで台風が上陸した時の様に感じたが、荒れているなと思っただけだった。
「早く雨止まないかしら。ね〜、ケイくん」
「ね〜?」
ケイは分かっているのかいないのか、首を傾げながら“ね〜”の言葉だけを繰り返して言った。テレビから流れてくるのは大雨洪水警報。ケイと一緒に観ながらご飯を食べている。こんな大雨の中、会社へ出勤して行った夫は帰ってこれるのだろうか。心配だけど今はケイにご飯を食べさせる事の方が先だ。
「ほーら、ケイくん。ちゃんと食べてちょうだい」
「ん〜、や〜の」
「んもう。これ美味しいよ、ママ食べちゃおうかな〜? あーん」
「あ〜ん〜っ」
食べようとするフリをすると、ぼくのって言わんばかりに口を開けて待っている。こうやって最後の一口を食べさせた時だった。一際大きな雷鳴が轟いたかと思うと、バチンとブレイカーが落ちたみたいに電気が一斉に消えた。
「何、停電?」
「まま〜まっくろ〜」
ザアァァァァァァァ……
『……、…………』
「ーーえ?」
窓を叩きつける雨の音に混ざり、何か聞こえた気がした。
「ケイくん、何か言った?」
「ん〜ん」
こんな時に悪ふざけする様な子ではないので、素直に信じる事にした。気のせいかと思うけれど、もう一度確認の為に耳をよく澄ませてみるが風と雨の音以外は何も聞こえなかった。
「ママ、ちょっと懐中電灯探してくるからそこで大人しく待っててね?」
「うん〜」
暗闇の中、近くにあるケータイを手探りで探してその小さな明かりを頼りに懐中電灯をしまったであろうと思われる場所を探すが見つからなかった。
「おかしいなぁ。この辺りのはずなんだけど……」
誰に言うでもなく独り言を呟いた。夫なら分かるだろうか。でも、いつ帰ってくるかもハッキリしない上にこんな事でいちいち電話するのも気が引けてしまい、電気が点くのを待とうかと諦めようとしていた。
「もう……」
ガタンッ!
寝室として使っている隣の部屋から何かが落ちた音がヤケに大きく響いた。その音に私は肩を飛び上がらせるほど驚く。心臓が早鐘を打ち、ドキドキとしている。
電気が消えた暗闇で、感覚が敏感になっているせいだろうか。少し手に汗を握った。
「ケイ、くん……?」
「まま〜、おとした〜」
ケイが何かしたのかと思ったけど、返事が聞こえてきたのは先ほどやり取りをした所から変わらない位置だった。
「動かないでそこに居てね、ママちょっと見てくるわ」
後ろからポソポソとケイの声がする。きっと、待つ事に飽き始めてしまったのだろう。立ち竦んでいたがこのままでは埒があかないと思い、ケータイを片手に震える指先を押さえながら寝室の扉をゆっくり開くと、そこには探していたはずの懐中電灯が床へ転がっていた。
「っ!」
誰も居るはずのない室内に生暖かい空気が流れ、何かの気配を感じてブワリと鳥肌がたつ。
「だ、誰か居るの!?」
懐中電灯を素早く拾い上げ、スイッチを入れるがチカチカと点滅して直ぐには点かなかった。
「っ、こんな時に……!」
何度か振ると正常に点灯し周りを照らす事が出来た。だが、誰も居ない。居るはずがないのだ。それを私が一番よく分かっているけれど、確認せずにはいられなかった。
じわりじわりと恐怖が込み上げ、蒸し暑いと言うのに指先が冷たくなっていく。
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寝室に居るのが怖くなり、慌てて部屋を出てブレーカーのある場所まで急いだ。全部ちゃんと上がっているので、やはり停電みたいだ。電気が戻ってくるまで我慢するしかないと溜め息を吐きリビングへ戻った。
ビュウゥゥゥゥ……
音がするので何事かと思い辺りを見回せば、閉め切ったはずの窓が開いているのか、風が吹き込む音に合わせてカーテンがはためいている。
驚きのあまり息を飲み、そちらを懐中電灯で照らすとケイが立っているのが見え、止まっていた息を吐き出した。
「窓を開けたの、ケイくん?」
「うん」
「ダメよ。雨が入ってきちゃうでしょう?」
「だって、だって」
窓を閉めて鍵を掛けようとしてある事に気づき、ビクッと体が固まった。ケイは三歳だ。高い位置にある鍵に手は届くがロックの外し方は知らない。
「あけてっておともだちが」
怖い。私の心を占めるのは恐怖心だけだった。いつもはもう帰宅していてもおかしくない時間なのに、まだ帰らない夫を恨めしく思ってしまうほどだ。
しかし、よく考えてみれば私が鍵のロックを掛け忘れただけかもしれない。さっきの懐中電灯だって、元々置いてあった場所から傾いてたまたま床へ落ちただけかもしれないと思う様にして自身に言いきかせる。
「こ、こんな時間にお友達は居ないのよ」
「いたの〜っ」
想像の友達だろうか? 此処へ住み始めてから何度か一人遊びをしているケイを見た。まるでそこに誰か居るかのようなーーーー
「っ、そ、そう。お友達がいたのね、ケイくん」
「うん!」
いや、今考えるのは止めよう。嫌な想像を振り払うように頭を左右に振ると同時に明かりが点いた。明るくなった事により恐怖心は少し落ち着き、余裕のできた私の口から安堵の息が零れた。未だに背中をゾワゾワする悪寒には気が付かないフリをして。
「じゃぁ、ママは片付けちゃうからケイくんはテレビ観る?」
「みるー!」
いつもケイが観ているお気に入りの子供向けのチャンネルに変え、テーブルの上を片付けた。
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片付けも終わりお風呂も済ませて後は寝るだけになった。その合間に夫から電話があり、今日中に片付けなくてはいけない案件と、この大雨で交通機関がストップした事が重なり今日は会社へ泊まり込みすると言っていた。
あんな事があったからだろうか。何とか帰って来れないかと聞いてみたが駄目だった。
『珍しいじゃないか。どうかしたのか?』
「うぅん、駄目ならいいの……。ケイと二人で寝るわ」
『あぁ。明日の朝には帰れると思う』
“じゃ”と短く挨拶とも言えない言葉を残しすぐに電話は切れてしまった。もう何も考えずに寝よう、寝てしまおう。
「ケイくん、寝ようか」
「ん〜」
目を擦りうつらうつらしていて、すでに半分寝ている状態だ。そっと優しく抱きかかえて布団へと寝かした。運んでいる途中で完全に寝てしまったみたいだ。
「おやすみ、ケイくん」
今夜は真っ暗にしないで、小さな明かりを灯して寝る事にする。外は未だにザーザーと雨が降っていた。その音を聞いているうちにいつの間にか私も眠りに落ちていった。
「う、ん……?」
ふと意識がハッキリしたままで目が覚めた。こんな事は今までなかったのだが、眠りが浅かったのだろうか。
隣を見ればそこに寝ているはずのケイが居ない。
「っ!?」
ガバリと起き上がり寝室の中を見渡してみるが、やはり何処にもその姿は無かった。扉の方へ視線を向けると少しだけ隙間が開いているのが見え、急いでリビングへと向かう。
「ケイくん? 居るの?」
「…………ク」
「ケイ、くん?」
「……っ……ヒック……こわ……、ヒック……や……て……っ」
砂嵐の画面が点いたテレビをじっと見つめポソポソ何かを言っているケイを見つけた。後ろ姿しか見えないが、泣いている様子だ。
必死に何かを訴えようとテレビへ手を伸ばしている。
「ケイくん、どうしたの?」
「やだ、やだやだやだやだ、やめて、ミカちゃんが、やめてぇ……っ!!」
「ケイくん!」
突如、何かに怯え嫌々をしながらテレビの画面を叩いて泣き喚くケイを強く抱き締めると、プツリと糸の切れた人形の様に意識を失い寝息を立て始めた。
「ケイ、ミカちゃんって誰なの……?」
ポツリと零す私へ返事を返してくれる人は居ない。
意識の失ったケイを寝かして私も布団へ入るが、一向に眠気がこない。ふと時計を見れば午前二時を指していた。