魂喰い
ごめんね。本当に、ごめんなさい。
声が聞こえた。
誘うその声に嫌な気配を感じたけど、つい耳を傾けてしまったのは、それがわたしの求めている物をぶらつかせたから。
だめだ、と思うのに日に日に聞こえる時間が長くなっていく。同時に誘惑に落ちて行く。
声が聞こえた。……待ってたよ。
わたしはその誘いに乗った。
「……ごめん、なさい……」
あぁ、やっぱり罠だった。分かっていた。
ただ、そいつの甘言が魅力的だったから。わたしの心が弱かったから。
* * *
布団にサムを寝かせた大地は、壁に背を預けお腹を抑えるエヴァに氷嚢を作って渡す。
「……ありがと」
「いや、俺にはこれくらいしか出来ないからさ」
突然の事だったとはいえ、ただ見ているだけで何も出来なかった自分に苦笑いしながら落ち込む。そんな大地に慰めの言葉を掛けようとするエヴァだが、気休めにしかならないそれはいらないと、と首を振る彼にエヴァは大人しく口を閉じるしかなかった。
エヴァが口を閉じてから沈黙が続いていた部屋に声が掛かる。掠れたそれは、賑やかな場所では聞きとることは難しかっただろう。少しはこの静寂が役に立ったらしい、とエヴァは声のした布団の方を見遣った。
起き上がろうとするが、まだ体が痛むのか起き上がれずに諦めて横になったサムに、落ち込んでいた大地はパッと明るくなる。数時間前までサムと顔を合わせる事を躊躇っていたというのに、もういつも通りに接している大地に呆れながら、エヴァもサムが目覚めたことにほっと息を吐いた。
「よかった、目が覚めて」
「……眠るだけだって言っただろーが」
「はは、そうだったな……けど目が覚めたってことは多少回復したってことだろ?」
「……まぁな」
「起きたばかりで悪いんだけど、確認させてね。……あの悪魔はサタン――サマエルという悪魔で間違いない?」
和んだ空気を引き締めるかのように、安堵に緩んだ頬を引き締めてエヴァが問うた。
サムが目覚めた事は喜ばしい事だが、状況的には喜んでばかりもいられない。あの赤髪の悪魔に生を連れて行かれているのだ。それを思い出したのか、大地も表情を引き締めて聞く態勢に入る。
「……あぁ。バアルから聞いた話の通り、最強の称号欲しさに俺を襲って来たみたいだが、今の俺は見ての通りだ。だが何でか知らねぇが、あいつは俺の力が戻るの待つと言って消えた……お前の妹を連れてな」
「差し詰め生ちゃんはあなたが逃げ出さないための人質ってことね。だったらそう急ぐ事は――」
「いや、そうも言ってられねぇ。あまり遅いと殺す、と脅されたからな」
多少明るくなった空気がどんよりと重くなる。サムの状態を考えればすぐに助けに行く事は出来ないし、悪魔にとって厄介な破魔刀を持つエヴァでも、人質がいたとはいえ片手でいなされ、全く本気を出していなかったサマエルに勝つことは難しいだろう。悪魔を見れば冷静さを欠いて特攻してしまうエヴァがすぐにでも倒しに行こうと言わないあたり、自身もその事を分かっているらしい。
誰しも口を開く事なくそれぞれの想いを燻ぶらせる中、沈黙を破ったのはまたしてもサムだった。
「……すまない」
突然の謝罪に、言われた当人である大地は訳が分からず首を傾げる。
「何でサムが謝るんだ?」
「……お前の妹を守れなかった」
「それを言ったら、あたしもあの時悪魔を倒す事より生ちゃんの救出を優先していれば……」
「……どっちの所為でもないよ。生を守るのは兄の俺の役目だ。……守れなかったのは俺の方だ」
サムの発言に、二人の会話を見守っていたエヴァまでもが悔やみ始め、そんな二人に大地は首を振ってこれは自分の所為だと自嘲するように弱々しく笑った。それこそ大地の所為ではないだろうと言う様にサムは続けて言う。
「だが巻き込んだ。……俺がさっさとこの家を出て行っていれば、こんな事にはならなかった」
「はぁ~……俺の事馬鹿馬鹿言うわりには、サムも結構馬鹿だな」
「あ?」
悔やむように話すサムに、自身の無力さに嘆いていた大地は溜息を吐くと、呆れた様に言った。罵声や罵倒ならば受け入れる覚悟であったサムだが、馬鹿と言われて思わず凄んだ声が出た。
だが初めの頃ならいざ知らず、サムはただ口が悪いだけだと知る大地は怯む事無く告げる。
「サムと出会った時からある意味巻き込まれてるし、俺がサムを引き止めたんだから、今更巻き込んだ何だとか言うなっての!」
叱りつけるように言った大地に、そう言えばそうだった、とサムは出会った日の事を思い出して笑った。
例え自分が選んだ事とはいえ、家族が人質になったとすれば他人に責任を押しつけたくなるものだ。大地に至っては自身に責任は無いというのに、それを背負おうとした。
それはサムが思い詰めない様にという配慮なのか、ただの馬鹿なのか。サムは後者だな、と結論付けると決意を固めた顔で口を開いた。
「……さっきも言ったが時間は無い。もう手段を選んでいられねぇ」
「ちょっと、それってまさか……」
「魂喰いをする」
驚きに息を呑む。エヴァの監視があったとはいえ、サムは積極的に魂喰いをしようとはしていなかった。その彼が言ったのだ。大地のみならずエヴァも少なからず驚いていた。
しかしすぐにエヴァは冷徹な瞳で鞘から抜いた刀をサムに向けた。
「言ったはずよ。あたしの前で魂喰いはさせない、するなら殺すって」
「いいのか? ここで俺を殺せばそいつの妹は助からねぇぞ」
確かにサムをここで殺せば、サムとの対戦を待つサマエルは生を殺すだろう。それが分かっているからこそ悔しそうに眉を顰めるエヴァだが、刀は依然サムに向けられたままだ。彼女も生を助けたい気持ちはあれど、生一人のために他の人間が犠牲になる事もまた良しとはしなかった。
見捨てることへの苦悩を押し殺し、エヴァは刀を振り下ろそうと力を込める。サムはその刀を避けようとはしない。体が動かないからという理由だけではないだろう。ここで斬られるならそれでもいいという様な意思を感じる。
それに一瞬意識が持って行かれた大地は、一拍遅れながらも刀を振り下ろそうとするエヴァの腕を掴んだ。
「……放して。あたしは今、生ちゃんを見殺しにしようとしてる。けどだからってこいつを放っておく事は出来ない」
「絶対に放さない。確かに生の事もあるけど、これはエヴァのためだ」
「あたしの、ため……?」
まさかそんな事を言われるとは思わず呆然と返すエヴァに、大地は真剣な表情で頷く。そして横目でサムをちらりと見てからエヴァを見据えて語り掛ける。
「確かにエヴァはサムのしようとしている事を見逃せないだろう。だからと言って平然と生を見殺しに出来ないから苦しんでいるだろう? なら俺はこの手を放せない。エヴァが苦しむと分かっててさせる訳無いだろ」
「でも……」
「あと、これは俺の希望的観測かもしれないけど、もしかして誤解なんじゃないか?」
「誤解?」
それでも尚引き下がろうとしないエヴァに大地は続けて言った。言葉通りそうであって欲しいという希望であったが、どこか確信を持って大地はその言葉を発した。それにエヴァも少し興味を引かれたのか続きを促す様に問い掛けた。
大地は何とか説得出来そうな状況にほっと胸を撫で下ろしつつ、エヴァが興味を失う前に、と話し始める。
「エヴァはサムが魂喰いをするって言った事に驚かなかったか?」
「……まぁ、少しね」
「だろ? だからサムの話を詳しく聞いてみないか?」
「……お前は俺をいい奴だなんて勘違いしてねぇか? 俺だって悪魔だ。誤解でも何でもねぇよ」
もう少しで説得出来るという所で、問題の張本人が口を挟んだ。本人に違うと言われたら何も言う事が出来ない――
「だったら何で、生を守れなかったって謝ったんだ? 今だって生を助けるために魂喰いをするなんて言ったんだろ?」
――事もなかった。
「……そうね。正直あたし一人の監視くらいならいくらでも魂喰いをするチャンスはあったはずなのに今までしてこなかったし、魂喰いをするにしてもあたしの前で宣言する必要はなかったものね」
大地の言葉に反論しようと口を開こうとしたサムに思わぬところから追撃が加わる。悪魔を前にすると冷静さを失うと散々言われていたエヴァだが、ここ数日サムと過ごしたことで多少緩和された事と大地との会話で少し冷静になれた事で、サムの言っている事が矛盾しているという事に気付けたのだろう。
二人に問い詰められたサムは降参する様に溜息を吐いた。
「あー、わーったよ、話せばいいんだろ。けどな、誤解はされてるかもしれねぇが、嘘は言ってねぇぞ」
「俺たちは誤解してるんだよな? なのにサムが嘘を言ってないってどういうことだ?」
「……そうだな、まず、お前たちの魂喰いの認識は何だ?」
訳が分からないという大地に、少し思案してからサムが言った。簡単には答えを教えてくれないのか、それとも順を追って話さなければ分からない話なのか、どちらにしても聞いたところで教えてはくれなさそうなサムの様子に、仕方なく大地はエヴァと共に考える。
だがエヴァはまだしも大地は、「認識は何だ」と言われた所で魂喰いどころか悪魔の存在すら最近知ったばかりだ。答え様にもただサムやエヴァから聞いた話をそのまま言うことくらいしか出来ない。それでいいのか迷いつつ、大地は回答を待つサムに答える。
「悪魔からしたら糧を得る事、人間からしたら……死、か?」
「そうね、あたしも大体そんな感じだわ」
「まっ、予想通りだな。誤解と言うか、お前たちが勘違いしている事はわかった」
大地の回答に同意するエヴァと納得する様に頷くサム。これで漸く話が始めるのか、と大地は急かす様に催促する。
「そろそろ本題を話してくれないか?」
「あぁ……お前の言った通り悪魔にとって魂は糧だ。と言っても人間たちの食事とは違って絶対に必要と言う訳じゃねぇ。サマエルの様に力を付けるためだったり、弱った悪魔にとっては薬にもなる。そして人間側だが……お前たちが勘違いしているのはこっちだな」
「人間にとっての魂喰いは“死”じゃないっていうの?」
「全く違う訳じゃねぇが、魂喰いをされた人間の末路は死人が多いからそう思われる様になったっつーだけで、厳密に言えば違う」
「人間にとって魂が命と同義じゃないなら、そもそも魂って何なんだ?」
「俺も正確な事は言えねぇが、人間の核、お前ら風に言うなら“心”だな。心を抜かれた人間はただの肉の人形に成り下がる。それがお前たちの言う“死”だ」
大地たちがしていた魂の認識の間違いは何となくではあるが正された。しかしまだ魂喰いに関しての疑問が残る。魂喰いが人間にとって死ではないのなら、どうして死人が出る様になったのか、何が本来の形なのか。考えても答えの出ない事に頭を悩ます事はせず、大地は直接サムに問い掛ける。
「なら本来の魂喰いは死人が出ないってことか?」
「あぁ。魂は意外と丈夫でな、芯さえ傷つかなけりゃ、何度でも再生できる。もちろん人間は死なねぇ……だが、覚えてるか? 悪魔の魂喰いの方法を」
「えっと確か……人間と契約するか、無理やり奪う、だっけ?」
「あぁ、だが前者は魂を全部渡さなきゃならねぇし、後者は残す事も出来るがルール上禁止されてる。お前は警察の前で堂々と犯罪を犯せるか?」
「えっ、じゃあ死人が出ない方法って?」
「無理やり奪う方法も死人を出ないようにすることは可能だがさっきも言った通りそれは出来ねぇ。だがこれより簡単で最も難しい方法が一つある」
サムから聞いた二つの方法とはまた別の方法があったという事に驚き、どうして聞かされなかったのだろうかと大地は疑問に思う。ただ難しいものであるからと言うのなら、その前に簡単と付けられているのはおかしいだろう。その矛盾した言葉に大地は困惑の顔を浮かべる。エヴァも大地と同様に驚きと困惑の表情を浮かべながらもサムに続きを促す。
「それで、その方法っていうのは?」
「…………人間の許可を得ることだ」
「……なるほどね。確かに簡単だけれど難しいわ……いえ、ほとんど不可能じゃないかしら」
「え? えっ? どういう事だ? 簡単なのは分かるけど、難しくはないんじゃないか?」
納得したエヴァとは対照的に理解出来ないと疑問を投げ掛ける大地に二人は呆れた眼差しを送る。物凄く馬鹿にされている様に思うが、分からないのだから仕方ないじゃないかと開き直って、大地はムスッとした顔を返す。それに深く溜息を吐くと、エヴァは大地に分かりやすく説明する。
「いい? 悪魔にすべての魂を抜かれた死ぬのよ。悪魔の言う事を安易に信じて許可なんて出したら全部の魂持っていかれるわ」
「……お前は俺を絶対的に信用できるか?」
エヴァの説明にやっと理解出来てはっとする大地にサムが駄目押しするように付け足した。
沈黙した大地に話は終わったという様にエヴァは抜き身のままだった刀を鞘へ収めると、部屋を出るため襖を開けたところで振り返って告げる。
「あなたは他の悪魔とは違うっていうのは認めるけど、あなたを信用することは出来ない。その方法なら見逃してあげるから勝手にやってなさい。あたしはあたしの方法を探すわ」
「…が………る」
「え? …………今、何て?」
部屋を出ようと一歩踏み出したエヴァの耳が小さな声を拾った。自身の耳の良さを信じるのならば、聞こえたそれはあり得ない言葉だった。
驚きに振り返ったエヴァは、空耳である事を願って言葉を発した大地に問い掛けた。それに対して大地は何をそんなに驚いているんだ、とでも言いそうな顔で言う。
「ん? 俺が許可するって言ったけど」
「あなた、あたしの説明聞いてたわよね?!」
「き、聞いてたよ、てか何でそんな怒ってるんだよ」
「怒りもするわよ! あなたは――」
肩を掴んでガクガクと揺すって怒り出すエヴァは困惑する大地に尚言い募ろうとしたところで、ピタリと止まった。よく考えればサムが魂喰いをすると言い出したのは、今のままではサマエルには敵わなく、連れ去られた生を救出する事が出来ないからで……。生の兄である大地が妹を助けようとするのは当然であった。
突然黙り込んだエヴァを不思議そうに見る大地にエヴァは気まずそうに謝る。
「……ごめんなさい。生ちゃんの事を考えれば、多少信用出来なくても魂を差し出すわよね」
「別に謝らなくていいよ。生のためにってのはあるけど、俺、サムの事信用してるし」
「いいえ、謝らせて、当然の事をしようとした大地をあたしは…………ん?」
今とても大事なセリフを聞き流したような気がしてエヴァはキョトンとした顔をする大地と見つめ合う。数秒の後、エヴァは叫ぶように驚愕の声を上げた。
大地ははっきりと言ったのだ。悪魔を、サムを信用している、と。これには許可を出した事にはさして驚いていなかったサムも驚愕の表情を浮かべた。
「……お前も俺も、こいつのお人好し加減を侮っていたみたいだな」
「みたいね。……はぁ、もうこの際あたしも許可するわ。あなたを信用して、じゃ無くて生ちゃんのために、だけど」
「いいのか?」
「教会的には問題でしょうけど、黙っていたらバレないでしょ。まぁ、あたし一人じゃなくて明日来る善光も道連れにするつもりだけど」
悪魔と同じ理屈である事に気付いているのかいないのか、あっけらかんと言ったエヴァは、続けてウインクしながら姉弟子の権力を振るった発言をした。
そんな彼女に大地とサムは呆気に取られながら、この場にいない善光を哀れむのだった。