決着
胸から刀を引き抜くと、刀身からぽたぽたと血が滴る。尋常じゃない痛さに、昔の武士はよくやったもんだ、と場違いな事を考えながら、大地は内にいた異物が消える感覚にほっと息を吐いた。これで失敗していたら、ただ痛いだけだ。
「……テメー……普通、自分を刺すか、よっ……」
「ははっ……こうでもしないと……出てかない、だろ……」
大地の身体から抜け出したサマエルは三人から少し距離を開けると、胸を押さえながら文句を付けた。同じ様に流れる血を止める様に胸を押さえる大地は、それを不敵に返す。
そんな二人にやっと大地がサマエルを追い出したことに気付いたルシファーは、一度サマエルに目を遣ってから倒れそうになっていた大地の体を支えた。と言っても自身も意識を保つのに精一杯だ。
「お前は馬鹿か」
「……何か久しぶりに聞いた気がするな、それ」
「茶化すな」
「でも、言っただろ。……あとは任せた」
ぐっと重たくなる体。意識を失ったらしい。まだ息はあるとはいえ、弱々しいそれは早く治療を施さなければ危険だろう。だがその前に、ルシファーは大地に任されたものを遂行しなければならない。
少し距離を開けた所で息も絶え絶えのサマエルがいる。そいつを倒さなければならない。が、ルシファーとて似たようなものだ。そんな自分にどうしろと、と意識の無い大地の顔を見る。
『ルシファー、わたしの魂を使って』
聞こえた声に振り返れば、生――いや、生に憑依したのだろう少女の思念。驚きに目を見開き、状況も考えずに色々言いたくなる気持ちを押さえ、ルシファーは使わなかった、使えなかった魂が仕舞われた胸を押さえる。これを使えば少し、今なら十分の力が戻るだろう。だがしかし、ルシファーは躊躇う。たとえ本人に言われようと、二度も少女を殺すことになる事はルシファーには出来なかった。
『わたしは間違えてしまったけど、あなたまで間違えないで。……彼なら大丈夫だから』
少女の視線が大地に向けられる。ここで自分が彼女の魂を使わなければ、大地は死ぬ。そう理解してしまえば、少し迷いを残しつつ、すぐに少女の魂を使う覚悟が出来た。視界の端に少女が笑う気配を感じながら、ルシファーは魂を取り出そうとした。が。
「させるか!」
まだ魔法を使えるだけの魔力があったのか、サマエルが炎の大蛇をルシファーに向かって放つ。間に合わない。そう思ったルシファーの前に二つの影が降り立った。
「あんたはそっちに集中しなさい。こっちはあたしたちで時間を稼ぐから」
「サタン様のためならば、エクソシストとも共闘して見せましょう」
それぞれ短刀や拳銃などの武器を構え、エヴァとバアルがルシファーを守る様に立ち塞がった。そんな二人に軽く笑うと、ルシファーは魂の取り出しを再開させた。
少女から魂を貰い受けた時以来、取り出す事のなかった魂が出される。淡く光るそれは大地たちのものよりも少し小さい。それは少女が悪魔と闘った証だ。もう一度、生に憑いた少女を見る。少女は何も言う事なく、微笑みながら頷いた。一度決めた事を揺るがせる事は無いつもりだが、それを確固たるものにするにはルシファーにとって少女の後押しは必要なものだった。
「……大丈夫だ、同じ過ちは繰り返さない。――その者、我の糧となれ“Absorption”」
握られた魂が弾ける様に飛び散ると、きらきらと光りながらルシファーの身体に溶け込むように消えて行った。そしてすぐに効果は表れる。魔力が増えた身体はすぐに怪我の治癒に入り、途絶えそうだった意識は今やしっかりとしている。
一度サマエルを任せた二人に目を遣ってから大地に目を向ける。自身の治癒が途中ではあったが、そんな事は気にせずにルシファーは大地に治癒魔法を掛ける。傷痕はすぐに消えるが、流石に血液まで増やす事は出来ない。あとは彼自身が頑張るしかない。
なるべく草のある所に大地を寝かせると、ルシファーは立ち上がった。もう振り返る事はしない。それに安心した様な寂しい様な表情を浮かべながら、少女は彼を見送った。
相手は瀕死の悪魔、こちらは多少怪我が残っているとはいえそれなりに万全の状態の二人。そうだというのに、ただルシファーの時間稼ぎをするしかない自身にエヴァは悔しげに下唇を噛んだ。隙あらば倒してしまおうと考えていただけに、今の状況は彼女にとって苛立ちを生むだけだった。
「悔しがるのは勝手ですが、足を引っ張るのはやめて下さいね」
「はあ? あたしがそんなへまする訳ないでしょ。そもそも、あなたが大地を見失わなければもっと早くにここに着いてたわよ」
「お言葉ですが、彼を見失ったのは貴女ですし、遅れたのも貴女が予備の武器を取るのに手間取った所為ですが?」
「うぐっ」
「…………テメーら、やる気あんのか?」
二人の口喧嘩はバアルの圧勝で終わったが、これは敵がいる前での出来事である。サマエルが呆れるのも無理はないだろう。だが、いくら仲が悪くとも敵の面前で油断するほど彼女たちは馬鹿ではない。なら何故か。それはもう彼女たちの役目は終わり、警戒する必要などなかったからだ。
「待たせたな」
真打登場とばかりに颯爽とした姿は、彼が悪魔だという事を忘れそうなほど輝いていた。その姿に周りも一瞬惚ける。すぐにそれを脱したのは、やはりサマエルだった。
既に優位性はなくなり、余っていた魔力も二人の攻撃を防いでいた所為でかなり減っていたサマエルが惚けている暇がないのは当たり前だ。だがこの場の皆が分かっていた。もうサマエルが勝てる見込みは無い、と。だからこそ、数で勝っているというのにエヴァとバアルが大人しくルシファーの後ろに下がっているのだろう。全ては彼に任せるつもりらしい。
追い詰められても陰る事のないサマエルをルシファーは見据える。名前と姿を知っていてもルシファーは彼と会話を交わした事は殆どない。それは彼がまだ子供だったからというのと、お世辞にも強いとは言えない下級悪魔だったからだろう。そんな彼を魔界の王であったルシファーが覚えていた事の方がおかしいのだ。しかし、ルシファーの記憶の隅には無邪気に笑っているサマエルがいた。
あの頃とは随分変わってしまった。そうルシファーは思ったが、その曇る事のない瞳は以前と変わらなかった。何があってそうなってしまったのかは分からないが、倒す事に変わりはない。筈だったのだが、その瞳があったからか少し迷いが出た。
もう動けないだろう。癒えない傷を負ったサマエルには魔力があっても治癒魔法は使えない。自身の迷いを彼の選択に任せたルシファーは右の掌を差し向ける。
闘志が燃え上がる様に溢れた魔力が体に纏わり付き、ルシファーの金糸の様な髪を靡かせる。右手に集まる魔力が最高潮に達した時、ルシファーはそれを放った。
放たれたのは光の線。ただ単純な魔力の放出は、全てを掻き消すか如くサマエルに真っ直ぐに向かっていった。光は十数メートル先まで行くと自然と消え失せ、その名残が雪のようにぱらぱらと降り注いだ。
光の通った道は抉れ、何も残さない。もちろんその場にサマエルの姿はない。
「……逃げたか」
彼に選択を任せたルシファーはそれを咎める事はしない。また襲ってくる可能性もあるだろうが、それはその時考えればいい、とエヴァなら怒り出しそうな事を思うルシファーの耳に幼い少女の声が上がったのが聞こえた。視線を向ければ、少女の思念が消えた生が目を覚ました大地に泣きながら抱きついている所だった。
泣き付く生を胸に辺りを見回せば、大きく抉り取られた森が見えて驚くが、すぐにサマエル以外誰一人欠けていないことに大地はほっと胸を撫で下ろした。
気付いたエヴァとバアルが心配げに大地を囲む。それに笑顔で答えながらも、大地が意識を向けるのは、一向にこちらに近寄る気配のないルシファーだ。成り行きといえど、勝手に契約を結んでしまい、未遂とはいえ、あんな願いを口走ったのだ。怒っているだろうな、と大地は気まずさから声を掛けられずにいた。
しかし、そう思っているのは大地だけで、近寄って来ないルシファーをエヴァが強引に引っ張ってくる。
「ちょっと、大地が目を覚ましたんだから、そんな所にいないでこっちに来なさいよね」
そうエヴァに背を押され、大地の目の前に突き出されたルシファーは、眉間に皺を寄せて沈黙したまま口を開く様子はない。やっぱり怒ってるか、と大地は内心苦笑いを浮かべる。ここまで来れば、気まずいとか言っている場合ではない。そもそも大地は彼が怒っているからと言って謝罪するつもりなどなかった。一度間違えそうになった道は少女が止めてくれた。だから後悔はしていない。
「帰ろう、ルシファー」
「はぁ……そうだな」
溜息は吐かれたがそれだけ。まだ動けない大地に肩を貸すルシファーに支えられえ、家に帰るために歩きだす。ルシファーが支える大地の反対側には生が引っ付くように手を握り締め、心配げに見ていたエヴァとバアルはいつの間に前を歩いている。まだ暗かった森の中を抜ければ、もう朝日が昇る時間なのか空が白け始めていた。
前を歩くエヴァとバアルの口喧嘩を聞きながら、大地はルシファーに問う。
「なぁ…………いつになったら俺たちの名前を呼んでくれるんだ?」
「……気付いてたのか」
「普通気付くだろ。けどまぁ、無理にとは言わないよ。あと、これ渡しておくな」
普段は何でもかんでも聞いてくる癖に、こういう事には気付いていても何も言わない所に彼の聡さが窺える。理由までは分かっていないだろうが、ルシファーが名前を呼ばなかったのは故意だった。人間に情を持たない様にするためだったそれは、既に意味はない。と言っても自分が気付いていなかっただけで、大地たちに関わった時から意味はなくなっていたのかもしれない。だからと言って今更名前を呼ぶのは気恥ずかしい。
内心溜息を吐きたいのを堪え、ルシファーは「もう一人で歩けるから」と言って押し付けられるように渡されたそれを手に、まだ少し覚束無いながらも生と手を繋いだまま歩きだした大地を見送った。
きっと遅くなるだろうルシファーを思いながら大地は前二人の喧嘩の仲裁に入る。突然間に入られた二人は、まだいがみ合いつつ、取り敢えず一時休戦となった。だがそれによってルシファーがいない事に気付いたのか、バアルが大地に問おうとするが、それを遮って話し掛ければ、何かを悟ったのだろう彼は何も言わず大地の話しに付き合う。大地たちを危険に晒す原因になった事を悔いていたのか、ずっと沈黙を守っていた生も、楽しげに会話する彼らにいつもの調子を取り戻し、四人で話に花を咲かせていた時だった。
「おい、置いてってんじゃねぇよ――――大地」
ぺしっ、と軽い音を立てて頭を叩かれて視線を向ければ、白い封筒。それは先程大地がルシファーに渡したもので、もちろん大地の頭をそれで叩いたのも彼だ。だから、大地の名を呼んだのも――。
「っ……早過ぎだろ」
「そんな所で突っ立ってたら、今度はこっちが置いてくぞ」
感動か驚きか。言葉に詰まったものの、大地はそう一言絞り出した。それは追い付いた事をか名を呼んだ事か、それともどちらも含めたものなのか。意味を知るのは大地自身のみ。
先を行くルシファーに置いて行かれまい、と駆け足になる。それに慌てて追い掛けた生とルシファーを挟む。
「サムさん、じゃなくて……ルシファーさん、だよね? ……わたしの名前は呼んでくれないの?」
生の何げない一言に、この兄妹は……、とルシファーは頭を押さえる。その兄はと言えば、妹のためにルシファーの横腹を突いて催促してくる。どうにもこの兄妹には勝てそうにない、と溜息を吐きつつ要望には応える。
「…………生」
「うん!」
名前一つでこんなにも嬉しそうな顔をするものか、と呆れながらも口角が上がるのは、やはり自分も嬉しいからなのだろう、とルシファーは久方振りに心から笑うのだった。
そんな彼らの背後で、意味が分からず困惑するエヴァに鼻で笑ったバアルの二人の喧嘩が勃発していた。
* * *
拝啓 ルシファー様
もし、この手紙をあなたが読んでいるのだとしたら、きっとわたしはこの世にいないのでしょうね。
何故か、って? それはわたしがこの手紙をあなたに渡すつもりはないから。なら何で書いているんだ、と言われそうだけど、きっとこの想いをどこかに吐き出したかったから……なんだと思う。
せっかく畏まったのに、もうぐだぐだになっちゃったね。けど、わたしっぽくないし、このまま書いていくね。
あなたは覚えていないかもしれないけれど、わたしたちは昔出会っていたんだよ。
だからあなたと再会できた時は本当に嬉しかった。そしてあなたにお礼を言えた事も。
前に願いはないって言ったよね。あれはなかった訳じゃなくて、叶っていたんだ。
あなたに会いたい。会ってあなたにお礼を言いたい。すっとそう願っていたから。
でも最近、わたしに一つの願いが出来たんだ。前みたいに些細な願いじゃ済まないほどの。でもそれは願っちゃいけないものだし、叶ってはいけないものだとわたしは思ってる。けどやっぱり、捨てられないんだ。簡単に諦められるものならよかったのに……。
あぁ、あの頃の様にあなたといられるだけで幸せだったら、こんなに悩む事はなかったのかな。
でも、悩むのも今日でおしまい。わたしは自分の選んだ道を進むよ。
もしかしたら、間違った道かもしれない。けど、もう止まれない。
この道を進んで、まだ、わたしが生きていたら、一度くらいはあなた好みの味付けで作ってあげるよ。あんまり上手くないかもしれないけど、玉子焼きだけは自信があるんだから。
今まではわたしの我が儘や迷惑で、あなたには助けられてばかりで、わたしは何もしてあげられてなかった。だから、今度はわたしがあなたを助けられるようになる。あなたには必要ないかもしれないけど。
わたしは……やっぱり、ここに書くのはやめておこうかな。
願いとは別の、わたしの気持ちをあなたが知ったら、やっぱり困るかな? それとも驚くかな?
うん、やっぱりやめておこう。これは自分の口から告げたいから。もし、わたしが死んでいたら、ごめんね。
そんな風に思うなら、今言えばいいじゃないかと思うかもしれないけど、もう決めた事なんだ。でも、少し思う。今のわたしが気持ちを伝えられていれば、何か変わっていたのかな。
正直、ちょっと怖い。あの本を読んだ方がいいかな。でも買っといて何だけど、やっぱり胡散臭いんだよね。結局まだ読んでないけど、あなたが見たら、やっぱり笑うかな?
あっ、もう時間みたい。出来ればこの手紙はあなたに読んで欲しくないな。じゃあ、いってきます。
ごめんね。本当に、ごめんなさい。やっぱり、間違えたみたい。
あなたは怒るかな? それとも呆れるかな? 馬鹿な女だ、って。
最期まで迷惑を掛けたわたしが伝えていいものかは分からないけど、もう自分の口では言えそうにないから、ここに書くね。
わたしはあなたを心からお慕い申し上げています。 敬具