手紙
もう自分の口では言えそうにないから、ここに書くね。わたしは――
呑まれていく。奪われていく。わたしで無くなる。
身を任せ、そのまま呑まれそうになるのを何とか耐え、わたしは書き掛けの手紙を取り出す。
こうなる事が分かっていたかのように、彼のために書き綴っていた手紙に、最期の言葉を付け足した。
書き上げた手紙を封筒に押し込んだところで、今更こんな手紙を残してどうするんだ、と自嘲する。
ゴミ箱に捨てようとした。けど、ここじゃすぐに見つかってしまう。
残り少ない時間で思い付いたのは本の中に隠す事。
手紙を挟んで本棚に戻そうとした時、限界が来た。
最期の気力を振り絞って本を押し込む。
『やっと呑まれたか、手間を掛けさせおって。……さぁ、絶望しろ――――サタン』
今こそ復讐の時だ。積年の恨み、晴らさせてもらおう。
* * *
橙色に輝く丸い光が目の前に浮かんでいるそれは、蛍の光の様に幻想的で美しかった。
その光は、横になって眠っているエヴァから取り出されたものだ。つまり、これが“魂”である。
「……お前もか」
惚けた様に魂を見つめる大地に呆れた様にサムが言うが、聞こえていないのか無反応だ。
既に魂をとった大地の時も、エヴァは今の大地の様になっていた。その時はサムも少しのサービス精神ですぐに終わる摘出を遅らせたが、全くの別人といえど同じ反応をされれば流石に飽き飽きする。今度は遅らせる事なくサクサクと、しかし慎重に芯を傷つけないように魂の摘出を進めるサムは、芯と思われる中心の周りより少し濃い目の橙色の球体を残してとると、残った芯をエヴァの体へ戻した。もう少し見ていたかったのに、という大地の視線は黙殺した。
そんな大地の恨めしい視線も魂の戻ったエヴァが起きた事で終わる。
「……もう終わったの?」
「あぁ、問題ねぇとは思うが身体に不調はねぇか?」
「……えぇ、初めに言われた体のだるさはあるけど、あとは特に問題無いわ」
手を握ったり開いたり、腕を回したりした後、エヴァは頷いて答えた。
この魂喰いで人間側にある被害と言えば、少し体がだるくなる程度である。しかしそれも数時間眠れば元に戻る。流石に魂の回復には数日掛かるらしいが、身体のだるさも無く、死なないのであれば問題ない事だ。
「それにしても、芯さえ傷つけなければ同じ人間から何度も魂を貰う事が出来るのに、何で悪魔は全部奪おうとするのかしら?」
「そりゃあ、芯の方が良いものだからだろ。今お前たちからとった魂を皮とすると、芯は実。二人分あっても皮じゃ一人分の実には到底敵わねぇってことだ」
「……ってことは、サム、あんまり力戻って無いのか?」
「あぁ……今の俺が元の力に戻るには最低でも魂三つは必要だ。皮は五つでやっと一つの魂だからな、魂一個分にはあと三人は必要だな」
無事、何事もなく魂喰いが終わったことで、そんな疑問がエヴァに浮かび、口にした彼女にサムが答えた。そこで分かった魂の実と皮の質の違いに大地とエヴァは愕然とする。つまりは一人分の魂には五人分の魂の皮が必要で、最低でも三つの魂がいるという事は、大地たちの分を抜くとあと十三人分の魂の皮がいるという事だ。
善光が来た所で一人分にも達しなければ、魂が回復するまで二度目の魂喰いは出来ない事を考えると、一体どれだけの時間が掛かるのだろうか。
「って事は今やった魂喰いは意味がないって事?!」
「そういう訳でもねぇよ。俺の力が完全に戻らなくともサマエルを相手にするくれぇは出来る」
こっちは死ぬ覚悟でやったというのに、とでも言いそうなエヴァの言葉にサムは冷静にそう返す。しかしそれは、元のサムの力があの圧倒的な強さを見せたサマエルの比では無い、と言っている様なものだ。
驚きに目を見張ったエヴァはしみじみと呟く。
「……つくづく、あなたが理性ある悪魔でよかったと思うわ」
「おいおい、油断するなよ、エクソシスト。俺だって悪魔だ、いつ俺が暴走するか分かんねぇぞ」
そういう所が理性的であり、彼をエヴァの知る悪魔と一線を画しているのだが、それを言った所で同じ様な事を返されるだけだ、とエヴァは口を閉じた。この悪魔は自身がお人好しだと罵る彼と似ている事に気付いているのだろうか、とエヴァが口に出さなかった言葉を告げる大地とサムを見比べて呆れた溜息を吐いた。
* * *
パチリと大地が目覚めた時、真っ暗な部屋に僅かに月の光が障子を隔てて差し込んでいた。手元の目覚まし時計で時間を確認すれば、十二時を回った頃であった。
魂喰いの後、疲れを取るため少し眠ることにした大地は、別に平気だと言うエヴァに無理やり押し付ける様に客間と布団を貸すと、自分も部屋に布団を敷いて眠りに就いた。呆気に取られていたエヴァには悪いが、元々テント暮らしだと知った時から客間は貸すつもりだった大地は、疲労による眠気によって少々強引に頷かせた事に今更ながら申し訳なく思う。
時間的にはまだ寝ていてもいいのだが、大地は疲れの無くなった体を起き上がらせる。目が冴えて眠れないというのもあるが、少し眠るつもりががっつりと寝てしまったことで夕飯を抜いてしまい、お腹が空いているからという理由が一番だろう。妹が連れ去られている時に、と思うかもしれないが、今彼に出来る事は体の調子を戻す事だけなのだ。というのはサムから言われた事である。魂を早く回復させるためにも睡眠と食事は必須だとサムに言われた事もあり、何か腹に入れておいた方がいいか、と大地は台所に向かうため部屋を出た。
夕飯用に炊いていたご飯でおにぎりを作ろう、と考えながら真っ暗な廊下を歩いていた大地の目の前に人影が現れた。ワンピースを着た、大人に届きそうな年頃の少女が、にこりと大地に優しく笑い掛けてきた。
サマエルの仲間だろうか、と唐突に現れた彼女に大地は警戒するが、どうにも悪意がある様には見えず、戸惑っていた大地を尻目に彼女は歩き始めた。かと思えば、振り返って大地を見る。
「……着いて来い、ってことか?」
少女は声を発する事が出来ないのか、大地の問いに頷いて答える。今の状況を考えれば警戒すべきなのだろうが、悩んだのは一瞬で、大地は彼女を追い掛けた。
奥へ奥へと進んで行く少女の歩みは迷いなく、何度もここへ来た事がある様な、否、まるでこの屋敷の住人の様であった。聞きたい事は多々あれど、声を発する事が出来ないらしい彼女に聞いたところで答えは返ってこないだろう。色々な疑問を抱えたまま、大地は黙って彼女の後を追う。しかし途中で大地は気付く。彼女が進む先はあの部屋ではないか、と。
大地の予想通り、もうその先はあの部屋以外には無い、という所で彼女が立ち止まった。先を促す様に道を開けた少女に頷くと、大地はあの部屋――サムと出会った元開かずの間へと歩みを進めた。
パチリ、と電気を付けて明るくすれば、部屋の全体が見える。サムがいたからなのかもしれないが、他と違って塵一つ落ちていなかった部屋は、数日間誰も入っていなかった事もあり、少し埃が落ちていた。この部屋にあった結界やら札の効果などはもう無い事は分かっているが、それでも何か思い入れでもあるのか熱の籠った眼差しで部屋を見つめるサムを見ると、中に入る事は少し躊躇われた。しかし後ろからせっつかれる様に見つめられては入らない訳にもいかず、大地は意を決して中に入った。
置かれたままの棚や机は綺麗であったが、随分と年代の古いものの様に感じた。だがそれだけだ。特に目新しいものもなく、普通の部屋だ。強いて挙げれば女性の部屋だった事が分かるくらいか。
「てか何でここに? この部屋に何かあるのか?」
答えられないと分かっていても疑問を投げかけてしまうほど、この部屋に連れて来られた意味が分からず困惑している大地に、やはり答えが返ってくる事は無く、言葉の代わりという様に指を差された。視線をその指の先に向ければ、この部屋の主は読書好きだったのだろうかと思うほどの大きな本棚があるだけだ。
本でも読めと言うのか、と大地が頭を悩ませながら本棚を見ていれば、どこか気持ち悪い様な違和感を持った。しかし何故そう思うのかは分からず、しばらくじっと見つめていれば、それが何だったのかが分かった。
少女が差しているものがそれなのかは分からなかったが、他に気になる点もなく、仕方なく大地はその違和感の正体に手を伸ばした。
この部屋の主は随分ときっちりとした性格らしく、本棚に並ぶ本はすべて五十音順に並べられていた。そんなきっちりとした人物が、本を逆さまに入れるだろうか。違和感の正体である一冊だけ上下逆に入れられた本を取り出すと、別の本のカバーをつけられているのか、ぶかぶかで隙間が出来ていた。
外して中の表紙を見れば、『黒魔術と悪魔』というおどろおどろしいタイトルに苦笑いする。以前の大地ならば顔を引き攣らせてそのまま本棚に戻すだろう。今は慣れてしまったのと少し気になったというのもあって、本を開く。と、ぱさりと何かが落ちた。視線を下に向ければ、白い封筒が床に落ちていた。
宛名は書かれていなかったが、すぐにそれが手紙だと分かった。他人の手紙を勝手に見てもいいものかと悩むが、こんな本の中に隠されていたものという事に好奇心が刺激され、大地は手紙を開いた。
手紙を読み終わった大地は、すぐに後ろを振り返った。そこにいたはずの少女の姿は無い。動揺しながら、もう一度その手紙に視線を落とす。
「…………幽霊?」
簡潔に言えば、恋文だ。そして、内容からして書いた人物はもういないだろう。
訳が分からないと混乱に頭を掻き毟る大地は、開いたまま目を通していなかった本を思い出す。これを読んで何かが分かるかは分からないが、少し冷静になるには良いだろうと手に取った。
本を読み終え、といっても気になった所を流し読みする程度だが、お腹が鳴った事で本来の目的を思い出した大地は台所へ向かった。
台所へ続く居間に近づいた時、部屋から明かりが漏れている事に気付いて大地は首を傾げながら中へ入る。すると台所に蠢く影があった。今度こそサマエルの仲間か、と警戒しながら近づいた大地は見知った少女の姿に肩の力を抜いた。
「……エヴァ、何してるんだ?」
「へぁ!? だ、大地、これはそのっ――あちっ」
慌てて何かを隠そうとしたエヴァだが、すぐにそれは露見する。熱さに耐えられなかったのだろう彼女の手から、ほかほかと湯気を立てる白米が投げ飛ばされた。無残に床に散らばる白米に、二人の間に沈黙が落ちる。それに耐えられなかったのか、恥ずかしそうに顔を赤くしたエヴァが真実を語る。
「その、夕飯の時起きて来なかったでしょ、あっ、あたしも起きるのは遅かったんけど……起きてきたらすぐに何か食べられるように、おにぎりを、作ろうと、したんだけど、ね……ごめん」
段々と声が小さくなっていくエヴァの目は涙で潤んでいた。謝罪の言葉と共に差し出された皿の上には形が崩れて最早おにぎりとは呼べないものであったが、一生懸命作った事はわかった。大地はエヴァから皿を受け取るとにこやかに告げる。
「ありがとう、頂くよ。……けど、その前に床を綺麗にしないとな」
嬉しい気持ちと申し訳ない気持ちがごちゃ混ぜになった顔でこくり、とエヴァは頷いた。
床も綺麗になり、腹も膨れて食後のお茶を飲みながら、大地は元開かずの間で読んだ本に書かれていた事は本当なのかを確認するためエヴァに問う。
「なぁ、悪魔って……普通は見えないものなのか?」
「何を今更……悪魔は幽霊と同じで普通の人には見えないわよ。厳密に言うと、幽霊は感が良い人なら誰でも、悪魔は魔力を持つ者限定だけど。あっ、こっちでは霊力って言ったかしら?」
「……そう、なのか」
本当に不思議そうに首を傾げるエヴァに、彼女にとって、否、魔力を持つ人間にとって本当に当たり前の事なのだろう事が分かる。しかし大地は今の今まで全く知らず、気付いてもいなかった。
大地に普通の、魔力を持たない人間が悪魔を視認できないという事を気付かせたのは、先程読んだ胡散臭げな本だということに少し落ち込む。
「……今思い返せば、気付く所があったんだけどな」
生の対応や、サムの姿を認識していなかった母親に、呼び寄せた幽霊を見た時に自分が思った事、と気付く所はたくさんあっただろうに、と大地は自身の鈍感さに笑った。
そんな大地に話が見えないと眉根を寄せるエヴァに、笑われるだろうことを承知で説明する様に話した大地は、一切笑みを見せず難しい顔で考え込む彼女に首を傾げる。
「……あれ? 笑えない程やばかったか?」
「そうね……結構やばいかも」
「えっ?」
「境目、か……今なら、あいつが思念を呼び出すのを拒んだ理由が分かったわ」
冗談めかして言った事がまさか肯定されて返ってくるとは思わず、狼狽える大地にエヴァが納得した様に言った。そんなエヴァに今度は大地が、話が見えないと言う顔をするが、すぐにビシッと大地の顔にエヴァが人差し指を突き付けて話し出す。
「いい? 人間は悪魔や幽霊とは住んでいる次元が違うのよ。だから見えている人でもすぐに人ではない、とわかるの。けどあなたはその次元を超えて境界無く見る事が出来るから、人間と人外の違いが分からないのよ」
「えっと……それは何か問題があるのか?」
「大ありよ! 境界が無いってことは、常に人を外れる危険性を孕んでいるのよ。なるべくそういう者には近づかない事が良いんだけど……」
そこまで言ってエヴァは口を閉ざす。人外、つまり悪魔であるサムとも本来近づかない方がいいのだが、今の状態で大地にそれを強いる事は流石に憚られたのか口にする事はなかったが、エヴァの目がそう訴えていた。大地もエヴァの言いたい事は分かっていたが、自分が彼と関わらないという選択肢はなかった。生の問題が解決したとしても、その考えは変わらない。
サムはどう思っているかは兎も角、大地にとってはこの地に来てからの初めての友達である。彼の方から大地と関わるのが嫌だと言われない限り、大地はサムと交流を続けるつもりだ。しかしエヴァの心配する気持ちも分かり、困った様に笑みを浮かべて大地は謝る。
「……ごめん。けど、サムと出会ったお陰でエヴァにも会えたんだし、悪いことばかりじゃないと思うんだよな。それに危険があるってだけで絶対じゃないんだろ?」
「っ~~! あー、もう! 本当に分かってるんでしょうね?」
明るく言い放った大地に顔を赤くしたエヴァが照れ隠しで詰め寄った。だが、それもすぐに終わり、互いにさも可笑しいという様に笑い合った。つい数時間前まで当たり前であったそれは、随分と久しぶりな感覚の様に大地は思う。笑う門には福来る、というが、本当にこのまま無事に生を取り戻し、また平穏な生活が戻ってくるような気さえしてくる。
やっといつもの自分を取り戻した様な気がした大地とエヴァに何者かの声が掛かる。
「……もっと悲惨な事になっていると思っていたのですが……これは何のラブコメですか?」
「へっ? ってあなた……!」
「バアルさん!?」
突然聞こえてきた声に驚いた二人は、現れたその人物にまた驚いた。
そこには眼鏡のブリッジを押し上げながら予想外だと言う様に呟くバアルが立っていた。しかし以前会った時と違い、一つに纏められていた深緑色の少し長めの髪は短くなり、服が所々解れたり破れたりしていて、本人も少しだるそうに壁に寄り掛かっていた。
「どうしたんですか? あっ……もしかしてサマエルに?」
「えぇ、まさかつけられていたとは……少し油断をし過ぎました。それで、何事もなかったのですか? サマエルはすぐにこちらに向かったと思うのですが……」
「…………何事もない訳ないでしょ」
バアルの問いに押し黙る大地を見ていられないという様に目を伏せながらエヴァが答えた。それに質問の仕方を間違えた、と罰が悪そうにバアルは謝罪をして話を変える。
「……そうですね、失礼致しました。ところでサタン様は?」
「寝ているんじゃないの? それで多少は回復する訳だし」
「それはおかしいですね。今、この辺りにサタン様の魔力を感知出来ませんので」
「え?」
「……まさか!?」
エヴァの答えに眉根を寄せて言ったバアルのセリフにエヴァは驚き、何かに思い至った大地は居間を飛び出しサムの使っている部屋へ走って行った。呆気にとられてそれを見送ったエヴァたちも、一拍遅れて大地を追い掛けた。
辿り着いた部屋はもぬけの殻で、布団の上に置かれた紙には一言、「世話になった」と書かれていた。通常ならば置き手紙じゃなく一言欲しかったと思えど、仕方ないかと笑って済ましてしまうだろうが、この状況でサムが家を去ったなど大地は考えない。底抜けのお人好しでも馬鹿ではないのだ。
であれば何処へ向かったのか、とも大地は言わない。そんなの分かり切った事だ、と大地はぐしゃりと紙を握ると吐き捨てる様に呟く。
「……本当に、馬鹿じゃないのか」
サマエルがサムとの対戦を求めているのなら、確かにサムが向かえば人質である生は助かるだろう。だが、まだ本調子とは言えない。実力差は大地には分からないが、何も言わずに出て行った時点で今の状態では敵わない事は明白だ。短い間といえど、その程度の事が分かるくらいは一緒にいたと自負している大地は、静かに怒りを表す。
感情の赴くままに部屋を飛び出した大地は、追い掛けてきたエヴァと鉢合わす。
「きゃっ」
「っ、ごめん。あと、これ借りるな」
「えっ? ちょっ――」
エヴァから半ば強奪するように破魔刀を借りると、大地はそのまま走り去って行った。大地の思わぬ行動に呆気にとられていたエヴァが気付いた時には彼の姿は無かった。呆然と立ち尽くすエヴァに、呆れた様にバアルが声を掛ける。
「どうなさるんですか? 彼、サタン様を追い掛けたんでしょう?」
「そっ、そんなの追うに決まってるでしょ! ていうか、大地、居場所わかってるのかしら?」
そんな疑問を抱きながら、またもや先に走って行ってしまった大地をエヴァたちは追い掛けるのだった。