ある放浪
上京して何カ月かが経った日のことだ。その日はとてもいい天気で、私はどこかに散歩に行こうと考えた。いい天気といっても、林立する高層ビルの間から空は見えない。見上げてもそこにあるのは建物ばかりだ。どこに行こう。
私には仕事があるが、今日は休みだ。慣れない都会暮らしに、少し息を抜きたいと思う。しかしどこに行けばいいのか。とりあえず、街ではなくて人の少ない所に行こう。東京は人が多すぎる。今日ぐらいは人のいない静かな場所に行きたい。
どこに行くにも電車に乗らなければいけないと、私は駅に行く。地下鉄はむわりとした熱気が漂っていて、忙しなく人が行きかっている。
行き先がはっきりしていて、駅を歩くことがルーチンワークに組み込まれている人や、初めて東京を訪れて、目的地に行くためにどうすればいいのかよく分からない人。二人の違いは明らかだ。歩き方を見ていればすぐに分かる。
私はこの駅から毎日勤め先に行くが、今日は勤め先に行くのではない。私は他の人にはどちらに見えているのだろうか。
私はとにかく街から離れてしまおうと、いつも乗る電車と逆方向に走る電車に乗った。電車は地下を走っているので外の様子は分からないが、街から離れていってるのかと思うと、少し心が弾んだ。
循環線だったので、適当なところで降りてみる。駅名は馴染みのない場所を指していて、私は期待と不安を半分ずつ抱きながら、外へと続く階段を上る。時間にしてどれぐらい乗っていたのだろう。ぼんやりと座っていたから、時間の感覚がはっきりしなかった。
階段を上り切らないうちから青空が覗く。階段の段の上から徐々に青一色の空が見えてくる。私の口元が期待感でほころぶ。小さくガッツポーズをして、最後の段を一段飛ばしで駆け上がる。しかし駅から出るとそこは工場街で、そのせいで高層ビルがなかったため空が見えただけだった。
私は落胆したが、とにかく歩いてみることにした。ここはどこだろう。少しそう考えたが、しかしその時の私にはどうでもいいことだった。
しばらく歩くと、どこをどう来たか全く見当がつかなかったが河原に出た。河原の向こうには立ち並ぶ工場が見えたが、私は妥協することにする。東京にしては、上出来だ。せっかくの河原なので、何かをしようと思い、平べったい小石を手に取る。
回転をかけて石を投げると、石は水面で二回跳ねてから見えなくなった。故郷の川ではよくこうして友人と遊んだ。彼は私より少し遅れて上京したが、時々会う。今はどうしているだろうか。気になってなんとなくでメールを送る。空メールを送るのも気がひけたので、迷子になったと本文を入れて送った。
しばらく河原でぼんやりしていると、日は暮れて遠くの空に星が見えた。辺りは薄暗くなっていて、駅への道が分からなくなる。しかし、多分なんとかなるだろう。最終列車に乗り遅れなければ、多分なんとかなる。そんなことを考えていると、着信音が鳴る。先程メールを送った友達だった。
「おい、まだ帰ってないのか」
彼は名乗る前に私にそう聞いてくる。私は一度頷いたが、そういえば彼は目の前にいないのだと思い直し、ああと返事をした。彼は今、私の家の前にいるらしい。彼は迎えに行くと言って、あっさり電話を切った。
迎えに来るだなんて。私は少し笑ってしまった。せっかちな彼は、私が今どこにいるのかも聞かなかった。小さな故郷ならいざ知らず、ここは東京だ。しかも本人である私でさえ、ここがどこなのか分かっていない。
しかし私は再び河原のほとりに座った。彼が来なかったら来なかったでそれでもいいが、しかし彼は来るのだろう。私は根拠のない確信を持っていた。彼とは小さいころ、鬼ごっこやかくれんぼをよくしたが、私を捕まえたり見つけたりするのは、いつも彼だ。
そして彼はやって来た。電話から三十分後、さして探しまわった様子もなく、河原の土手を降りて来る。どうしてここが分かったのかと聞けば、彼はなんとなく、とだけ答えて、私と同様に川に向かって石を投げた。
石はとんとんとんと、私が投げるより元気よくたくさん水面を跳ねる。彼は、鍋をするんだから早く帰るぞと言って、私を駅に案内してくれた。私は電車の中でもう一度彼に、どうして居場所が分かったのかと聞いたが、彼はやっぱりなんとなくとだけ答えた。その日は夏だというのに、彼は熱いつみれ鍋を作った。