駅伝選手と金髪
眠っていられなくなるほど瞼が熱くて、僕は目を覚す。じりじりとした暑さは、窓から射す西日のせいだった。風通しはよく汗はかいてなかったが、喉がひりつくほど渇いていた。僕は軽く二三回咳をして起き上がる。
昼寝なんてするのはいつ以来だろう。目覚めはすっきりしていて、日焼けしたらしく皮膚がひりひりと突っ張った。
洗面所で顔を見ると頬の上が特に赤くなっていて、顔を洗ったぐらいでは腫れは引きそうにない。部屋からタオルを持って来て居間で冷やすことにした。居間には愛さんも誓さんも誰もいない。
微かに風の音がして、冷房がないのに涼しいことに僕は少し驚いた。縁側でちりんと風鈴の音がした。その音を聞いて、僕は初めてそこに風鈴があることを知る。
薄くて透き通った硝子の中で、金魚が泳いでいる。垂れ下っている紙は涼しげな水色の曲線でデザインされていた。ちりん。高くて硬質な音色がする。僕は右耳でむさぼるようにその音色に聞き入った。ちりん。風鈴の音はどうしてこんなに綺麗なのだろう。
僕は温くなったタオルで目を覆い、縁側に寝転んだ。タオルで覆われた暗がりに、風鈴の音が染みる。
しばらく縁側に寝転んでいると、きしりとすぐ近くで床が軋む。誰かが僕のすぐ近くに座ったのが分かった。微かなコーヒーの香りがする。しばらくそのままの体勢でいると、ふうと息をつく音が聞こえた。一口飲んだのだろう。体を起してタオルを取って見ると、誓さんが隣に座っていた。
「初日から結構焼けたな、痛むかい」
「多少は。でもちょっとなので大丈夫です」
誓さんがコーヒーを淹れてくれるというので、飲むことにする。僕がバイトの様子や鮫島さんとの釣りの話をする間に、誓さんはお湯を沸かし、手際良くコーヒーを淹れてくれた。
「砂糖とミルクはいる?」
「あ、大丈夫です」
大人だねーと言いながら、誓さんが僕にコーヒーが入ったマグカップを渡してくれた。コーヒーは舌が火傷しそうなぐらい熱かったが、缶コーヒーよりもずっといい香りがした。
「健吾がコーヒーとか紅茶とか好きでさ、凝った道具とか仕事のついでに買って来るんだ」
お陰で台所が喫茶店みたいになってしまったよと誓さんは笑った。僕が誓さんに美味しいと言うと、誓さんは良かったと言ってテーブルの上のパソコンに向かった。僕がコーヒーを飲む間に、誓さんは忙しないキーパンチを続ける。仕事のように見えた。
「温君は、風鈴好きなの?」
誓さんはパソコンから目を離さずに、僕に話しかけてくる。まるで僕ではなくパソコンに聞いているみたいで、僕は少しおかしくなってしまった。
「今、好きだなと思いました」
「何だそれ」
誓さんは少し笑って、チラリと僕を見た。風鈴の音をちゃんと聞いたことがなくてと伝える。家にも学校にも風鈴なんてなかった。スーパーや百貨店、ドラマで見かける程度だった。誓さんはキーパンチの手を休め、肩をほぐすように回した。
「風鈴、いいよね。あの硝子の曲線ってセクシーじゃない?」
言われて改めて風鈴を眺めてみる。セクシーかどうかはよく分からなかったが、ふんわりとした丸みはかわいいなと思う。僕が曖昧に頷くと、誓さんはお子様には分かんないかとちょっと笑った。
週に一度僕は病院に行って検査を受ける必要があった。もしかしたら聴覚がさらに下がっているかもしれないし、症状が出たらそれで治療法もはっきり分かるかもしれないからだ。僕は母からそう聞いていた。聞いてはいたが、あまり期待はしていなかった。今更僕がもう一度、折原達と同じように演奏できるとは思えなかった。
僕が行くのは隣町初野の大病院だった。愛さんも週に一度その病院に行っているので、連れて行ってくれるそうだ。
「じゃあ今日の一時にはお家にいてね。バスに乗るから」
愛さんはそう言って僕に大盛りのご飯を渡してきた。朝からこんなに食べれるかという量だったが、半分寝ぼけながら誓さんは同じ量の白米を平らげていった。今日は健吾さんも一緒に朝ごはんを食べていて、愛さんの二倍ぐらいの量を食べていた。
「あら、今日はお仕事なの?」
「ああ、デスクワークだけどな。遅くなるから夕飯はいい」
愛さんは健吾さんの茶碗にお代わりを盛ってやる。健吾さんの仕事場はここから少し離れているらしく、朝ごはんをかきこむと、さっさと仕事場に行ってしまった。僕も配達があるので、その後に続いて玄関に向かった。
「誓さんもお仕事ですか?」
誓さんも僕の隣で靴を履く。誓さんは、朝の散歩と言って健吾さんを見送ってから、初日のように一緒に坂を下りる。時々欠伸を噛み殺していた。
「仕事があんまりはかどらなくてね、気分転換」
そう言えば誓さんは何の仕事をしているのだろう。健吾さんは資源の調査会社に勤めている。出張で長期間海外に派遣されることが多いが、それ以外の期間は自由な時間が多いと言っていた。派遣の期間が長いため、マンションやアパートを借りるのではなく、誓さんの民宿に格安で住んでいるらしい。
誓さんは民宿を営んでいるとはいっても、それだけで生計を立てているとは思えない。遠和は観光地でも大都市でもない。誓さんは謎が多い人だった。
今日もしっかり稼げよと言う誓さんと別れると、坂を上がってくる鮫島さんが見えた。鮫島さんは立ち漕ぎで自転車を漕いでいて、上り坂なのにぐんぐん近づいてきた。すぐにへばってしまう僕とは全然違う。挨拶をすると少し眠そうに片手を挙げる。
二人で新聞社の中に入ると、沼澤さんがバッグを準備しているところだった。沼澤さんはちょうど準備を終えたらしく、僕達に柔らかい笑みで挨拶をするとバッグを渡して、すぐに奥に引っ込んでしまった。
そして今日も僕は新聞を配る。最初に向かうのは誓さんの民宿で、僕は鮫島さんのようにさっさと坂を上り切ってしまおうと立ち漕ぎで奮闘するも、やはりすぐに足をついてしまう。
坂の上を見ると、そんな僕の奮闘を家の門の前で愛さんと誓さんが眺めていた。目が合うと愛さんがちょっと手を振ってくる。僕は恥ずかしく思いながら自転車から降りて坂を上る。前より多少は上ったと思うことで、自分を奮い立たせた。
「沼澤さんって忙しい人なんですか?」
全ての新聞を配り終わり、海に向かう途中で、ふと気になって僕は聞いてみる。自転車を返す時も沼澤さんは忙しそうに奥で書類仕事をしていた。
「あー、まあ、最近な。やっぱお金必要なんだべな」
沼澤さんには光ちゃんという一人娘がいるらしいが、事故にあって入院しているらしかった。手術が必要らしく、その費用を稼ごうとしているのだろうと、鮫島さんは説明してくれる。光ちゃんは翔君の同級生で、幼馴染だという。そんな説明を聞きながら海に着くと、前回と同様に鮫島さんはエラコを買う。
「狭い村だば、みんな家族みたいなもんだ」
沼澤さんが体を壊さないか心配だと言いながら、鮫島さんはエラコを針の先につける。僕はなんとかエラコの筒を割くと、ぬるぬるする感触に耐えながらエラコを針の先につけようとした。エラコはぷりぷりと弾力があり、そして表面がぬるぬるしているので、針の先が滑ってしまう。
そうして僕が苦戦していると、そんなペースでは日が暮れてしまうと鮫島さんが付けてくれた。二人揃って海に向かってキャスティングすると、鮫島さんの餌は遠くまで飛び、一方の僕のはやはりテトラポットの間までしか飛ばなかった。
そうしてしばらく無言でいると、鮫島さんはまた僕に何か話せと言ってきた。話題と言っても、今日は沼澤さんについてを話してしまったので、もう僕に話題らしい話題は出せそうになかった。鮫島さんはしばらく考えて、またどこかのCMで聞いたことのある豆知識を教えてくれた。
「なあ、知ってる? カバの汗ってピンクなんだ」
鮫島さんは至って真面目な顔でそんなことを言う。僕は笑っていいのかどうか分からずに、神妙に頷いてしまった。鮫島さんはいい人なのだが、なんとなくその金髪に威圧感を感じてしまう。
鮫島さんの髪は黄色よりは白に近い、綺麗な金色だった。こんな田舎町の景色では、その金色はどうしても浮いてしまって僕は少し怖い。だけど慣れ親しんだ金色でもあった。安っぽい金色ではなく微妙に褪せたような、しかし格調高いその色に、僕は金管楽器の色を思い浮かべてしまう。
聴覚が鈍ってしまった今の僕には、ちゃんと聞くことが出来ない音色を思い出す。鮫島さんの髪の色は、そんな金色だ。
「なあ、知ってるか」
鮫島さんの髪が海風に散らばる。猫っ毛なのか、金の髪は羽毛のようにふわふわとしばらく宙を漂ってから、すっと元通り落ち着いた。ワックスの類は付けていないようだ。僕は鮫島さんの髪の散らばりを目で追いながらゆっくり頷いた。
「ムンクの叫びってあるべ? あれって、真ん中のやつが叫んでるんじゃないんだ。周りの人間の叫びを聞いて、頭をかかえてるんだってさ」
あの極彩色のぐちゃぐちゃの背景の絵のことかと、美術の教科書で見た絵を思い浮かべる。確か橋の上に立っている絵だったろうか。
「何があったんだべなあ」
鮫島さんは呑気にそう言う。間延びした声は、よく晴れた空にぼんやり溶けていくみたいだった。風交じりなので、僕は釣り竿の先より鮫島さんの声に集中した。しかし鮫島さんはそれ以上何も言わない。
そうして沈黙を続けていると、後ろからジャージ姿の翔君が興奮した様子でこちらにやって来た。学校がなくて曜日を気にしなくなってきているが、そういえば今日は土曜日で学校は休みらしい。翔君は興奮して頬が赤くなるぐらいだった。
「兄ちゃん、やった! 俺選ばれた! 第六走者だ!」
すると鮫島さんは満面の笑みでくしゃくしゃと翔君の頭を撫でた。朝も七時だが、二人にとってとても嬉しいことが起こったらしい。翔君は嬉しそうに僕にも説明してくれた。
「県内の市町村対抗の駅伝があるんです。その代表さ選ばれて! この町を一番にするチャンスですよ!」
目立たない僻地のこの町が、初野を初めとする県内の市町村を負かすチャンスだという。また、この町の学校は統廃合されるまで陸上競技が強かったという。その意地もあり、遠和の町で駅伝は一大イベントらしかった。
「でさ、お願いがあるんだ。光に今週の宿題届けて欲しいんだけど」
「え、お前行けばいいべ。ついでにそれ教えれば」
光とは先程の話に出た入院している光ちゃんのことらしい。翔君は困った顔をして首を振った。
「何か提出物あって、進路調査。これは早いほうがいいと思う。今日行こうと思ってたら、これから公民館で駅伝の顔合わせがあって」
翔君の通う学校と病院は離れていて、通学の途中に寄るということは出来ないらしい。初野市は遠和町よりずっと広いようだ。
「初野の市民病院なら、今日行ってくるよ。検査があるんだ」
馴染みでもない自分にそんなことを頼むとは思っていないが、一応そう言ってみる。すると意外にも翔君は助かったという顔をして、じゃあお願いしますねと言って、渡すプリント類を取りに家に帰った。駅伝の代表に選ばれるというだけあり、翔君はあっと言う間に遠ざかっていく。
五分ぐらいすると翔君は走って戻って来た。鮫島さんの家からここまでは、歩いて十五分ぐらいなので、僕はさすが選手だなと感心した。
「じゃあこれです。よろしくお願いします」
翔君はお辞儀をして、これから家族に伝えに行くのだと軽い足取りで走って行った。無邪気にはしゃぐ翔君の後ろ姿を眺めてながら、鮫島さんはしょうがないなと笑う。そして去年の駅伝の様子なんかを話していると、海の向こうの小さな点から汽笛が聞こえてきた。鮫島さんが立ち上がる。
今日はごちそうかなと鮫島さんが呟いた。翔君を家族みんなでお祝いするのだろう。鮫島さんの、明日も釣りだからなという声で別れる。僕は帰り道をのんびり歩きながら、自分の家族のことを思い出した。
初めて僕がバスーンのソロ大会で入賞した日。父は嬉しそうに僕を褒め、母は父よりもずっと落ち着いていたが、夕ご飯は僕の好きな玉ねぎの料理や魚の煮つけを作ってくれた。
父は祝い事にはケーキが必要だと言って、仕事から帰ってきた直後だというのに、慌ててケーキ屋に駆け込んでショートケーキを買ってきてくれた。僕はそれがとても嬉しくて、もっと頑張ろうと思ったものだ。
全てが幸せだった。今思い返すと眩しい程に輝いていた。僕は憂鬱な気持ちになる。溜息を吐くと、何かが胸の奥から零れるような心持だった。もう僕は、あんな風に家族を喜ばせてあげることが出来ない。
ささやかだが朝の喧騒が訪れた町は、駅伝の話題で持ちきりだった。なんとなくしか聞こえないのが今の僕にはかえって救いで、俯いて早足で坂を上った。今頃鮫島家は笑い声でいっぱいなのだろうか。
振り返って海の方向を眺めてみると今日はすばらしい青空で、空も海も何もかもが輝いていた。記念日にはうってつけの日和だろう。