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庭師、冒険家、そして側溝とコロッケ

 学校につくと、母は既に到着していて、先生はすぐに母に説明を始めた。僕は折原とパートリーダーにさよならを言って、母の車に乗り込んだ。外を眺めていると、校庭ではまだ野球部が練習を続けていた。

 模擬試合をしているらしく、時々ボールが空に高く舞い上がっていた。夕日が強いのに捕手は眩しくないのだろうかと考えていると、何回かに一度は取り落としていた。彼らの練習は永遠に終わりのないように見えた。


 先生との話が終わったらしく、母が戻ってくる。母は車のドアを開くなりキーを差し込み、乗りこむと同時にアクセルを踏んだ。母は無言でしばらく車を走らせていた。早くも遅くもないスピードだったが、ブレーキの踏み方が急で、車がガクリといった感じで止まった。

 母は困ったように眉を寄せ、近くのスーパーの駐車場に車を止める。そして僕は母に促されるままに車を降り、スーパーに入りカートを押した。スーパーの中は寒いぐらいにクーラーが利いていた。


「夜ごはん何がいいかしら。ほら、お父さんからヴルスト来たじゃない。あれに合いそうなもの」


 ドイツのソーセージ、ヴルスト。皮がパリッとしていたりシナシナしていたりする時があるが、よく燻製された肉の香りは豊かで、僕も母も大好きだった。バスーンの聖地の味だ。


「ポトフがいい」

「いいわね、ポトフ。ちょっと暑いけど」


 そういうと母はいくつかの玉ねぎの入ったネットを二つ手に取ると、ごろんとカートのかごの中にそれを入れた。


「そんなに買って食べきれないんじゃない?」

「さらし玉ねぎにでもするわよ。温、好きでしょう玉ねぎ。しばらく玉ねぎいっぱい出してあげる」


 その後、荷物持ちがいるからと母はスーパーを歩きまわりながら、あれもこれもとかごに入れた。そうしてそろそろかごがいっぱいになるかという頃、母は言った。


「いつかは治るかも。先生は言ってたわ。三人に一人は治るって」

「母さん、治らない二人が、僕かもしれないんだ」


 スーパーを流れる音楽はよく聞こえなかった。だが震える母の声も何かにかき消されそうになっていている。僕は今、何の音を聞いているのだろうか。よく分からなかったが、きっと雑踏のような音に違いない。


 僕と母は家に帰り、僕はテレビを見て、母は鍋をかきまわした。意識して聞くとテレビはいびつな聞こえ方をしたが、聞こえないわけではない。僕は左耳が特に聞こえなくなったらしい。一度感じてしまった違和感は、気付いてしまえばもう拭えなかった。

 もっと聞こえなくなってしまうことはあるのだろうか。しばらく学校に行けそうにないことも、選考会に漏れたことも分かっていたが、未来への見通しが利かないことが、何より不安で仕方なかった。


 休学届けを出し、僕はしばらく部屋に引きこもった。バスーンを吹き、しかし自分の知っているバスーンの音ではなく、バスーンはもう自分の相棒ではないことを知った。

 僕はバスーンをしまい、窓の外を見る。ポスターカラーよりも鮮やかな青い空だった。その下をとてもよく知っている制服の男子や女子が数人、僕も持っているケースを抱えて、歩いている。レッスン帰りか、あるいはこれからレッスンなのかもしれない。声はかけられなかった。


 僕は持っている、ありったけのCDを聞いた。CDは僕のために何度も歌ってくれたが、僕は乾くばかりだった。

 そんな一日を何度も繰り返していると、見かねた母が、僕に遠和に行くことを勧めてきた。ここは音楽に溢れていて、しかし音楽を失った僕に、ここにもう居場所はなかった。




 起きてと肩を揺り起されて、僕は目覚めた。揺り起こされるまで気付かなかったということは、僕は相当な時間眠りこんでいたに違いない。横にしていた体を起こすと、頭が鈍く痛んだ。目の奥とこめかみとが、疼くように痛む。厄介な頭痛だった。

 僕は動き出したくなかった。ずっとこの体を起しかけた、半端な姿勢で留まっていたかった。さっさと車を降りて歩き出した母は、道の途中で僕を呼ぶ。頭も痛いし車の中だったのでよく聞こえなかったが、きっと僕が呼ばれたのだろう。


 ここはとても静かな場所だった。どこかで小さく鳥だけが鳴いている。鳥だけが生きているみたいな場所だ。空は青い。今は何時だろうと、ふと思った。もしかしたら眠っていた時間は、そう多くはなかったのかもしれない。

 僕は車から降りてドアを閉める。バンと言う音と、僕の手のひらに硬く滑らかで生温かい手触りを残して、この場所に車という存在が加わった。


 そしてこの場所には静寂が戻ってくる。聞こえやしない耳の奥から鼓動の音さえ聞こえてしまいそうな、静かさだった。母のいる場所に向かって踏み出す。最近ろくに外出もしていない体はひどく重く、僕は愚鈍な生き物だった。

 その僕に、夏らしい爽やかな風が吹いてくる。陽に透けた浅緑の木の葉が頭上で揺れて、サラサラと乾いた音を立てる。地面に映った葉の影も同じようにサラサラ揺れた。大して強い風でもなかったが、葉が一枚だけヒラリと僕の前を横切る。見慣れない、やけに大きな葉だった。


「温」


 風が止むと、母の呼ぶ声が聞こえた。風が止んだ場所で、呼び声はやけにクリアで硬質だった。僕は歩き出す。歩みはひたすら遅く、足は僕の意思というよりは母の意思で動いていた。だが僕のスニーカーの下で、踏まれた小枝がパキンと音を立てた。僕は動いている。


 車はどこかの家の門の前に止められていて、僕は今、どこかの門をくぐったらしかった。門は立派な木の門で、見えてきた家も大きな二階建ての家だった。屋根は瓦が敷いてあって、夏の太陽を受けて黒光りしていた。


「しばらくこの家でお世話になるからね」


 母はそう言ってインターホンを押す。僕は教科書にのるような日本家屋に、インターホンの音は似合わないなと思った。僕は母に背を向けて、今通ってきた庭を眺めた。

 夏の盛りだが色味の強い花はなく、葉もごく柔らかい色で統一されていた。よく手入れの行き届いた庭で、風が吹く度に植えられた木々や草花が微かに揺れる、静かな場所だった。


「まだ外にいたの? ほら、入りなさい」


 母はいつの間にか家の中に入ってしまったらしく、中から僕に声をかけてきた。僕は玄関に入って靴を脱ぎ、家に上がった。家の中は昼間だというのに薄暗かった。陽の当たらないせいなのか、ヒンヤリした空気と、不思議な緊張感に満ちている。

 そしてどこからか、スイと花の香りがした。庭の花とは違う、硬質で透き通った、硝子のような香りだった。

 一足踏み出すごとに黒みがかった焦げ茶の床が、きしきしと音を立てる。立ち止まってしまうと同時に、廊下の奥の部屋で、また母が名前を呼んだ。


 居間らしき部屋にたどり着くと、一気に辺りは明るくなる。居間はとても広い。学校の教室ぐらいは優にあった。以前ここで叔母の通夜が行われたのをぼんやり覚えている。その時には大きなテーブルが出されていたが、今は六人掛けぐらいの小さな木のテーブルが畳に置かれている。

 その向こうには大きな窓があり、やはり庭が見えた。窓が開いていて風の通り道が出来ている。母はテーブルについて冷えたお茶を飲んでいる。そのはす向かいに、ここの家主らしい男の人が座っていた。僕は礼をして母の横に座る。


「長旅御苦労さま。まずは一息どうぞ」


 男の人が氷の入った硝子のグラスに、急須でお茶を注いでくれた。急須を操る指は白くて細長かった。指の通りに男の人も痩身で背が高く、そして僕の想像よりずっと若かった。白地のプリントシャツにカーゴパンツのシンプルだがおしゃれなファッションは、どこかの服屋のスタッフでもおかしくない。

 僕はなんとなく通ってきた庭や家の様子から、年配の人かと思っていた。しかしこの家で葬儀をしたのだから、僕はこの人にあったことがあるはずだ。だが僕は全くこの人に見覚えがない。こんな若い人は居なかった気がする。


「初めまして温君。俺がここの主人の誓。よろしく」


 誓さんはすでに僕の話を母から聞いているらしい。僕は言うこともなくなってしまったので、よろしくお願いしますとお辞儀をした。


「お金はいいからね、美佐子さん。親戚の子が遊びに来るもんだし」

「そういうわけにはいかないわよ。民宿でしょう」


 母はそう言って鞄から封筒を取り出す。だが誓さんは苦笑いして拒んだ。本当に受け取る気はないらしい。


「いいんだ。今は民宿なんてあってないようなものだし。もともとアルバイトを頼むつもりでいたんだ。そこの新聞社が人手不足でね」


 母はその言葉にしぶしぶといった感じに封筒をしまう。どうやら僕はしばらくこの町でアルバイトをするらしい。母は僕に車の鍵を渡し、荷物を取ってくるように促した。

 僕はもう一度靴を履き、庭を横切って車のトランクを開く。荷物といってもかさ張るのは服ぐらいだ。あとは細々したものが入ったバッグと、バスーンだけだ。荷物は誓さんが指定した、二階に続く階段の下に置く。居間に再び戻ると、母はあっさり立ち上がった。


「なんだもう行くの? ご飯ぐらい食べていけばいいのに」

「明日も学校はあるもの。温をよろしくお願いね」


 誓さんが了解と頷くと、母は僕に向き合った。母はあっさりした言葉とは裏腹に、心配そうな顔をして僕を見る。


「じゃあ、しっかりやるのよ。いつでも連絡ちょうだい」

「母さんも。帰り、事故にあったりしないでね。僕は大丈夫だから」


 母は頷いて、少しだけじっと僕の顔を見てから、しかしあっさり家を出て車で去って行った。あとには僕と誓さんだけが残された。


「ずいぶんあっさりしてるね。いいのかい」


 僕は頷く。少しの間だけだし、さっぱりしているのが僕の母だ。

 誓さんはそれから僕の荷物を眺めていたが、すぐに二階に案内してくれた。僕は荷物を持って階段を昇る。階段は家に比べて段が狭く急で、僕は足を踏み外さないように、慎重に誓さんに続いた。

 二階に上がると一階と同様に、まっすぐ廊下が続いていた。部屋は民宿らしく四部屋もあるが、僕が泊まる予定の部屋以外は既に埋まっていた。一つは誓さんの自室だという。



「客じゃないが、俺以外に二人いるんだ。庭師と冒険家が」


 誓さんはそう言って僕の部屋のふすまを開ける。部屋は八畳の畳みの部屋で、広すぎるぐらい広い部屋だった。それにしても庭師と冒険家だなんてファンタジーのようだ。どんな人なのだろう。

 誓さんは、荷物の整理が終わったら居間に戻ってくるように言い、一階に戻って行った。


 荷物の整理といっても、そんな大荷物というわけではない。僕は荷物を置いて、部屋の様子を見てみることにした。部屋には窓と机が一つあるだけで、あとはひたすら畳だった。

 窓の向こうには、一本の大きな通りがあり、この町の商店街らしきものが見える。その坂の先には漁港らしきものが広がっている。空よりずっと暗い青の海だ。部屋の押し入れには布団がひと揃い入っていた。夜はこれを敷いて寝るということだろう。


 一通り観察し居間に戻ると、誓さんは今度はコーヒーを飲みながら、新聞を読んでいた。誓さんは僕に気が付くと新聞を畳み、僕に机に着くように言った。誓さんが話す度に、コーヒーの香りが、ふわりとこちらに漂ってくる。人の吐息ではあるが不思議と不快ではなかった。


「早速だけど、明日から近所の新聞配達を手伝ってもらうよ」


 誓さんはいいかな、と僕に聞いてくるが、先程の母との会話から僕が手伝うことは決定事項のようだった。誓さんは新聞配達の場所に連れていくから、明日から四時半には起きておくことと言った。

 お世話になってすぐに寝坊するのは情けない気がしたので、持ってきた目覚ましと携帯のアラームをかけておくことにする。


「君、一人っ子だっけ。俺には兄さんが一人いる」


 誓さんとは、しばらく取り留めのない話をした。誓さんは甘党でケーキが特に好きらしいが、この町にはケーキ屋がなくて残念だという。

 僕は甘いものは好きでも嫌いでもないが、父は甘いものが好きで、ドイツのお菓子は美味しいと手紙に書いていた。誓さんはひとしきりどんなお菓子が好きかを話した後、おもむろに立ち上がり玄関に向かった。手にはパソコンケースを持っている。


「悪いけどちょっと用事で出てくる。たぶんそろそろ愛が帰ってくると思うから、心配しなくていいよ。初野に行ってくる」


 本当に唐突といった感じだったが、時刻はきっちり四時丁度だった。おそらく約束でもしていたのかもしれない。僕に構わなくてもよかったのに。

 僕はやることがなくなってしまったので、花壇を眺めることにした。花は割と好きだが、名前が分かる程ではない。それでも興味を惹かれたのは、この庭の花壇にはたくさんの花が色の調和良く咲いているからだ。

 薔薇やパンジーなどの派手でポピュラーな花はない。この日本家屋によく映える花ばかりだ。白や朱色、ほのかな黄や桃色といった、着物の色合いにも似ている色だ。


 そうしていると玄関から物音がした。廊下で反響してうまく聞こえなかったが、誓さんか、冒険家か庭師が戻って来たのだろうか。僕はまずは挨拶をしようと廊下に向かう。すると玄関から女の人が家に上がってくるところだった。


「えっと、居候の温君よね、初めまして」


 女の人はすぐに僕に気が付き、照れたように微笑んで軽いお辞儀をした。女の人はどこかで買い物をして来たらしく、バッグから野菜や牛乳パックを覗かせていた。女の人は少し重そうにそのバッグを両手で抱え、台所に入って行く。


「あっ、ごめんなさいね。ここまで戻ってくるのに結構時間がかかって。早く冷蔵庫に入れないといけないのよ」


 女の人は鼻歌を歌いながら、手早く冷蔵庫に食材を入れる。鼻歌は僕も知っている流行りのドラマの主題歌だった。

 女の人はまず、ひどく整った顔とプロポーションをしていた。目鼻立ちははっきりしていて、背は高くすらりとしている。ここが遠和ではなくどこかもっと都会だったら、この人は女優やモデルとして活躍していたのかもしれない。


 ただ、女の人の皮膚は、色んな箇所がただれていた。一番ひどいのは、シャツから覗く腕から手の甲、そして首から右頬の下にかけての皮膚だった。足はジーンズで分からないが、やはりただれているのかもしれない。

 僕の無遠慮な視線を感じ取ったのか、しかし女の人は先程のように照れくさそうに微笑むだけだった。僕は申し訳ないのと恥ずかしいので、台所から出て居間で待っていることにする。居間で時間を潰していると、女の人が冷たい紅茶を持ってやって来た。


「肌のこと、気にしないでね。アレルギーなの」


 まさか先手を打たれるとは思わなかったので、僕は何も言えずに首を曖昧に振ることしか出来なかった。


「初めまして。清水愛って言います。私もここに居候してるの」


 どうやら客ではないらしい。では客は一人しかいないのだろうか。


「あと一人いらっしゃるんですよね。僕は冒険家と庭師がいるって聞きました」


 愛さんはさして驚きもせず、ああと頷く。こう紹介されるのは慣れているのかもしれない。愛さんは自分を庭師だと説明した。あの庭は愛さんが整えているという。そして冒険家は健吾さんという男の人で、そろそろ帰ってくるという。


「私はともかく、健吾さんは本物の冒険家なのよ」


 詳しくは健吾さんに聞くといいわ。愛さんはそう言って、縁側からサンダルを履いて庭に出る。よかったら温君もどうぞと言われ、意味が分からないが、玄関から靴を持って来て、愛さんについて庭に出ることにした。

 愛さんは庭に出ると、屈んで僕を手招きした。僕はよく分からなかったが愛さんの隣で同じように屈んでみる。愛さんは地面から生えている草の一枚をちぎると、はいと僕に渡してきた。

 しっかりした茎から、何枚もの葉が枝分かれしている、木のようなシルエットの草だった。ザラザラした葉脈を持ち、縁はギザギザしている。


「夕飯は大葉のスパゲッティーにしようかなって」


 思えば大葉の実物を見るのは初めてだった。そっと匂いを嗅ぐと、青々とした爽やかな、そして不思議と少し甘いような香りがした。愛さんはプチプチと何枚も葉を取って僕に手渡してきた。一通り取り終わったのか、愛さんは大葉を摘む手を止め、立ち上がった。


「どうかしら、この庭」

「静かで、花が綺麗で、僕は好きです」


 こんな簡単な答えでよかったのだろうかと不安になりながら、僕は愛さんの質問に答える。


「よかった。温君は花は好き?」


 どちらかというと好きといった程度だったが、僕は頷く。いや、気を配って見入ることもあったから、僕は案外花が好きなのかもしれない。


「もうすぐ木槿の花が咲くの。誓が楽しみにしてて」


 愛さんは庭にあるたくさんの花の中から、すっと空に立ち上がる細い木を指した。


「誓さんも花が好きなんですか?」

「分からないわ。花だって私が、勝手に育てているだけだもの。どうして木槿が楽しみなのかも」


 あの木には、どういう花が咲くのだろう。それも気になったが、その隣の赤い花も気になった。赤いというより上品な朱色で、とても細い茎なのにぴんと立って、いくつも咲いているこぶし大の花を支えている。薄く縮れた花弁をいくつも織り重ねた花だ。


「これは立葵の花よ。綺麗でしょう。私も好きなの」


 僕の視線をたどって、愛さんがそう説明してくれた。愛さんの手がそっと立葵の花に触れる。白くて細い指が、そっと慈しむ様子で花の輪郭をなぞる。

 かげって来た日の光は薄いオレンジ色になり、庭に落ちる影は濃い灰色になった。強い光に愛さんの指先は溶けそうだ。ハチミツ色だ。そうふと思って、僕は緩く首を振る。思い出したら泣いてしまいそうなぐらいには、まだ傷口は新鮮だった。


 愛さんが夕飯の準備をしに台所に戻っていく。僕はしばらくその場で花を眺めてから戻る。居候なのだから、夕飯の手伝いぐらいはするべきだろう。僕はそう思い愛さんの後ろ姿に声をかけようとした。

 すると玄関から誰かが呼んでいる声がする。誓さんとは違う、野太い男の人だった。僕は直感的に、この人が冒険家の人だと分かった。

 玄関に出ると大きくて筋肉質の男の人が、大きな荷物を降ろすところだった。黒いカールした長めの髪と、少し伸びた顎鬚が特徴で、紺のポロシャツから伸びた腕はたくましい上腕二等筋が盛り上がっていた。


「ちょっと手伝ってくれよ。車が側溝にはまってさ」


 冒険家らしき男の人は僕が誰かについて追及するより、車の心配を優先していた。僕なんかで役に立てるだろうかと思いつつ、僕は縁側から靴を履いて門から外に出た。

 車は家の前の坂道を下った商店街の手前ではまっていた。ごつい男には似合わない、黄色くてコロンとしたフォルムの軽自動車だった。商店街の男の人が何人か車を押している。男は一緒に押してくれと言って車に乗り込んでアクセルを踏んだ。

 僕は空いている場所を探して、商店街の人達と一緒に車を押した。車は時折ほんの少し持ち上がりそうな気配を見せるが、あと少しというところでがくりと側溝に戻ってしまう。それを何回か繰り返して一息ついていた所に、隣で車を押していたおじさんが声をかけて来る。


「お前、そういえば見ない顔だな」

「ええと、今日から居候させてもらってます、坂の上の家に」

「あーあ! 誓坊の所か」


 おじさんは納得したらしく、再び車を押しにかかる。そこに坂の下、海の方向から誓さん本人がやって来た。運転席の窓から冒険家の男の人が顔を出す。


「また落ちたの? 健吾はもう車乗らなければいいよ」


 誓さんは冒険家にそう声をかけると、僕の隣に来て、車を押した。冒険家がアクセルを踏み込む。タイヤが空回り地面に擦れる音がした。もう一度冒険家が声をかける。今度は僕も万力を込めて車を押した。


「けっぱれ! もうひと踏ん張り!」


 車が少し持ち上がる。タイヤは大きな音を立て、側溝から脱出する。僕はいつの間にか汗ばんでいた。手を貸していた一団が歓声をあげる。見守っていた人達も安心したようにそれぞれの場所に散って行った。

 潮の匂いがする風が、僕の額を柔らかく撫でる。冒険家は注意深く車で坂を上がって行った。


「今のが冒険家だよ。車の運転が下手でね」


 僕の予想は当たっていたらしい。誓さんは行きに持っていたパソコンケースを持ち直して、坂をゆっくり上がった。


「少し早めに用事が済んだから、海に散歩に行ったんだ。そしたら愛からコロッケ買ってきてって電話が来て」


 来てみたら、こんな騒ぎになっていたと笑って、誓さんは通りの精肉店に入った。精肉店ではつやつやとした肉がディスプレイの向こうに並んでいる。夕飯時らしく、主婦が何人か品定めしていた。


「温君はたくさん食べる?」

「そうでもないと思います。普通ぐらいだと」


 誓さんの質問に答えると、誓さんは、食べ盛りなんだからたくさん食べなきゃと言って、いくつかコロッケを注文した。精肉店のおじさんが、その場で揚げていたコロッケを袋に入れていく。からりときつね色に揚がった、美味しそうなコロッケだった。


「おい誓、とうとう愛ちゃんとの子が出来たのか?」

「違うよ。親戚の子。しばらく居るからよろしく頼むよ」


 誓さんはおじさんの軽口を軽く流して、コロッケを受け取る。揚げたてのコロッケは紙袋に入っていても熱かったらしく、慌てたように掴みなおした。四人分にしてはずいぶんな量だった。


「早いとこ帰ろうか。コロッケは揚げたてがいいよ」


 誓さんはそう言って、だけど先程とさほど変わらない歩調で坂を上り始める。僕はふと愛さんと誓さんの関係が気になりだしたが、聞くわけにもいかずに誓さんの後をついて行った。


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